2008年9月12日 (金)

はらにすえかねるところもございましょうが

いまさら原訳を調べたってしょうがないや。どやされることもないだろうが、ほめられることもない。ふん、ほめられるためにやってんじゃないか・・・とにかくね、わては変な誤解を広めるのに加担するのはごめんだから。自分では公平だと思っている人があれに毒されているのは、いつだったか一瞬だけ現れた文章を見てもわかる(見てない方、悪しからず)。・・・ふむ、相変わらず支離滅裂ですが、察してやって。
さて、そこで、カラマーゾフの兄弟のような長編の翻訳で、誤訳はどのくらい許される?某先生は数百箇所はしょうがないとおっしゃったとか。でも、かの人たちはそれじゃ許さんのだろ。数十箇所?それだと、ばらつきはあるだろうけど、平均して五十ページあたり一、二箇所。はたして先行訳はそれを実現できているのか。いや、世間様がそう思ってなきゃいいけど。
てなわけだが、原訳を全巻見てたら時間がかかってしょうがないので、ちょっと寄り道という程度にします。中巻98ページから126ページまでの三十ページ弱を見てみましょう。

のまえに、うーん、前回も書いたけど、誤訳云々でなく気になるところが・・・あえて誤解しようとする根性悪なやつがいけないと言われりゃそれまでだが。たとえば、101ページ:『なぜって、発端はわが家で起ったのですからね』。これ、『起った』にアクセントをつけて読む人はちょっと変わってるでしょ。米川訳(第二巻185ページ):『なぜといって、わたくしはもう家で皮切をしたのですものね』。亀山訳(2の406ページ):『なぜって、自宅にいたときにぼくはすでに第一歩を踏み出していたからです』。120ページ:『そして彼は自分の犯行を証明しうると信じて十四年間しまっておいた品を取りだし、』。この人は自分の務めと信じることをしているので、証明できるかどうかを信じる、信じないを超えてるんじゃないかな。ま、いいか、本題本題。ですが、わての一方的な言い分であることはお断りしておかなければならない。それに、ちとやな感じかも。原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』第六編二(D)神秘的な客より(米川訳、亀山訳もつけておきましょう。参考になるんだかどうだかね。)

99ページ:この下宿への引っ越しも、あの日、決闘から帰るとすぐアファナーシイを中隊に送りかえしてしまったからにすぎず、それというのも、前夜のあんな仕打ちのあとで彼の目を見るのが恥ずかしくてならなかったからである―それくらい、心の未熟な俗世の人間は自分の正しい行いさえ恥ずかしく思いがちなのだ。

(前半省略)ибо стыдно было в глаза ему глядеть после давешнего моего с ним поступка — до того наклонен стыдиться неприготовленный мирской человек даже иного справедливейшего своего дела

原文を見るまでのこともない。「あんな仕打ち」(アファナーシイを殴ったこと)の後で恥ずかしいとすれば、正しい心に立ち返ったから。正しい行いと関係なし。えーい、一般に「自分の正しい行い」は恥ずかしいものだ、というんだから、「あんな仕打ちの後だから恥ずかしいなんて話にしちゃだめでしょ。うう、正しい行いとは「地べたに額をつけてアファナーシイにあやまった」ことで、そんなことをしちゃったから恥ずかしいって考えるのが普通でしょ。くう、書けば書くほどばかばかしくなるのは、説明がへただからか・・・あの・・・まさか・・・仕打ち=よい行いってことはないですよね。

米川訳184ページ:(略)あんなことをした後で、彼の顔を見るのが恥しかったのだ。実際、心に準備の出来ていない俗世の人間は、自分の正しい行いすら、恥じがちなものである
亀山訳403ページ:(略)彼に対してああいう態度をとったあとでは、わたしとしても彼と顔を合わせるのが恥ずかしかったのだ。(略)

100ページ:そのうえさらに並はずれた好奇心とを(おぼえた。)

а кроме того, и необычайное и с моей стороны любопытство

抜けてます。 и с моей стороны (わたしのほうも)。

米川訳185ページ:(今度は逆に余の方から)異常な好奇心を感じた。
亀山訳405ページ:わたしの心のうちにもなみなみならぬ好奇心が湧いてきた。

103ページ:世界を新しい流儀で改造するには

Чтобы переделать мир по-новму

世界を新たに改造するには

米川訳187ページ:全世界をあらたに改造しようというには
亀山訳408ページ:世界を新たに作りかえるには

104ページ:そのときこそ天上に人の子の旗印が現れるのです・・・しかし、そのときまではやはりこの旗印を大切にしまっておき、(後略)

Тогда и явится знамение сына человеческого на небеси... Но до тех пор надо все-таки знамя беречь

第一感、天上に旗印はまずかろ。人の子の旗印は。それも、今地上にあるものが・・・
人の子のзнамениеは天に現れるにふさわしいもの、знамяは地上にふさわしいもの。字面が似てるからってどちらも旗印としちゃあねえ。

上の文の前半はマタイによる福音書24章30節から引用されている:

тогда явится знамение Сына Человеческого на небе

同24章29-31節の日本聖書協会の新共同訳:

「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

要するに、キリストの再臨について述べられた箇所。この世の終わりを示す天界の異変の中に人の子の徴を見る。すべての民族にとって恐ろしいことだが、正しい人たちには救済の時となる。まあ、そんなことはいいけど、「天の王国が現実に訪れる」(102ページ)とき、「人の子も」やってくると言っているわけだから、旗印はいかんな。それに旗印はしまっておかずに、「たとえ神がかり行者と見なされようと」(105ページ)高く掲げていきましょうよ。

米川訳188ページ:その時こそ人の子の旗が天上高く掲げられるのです・・・しかしなんといっても、それまでは旗を大切に守らねばならぬ。
亀山訳410ページ:そのときこそ天上に人の子の徴が現れるのです・・・ですが、それまではやはり信仰の旗を大切にしなければなりません。

111ページ:だが、ついにやはり、苦悩にみちた物思いに沈むようになり、とても自分では抑えきれなくなった。

Но всё же стал наконец задумываться с мучением, не в подъем своим силам

не в подъем というのは、重くて持ち上がらんってことで、自分で背負いきれないってこったろう。

米川訳194ページ:しかし、それでもついに悩ましい物思いがはじまって、自分の力に叶わなくなって来た。
亀山訳418ページ:やがて、それでも苦しみに思い悩む日々が訪れるようになり、自分の力ではどうにも手に負えなくなった。

114ページ:そのときは、彼は即座に決心したような態度で帰って行った。

Ушел он тогда от меня как бы и впрямь решившись

и впрямь は決心がたしかであることを示すので、即座にとは書いてなさそう。

米川訳197ページ:彼はそのとき断固たる決心を採ったような風つきで、余のもとを立ち去った。
亀山訳422ページ:そのとき、彼はすっかり決意を固めた様子で帰って行った。

115ページ:今のままでは、身近な人はおろか、自分の子どもさえ、愛する勇気がないのです。

Теперь не только ближнего моего, но и детей моих любить не смею

「身近な人」じゃなんだかわからんでしょ。「隣人」じゃなくちゃ。

米川訳197ページ:今は自分の同胞ばかりでなく、わが子すらも愛する勇気がなくなりました。
亀山訳422ページ:このままじゃ、隣人どころか、子どもたちも愛せません。

119ページ:『ああ、立派な人なのに、どこまで堕ちてしまったのだろう!』わたしは思った。

«Господи, — подумал я, — куда пошел человек!»

