2009年11月 6日 (金)

誤訳の正体、あるいは、誤訳への招待

さて、江川訳と安岡訳のどちらが魅力的かと訊かれれば江川訳と答えるけれど、それはただ、江川訳を先に読んで慣れ親しんでいるからというだけのことにすぎないかもしれない。安岡訳はしょっぱなからねじけているし、論理はへっぽこだし、なるほどところどころ必要以上に噛み砕いてわかりやすくしようという意図は感じられるもののちっともわかりやすくなってないし、別にいま、息をしている言葉に変わったという印象もないし、俺はあんた方に、なんてのも気にいらないし(安岡先生のお考えの中でこういう生な言い方と自意識過剰がどう折り合っているのか興味はあるけど)、要するに、いくらも進まないうちに読む気をなくしてしまったわけではあるが、それはただ、既に江川訳に満足していたからで、先に安岡訳を読んでいたら、それに夢中になっていたのかもしれない。ふん、今さら確かめられんでのう。

安岡訳のほうが誤訳が多そうだと思うのも、その延長線上かもしれない。なにね、江川訳は正しいものと信じてかかってるから(だって誤訳なんてものがあるなんて知らない時に読んだものだからね。え、非論理的? そうそう、妙な錯覚、誤解だけど仕方ない。頭が固いんだ。豆腐より固いんだ)──江川訳を信じてるから、安岡訳は変だ、変だと騒ぎたくなる。迷惑なこった。某会と違って影響力が無いのが救い。そこで、江川訳は今さら調べても仕方がない(というより、その必要なしと思っているふしさえある)ということもあり、安岡訳を調べてみれば、そりゃ誤訳は見つかるわなあ。だって、カラマーゾフの兄弟だって、某先生のも、某先生のも、某先生のも、あれっと思わせるんだから(うふふ、何か矛盾を感じた方、人間心理の不思議なところと思し召して、奈良と駿河でかっぽれ、かっぽれ)。安岡訳、変だぞと思えば、江川訳や英訳と比較する、持ってりゃ米川訳とだって比較すらあ。するとどうなる? 「誰もが気がつくのは、先行訳が、表現の違いはあれ、原文に忠実で、語学的にほとんど一致している個所で、**訳に限っての誤訳が目につくということである」(伏字にしたのは**に名前を入れればあらゆる翻訳に適用できるから)、などという、間違った結論に導こうという悪意があるのでないとすれば、自らのおつむが学問にまったく向いていないことを証明するようなコメントをつけたくなるのも人情でござる。であえ、であえ! ふんぬ、せめていま一太刀、いまひとたちい・・・それが錯覚から始まっているとするとだねえ、あんた、江川先生のお訳も調べてみなさいよ、って言われたら、どうする? どうするよお、おい! なまじね、何かのお役に立てば、みたいなふりをするからいけんのね。どこやらの会じゃないけど、自分の錯覚なんざ気がつかないに限ります。

いやね、江川訳の自意識過剰で急に信用できなくなったってわけじゃあないが・・・いや、大いにそのせいかもしれないが・・・いや、今でも安岡訳のが間違いが多いと思っているが・・・いや、それも怪しいもんで・・・いや、江川訳になれてるもんだから、アレ、安岡訳、おかしいぞと思ったものの、よく考えてみると、安岡訳が正しいじゃん、てのが結構あるんだなあ。ま、別に不思議はないやね。興味ある人は自分で調べて。正される見込みの無い細部をごちょごちょ書くのは疲れるのでね。わてはもういいや・・・ってのも愛想がないから一箇所だけ。

第Ⅱ部の3 

俺をその学校へ突っこんだのは、俺が世話になっていた遠い親戚の連中だが、あれ以来連中の消息を俺は知らない──その学校に突っこまれたときの俺は孤児同然の寄る辺ない身の上で、親戚連中の叱責で早くも怯えきっており、もの思いに沈みがちでむっつりと押し黙ったまま、あたりをおずおずと見回すようになっていた。(安岡訳132ページ)

ぼくをこの学校に押しこんだのは、遠縁の親戚にあたる連中で、ぼくは彼らの世話になっていたわけだが、いまもってどうした連中なのか、ぼくにはさっぱりのみこめない。彼らの叱責でもういい加減いじけきって、妙に考えこみがちの、無口な少年になり、いっさいを白い目で見るようになっていた孤児同然のぼくを、彼らは学校に押しこんだのだった。(江川訳96ページ)

ごらんのとおり、安岡訳は《学校に入った時の俺の状態》に重点が置かれている。それに対して江川訳は親戚の連中の比重が高い。いまだにのみこめないとか。でもねえ、親戚なんか今はどうでもいいでしょ。まあ、前後もお読みになればわかるけど、安岡訳の態度が正しそう。淀みない流れです。さて、全体の意味を取り違えるとどうなるか。

突っこんだ、押しこんだにあたるсунулиは、まさしくたんすに突っこむとか押しこむとかいうときに使われる動詞。どうでしょう、突っこむだと乱暴な感じ、押しこむだと無理やりな感じが出るかrしら。親戚はどんなだったと思う? たぶん、ぞんざい。突っ込む感じかな。だけど、学校へ突っこむって、言う? かといって、押しこむでは、入りにくいところをなんとか入れてくれた感じすら出てしまう。どうかな。放り込むだと、また別のニュアンスになっちゃうし。сунулиから離れちゃうけど、片付けたはどうだろう? それこそ誤訳? まあ、わけを聴いてくださいな。

о которых с тех пор не имел никакого понятия

これ、上の青字部分だけど、直訳すると「その連中についてそれ以来何の情報もない」。どう見ても「消息を知らない」安岡訳が正しく、江川訳は作り事ですね。ちょっとした逸話風だが余計なこと。重要なのは主人公がどう扱われたかであって、学校へ入れたのが厄介払いと考えれば、その後知らないというこの部分が生きてくると思うのである。というわけで、のみこめていないのは、「ぼく」でなくて江川氏自身らしいですよ。

ついでに、「白い目」云々。дико на всё озиравшегосяのдикоは、 この場合、скрайним изумлением, испуганно, не соображаяの意味で、たぶん、「びくびくしながら」でしょう。「白い目」は別の性質を植えつけてしまいます。

・・・

よく知っている(дикоみたいな)単語だけど場合の使い方がわからない場合、徹底的に調べるよりも自分でなんとかしちゃうっていう翻訳者は多いと思うけど(なにせほれ、時間の制約もあるでねえ)、江川先生みたいなお上手な方はかえって危険な場合もあるかも。だってさ、翻訳なんて、結局、他人は誰も調べやしないんだから(普通はね)、自分が納得しちゃったらそれきりだから。いやあ、カラマーゾフの兄弟のように筋を追っていけるものならともかく、地下室の手記なぞは、ぽちりぽちりと変な訳が混じるとわけがわからなくなりそうですよ。