なんですか、このお客さんの胸で今、若きゾシマ殺害を悪魔が囁いてるのを察知して、どこまで堕ちたなんて言ってるんですかいな。まさかね・・・この人が告白しようとしているのは楽になりたいだけの卑劣なことなのか?いまだに世間の尊敬なんてことを考えているから堕落なのか?いやいや、苦しんでいる人にこれはあんまりなお言葉。ひどすぎ。病気のようになって一緒に苦しんでいるゾシマさんがそんなことを考えるわけがない。

しかし、ではどういう意味かというと、ちいとわてには荷が勝つかな。
米川訳200ページ:あの人は一体どこへ行ったのだろう?
亀山訳426ページ:あの人は、どこに行こうっていうんだ!

というわけで、原文には「立派な」とか「堕ちた」とかはかかれてない。が、それはそれとして、どこったって、うちへ帰るとかいう話ではないわけで、「行くべき」ところはひとつしかない。だから、それに疑問を持つのは少し変かな。

これ、кудаを「どこへ」と訳すのがいけないんじゃないか。あの人は今度こそみんなの前へ出て告白をする、だから、たぶんもう伺わない、天国でお目にかかりましょう、と言ったのだが、・・・「たぶん」なのだ。ゾシマさんのうちへ来て逡巡している間は決して実行できない。ここから発たなくてはいけないのだが、なかなかできないでいた。今度は・・・という意味で、「ああ、ほんとうに行ったのだろうか!」また来るのではないか(いいや、行けやしない、かも)との疑念を表したのがкудаではないのか?怪しい?「行った」が良いかどうかも、ね。とにかく、原訳には賛成できない。

121ページ:とにかくたいへんな騒ぎが持ち上がった。だれもがおどろき、恐怖にかられたが、だれ一人信じようとする者はなく、みなが極度の好奇心を示して話をききはしたものの、まるで病人のうわごとでもきくような具合で、それから数日たつと、もうどこの家でも、気の毒にあの人は気がふれたのだと、すっかり決めてかかっていた。

И вот что же случилось: все пришли в удивление и в ужас, и никто не захотел поверить, хотя все выслушали с чрезвычайным любопытством, но как от больного, а несколько дней спустя уже совсем решено было во всех домах и приговорено, что несчастный человек помешался.

вот что же случилось:は以下のようなことが起ったということで、「大変な騒ぎが持ち上がった」とは書いてない。いいじゃないかと思うかもしれないが、выслушалиは注意深く最後まで聞いたということだ。つまり、夜会での、「正式の自白書」の朗読をだ。たいへんな騒ぎは想像上の産物だ。紳士が一枚の紙を持って進み出て、朗読を始める、まずはみんなシーンとなるのではないかな。

как от больного、病人ではあるが、「うわごとでもきくような具合」とは書いてない。親切なことだ。だが、この病人は取り留めのないことを話しているのではない。熱病のようではなく、気がふれたようなのだ。それに、これは聞く側の態度を表している。病人の言葉として聞く、つまり、早くも病人と決めてかかっているということだ。したがって、ついでに言うなら、数日後には「決めてかかっていた」のではなく、そういう結論に落ち着いてしまったということだろう。

米川訳201ページ:しかし、ついに次のようなことがもちあがった。一同は恐怖と驚愕に捉われた。誰ひとり信じようとするものがなjかった。すべての人はなみなみならぬ好奇心をもって耳を澄ましたが、それは病人の譫言を聞くような態度であった。二三日たった時にはどの家でも、あの人はかあいそうに気がちがった、と決めてしまったのである。
亀山訳428ページ:そしてその結末は―。
 だれもが驚き、恐怖におちいったが、だれひとり信じたがらなかった。だれもが極度の好奇心にかられて話を聴いたが、それは病人の話を聴くようなあんばいで、数日たつとどこの家でも、気の毒にあの人は気が変になってしまったのだ、ということでけりがついてしまった。

125ページ:わたしはただ君を憎み、すべての復讐を精いっぱい君にしてやりたかっただけなんだ。

Я только тебя ненавидел и отомстить тебе желал изо всех сил за всё

「すべての復讐を精いっぱい」のすべての復讐ってなんだ?わてにはこのза всёがなんだかよくわからない。изо всех сил を強調しているのではないか、とか思うのだが・・・

米川訳205ページ:僕はただ君が憎くて堪らないので、すべてのことに対して君に復讐しようと、一生懸命のぞんでいたのだ。
亀山訳433ページ:わたしはひたすら君を憎悪し、すべてを賭けて、なんとしても君に復讐してやりたかった。

はあ、しんど・・・ちょっと虚しいものが・・・なお原訳は新潮文庫(中)61刷、米川訳は岩波文庫第二巻57刷、亀山訳は光文社古典新訳文庫(2)20刷

勝手なことを言ってます。叩いてやって・・・でもわたくし、ちょいと先を急がなくちゃ、今、生きている言葉の方へ。

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2008年9月 6日 (土)

嘘つきトロンボーン

夜咲くネオンは嘘の花 夜翔ぶゼノンも嘘の花・・・

ベネチアでも話題の?あきれたカメのおはなし。 アキレスに追われて以来、時の歩みが遅くなっていることに気づいた亀さん、真理を知る。時には負けない!・・・しかしこの迷言、愚かな人間により、ワタシ、サムタイムズ、マケナイアルゴン、などと訳され・・・

嘘は仲好し 真実は怖い怖い・・・なんてことを言いたいのではごじゃあません。相変わらず、カラマーゾフの兄弟・・・第六編ロシアの修道僧から(若きゾシマ長老のところへ夜な夜なお客さんのくるところ)

偽りをもってこの世を通したら、もはや取り返しがつきません。(米川正夫訳二巻197ページ)
嘘でこの世を渡りぬいたら、あと戻りはできませんからね。(原卓也訳中巻115ページ)
嘘によってこの世をやり過ごしたら、もう取り返しがつかない。(亀山郁夫訳2巻422ページ)

どうということもごじゃあません。なまくらなまくらとして。で、どのお訳でもよろしいようだけど、ただ、原文のНеправдой свет пройдешь, да назад не воротишься、これ、警句というか、諺みたいですよ。ま、いつごろから使われているものか、どういうとき使うのかはわかりましぇーん。諺らしく、あるいはそれとわかるように訳すのがいいかどうかは難しいところだで、ま、ご参考までにってことで。

これ、Крутя-вертя свет пройдешь, да назад не воротишьсяってなパタ-ンもある。Неправдой(嘘によって)の代わりのКрутя-вертяーーкрутить、вертетьはtwistとかturn。だいたいわかるね、どんな諺か。そんなこんなを勘案するとですね、亀山さんの「やり過ごしたら」は、場合の訳としてならともかく、諺としてはどうかな。

それより問題なのが原訳。渡りぬいちまったら、もうオワリ、嘘つきでなくったって戻りようがないし、渡りぬこうってやつに戻る時の注意なんざ、ねえ。二重に変・・・それにしても、みなさん、完了体を意識しすぎ?諺は世俗的なもんじゃないかな。ま、しろーとのグーテン妄言です。

そりゃまた、ご挨拶・・・・・が、こういう諺しかり、聖書の引用しかり、なんだかわかんなくて困るんだよなあ・・・って、これも嘘・・・
わからなくてもどうってこたあない。読める日本語で書かれていれば、立ちどまって考える人なんかいやしない。人間、明日に希望を託して読み進むってもんじゃごじゃんせんか。しばらくいってもわからなかったら、忘れちまうんだな、これが。で、実害なし。

たとえば、次のようなくだり。やはし、ロシアの修道僧より。亀山訳448ページ:

この偉大な事業を、わたしたちはキリストとともになしとげるのだ、と。そもそもこの地上の人類の歴史には、それまでの十年間ではおよそ考えられもしなかった思想が、その神秘的な時代の訪れとともににわかに出現し、全地上に広まっていった例が無数にあるではないか。
 わが国でもそのようなことになるだろう、わがロシアの民衆は世界に輝き、すべての人々がこう言うだろう。「家を建てる者の捨てた石が礎石になった」と。嘲笑する人たちには、こう問い返してやりたいものだ。わたしたちの考えが絵空事だというなら、あなたたちはいつ、キリストの助けを求めず、ご自分の知力だけでご自分の家をお建てになり、公正な社会をお作りになるのかと。

「家を建てる者の捨てた石が礎石になった」。もちろん、わてなどには、これが聖書からの引用だなんてわからんし、変なこと言うもんだなあって、ねえ。察しのいい方なら、「わたしたちはキリストとともに」とか「キリストの助けを求めず、ご自分の知力だけでご自分の家をお建て」とかから、「捨てた石」が何かわかるんでしょうがねえ・・・わてにはなんのことやら、でごじゃあます・・・いつもお世話になってるテキストの註がなかったらさっぱり。ついでだから、出典を。

もともとは詩篇118章22-23節:家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。・・・これがまた、福音書に引用されている。マタイ21-42、マルコ12-10、ルカ20-17。ゾシマさんがわたしはもっぱらルカとおっしゃるんだから、ルカから引用してみまっしょ。20章9-19節。(日本聖書協会新共同訳)

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

つまり、たとえ話の中の悪い農夫たちは律法学者や祭司長たち、『愛する息子』、そして『家を建てる者の捨てた石』とはキリストのことだな。と、納得したところで、べつにどうということもなし。

ところで、原さんはどうお訳しかというと、

「創設者の捨てた石が、いちばん大切な土台石になった」(139ページ)。

ハア、創設者。カッコいいけど、そして、たぶん、しかたないことなのだろうけど・・・まあ、判断は皆さんにまかせるでね。聖書からの引用については原訳104ページにも疑問点があるんだけど、またにしますか。聖書の知識、関係なしに妙だから・・・

さてさて、それやこれやで、原訳だけど、どうなんざんすか、評価は。昨今の風潮からすると、亀山訳と比べて格段の差で誤訳が少なくなければならないはずであるが、どうか。誰か検証した人はあるのんか。疑問はいろいろあるけんど、まずは日本語。亀山さんの日本語にえらい厳しい指摘をなさった方は、原さんのはなんとも思わんのか。(D)神秘的な客、の章(なぜそこかって、最近亀山訳で読んだから)からケチのつきそうなところを無理やり探してみやしょう。まず冒頭の一文から少々脱線しているけど、それはいい(長くなるのでね)としても、

99ページ:こんなに真剣な、きびしい内面的な様子を見せて近づいたのは
99ページ:「わたしはあなたの中に」彼はつづけた。「偉大な性格の力を見るのです。
なんのことや。これが名作にふさわしい日本語か。
104ページ:人の助けも人間も人類も信じないように自分の心を教えこんでしまったために
106ページ:見るみるうちにふいに青ざめ
どうなん
115ページ・・・感動をこめて言うこともあった。「わたしにとって楽園が訪れることはわかっています。告白すれば、すぐに訪れることでしょう。
感動のわりにはトーンダウン。けれども、って続きそうなぐらい。

原文、前後関係を含めて議論すべきところだが、こんなこと長々やってもしゃあない。どもならんでな。それより、次回はいよいよ、原氏の誤訳に迫る・・・とかなんとかおっしゃってえ♪・・・

しかし、折れたタバコの吸殻でわかる嘘ってのは、なかなか微妙、どういう女と男だろう・・・

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2008年8月29日 (金)

あれこれ

世の中、いろいろございます。たいがいはどうでもいいことです。大きなことがあると吹っ飛んでしまいます。それでも・・・

というわけで、どうでもいいことから。瑣末でげす。わての勘違いかも・・・

・・・・・小杉荒太の方は鈍感です」
「鈍感でしょうか、あの人」
清子は言ったが、すぐ自分の言葉に気附いて、
「勿論その人知りませんけど」
と言った。箕原は清子の方へ顔を向けると、
「その人を知ってらっしゃるんではないですか?」
と訊いた。(井上靖『ある落日』より)

『あの人』と言ったら、普通知ってる人なんですね。でなきゃ、見えてるけど離れてる。そこで、

「おまけにあのときは、屋根裏部屋から落っこちたんだろう?」(亀山訳『カラマーゾフの兄弟2』314ページ)

イワンがスメルジャコフに前に癲癇を起こした時の事を聞いているんですが・・・あれ、イワンはその時その場にいたのかしら、と、ちょっとね。訳に特別工夫を凝らすべき箇所でもなさそうだし・・・ま、どうでもいいか。そこで、もうひとつ・・・

「馬鹿げてるなんてもんじゃない。もっとひどいよ」トゥルドリュボフが無邪気に俺を擁護するつもりで呟いた。「君は寛大すぎるよ。本当に失礼な話だ。もちろん、わざとじゃないんだが。それにしても、どうしてシモノフは・・・・・ふむ!」
「僕があんな仕打ちを受けたら」と。フェルフィチキンが言った。「僕なら・・・・・」(安岡治子訳『地下室の手記』144ページ)