簡単な単語に落とし穴ってのはよくある話で、だいぶ前に書いたけどслужить、普通はserveの意味だけど、犬がすると「ちんちん」。ロシア語のわからんものは、辞書を隅々までみて、お、о собакеとある、これだこれだ、って思うけど、先生方は違うんだな、こないな単語で辞書を引くなんざ沽券にかかわるってんで・・・こないだ取り上げたво прахеはどうだろう。果たして安岡先生、ご納得の上、取るに足らぬ存在と訳されたのかどうか。прах(dust)はよく知っているから辞書なんか必要ない、と思われた、ではなさそうだな。何らかの妥協でしょうか。似たような例をひとつ。似てないかな。

それは連中の友人で将校のズヴェルコフが、遠い県に転勤になるというので、明日にでも連絡して、送別の晩餐会を開こうではないかという、かなり真剣な熱っぽい話し合いだったのだ。(安岡訳122ページ)

相談事というのは、将校として遠方の県に赴任していく友人のズヴェルコフのために、この連中が合同であすにも送別会を開こうという話で、真面目な、むしろ熱のこもった話しぶりだった。(江川訳88ページ)

Шла речь серьезная и даже горячая о прощальном обеде, который хотели устроить эти господа завтра же, сообща, отъезжавшему далеко в губернию их товарищу Зверкову, служившему офицером

さて、安岡訳だが、明日晩餐会を開こうというのに、明日にでも連絡して、というのは変だなあと思う人間はせっかち? 突き合わせてみれば、 сообща(合同で)を「連絡して」と訳されたことがわかる。こうした場合、問題は、錯覚そのものよりも、それでいいと思い込むことにある。それは、ドストエフスキー自身が変な文章を書くと思っているということになるからだ(ここら辺が言いたいことでござんす)。いや、変じゃないにしてもそんな文、書くはずないでしょう.・・・ま、一事が万事というほどのことはないけど・・・

さて、例によって尻切れではありますが・・・誤訳問題はもう・・・いいかな・・・

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2009年10月28日 (水)

地下室 2

地下室とは自意識のことか?ということで、地下室という言葉を調べていたら、妙な訳文に出くわした。もっとも、妙なのは〈皆さんもそう思ってるにちがいないが〉、その訳文ではなく、僕のほうかもしれない。なんせ、くどいようだが、みんなが自意識の話と思ってるらしいこの小説、僕には全然そう思えないんだから。僕一人が間違っているほうが、もちろん、世界は無事だ。

さて、その訳文とは。第Ⅰ部の11:

— А вот посадил бы я вас лет на сорок безо всякого занятия, да и пришел бы к вам через сорок лет, в подполье, наведаться, до чего вы дошли? Разве можно человека без дела на сорок лет одного оставлять?

試しに、あんた方を四十年間、なにもさせないで地下室に閉じ込めて、四十年後に、いったいどんなことになっているのか、覗いてみたいものだね。果たして人間を四十年間なにもさせずに、たった一人で置き去りにしておいていいものだろうか?(安岡訳76ページ)

さて、ここで皆さんに問題をひとつ。この「地下室」って、何?

自意識? あいかわらず自意識で押し通してしまおうという方もおありかの? しかし、閉じ込められるのは「あんた方」ですからねえ。え、「あんた方」も自意識過剰? そこまでおっしゃるなら、こちとらスゴスゴ引き下がるほかないが・・・

普通は疑問に思うはずだ。いったい、地下室とは、他人の手で閉じ込められるようなシロモノなのか。文字通りの地下室じゃあるまいし。さあ、どうやって、「あんた方」を地下室へ入れよう? 

あの当時、既に俺は、心の中に地下室を抱えていたのである。(第Ⅱ部1 安岡訳97ページ)

地下室は各人が自分だけのものをそれぞれ、持っていたり、あるいは持っていなかったりするのだろう。ひとさまが用意できるものでもない・・・ったく、こんなところまで引用しなくちゃいけないなんて・・・

なにもさせないことが、即、地下室に閉じ込めることになる、それが自明なら、この訳も容赦できようか? 微妙なところか? いや、「あんた方」に対する話言葉ではあるし、文字通り「地下室に閉じ込める」と受け取るのが普通。そこまで考えるほど気を使った翻訳とも思えないし・・・

原文では、地下室:подпольеの位置がずっと後ろにある。そこに意味があるのではないか。ひとつ参考までに江川訳を: 

〈それならひとつ、諸君を四十年間も、何の仕事もさせずに閉じこめておいて、そのうえで、四十年目に、諸君がどうなっているか、そいつを伺いに地下室に諸君をお訪ねしてみましょうか。いったい人間を四十年間も、仕事をさせずにほうっておいていいいものかどうか?〉(江川訳56ページ)

ごらんのように、「地下室」は後ろの方にある。従って、確かなことは、四十年後には地下室にいる、ということだ。だから・・・待った。ちょっと待った。しかしねえ、キミイ、とおっしゃるか。江川訳の「閉じこめておいて」とはどこに閉じこめるんだね? それこそ物理的にかい? 結局、地下室しかないじゃないか。してみれば、安岡先生の方が率直なだけじゃないか・・・

そうなんだ、どうやら「閉じこめる」と訳しちゃだめらしい。посадилを、どこかの場所に置く意味ではなく、何か仕事につける意味で捉えるべきではないか。で、безо всякого занятияと組んで、「なにもさせない」。(また、江川訳のように「仕事」に限らないほうがいいと思うのだが)。

だがねえ、仮定の話じゃないか。「地下室に閉じ込め」ようとどうしようといいじゃないか・・・だめだ。「なにもさせない」は仮定の話として考えられるが、「地下室に閉じ込める」はだめだ。こういう翻訳をしておいて原文の辻褄がどうとかこうとか・・・

江川訳の「何の仕事もさせずに閉じこめておいて」を、「なにもさせないでおいて」に、「そいつを伺いに地下室に諸君をお訪ねしてみましょうか」を、「そいつを伺いに諸君のところを、地下室を、お訪ねしてみましょうか」に変更すべし。

つまり、何もさせずに長年ほうっておいた人間を訪ねる先は地下室である。それだけ。

「地下室」。ほかにもこんなところ: 

とどのつまりは、君たち、なにもしないほうがいいのさ! 意識的な無気力のほうがマシだ! だから、地下室、万歳!というわけさ。(第Ⅰ部11 安岡訳75ページ)

ぼくは《安らぎ》がほしかった。地下室に一人きりになりたかったのだ。《生きた生活》が、不慣れなために、息をするのも苦しいくらい、ぼくを圧えつけていたのだ。(第Ⅱ部10 江川訳。ただし、《安らぎ》は安岡訳の《平穏無事》のほうがいい)

・・・だが、一部を取り上げてもしかたない。第Ⅰ部が地下室というタイトルなんだから、その全部が地下室なんだ。

《生きた生活》から離れているのは、疑惑、不信に支配されているからで、それにはもろもろのこと、それこそ自然法則やら水晶宮やらも影響を与えており、ペテルブルグにすむ知性の発達した現代人に特有のことであるとすれば、自意識なんかねえ、全然関係ないんだ。そんな表面的な捉え方は、もうやめましょうよ。