シモノフが主人公(俺)に集まりの時間の変更を知らせなかった。「俺」はひとり早く来てしまい・・・はっぱふみふみ・・・

当事者の「俺」がちょっと離れたところにいるなら『あんな仕打ち』で結構だが、目の前にいるようだす。でね、フェルフィチキンは、シモノフが時間を変更したのに「俺」に知らせないのをその時点で知っていた、そして、そのことを隠そうともしないのか、と勘ぐってしまうところであります。

ま、これもどうでもいいか。ほんのちょびっと、気になったもんで。原文の読めない読者はいろんなことを手がかりに想像をたくましくしちゃうんだから。

しかしなんだね、「あんな仕打ちを受けた」上に、「擁護」までされたんじゃたまらんのう。しかも、「つもり」ときちゃ、ぼんくらじゃなくておせっかいか・・・が、『地下室の手記』はいずれまた・・・

カラマーゾフの兄弟ですが・・・・・

亀山訳は、亀山先生ご自身が全巻チェック、ということでよろしゅうございました。

米川訳の変なところはそのままでいいのかな・・・・・大先生だからいい?古いからいい?・・・・・それ、読者は関係ないでしょ。今も売ってるんでしょ。引用なさっている方はスタンダードたりうるものとして保証してることになるでしょ。

スタンダードを明確に!

そんなこと言ったって・・・ダメよ ダメエダメ・・・・・あれ、まだ引きずってる。

それはそうと、原卓也先生のお訳はいかが、てなわけで、ついに買っちゃいました。新潮文庫。・・・変な文章。変な訳。ありそう・・・・・だろうと思ったけどさ。

原訳は、ウェブ上でいくつか拝見したところからすると、比較的原文に忠実、冒険はしない、というかいま一歩踏み込みが、って感じかと思っていましたが、意外に思い切った訳をしているところもあってびっくりしました。それはいずれ気が向いたら・・・

忠実で、余計な解釈を持ち込まないってのは、とても結構ですが、逆に言うと、そっけない、これ、考えて訳してらっしゃるのかしら、てな感も受けるわけで。ひとつ例をあげるとすると・・・

中巻、第七編アリョーシャより、164ページ:

パイーシイ神父は柩のわきのイォシフ神父とふたたび交替し、また福音書の朗読を受けついだ。

Отец Паисий снова заменил отца Иосифа у гроба и снова принял от него чтение Евангелия.

「また」が曲者なのね。一見、後のほうのсноваに相当?いいえ、朗読はイォシフ神父が始めた。だから、この「また」は再びの意味じゃない。сноваは「受けついだ」に含まれるんだなや。つまり、「また」はи?

この「また」は必要か?原先生は考えた。сноваが繰り返されている。したがって、「朗読を交替して受けつぐ」のではいけない。「交替し」には(持ち場を)とかが隠されている。だから、「また」で区切らなくちゃ。

しかし、このи、「また」が適当とはいい難い。してみると、どう見ても、сноваの名残り。つまり、あいまいな日本語に移しただけ。というか、日本語にしてから意味が変わった。というか、変な日本語。

じゃ、どうすればいい?亀山先生は軽快。3巻15ページ。

パイーシー神父は棺のそばにいるヨシフ神父に代わって、福音書の朗読を引きついだ。

これでなんのことはない、って言えばそうなんだな。しかし・・・・・сноваを二つ配した意味をとらえるには、なにを交替したかを考えればいい。すなわち、

パイーシー神父は再びヨシフ神父に代わって棺のそばにつき、福音書の朗読を引きついだ。

ところで、米川訳は、2巻233ページ:

パイーシイ主教はヨシフ主教の姿を棺の傍に認めたので、再び代わって福音書の読誦を引き受けた。

論評無用。どうも第七編の出だし、米川先生、ご不調のよう。それも・・・どうでもいいことだ・・・でも、言いっぱなしでは言いがかりになるから・・・229ページから

永眠せる大主教ゾシマ長老の遺骸は、官位に相当する一定の儀式を蹈んで葬らなければならなかった。人々はその準備に着手した。これは誰しも知るところであるが、僧侶や隠遁者の死体は湯灌しないことになっている。『僧位にあるもの神のみ許へ去りたる時は(と『大供養書』にも書いてある)、指命を受けたる僧侶これが遺骸を温湯もて拭い、その額、胸、手、足、膝に海綿もて十字を描くものとす。その他なにごとをもなすべからず。』これらのことをことごとく、パイーシイ主教は故長老の遺骸に行った

官位に相当する一定の儀式を蹈んでーпо установленному чинуー定められた儀式にのっとって

遺骸を温湯もて拭い、その額、胸、手、足、膝に海綿もて十字を描くものとすーотирает тело его теплою водой, творя прежде губою (то есть греческою губкой) крест на челе скончавшегося, на персех, на руках и на ногах и на коленахーまず唇で(つまり海綿で)、個人の額、胸、両手、両足、両膝に十字を切りながら、遺体を温湯でぬぐい、

これらのことをことごとく、パイーシイ主教は故長老の遺骸に行ったーВсё это и исполнил над усопшим сам отец Паисий.ー長老に対してはパイーシイ神父がみずから、これらすべてを行った。

i以上、米川訳ー原文ー原訳。論評無用、ですね。
しかし、ここは原訳が米川訳より正しいってだけのことで、よそはまた別かも・・・
ちょっと調べてみようかなあ

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2008年8月23日 (土)

ここらでまとめが必要ですかあ、てか

間があきましたが・・・別に忙しいわけじゃないんで。次の方向が定まらないんでね。ひとつ、区切りの文を、とかね。

すなわち、あらゆる翻訳は語や句である、といったような、たわだけた一文もよし、翻訳に誤訳は憑き物である、といったような、夏の夜を寒々とさせる(時機を失した)一文もよし、ロシア文学界の現状に他人事、といったような、無理して牛乳飲んでるような一文もよし。
半年以上、ひとつのことに集中したら、まあ、よほどの馬鹿でない限り、それについて、何か無益な文章のひとつやふたつ書けるところではありましょうが。へっへー、どうやらわたくしめ、そのよほどの馬鹿らしゅうござる。えらい!
ふん、ここまでのブログを見りゃわかることだ。だいたい、まとめもなにも、本人がわからないんだから、どこへ行くのか・・・・・

雁が鳴いて南の空へ飛んでいかあ、かあ、かあ・・・・・鴉じゃねえかい・・・・・ふ、ふ、ふ、それは雁の姿・・・・・しかしてその実体は・・・・・七つの子を持つ・・・・・

亀山訳と原文をつきあわせただけだからね。それも木を見て森を見ないようなやり方で。多少、木に詳しくなったにしても、森の評価はできやせん。それに、亀山先生の意図するところ、音楽の流れる森、らしいですよ()。

おふくろさんよ おふくろさん 空を見上げりゃ

なんだか書きづらいのは、誰のせいかは・・・知らないけれど 誰もがみんな 知っている 激昂仮面の・・・・・元結。もとゆいと読んじまっちゃあいけねえよ、なあ、Aさん・・・・・
・・・・・・・知らないけれど、いまさら誤訳がどうのというのも、恥ずかしいような雰囲気だからではありますが、とはいえ、このわたくしとて、ひとつアラ探しをしてやろうという、いやしい、いやしーい根性から出発しているわけだから、やはり誤訳について他人事しなくてはならんでがしょ。

すなわち、誤訳にもいろいろあって、それぞれみんな特殊な事情を抱えていて、誰の目にも明白な、絶対的な正解があるとは限らない、というか、そんなことはめったにないくらいで、・・・えーい、煮えきらないやっちゃ。何が言いたいんじゃ。だ、だからね、どれが正しくて、どれが正しくないのか、判定する資格は誰にあるわけ?
あたくしは、誰にそれができるのか、わかりません。そんな人を見つけるのはスメルジャコフの山を動かす人を探すより難しい、というか・・・
だいたいねえ、ドストエフスキーなんて、縦から横から斜めからつつき尽くされて、もうほとんど調べるところも残されていないにちがいない、なんてね、あたくしどもしろうと、思っているところがございましたが、実はよくわからんところがいっぱいなのではござんせんか・・・既訳が正しいかどうかなんてほとんど調べがついてないにちがいない。

たとえばあなたが恋んを

失礼、意味なし。どうして我慢できないかねえ。

ひとつ例をとってみますかぁ。例によって、例の検証から(ドストエーフスキイの会の検証。新訳とは亀山訳。コメントとはNNさんという方のコメント。詳しいことはこちらを)最初のところをそのまま引用させてもらいましょう・・・徒な期待を抱かないでね。

テキスト:<...> Бедняжка оказалась в Петербурге, куда перебралась с своим семинаристом и где беззаветно пустилась в самую полную эмансипацию. <...>

新訳22p <...> 哀れな妻はペテルブルグにいて、神学校出の教師ともども首都に流れついてから、なんの気がねも無用とばかりに完全に自由な生活にひたった。<...>

コメント 露文和訳試験の回答としてなら、この訳文も間違いではない。しかし、当時のロシアの時代背景、この作品の文脈―「いまいちどペテルブルグに飛び出してって、ネヴァ川のほとりでロシア女性の権利を見つけ出す」(新訳第二巻126p)、「じつはわたし、現代の女性問題にまんざら縁がないわけでもないんですの、ドミートリーさん。女性の進出と近い将来における女性の政治参加、それこそがわたしの理想なんです」(新訳第三巻174~175p)……etc.―、更に件の章そのものの文脈―「持参金つきのうえに器量よし、おまけに利発な才女であるお嬢さんが(今の世代ではめずらしくないが、その昔にもすでに姿を現していた)<…>彼女にしてみれば、たぶん女性の自立を宣言し、社会的な制約や、親戚、家族の横暴に反旗をひるがえしたかったのだろう」(新訳第一巻17~18p)―に照らすと、これでは不十分だ。現代ロシア語では“эмансипация エマンスィパーツィヤ(解放)”だけで、“женщин ジェンシン(女性の)”という形容が後ろに付かなくても、“婦人解放”を意味するが、19世紀も'60年以降は既に“эмансипация エマンスィパーツィヤ”だけで“婦人解放”乃至“女権拡論”を意味していたのである。

米川正夫訳「完全なる女性解放(エマンシぺーション)の気質に耽溺していた」
原卓也訳「完全な解放感にひたっていたのだった」
江川卓訳「そこでだれはばかることなく、文字どおりの女性解放を実践していた」

えー、ロシア語で『解放』にあたる、ある一つの言葉が、今では普通、『女性解放』を意味し、それは1860年代からそうであったというのが事実としても、訳語は訳文全体の調和を考えて採用すべきであり、「意味していたのである」じゃ、どもならんと思うのよね。うっひ、われながら陳腐な出だし。期待が持てるぞ、これは。
だいいちね、なんですか、エマ、エマ・・・なつがくーればおもいだすー・・・そんなもん、あたくしはなんだか知らんけど、亀山センセは十分ご承知でしょう。(とはいえ、ひとまず、それは『女性解放』を示唆していることにしておきましょう。ただ、『婦人』はどうもね)。そこで・・・
(NNさんの)コメントには訳例がない。ということは、意味は亀山訳でいいってことかな。親亀の背中に・・・ナンセンス!アプローチが違うんだから。不十分ってな話じゃおまへん。
あるいは、『婦人解放』ないし『女権拡張』という言葉さえ使われていれば内容はどうでもいいのかな。ま、そうはおっしゃらんでしょうね。では、米川、原、江川訳のどれでもいいってことか?そうもおっしゃらんでしょう。三人三様。全然意味が違うjから。しかも原訳は亀山派。NNさんのお好み、木下先生のお好みがどれかは想像がつきますが、しかし、コメントでそれに触れてらっしゃらないのだから、ムニャムニャ。まあ、あの方々に何かものを言ってもはじまらない・・・

『女性解放』は、NNさんの表現をお借りすれば、この章の文脈からすると、皮肉をこめてある種の状態を表しているんだろうなあ(『女性解放』という訳語を採用するならそれとわかったほうがいいなあ)。決して実際に女性解放運動をしているわけではない(そんな可能性を考えたのはあたしだけのよう。馬鹿ね 馬鹿 馬鹿)。
それで・・・『女性解放』ならなんでもいいってわけにはいかない。なぜならсамую полную がついてるからだ。女性解放が大事なら、修飾語も大事だ。そこに、何かが示されているにちがいない・・・

まず、その前に、『文字どおりの女性解放を実践』できるのだろうか。管理人の娘、リリーの足が文字どおり棒になるのとはわけが違う。当時、女性解放は提唱されてはいたものの・・・アデライーダは法的、社会的に解放されてはいない。比喩的に女性解放を実践していた、はずだ・・・えーい、われながらくだらん・・・うむむ、文字どおり、女の性を解放する、と読めってのかな・・・そりゃいいや。ありていに言えばそうゆうこったろう。いや、それにちがいない。ばかあ!