ところで、疑問がひとつ。第Ⅰ部3のネズミ。なぜネズミなのか・・・日本語で地下って言うと、普通、モグラだな・・・まぜっかえすなって。いや、それだけのことならそれでもいいんだが。

(ネズミというものは、ほとんどひっきりなしに侮辱を受けているものだ)(安岡訳24ページ)

いやね、この「ネズミ」、ほんもののネズミのこと? 違うよねえ。とすると・・・この文、どういう意味なんだろう・・・

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2009年10月21日 (水)

地下室

意識は病気ある・・・明らかに意識の話としてスタートしたのに、いつのまにか自意識に差し替えられ、その自意識も、明らかに他人の目を気にする、いわゆる自意識だったのが・・・自己の存在とか、自然法則と自由意志とかを巻き込んで・・・膨らむ、膨らむ、膨らむ自意識・・・結果、部分的にはどこもかしこもあいまいでわけのわからないものにしておいて、全体としては自意識過剰の引き籠りの一言で括ってしまう。そんな自意識の病の頂点にあるのが、ど~~ん、♪ノックは三回! ではなくて↓

”自意識”の中で世界を嗤う男

光文社のウェブサイトに燦然と構えていらっしゃる(帯にも書いてあったっけ)。そりゃワタイのことでおまっか? なんてチャチャを入れないでネネ。フム、ま、キャッチコピーだから、なんでもいいけどさ。だけど、この、自意識に、引用符がついてるところがミソ。そのココロハ・・・

作品 : 世間から社会的存在であることを否定された男は、「地下室」という、永遠の自意識の中に閉じ込もる。後の5大長編へとつながる重要作品であり、著者の思想が反映された主人公の苦悩をリアルに描いた決定訳!

と、光文社さまは言ってらっしゃるわけでございます。その下に「内容」として、自意識という「地下室」云々とある。地下室が自意識で自意識が地下室で・・・それでですね、「地下室で世界を嗤う」よりコピーとしてカッコイイからという赤坂な理由だけのことでないとすれば、地下室とは自意識のことかいな、という疑問に答えてもらわなければならない。ダレに? ダレかに・・・

いや、決定訳というのがすばらしい・・・クリームクレンザーで落ちるような自負でなければいいんだが・・・

もちろんあんた方のこれらすべての言葉は、俺がいま自分で創ったものだ。これも地下室の産物というわけさ。俺はそこで四十年間ぶっ通しで、隙間越しにあんた方のこの言葉に耳を傾けていたのだ。自分でこの言葉を思いついたと言ったが、これしか思いつかなかったということだ。すっかり暗記してしまい、これが文学的体裁を取っているのも、なんの不思議もないだろう・・・・・・(第Ⅰ部11 安岡訳78ページ)

あんた方の言葉というのは、それが直前を指すとすれば。ひとさまが自分をどう見ているかについての想像、いや、創造物であり、つまり、自意識の産物ということになる・・・といったところから、地下室=自意識が導き出されるのかな。四十年間ぶっ通しで! なんという自意識過剰!

しかし・・・待ってつかーさい。一つは「これも地下室の産物」の「も」。もう一つは「これが文学的体裁を取っている」。文学的体裁という表現からして、この「これ」はもう、直前の自身を評する言葉だけを指しているのではない。(直後にこれをすべて印刷して云々とあることからもね)。従って、ここまで書いたことゼーンブを指すことになる。

すると、限定された(どうやら直前を指す)「この言葉」から、ここまでの全部へと、転換がどこかで行われたのか? いや、直前の言葉という解釈が間違い。「これらすべての言葉」のすべてーвсеとは文字通りここまでのすべての意味だ。従って、「これらすべての言葉」は「こういった言葉すべて」のほうがよさそうだし、「あんたがたのこの言葉」、「自分でこの言葉」の「この」は「こういった」などにしなくてはならない。

そうなると、あんた方の言葉とは、直前の自身を評する言葉だけではないわけだし、「それらも」地下室の産物に含まれるというだけのことだから、ここから自意識イコール地下室は導けない。だいたいねえ、そもそも他人の言葉を装って自身を評するのが自意識過剰なんていうのがナンセンス・・・しかし・・・我ながら、しゃっきりしない話だなあ・・・気を取り直して、

ついでだが、皆さん、「これしか思いつかなかった」とかいうのはどうも妙な表現でござると、思わないかえ?

自分でこの言葉を思いついたと言ったが、これしか思いつかなかったということだ。

Я их сам выдумал, ведь только это и выдумывалось

まず、выдумалはおそらく、思いついた、というより、「創った」(сочинил)に近い。「自分でこの言葉を思いついたと言ったが」はそれを意識している(上に「自分で創った」とあるから)ようだが、「と言った」は取り去るべき。また。「これしか思いつかない」のではなく、(四十年の間)「これだけをこしらえてきた」のように解釈するほうがよさそう。地下室でこんなことばかりを考えていた(この継続性が大事)、ここまで書いてきたことが地下室のすべてだ、という意味。

これしか思いつかないから、(暗記して)文学的体裁を取るのも当然だなんて、まるで理由にも何にもなってないでしょ。決定訳とおっしゃるからにはもうひと踏ん張り。参考までに江川訳を:

もちろん、諸君のこういう言葉は、ぼくがいま自分で創作したものだ。これも、地下室の産物である。ぼくはあそこで四十年間もぶっつづけに、諸君のこうした言葉を壁の隙間から盗み聞きしていたのだ。それはぼく自身が頭で考えだしたことだ。とにかく、こんなことしか頭に浮かんでこないのだから仕方がない。そらで暗記してしまって、文学的な形式をとるようになったとて、べつに不思議ではあるまい・・・・・・(新潮文庫)

うむむ、「仕方がない」とは、いったい原文のどこに書いてあるんだろう。これも悪い訳だ。このような、いい加減な辻褄あわせをありがたがっていてはいけない・・・しかし、我ながらしゃっきりしない話だなあ・・・う、もう一度、気を取り直して、

さて、自意識=地下室ということは・・・第Ⅰ部はまるまる自意識! どうしてこんなことになってしまったのか・・・

「地下室」という言葉をひとつひとつ調べていけば、そういう結論はでないと思うのだが・・・たとえば、第Ⅱ部の10

Я хотел, чтоб она исчезла. 《Спокойствия》 я желал, остаться один в подполье желал

とにかく彼女には、消えてもらいたかった。俺は、《平穏無事》を欲していたのだ。(安岡訳253ページ)
彼女が消えてくれればいいとさえ、ぼくは思った。ぼくは《安らぎ》がほしかった。地下室に一人きりになりたかったのだ。(江川訳188ページ)

こうなると、自意識→平穏無事という図式も加えなくちゃ。(江川氏「消えてくれればいいとさえ」は悪訳、また、《安らぎ》より《平穏無事》がいい。《生きた生活》ができずに、何事も無いのを望んでいるのだから)

第Ⅰ部の10

そっちが俺のことは歯牙にもかけないと言うなら、こっちだってへいこらするのは御免だ。俺にはなにしろ、地下室があるんだからな。(安岡訳73ページ)

仮想の話し相手もいらないという時に、どんな自意識が残るのか。

同じく、第Ⅰ部の10

我々地下室の住人は、轡を嵌めて拘束しておかなければいけないな。地下室の住人は、四十年間黙ったまま地下室に籠りきっていることもできるが、ひとたび外へ出たら、それこそ堰を切ったように、喋って、喋って・・・・・・(安岡訳75ページ)

つまり、自意識から逃れ出ることもできるんだ。そして、これを書いている間中、喋っている間中、自意識から自由だったんだ。そうなんですか、先生?

・・・と、いうわけで、「地下室」=自意識には、ちょいと無理がありそう(せめて自意識の産物とか、自意識は地下室の入り口かというなら議論の余地も・・・いや、いや・・・まあ、最初っから、自意識の話なんか一つも書いてないと思っていいんじゃないかしら)。しからば、「地下室」とはなんぞや? 

そりゃもう、こんなふうに益体もないのことをこねくりまわしているような状態(これはわたくしのことでがんす)でしょう・・・なんていい加減に片付ける前に、もう一度考えてみますか。

それを考えるについては、安岡訳第Ⅰ部の11に、「地下室」と言う言葉を含むちょっと妙な訳文があるんですが、皆さんはどうお思いかなあ? まあ、考えてみてくださいな。宿題。

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2009年10月14日 (水)

雑題

江川さんほどじゃないけど安岡さんのお訳も《自意識過剰》さんで、特にⅠ部11章の「自意識がご自慢」なんか、どうしてそういう発想になるんか想像もつかない。自意識に限らず、「どこから見ても人好きのしないまぎれもないアンチヒーローとつき合うのは、訳者としても本当にしんどかった」《訳者あとがき;いや、さすがといおうか、すばらしい率直な告白》せいか、主人公をねじけたやつとしか見られないんでしょう、おそらく、それがためにнаверноはねじけた訳になるし、冒頭から論理は破綻するし・・・まあ、細かい部分では、江川訳より優れているところもあるけど、間違っちゃった部分もあるし、さて、全体としての評価はどうなんですか? そもそもいったい誰に評価できるんだろう? 例えば江川訳なんか、わての個人的意見では『地下室の手記』にあらず、だけど、これからも当分は名訳として読まれるんだろうからなあ・・・

安岡訳は、そうねえ、格別読みやすくなったわけでもなし、変な日本語はあるし、訳し落としが結構あるし(今さら光文社に知らせたものかどうか?ねえ)・・・でも、日本語訳で、廉価で読めることはありがたいことである、とするべきレベルにわが国の・・・

本日は、安岡訳の気になる点をいくつか。江川訳と、プロジェクト・グーテンベルクにある英訳も参考までに。

квасной патриотизм(第Ⅱ部の1。ロシアのロマンチストの多面性に関するくだりのあと)

Не из патриотизма какого-нибудь, смешного или квасного, я так говорю

俺はなにも、田舎者のお国自慢や滑稽な愛国心から、こんなことを言っているのではない。(95ページ)

смешногоは滑稽な、だから、 квасной патриотизмが「田舎者のお国自慢」。日本語の「田舎者のお国自慢」は特殊な意味を持つフレーズではないから、「田舎者」に卑下のニュアンスがこめられている;つまり、ロシア人はフランス人などと較べると田舎者ということだろうか? 真意は安岡先生に伺わないとわからないが、そういうことにしておこう。そこで、квасной патриотизмにそないな意味がありやなしや、だが・・・

квасной патриотизмは、おそらく、どの辞書にも載っていると思うが、要は、愛国心を履き違えて、妙な(時代錯誤の)生活スタイルにこだわること、と言うような意味かな・・・といっても、それほど古いフレーズじゃないので、ドストエフスキーの意図は?・・・それに、検索するといろんなことが書いてあるので・・・

最初にこの言葉を使ったのは、ビャーゼムスキーという人(詩人、1792-1878)らしい。〈前段:あらゆるものを絶対的に崇拝するような隷従的愛国心をテュルゴーという人がdu patriotisme d'antichambre(控えの間の愛国心? つまり、下男の愛国心、てな意味かな)と名づけた。〉そこで、そのような愛国心を、《わが国ではквасной патриотизмと呼べるだろう》というわけ。

その揶揄する対象は、愛国心と妙な服装スタイルを誇示していた人たち・・・とか・・・ふむ、なんだかよくわかりまへんが。

しかし、どうやら、それが、квасной патриотизмが、間違った愛国心、あるいは偽の愛国心であるということが、肝腎らしい。

江川訳:ぼくは何も滑稽な、古くさい愛国心の義憤にかられて、こんなことを言っているのではない。
英訳:I do not say this from any foolish or boastful patriotism
(古くさいスタイルを愛国心と勘違いするのと、古くさい愛国心は違うよね。なお、квасはクワス、伝統的な飲み物のこと。)

ロシアのロマンチストの《幅広さ》

誰に対しても、なにに対しても、我慢して泣き寝入りすることはないが、同時に何事も毛嫌いして拒否するということもない。万事からするりと身をかわし、すべてに道を譲り、万人に対して如才なく振舞う。片時も有益で実用的な目的〈官舎だの、年金だの、勲章だの:を見失うことなく(後略 安岡訳92ページ)

のうちの、同時に、以下の部分:

в то же время ничем и не брезгать

同時に何事も毛嫌いして拒否するということもない。

毛嫌い ー はっきりした理由もなく嫌うこと。と・・・感情にまかせて拒否するようなことはしない、というような意味になるのかな。
なんとなく筋も通っているし、брезгатьにはИспытывать чувство отвращения к кому-л., чему-л(嫌悪を感じる)という意味があるので間違っちゃいないのかもしれない。

・・・んが、Считать кого-л., что-л. недостойным себя(自分の役にゃ立たないと思う)てのも載っていて、特に、ничем не брезгаетはничем не стесняется, не гнушается для достижения своей цели(目的達成のためならためらうことはない)という意味だとか。

つまり、「我慢して泣き寝入りすることはない」を含めて、いかにロマンティストが利に聡い、調子のいいやつかという意味に取れるように訳すべき。安岡訳でもそのように読める、というなら結構ですが・・・

江川訳:同時に何事も毛嫌いすることなく
英訳: but at the same time not to despise anything

往来での大男との衝突

美しいビーバーが嫌らしいアライグマの代りを堂々と務めることになり、俺は少しずつおもむろに事に取りかかった。こういうことは、行きあたりばったりでがむしゃらにやろうとしても駄目だ。手際よく如才なく、まさに少しずつそろそろと進めなくてはならないのだ。(安岡訳109ページ)