いや、結構、『文字どおりの女性解放を実践』で結構ですよ(たぶんсамую полную эмансипациюの真意からは離れていると思うけど)。それも一つの訳し方だ。ただね、なんだか前向きに闊歩しているのを肯定しているような、フョードルとの駆け落ちを女性の自立と勘違いしたのとは違って、正真正銘の女性解放のような・・・謎解き好きの江川さんらしく、原文をいかし、謎を残したかったんでしょうか・・・でも、米川さんも、原さんも、亀山さんも、それでは不十分だ、とお思いでしょうね。

さむぅいともぉだぁちぃが・・・

самуюというからにはたんなる『完全』じゃないってこった。最たるもの。
全般的になんの抑制もなく好き勝手をするというのが一つの解釈。
しかし、ある特殊な、極端な、一つの状態、あるいは行為を示唆しているという気もするのだが。

すなわち、哀れ彼女は娼婦・・・みたいな派手な結論に導くことができればいいのだが、レベジャートニコフじゃあるまいし、それが女性のあるべきもっともノーマルな状態、とはねえ・・・ま、テレービエワの「自由結婚します」ぐらいのところにしときますか。

いやね、それよりね、あたしには、この女性に勝手気ままに暮らす余裕が感じられないのですがねえ。ペテルブルグにご一緒したのが貧乏で死にかけていた教師でしょ、そいでご自分もすぐにどこかの屋根裏でチフスだか飢えだかでおっちんじゃった。解放感にひたっていられたのかなあ。耽溺していられたんでしょうか。

去年の暮れにこの部分を取り上げた時には、『哀れ』とбеззаветноに注目してあえなく撃沈・・・あの時はбеззаветноはсамоотверженно(私心なく)と辞書にあったので、『身をなげうって女性解放へ』というような馬鹿な思いつきを披露してしまいましたが、いや、ほんと馬鹿だわ。シロートさんだからね、まるっきりはずれと言うのも可哀想だけど、『女性解放』の意味するところをとらえていないのでね。

では、беззаветноはなんだ?заветныйは、大事なとか、心に秘めたとか。そんな意味のようですが。大事な夢、秘めたる望み、秘密のお宝。それで、беззаветноは隠す気がないから、だれはばかることなく、ですか。ふうん。やっぱりなんとなく釈然としないなあ。はなっからはばかるってえたまかいや。

大事に守るべきものなどない、それは世間様に対して気兼ねすべきものがないのではなく、彼女自身のうちにそんなものが存在しないことを示しているのではないか。
あたしのようないじけたひねくれもんはそこに自棄的な気分を感じてしまうのね。名を成す方々はさすが、全然そんなものを感じてらっしゃらないようですが・・・
ともかく、беззаветныйはヒロイックなことだと思います。
教師にсвоим семинаристомとсвоимがついているのは、自己責任って感じ?
つまりね、結局ね、彼女としては、敢然として自らを解放したけれども、そこには悲壮感が漂っていて、傍から見れば破滅に向かってるんだな。
だってさ、Бедняжка、哀れな女、だからねえ。

解放感にひたっている?とんでもない!だれはばかることなく実践している?だれのことやねん、そりゃ?・・・・・
全員却下!出直していらっしゃーい!

へへ、ってなことになっちまいましたが・・・そんなつもりで始めたんじゃなかったんだけど。ま、しょうがないやね。といっても、誰のために何がしょうがないのかもわからんが。
へ、実害はあるまい。誰も出直しゃしないんだから。でも、なんだか当たってるような気がするなあ。いや、誰も賛同してくれなくってもかまわんけど。

あれ、それでなんだっけ、目的は?過去の翻訳に調べがついてるかどうか?そんなもん一箇所取り上げたって仕方ないじゃん。でも、ああいうものの先頭の一箇所だから。それにこういうところは多数ありそう。まあいいや、皆さんそれぞれでお考えください。今日はくたびれやした。

あーあ、なんだか突然ポッキリのようですんまへんが、えへ、悪いものを見てしまいまして。やめときゃぁいいのに怖いもの見たさなのかなあ。とにかく、ありゃだめだわ。勝手にやってくれ、だな。

えー、それで今後このブログをどうするかですぐぁ。
フン、ひとに訊いたってしかたがない。誰も答えやしない。

白い花が散るばかり

またにしましょう。

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2007年12月13日 (木)

年末決算

暮れじゃな。棚卸をせんとな。特価品のサービスも用意してるからの・・・

じじい、すっこんでろ、るせいや。

you make me feel like dancing  I'm gonna dance the night away

カルチャーアワーというので清水義範さんのお話を聞いた。勉強になった。要するに小説の中の話し言葉と現実の会話とは、ええと・・・つまり、今時、「なんとかですじゃ」、なんていう年寄りはいやしないけど一言で・・・あれ、勉強になったと思ったがほとんど抜けていってしまった もう帰らない・・裏町 スナック 酔えないお酒・・・約束事と逸脱・・・芸術かワイシャツか・・・

話は変わって某ブログによれば、某国立大学名誉教授が****さん訳の「******の**」を評して「はっきりいって、**の******なんて誤訳の宝庫、あんなの******じゃないですよ、私の周りのドフトエフスキー研究者はみんな批判している」とかおっしゃったそうな。真偽を確かめるすべはなし、こうした話がまことしやかに流れるのがインターネットの恐ろしいところ。しかしかし、そうなのかもしれんですな。とするとだよ、いや、それがほんまならよ、読者こそいい迷惑じゃないか。メディアは何をしとる。そろって提灯野郎ばかり。研究者もなんだ。みんな批判してるんなら何でそんなもん無くそうとしないんじゃ、ぼけ。えー、しまいに怒るで。って最初ッから怒ってるけど。おいらなんかピエロじゃねえか。んもー。(いや、今-後日-になってみると某ブログの先生と言うのはつまり・・・いや、憶測でものを言ってはいけません。)

えー、本年は、罪と罰からスタートいたしました当ブログ。まあ、その、いろいろあっていまひとり、ああいまひとり・・・ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ち、ぼぉくのこいびととおきょへい、ち、ち、違うでしょ。まあ、その、結局、罪と罰はひとまず置いて、ひとの揚げ足取りをして自己満足をするという楽なほうへ流れてしまいました。あーそーだ、それでも「キリストの幻」だけはなんとかしときたいと思ったんですがね。ここで何の反応もないから、ドストエフ好きーのページの掲示板にも書きこんだんざんすが、ま、場違いだろうとは思っていましたが、場違いでしたね。だぁれも興味ないみたい。まあいいや。わっちがあちらさまにまで迷惑をかけたのは、真実は必ず現れるということを信じていないからで。しかしかしかし、あの翻訳をかんかんになって批判している研究者がいるってことは、もしかするとそこには「美しく崇高なるもの」があって、真理が保持されているかもしれない。てへ、でも、地下室のはじっこで一応叫んでおきましょう。古き花園には・・・

あれは絶対にスヴィドリガイロフだ!

ひとの揚げ足取りなんかするんじゃねえ、と米川さんはおっしゃるが、でも勉強させていただきましたよ。お宝発見の楽しみもあったし。しかしかしかしかし、地下室の手記のほうはすっぱい失敗でした。最初につまらんことでカッとしちゃってまじめな話にならなくなっちゃって。そんでねえ、いまさら、初版が出て半年以上たっちゃってなんですが、光文社の地下室の手記の疑問点について今度列挙させていただこうかと。といってもけちをつけようというのではないのでして、あたいのロシア語の理解力では解決できない点も誰か教えてくれるといいんだけどねえ・・・ところで、「地下室の手記、解説」とか「地下室の手記、論文」とか検索してくる人いるけど、わてのばか話なんぞ見てレポート書こうなんてあほな猟犬は・・・んが、まあいいや、ひとつここでいいことを教えてしんぜよう、地下室の手記の主題、いや、ドストエフスキーの思想を一言で申さば、一言で申さば・・・して、あなたは今度我が家に下宿なさる・・・ではなくて、神がなければ・・・でもなくて、

転がる石は満足できない!