の、「こういうことは、」以下、

Нельзя же было решиться с первого разу, зря

こういうことは、行きあたりばったりでがむしゃらにやろうとしても駄目だ

行きあたりばったり - どうするかという方針を初めからは立てず、その時の様子や成り行きに任せ、適当にすること。

・・・だが、с первого разуは「最初から」。решитьсяは「結果を得る」だから、結局、「無考えに、一回で決めるのは無理だった」。何回かやってみなくてはならない、というわけで、方針がどうの、というのとは違う。

・・・それより、「こういうことは・・・駄目だ」みたいな、「大男と道でぶつかるについての薀蓄」もどきの言い方はしてないでしょう。妙な性格を押し付けようとしてからに・・・

江川訳:なんといっても、やたら向こうみずに出たとこ勝負でいくわけにはいかない。
英訳:It would never have done to act offhand, at random

続いて、

いよいよ大男を前にして

Уж я ль не приготовлялся, я ль не намеревался,— кажется, вот-вот сейчас состукнемся, смотрю — и опять я уступил дорогу, а он и прошел, не заметив меня

これほど準備を重ね、これほどあれこれ思いを巡らせているのに、いざとなると今にもぶつかりそうだと思っても、ふと見れば、またしても俺が道を譲り、やつは俺の存在に気づきもせずに通り過ぎているのだ。(安岡訳109-110ページ)

「これほど」に相当する具体的な記述は、手袋を買ったり、襟を取り替えたり、等。つまり、ここに至るまでの経緯に思いをはせていて、それが「いざとなると」という(原文にない・・・と思う)表現にも現れているのだろう。

しかし、намеревалсяは「やるつもりになった」のであって、「思いを巡らせている」のではなかろう。これは、往来に出て相手を見つけてからのことを言っているのである。その証拠に・・・

ザハーロフさんのコンコーダンスを見ると、я ль не намеревалсяの後ろにя ль не примеривался, я ль не прицеливалсяとある。のちに削られたが最初はこの二つの文があったということ。意味は、たぶん、間合いを計って狙いをつけること。その場のことであるのは明らか。従って、青字の部分、「準備をして(心のかなあ?)、その気になったのに」、のような意味じゃなかろうか。

江川訳:ぼくが心がまえをしていない、その気がないというのならともかく、(後略)
英訳:I made every preparation, I was quite determined

次は、前にも半信半疑で書いたこと。今度は確か・・・と思う。

во прахе(第Ⅱ部の2)

Я, например, над всеми торжествую; все, разумеется, во прахе и принуждены добровольно признать все мои совершенства, а я всех их прощаю

それは例えば、俺があらゆる人達に勝利するということだ。皆は、もちろん、取るに足らぬ存在であり、俺の完全無欠に自発的に脱帽するしかないのだが、俺は連中すべてを寛大にも赦してやるのだ。(安岡訳115ページ)

取るに足らぬ存在であり、と訳されているво прахеだが、ダーリの辞書のпресмыкатьсяの項に、ползать, тащиться ползком, во прахе, по земле, подвигаться лежаとある。пресмыкатьсяは這う、這いずるで、 тащиться は引きずるだから、во прахеは伏している姿勢のこと。だからして、この場合は、ひれ伏すとか、降伏するとかした状態でしょう。

江川訳:たとえば、ぼくは万人に勝利した、というような気持ちがそれである。むろん、人々は完全に征服されて(後略)
英訳:I, for instance, was triumphant over everyone; everyone, of course, was in dust and ashes
(江川訳の「完全に征服されて」だが、в пух и прахに「完全に」と言う意味があるからとすれば、「征服されて」は当てずっぽうということになっちゃう。「dust and ashes」にはつまらないものという意味があるようですね。)

はてさて、わざわざ江川訳と英訳を参照したけど、わての考えに賛成してくれてるほうが少ないやんけ。え、そりゃ、お前さんが間違ってるんだろうって? そうとは思えないんだけどなあ。

・・・結局、翻訳は難しい・・・ということ。この翻訳も歴史的経緯、社会的状況の上に成り立っているとすると、これではいかんと思うなら、こんなところにこんなことをこそこそ書いていたんじゃダメってことかな・・・とすると・・・これではいかんなんて全然思ってなくて・・・いや、そもそもちょっと軽い話題をおもしろおかしく、と思って例のカルガーノフのシーンを取り上げたのがきっかけだとすると・・・いまさらまじめなふりをするのはナンセンス。

・・・しかし・・・自意識だけは・・・もしわての考えが当たっているなら・・・どうもその・・・軽々しい問題じゃないぞえ。うーむ。うなってしまう。

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2009年10月 7日 (水)

ちょっと休憩

ことによると江川訳を全否定しなければいけないという(と言っても、わたくしが百三十億年ほども勉強して、ひょとして原文でスラスラ読めるようになったとしても、江川訳で読んだほうがよく理解できるのは確かであんすが)、オモーイ状況(と言っても、それはわたくしひとりにとってであって、皆さんは鼻で笑ってるのかもしれませんが)に立ちすくんでいるのでありまして、少し休憩に軽い話題をと思いまして、ええ・・・そこで、小話を一つ。

となりのかこいにへいができたってねえ・・・ざんがつみっか

・・・言い間違いについて研究をしてらっしゃる静岡県立大学教授の寺尾康さんのお話。

『木綿のハンカチーフ』という歌の二番に次のような歌詞がある。

都会で流行の 指輪を送るよ
君に 君に似合うはずだ
いいえ 星のダイヤも 海に眠る真珠も
きっと あなたのキスほど
きらめくはずないもの きっらめくはずないもの

高校生の頃、寺尾教授は、「星の」の部分を「欲しいの」と思い違いをして、一番に「欲しいものはないのよ」という歌詞があるのに、この歌はおかしい、と思ってらしたそうだ。二十年後になぞが解けた、とか・・・よくある思い違いだ。ウサギ美味し、とか、重いコンダーラ、とか・・・

・・・しかし・・・この場合は、彼女(歌の中のね)の気持ちをとらえていれば、というか、矛盾しているのは「欲しいの」と「欲しいものはない」ではなく、「欲しいの」とほかのすべてが矛盾していることを考えれば、そんな思い違いをするはずがない・・・と思う。ましてや、後に、言葉に関する学者になる方だ・・・ごがづいつか

・・・重いコンダーラは意識を麻痺させるということ。

小話その二

前回ちょっと取り上げたнеизвестно。これ、わからないって意味だけど、だれが来たのかわからない、なんてのより、誰か来たでえ、ってな、軽い感じで使うことが多いみたい。неизвестно кто→ кто-то。

『罪と罰』の一節。最初のほう。

А между тем, когда один пьяный, которого неизвестно почему и куда провозили в это время по улице в огромной телеге, запряженной огромною ломовою лошадью, крикнул ему вдруг, проезжая: «Эй ты, немецкий шляпник!» — и заорал во всё горло, указывая на него рукой, — молодой человек вдруг остановился и судорожно схватился за свою шляпу

だが、まもなくひとりの酔っぱらいが、ばかでかい荷車を図体の大きな曳馬にひかせ、いま時分こんな通りをなんの用でどこへ行くのか知らぬが、通りすがりにいきなり青年に向かって、「やい、このドイツしゃっぽ!」とどなりつけ、片手で彼を指さしながら、思いきり大声でわめきだしたときには、さすがに青年もぴたりと足をとめ、ぎくりとしたように自分の帽子に手をやった。(岩波文庫第1刷 江川卓訳 15ページ)

と、そのとき、 こんな昼どきにどこに何しにお出ましになるのか、ばかでかい駄馬をつないだ大きな荷馬車に乗ったひとりの酔っぱらいが、通りしな、いきなり彼をどやしつけた。「おい、そこのドイツシャッポ!」そして、手で彼をさし示しながら、声をかぎりにどなりはじめた。青年はぎくりとして立ちどまり、帽子を慌ててひっつかんだ。(光文社古典新訳文庫初版第1刷 亀山郁夫訳13-14ページ)

「手をやった」より「ひっつかんだ」がよさそう、とか、と言っても「慌てて」かどうかは(そのような意識的動きかどうか)疑問、とか、いろいろあるが、неизвестноについて言えば、「・・・知らぬが」などと、語り手が顔を出さないほうがいい。

・・・しかし、問題はкоторого以下の節の動詞がпровозилиってこと。主語は誰かさんたち。従って、酔っぱらいさんは、お出ましというより、なぜかどこかへ運ばれて行くのでした・・・なんせおかしな帽子を見てわめきだすほどよっぱらっていらっしゃる。(おんみずから)大きな曳馬に「ひかせ」なんて状態じゃごわせん。「どなりつけた」のかどうかも・・・まあ、好きずきかもしれないけど・・・

さて、『地下室の手記』についてもちょいと・・・

音栓(ストップ)かピンどまりか

実にもって、どうでもいいことですが、第Ⅰ部7の次のくだり

本当は人間に意志や気まぐれなんてものはないし、そもそもかって一度もあった例などなく、人間そのものが、ピアノのキーかオルガンの音栓のようなものにすぎないのだ。(安岡訳、例にためし、音栓にストップとルビ)

これが江川訳ではピアノの鍵盤かオルゴールのピンどまり、となっている。органного штифтикаですがね、органногоはオルガンですよねえ。しかし、штифтикаは、どうもストップというより、ピンみたいなもののようなんですが・・・え、どっちでもいい? まったくだ。

・・・しかし、ピアノのキーはだれでもわかるけど、音栓って・・・え、わてが無知なだけ? そうであんしょ、そうであんしょ・・・しかし、音栓はрегистрыではないかと。ちなみにパイプはтруба。ふむ、一方、オルゴールの中のしくみまで思い浮かべなけりゃいけないのも妙だなあ。

第Ⅰ部の8に鍵が・・・?

же такое человек без желаний, без воли и без хотений, как не штифтик в органном вале?

願望も意志も欲求もない人間なんて、オルガンの音栓以外の何物であろう?(安岡訳)

オルガンの音栓と訳されてますがね、 валеはどこへ行っちゃったんでしょう? 江川さんは、「オルゴールの回転軸についているピン」と訳されてる。そうなんですよ、валは回転軸みたいなものという気がするんですよ。

してみると、これ、手回しオルガンのことじゃないですかね。回転する筒にピンが打ってあるやつ。手回しオルガンのピン・・・ま、音栓でもなんでもいいけどさ。

もうひとつ。よくわからないけど、どっちかは誤訳ってやつをサービスで。第Ⅰ部7。安岡訳で言うと「俺から見たらそれは、ほとんど・・・・・・そう、例えばバックルに従って、文明のおかげで人間は穏やかになり、その結果、残忍さが軽減され、戦争には不向きになりつつあるなどという論を認めるのと同然だ」のあと。

По логике-то, кажется, у него и так выходит.

論理だけからいえば、人間はたしかにそうなるように思われる。(江川訳)

論理上は、たしかにバックルにおいては、そういうことになるようだ。(安岡訳)

「彼」は人間かバックルか・・・バックルなんざどうでもいい、人間の話に決まってらあ、ってのが江川訳。しかし・・・「論理だけからいえば」って、語り手はそんな論理が一般に通用すると認めてないだろう? それに、「у」がねえ。どうもこれも江川さんの重いコンダーラのような気が・・・それにしても、安岡さんの訳も持って回って、うーむでござる。「彼(バックル)の論理によればそういうことになるようだ」でいいんじゃないの?

まあ、どっちが間違ってるにしても、誤訳は誤訳なわけ。これ一箇所ですむわけじゃなし、わたくしがいままで書いてきたこともいくつかは当たってるだろうし、だれも言わないみたいだけれども、これはほっといて、あれはぎゃあぎゃあってのはどういうわけか?って訊きたいですねえ。

いまさら、ちまちました誤訳をつっついてもしょうがないかもしれないけど、それはそれなりに語るところもあるわけで、次回はそんなところでお茶を・・・

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2009年9月27日 (日)

地下室とは自意識のことか?

だいぶ間があいてしまいました。まあ、いろいろあって。ああ、そんなことは誰も興味ないね。ふむ、書く時間がないわけでもなかったんだけど、なかなか。ひょっとして、書けないのは自意識のせいだろうかなどと、自問自答・・・なんか、しやしないやね。

〈 ハ、ハ、ハ!、キミにも自意識が芽生えてきましたね。それはいい。知性の発達の兆しですよ・・・

なんてね。ふん、残念ながら、わたくしめの知性はいまだ未発達のようで・・・しかし、他人なんかは二義的なもの(だって、敵も悪意もすぐに雲散霧消しちゃうんだから)であり、誰よりも自分自身が自分自身に対していちばん厳しいことを意識しているひとの(いや、これはもう僕の話ではござんせんが)、そこから自身を救い出そうとする試みは、もっとも理解をたまわりたい訳者さんに、根性のねじけた男だの、自意識過剰の自己運動だのと一言で片付けられた瞬間に失敗に終わったのかもしれませんねえ。

〈 ヤロー、あてつけ半分にびくびくしながら書きやがって!