I can't get no satisfaction

地下室の手記ねえ。ひとさまのものに難癖つける前にてめえのを何とかしようと思ってねえ、見直してるんだが、あきまへん。辞書の訳語をつなげてるだけやおまへんか。しかもその辞書が・・・

そういうわけでね、地下室の本棚のほうは停滞気味。今年公開したのは、白痴の第一部、鰐、ホームズ物が二編。いや、そのう、なにせね、読者からの反応がないでねえ。ホームズをもっと訳せとか、白痴の先が読みたいとか、アロンの杖はどうしたとか、ないしねえ、まあ、言われても困るということもあるけど。

あ、そうだ、すみません、鰐はⅣで終わりです。終わりと書くのを忘れてしまいました。ばかだあ。まだ続きがあると思った方、ごめんなさい。

いやはや、早とちりと暴論の一年でしたが、反省の上、地に足つけて、・・・といかないんだなあ、これが。

最初の話ですが、言葉遣いをステレオタイプにすると話のわかりが早くなる。ところがそれを多用すると当然深みはなくなり芸術性は損なわれる。というわけでね、いや、ちょっとあるものを連想したのでね。・・・これで話がつながりましたかの?へ、無理やりだぜ。

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2007年11月 9日 (金)

翻訳談義その2

地味ーぃな話。たとえばこういう文がある。(地下室の手記第二部の一)

Не думайте, впрочем, что я струсил офицера от трусости:

俺がその将校に怖気づいたのは、臆病のせいだとは思わないでもらいたい。(安岡訳、光文社初版第一刷99ページ)

もっとも、ぼくが将校に立ち向かっていかなかったのを、臆病のせいだとは思わないでほしい。(江川訳、新潮社三刷72ページ)

元々同源と思われる二つの言葉を安岡さんが忠実に訳したのに対し、江川さんは片方をあえて「立ち向かっていかなかった」とした。それから「もっとも」が少し気に入らないのだが(安岡さんのにはそれに相当するのがないけどそういうテキスト?)、そんなことはいいや。とりあえずここまではよしってことで次へ(つまり上のコロンの続き)。

я никогда не был трусом в душе, хотя беспрерывно трусил на деле,

ロシア語がよくわからなくてもв душеとна делеが対照をなしていることはわかる。

そこで安岡訳: 実際は絶えず怖気づいてばかりいたとは言うものの、おれは心の中では一度だって臆病者であった例はないのだ。(おれ:ひらがなは本文のまま、例にはためしとルビ)

実際、на делеは辞書を見るとв действительности、на практикеで「実際」だし、《心の中ではそうだが実際はこうだ》で非の打ち所がないように思われる。しかし、《対照》はぼやけたような気もする。実際、《実際、心の中ではこうだった》という日本語は成立する。ロシア語でв душеとна делеは両立するのだろうか?で、делоの行為の意味を意識したのが江川訳:

ぼくは、行動のうえではいつもびくついていたけれど、心のなかではけっして臆病者であったためしがない。

上の「立ち向かっていかなかった」とともにあいまいなところをなくしている。わかりやすくなった--が、ちょっと待ってほしい。行動のうえ、と断ったところでびくついてるのは心じゃないのか。元々矛盾をはらんだ文ではないのか。続く文を見てみよう。

но — подождите смеяться, на это есть объяснение;

安岡訳:笑うのはちょっと待ってくれ、これにはちゃんとした釈明があるんだ。

要するに、ここは笑うべきところなんだ。だからなるべく変なことを言ってると思わせるほうがいいんじゃないのか。つまり安岡訳がベター。皆さんはどう思う?さらに言うなら原文の構成のほうがさらによくないか(訳例):

といっても、僕が臆病で将校を怖がっていたと思わないでいただきたい。僕は心の中で臆病者であったことは一度もない。もっとも、いざとなるといつもびくついてばかりいたけれども。いや、笑うのは待ちたまえ、これには説明があるんだ。

どうですかあ?まあ、いいや。気になるのは、-の前のно(だが)だが・・・と、まあ、こんな大したことのないところで時間を食っていたら地下室の手記程度の中篇でも何年たっても終わらないし、どうでもいいと思われる方が多数かもしれない。しかし、こういうことの積み重ねが・・・・・

ひとさまの翻訳にけちをつけるのはいいが、「地下室の本棚」で公開しているあれは何?批判にたえるの?・・・そう言われると弁解の余地はない。不思議なことだが、今まであまりそういうことを考えなかった。僕は昔から鈍感で、ひとの目を気にしているくせに、物事に気づくのが遅い。しまったと思った時にはたいがい手遅れだ。
地下室の本棚について言えば、甘えと勘違いがあった。しろうとだから、無料で提供しているのだから、一生懸命やっているんだから、そういう気持は確かにあった、が、そんなことは言い訳にならない。そんなことを斟酌するよう、読者に要求するなんて、ねえ。そのうえ、それなりにそこそこの作品に仕上がるのではないか、という勘違いもあった。とんでもない錯覚だった。語学力も、表現力も不足、いや不足と言う言葉では不足だし、それに翻訳とはどういうものかもわかっていなかった。もちろん、今はわかっていると言うつもりはない、が、いくらか進歩しているんじゃないのかなあ、とは思う。今思い返せば、いきなり公開しようなんてずうずうしいことを考えずに研鑽を積んでから公開すればよかったのだが、ナニセ趣味でやっていることだから、そんな我慢はできなかったのだ。誰かに見てもらうんだという、目的と緊張感がないとねえ。
プロジェクト杉田玄白について言えば、多くの手で寄って集って添削しちゃおうというすばらしいアイデアだが、僕のレベルが低いからか、そんな暇人はいないからか、ほとんど反応はない。だから、独学である。進歩と言ったが、曲がった方に伸びているかもしれない。
しかし、亀山先生の訳の修正に僕の指摘が役に立ったのだとしたら、今までやってきたこともむだではなかった(それにつけても、このようなブログ、知らん振りしていてもよかったのに対応してくださった先生には改めて感謝します。)しかしまあ、あれはあまりにも目立つ、というか、ほっとくわけにいかなかった、というか、あれ以外のことでここに書き散らしたことには賛同も反論もない、というか、とりあえず、あれでこのブログの役目も一区切り、というか、ネタ探しも楽じゃないので少し休憩、というか、この前書いたように『鰐』の連載をしたら読者はいるだろうか、というか、まとめて掲載すればいいのでブログで連載など意味はないと思っていたけど小出しにして反応を見てみたい、というか・・・

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2007年11月 2日 (金)