ってか。あ、これはもう、僕におっしゃってくださるのなら結構ですが・・・ あのお、言葉の定義の問題とか言われると困るので、もう一度自意識とはなにか、確認しておくと、江川さんは「他者の意識に映る自己を意識すること」と明確に定義されているし、また、特に説明もなく、わざわざ意識と区別して使われる場合、そのような意味に受け取るのが普通・・・ですよね。だが、それでは意味が通らないところが多すぎる。

〈 もう引用は結構。うんざり。

という声もありましょうが、はっきり言って全部ダメと言っておきたいのでね。Ⅰの4の歯痛のところ。

В этих стонах выражается, во-первых, вся для нашего сознания унизительная бесцельность вашей боли

第一に、このうめき声には、ぼくらの自意識にとってきわめて屈辱的な、諸君の苦痛の無意味さが表現されている〈江川卓訳〉

これはいったいなんです? ぼくらの自意識にとってとは、なんです? 苦痛の無意味さを感じるのにも他人の意識に映さないといけないんですかね? そもそもその場合の他者とは?・・・いやはや、こんな判じ物みたいな翻訳をありがたがっていたとすると、おいらもなんもわかってなかったのねえ・・・ちなみに安岡訳は:

このうめき声には、まず第一に、俺たちの意識にとって実に屈辱的なこの傷みの無意味さがにじんでいる。

そうですよねえ。さらに、もう一箇所:

вот в этих-то всех сознаниях и позорах и заключается сладострастие

官能の喜びは、こうした各種さまざまな自意識やら屈辱のなかにこそ含まれている(江川訳)

этих-то всех сознаниях が指すものについては議論のあるところかもしれないが、かりに直前だけとしても、、《そんなにうめいてみたところで、何の利益になるわけでなく、自分をも他人をもいたずらにくたびれさせて、いらだたせるだけなのを、だれにもまして承知している》をして自意識と呼ぶのは無理があるでしょう。安岡訳は:

まさにこうした意識や屈辱の中にこそ官能的な喜びがあるのである。 

そうですよねえ。しかし・・・

しかし、どうして安岡さんはこの章ではずっと「意識」にしていたのに、最後だけ「自意識」と訳したのだろう? なぜ、突然、自意識を持ち出すのだろう?

そもそも自意識のある人間に、少しでも自分を尊敬することなんてできるだろうか?

Разве сознающий человек может сколько-нибудь себя уважать?

そこまで積み上げてきた話はどうなっちゃうの?って感じ。だって、これは続く5章で言い換えられている

屈辱感の中にさえ快楽を見出そうとしたような人間に、たとえわずかでも自分を尊敬することなど、いったいできるだろうか?

屈辱に快楽を見出す、というのは、まさしく4章全体で語っていたことでしょ。そこで「意識」と訳していたなら、当然・・・

いや、ほんとに、すべて「意識」に変えてもらいたい。そう思うの、ほんとにわてだけ? いや、わたくしが間違っているなら、それはもう、万事オーケー君、ワンワン、なのですがね、どうもそうは思えない。と、すると・・・いや、仮に、ヘヘ、仮にね、こちらの指摘が当たっているとすると、丹念な読みよりも思い込みが支配している翻訳ということになる。読んでてなんだかわからなくても、それが正常かもしれない。わかった気になっていたら、誤解かもしれない。大本をつかんでいないとすると、細かいところだって怪しいですよ。たとえば、Ⅰの4が歯痛の話になったのはなぜか? それが誰からなげつけられているのかわからない侮辱、嘲笑(вот от этих-то кровавых обид, вот от этих-то насмешек, неизвестно чьих)の例だからだ。つまりそれは、Ⅰの3の最後の部分とつながっている。

だいたいがこいつは、いかさまカルタ師がよくやる札のすり変えみたいなもので、どこかにペテンが仕組まれているのだ。なに、こいつは要するにただのどぶ泥で、何がなんだか、だれがどうだか、わかったものじゃないのだ。それにしても、こうわけがわからず、インチキだらけのくせに、痛むことはやはり痛みやがる。(江川訳)

ここにあるのは、すり替え、ごまかし、いんちき、いや、単なる得体の知れぬ戯言で、何が何だか、誰が誰だかもわからない、と・・・・・・。しかし、こうしてすべてが正体不明にもかかわらず、それでも痛むのだ。(安岡訳)

すり替え、ペテンだから、「何がなんだか・・・」が良いとお思いかもしれないが、(わからないこととインチキはнесмотря на все эти неизвестности и подтасовкиと、並立していて)、ここ、неизвестно что и неизвестно ктоは、対象が見つからないことを示すもの(何かわからない、誰かわからない、というだけのこと)で、「何がなんだか、だれがどうだか、わかったものじゃない」とは、明らかに意味が違う。まったく! 話の流れに乗ってないじゃないか! ・・・と、力を入れるほどの話じゃなかったね・・・まあ、すり替えとは何のことか、とか、はっきりしないことも多いけど・・・

あれ、地下室とは自意識のことか、という話にしようと思ったんだっけか・・遠く離れてしまいました・・・ 

    

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2009年9月10日 (木)

自意識過剰3

要するに、考えてばかりいるから何もしないのを、人の目を気にしてばかりいるから何もしないのと取り違えているんですよ、意識を自意識と訳すお方は。「ぼく」がさんざ、意識が強いのは、頭が弱いの反対だって言ってるのにさ、ちっともわかってやらないんじゃさ、立つ瀬がなかろう。というより、致命的誤解・・・怖い怖い。

全体を通して意識の話と言ってもいいくらいなのに、それが自意識の話だってんだから。それが何十年も通用しちゃってるってんだから(改版で変更されていたらごめんなさいよ)。結果は・・・正直、別の小説でしょ。筋はほとんど同じでも、精神が違うんだから。

だいたいさあ、自意識が無限の自己運動、するかなあ・・・向こうに鏡はあっても・・・まあ、いいや、こういうわからん話はしないほうが無事。忘れて忘れて! もうひとつ、意識に関する大事なところを引用してみやんしょ。もう江川訳には我慢できないので・・・というか、ここは、どういうわけか(失礼!)安岡訳、意識が意識と訳されているので。第Ⅰ部の9の終わりのほう。ちょっと長いんざんすが:

ところで俺は確信するのだが、人間は本物の苦しみ、すなわち破壊や混乱を決して拒みはしない。なにしろ苦しみといえば、これこそが意識の唯一の根拠なのだから。俺は初めに、意識こそは人間にとって最大の不幸であると述べたが、実は人間は意識を愛しており、いかなる満足を与えられてもそれと交換するつもりはないことを知っている。意識は、例えば二、二が四なんぞに較べたら限りなく崇高なものだ。二、二が四の後には、もちろん何も残りはしない。為すべきこともなければ、認識すべきこともない。そのとき出来ることと言えば、ただ己の五感を閉ざして、瞑想に耽るだけだ。意識の場合は、たとえ結果は同じことでも、やはり為すべきことはなにもないとしても、少なくともときには己を鞭打つこともできるわけで、なんと言ってもこれで少しは活気づくのではないか。(光文社古典新訳文庫70ページ)

幸福にしろ、苦しみにしろ、それを求める自由な意志、あるいは気まぐれの源泉は意識であって、こういう場合に自意識を持ち出すのは鍛冶屋さんじゃなくてもトンテンカンだと思うんだけど、江川氏、全部、сознаниеを自意識と訳してるのよねえ。あーたねえ、たまには二、二が五もいい、なんてのは自意識のなさることじゃないでしょ。まあいい、これだけの見解の相違だ、何を言ったって・・・