翻訳談義

初めてドストエフスキーを読んだ頃。米川正夫などという人は絶対に間違えない、一言一句、すべてドストエフスキーの言葉そのものである、そう思っていた。物を知らないと言われればそれまでだが、そういう子どもじみた信頼を、僕は恥ずかしいと思わない。なぜなら、たとえば囲碁や将棋のプロたちは恐ろしいほどの高みを極める。翻訳の世界でも第一人者となればそうあって欲しいと思うのは当然だろう。ど素人に誤訳を指摘されるなどあってはならない。

もっとも、米川さんの翻訳の場合は、怪しげな翻訳が跋扈していた時代から自力で道を切り開いてきたのであろうから、大変な業績と言えるのだろう(失礼なことを申し上げております、が、批評家の提灯や独りよがりほど失礼じゃあるまい)。一度終えた翻訳を手直しするのは、労多くして益?のきわめてドライビングフォースの小さい作業だから、誤訳が残っていてもしかたあるまい。ましてや米川さんはこんなことをおっしゃったらしい:、(北御門二郎さんの誤訳指摘活動に対して)《北御門の訳も或る意味で誤訳である。要するに人の揚足取りは誰にでも出来るから、自分で完全な仕事をして見せねば意味がない》(北御門二郎さんの『アンナ・カレーニナ』のあとがき。)こう言われちゃあねえ、誰も指摘なんかできません。というわけで、米川さんの翻訳はさすがだなあと思わせる反面、あれえというところを残している(例もあげずにこういうことを言うのはまたまた失礼だが、いずれ機会があったらということで)。

さて、米川さんは、やはりなんと言っても立派だ、としても、そのほかの翻訳家の方々はどうなんだろう。いや、次々と翻訳を手がける人が現れるというのは、ドストエフスキーを読む側にとっては幸せなことである、といえるはずである、可能性がある、かもしれない。どんどんよくなる法華の太鼓・・・か、破れてならない太鼓腹か。どうなんですか?米川さん、中村さん、原さんの世代、原さん、江川さん、木村さんの世代、そして亀山さん、と、進歩してるんですか、ちゃんと検証してる人はいるんですか?ここでは文章の巧拙は問題にすまい。つまり理解が進んでるかどうかだ。これを亀山さんがお読みになることはあるまいと思うので正直に申し上げるが(いかに疲労困憊、意識朦朧であろうとも)、有罪と無罪を取り違えることはありえない、すなわちあれは意図的なものであったと思うのだ(編集者は、そうでないとすると、何をやっていた?)が、それで間違っていたとなると、つまり、腰は軽いが読解力はどうかということを意味する。そして、この***不足については亀山さん一人にとどまらない。あの件で前に書いたとおり小沼さんなんかも同罪である。

ある設問:次の文章はカラマーゾフの兄弟第9編の9にあるカルガーノフの叫びである。その意味するところを句点、読点を含め、75字以内で述べよ。

«Что же это за люди, какие же после того могут быть люди!»

原久一郎君の解答:人間なんて実に信じがたいもんだなあ!あのミイチャ君さえ人殺しの罪を犯すとしたら、人間なんてどいつもこいつも、まったく信頼しがたい存在というものだ!

これはもう、解説であって翻訳とは言い難い(米川訳について前に述べたことと重複するので説明は省略)し、意味もあと半歩だし(つまり人間を自分に引き寄せて考えていないので)、米川さんの訳を参考になさったわけだからそれほど高い点数を差し上げられないが、それでも方向としては正しい。しかるに、原卓也さんはこういう例があるにもかかわらず(逆にご父君のものだから否定したのかもしれないが)、親殺しをして方向を誤ってしまった。第1編の5でも同じようなことがおこっている。ロシア語を理解する力はいざ知らず、文章を理解する力は第一人者と言えるものなのかどうか。

どうやら、翻訳界の第一人者は雲の上の人である、新訳が出るたびに誤訳は減る、というのは(少なくともロシア文学に関しては)幻想らしい。いや、この言い方が間違っているのかもしれない。ロシア古典文学翻訳界には第一人者しか存在しないのだ。だから、『子どものような信頼』に答えるほどのものが出版されるシステムになっていないのだ。積み重ねの上にのっていない一人の人間に頼るのではそれだけのものしかできないのはあたりまえだ。では、どうすればよいか、と言ったって僕なんかにわかるわけがない。

さて、翻訳の難しさだが、具体的にどういうところが難しいのか、という話に移ろうか・・・どしろうとの妄言は日を改めて続きます、かどうかは気分次第。もしかしたら、ドストエフスキーの鰐の連載を始めようかなあなんて考えてもおります。

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2006年12月21日 (木)

このブログについて

年も押し詰まって参りました。皆さんいかがおすごしでしょうか。わたくしは年末にあたり、これからどうしようかと考えているところであります。このブログは始めてまだ半年足らずではありますが、なぜこんなことを始めたのか、もう忘れてしまいました。ボヘミア王の妄想、とか書いていたのが遠い昔のようです。あれはわたくしだったのでしょうか。だけども、問題は、そんなことでも傘がないことでもなく、これからどうするかです。ここを訪れてくださる方の中で最も多いのは、地下室の本棚から、こいついったいどんなやつかひとつ見てみようということでいらしてあきれて帰られる方です。あとは、『ロシア人の名前』で検索していらっしゃる方が圧倒的に多い、ロシア人の名前に興味を持つ方がそんなに多いのかと驚きました。中には真剣に読んでくださる方もあったようで、少しはお役に立っただろうかとも思いましたが、しかし、わたくしはお役立ちブログなど作るつもりはまったくないわけでして。してみると、どうしたもんでしょうねえ。というのも地下室の手記関係で書き散らしたたわごとが評判がよくなさそうなので。で、来年からは、地下室の本棚に関する更新情報とメモ的なものにするか、それとも『罪と罰』の検討に入るか、迷っています。何でもかまわねえ、勝手にしな、と言われるかもしれませんが、せっかく貴重な時間をつぶしていらっしゃる方にあまり奇妙なものをお見せしてもねえ。

ところで、地下室の本棚のほうですが、シャーロック・ホームズの冒険は年内に終えられそうなので、ホームズ物は最後の事件一編だけ訳してしばらく休むもうか、アロンの杖も再開したいし、とか思っています。それともホームズ物の短編だけでも一気にいきますかねえ。それから、『白痴』はあまりに長いので完訳してからの公開では何年先になるかわからないし、お読みになる方とて(そういう方がいらっしゃるとして、ですが)一気に読めるしろものでもあるまいと思うので、一章ずつ公開しようか、どうしようかと考えています。一ヶ月に一章ぐらいですかね。もっとも完訳するまでやってられるかどうかという問題もありますが。

ま、そんな現状です。そうそう、これまで、地下室の本棚、地下室の疑問を訪れてくださった方にお礼申し上げます。ご意見、ご希望、ご感想、ご指摘等ございましたらお寄せください。

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