書いてある通りに読めば、まず、二、二が四とсознаниеは相容れないものらしい。二、二が四の後には「認識すべきこともない」のだ。すなわち、意識の出番はないってことじゃないか。だから、「五感を閉ざす」ことになる。意識の外界とのつながりをね。

そして内面は・・・「瞑想」と訳された言葉、созерцаниеは、覚えておいでだろうか、スメちゃんが考え事をしているときに使われた単語だ。『カラマーゾフの兄弟』第3編の6 スメルジャコフより。

かりに人相学者がそんな彼の顔をのそきこんだら、物思いも考えごとも彼はしていない、なにか瞑想にふけっているだけだと答えたことだろう。(亀山訳339ページ)

物思いも考えごともしていないで瞑想している、とはひどく難しいが・・・瞑想というとなんだかかっこいいが、созерцаниеとは、пассивная самоуглубленность в свой внутренний мир; мечтательность。内なる世界へ流されて夢を見ているような・・・「もしも彼の背中をとんと突きでもしたら、彼はぎくりと身をふるわせ、まるで眠りから覚めたように相手の顔を見るだろうが、そのじつ何も理解していない」(『カラマーゾフの兄弟』より)ということであれば、つまり、普段の意識はお休みの状態・・・

と、強引に締めくくれば明白なように、どう考えても「意識」のお話。自意識は引っ込んでてもらいたい。

早い話が、かりに、全編に自意識が満ちていても、一行一行、自意識が支配しているとしても、自意識の話をしているとは限らない。あったりまえだあな。それに、文章のウラに見えているのは自意識というより自尊心のような・・・

それに、他者の姿を借りているのは、そこに自分を映す鏡をみる自意識ではなく、「一つの疑問が生ずると、そこへまた山ほどの未解決の疑問を呼び寄せてしまう」(第Ⅰ部の3 安岡訳24ページ)意識だろう。なにしろ、

諸君、誓ってもいいが、今書き散らしたことのうち、なに一つ、一語たりとも、俺は信じていないんだ! いや、そうじゃない、俺はたぶん信じてもいるのだが、同時に、なぜだかわからないが、自分がどうも下手な嘘をついているのではないかと、疑っているのだ。(第Ⅰ部11 安岡訳76ページ)

とくるからねえ。まさに意識━疑惑と否定━苦悩。これはもう、自身の問題。ひとがどう思うか気にしてる場合じゃないぞよ。であるからして、 

きみの言いぐさは、なるほどひどくくどくて、あつかましいが、そのくせきみはびくびくものじゃないですか! きみは無意味なことを言って、それに満足しているし、あつかましいことを口にしては、内心、それが気にかかって、わび言ばかり並べている。こわいものなしだなどと大きな口をたたきながら、ぼくらの意見におもねることも忘れない。(第Ⅰ部の11 江川訳56ページ)

といっても、自らを揶揄してるだけだし、誰も恐れちゃいない。つまり、

だいたい、人間は何をいちばん怖れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それを恐れているんじゃないか(『罪と罰』より。江川訳13ページ)

それで、

たしかにきみにも何か言いたいことはあるのだろうけれど、恐ろしくて、その最後の言葉をかくしている。それも、きみにそれを口に出すだけの決断がなくて、臆病な厚かましさしかないからだ。(第Ⅰ部11 江川訳57ページ)

これは、仮想の他者や、その向こうにある世間を恐れているのではなくて、もっと大きなもの、たとえば、真実を恐れているのだろう?・・・

なにやら支離滅裂になってきたという噂が・・・ありますかな?・・・しかし・・・いかに「ぼく」の日常が自意識過剰であろうとも、第Ⅱ部に描かれる行為が自意識の表れであろうとも(とはいえ、よく読むとそこには別の面も見えているのだが)、第Ⅰ部の主役は自意識ではなく、意識である。

まあねえ、江川先生の反論を聞くことはできないんだから・・・でも、前に江川訳は優れているなんて、そんな判断をする能力もないくせに書いたことがあるような気がするけど、撤回、断固撤回、いや、とりあえず撤回、かな。こちらの誤解なら実にめでたい話だが、いや、悪い冗談としか思えない。と、いったところで、おまけ。上に引用した江川訳57ページのつづきを安岡訳で(78ぺ^ジ):

おまえは自意識がご自慢だが、二の足を踏んでばかりいるじゃないか。それというのも、おまえは頭は働いても、心が悪徳で曇っているからだ。清らかな心なしには完全な正しい意識はありえないものだと。

なんなんだ、いったい! 自意識がご自慢とは。それだけ取り上げてもかなり妙だが。この、Вы хвалитесь сознаниемは、明らかに、初めのほうの「意識は病気」、「病気を鼻にかける」と対応しているのだろう? そして、その後の意識と知性を絡めた話と、え? ここにも「頭は働いて」ると書いてあるじゃないか。そのうえ、一つの文章(原文は一つ)の最初で自意識と訳しといて、最後は意識とは・・・おんなじものを話題にしてるに決まってるんじゃないの? もう何が起っているのか、想像もつかない・・・  

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2009年9月 3日 (木)

自意識過剰2

前回のおさらい。甘い言葉遊びに酔って「意識」を「自意識」に矮小化するなということ。具体的には、「ぼく」が行動しないのは、「意識と思索の本質」によるものであって、他者の意識に映る自己をを意識する結果起る、無限の自己運動のせいではないということ。従って、それを根拠とする第Ⅰ部5の一文、

もともと自意識の直系の嫡出子ともいうべきものは、惰性をおいて、つまり、意識的な拱手傍観の状態をおいてほかにない(江川訳)

の「自意識」は「意識」とすべし、ということ。原文は

Ведь прямой, законный, непосредственный плод сознания — это инерция, то есть сознательное сложа-руки-сиденье.

で、сознаниеは「意識」。「自意識」は意識的な訳だ。ちなみに安岡訳は

なにしろ自意識の直接かつ当然の生産物は無気力、すなわち意識的に手をこまねいている状態なのだから(光文社古典新訳文庫36ページ)

ありゃー。というわけで、2対1で専門家御一行様の勝ちい! といっても、引っ込みがつかないので、視点を変えて、活動家(やり手)と対比するところをみてみよう。まず第Ⅰ部2に戻って:

諸君、あまりに意識するのは、病気である。正真正銘の病気である。人間、日常生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。つまり、このふしあわせな十九世紀に生れ合せ、しかもそのうえ、地球上でもっとも抽象的で人為的な都市であるペテルブルグに住むなどという、どえらい災難を背負い込んだ知的人間に割りあてられている意識量の二分の一、いや、四分の一もあれば、十分なのである。たとえば、いわゆる直情型の人間とか活動家といった手合いが持ち合わせている程度の意識があれば、それでけっこうやっていけるのだ。(1)(江川訳、一部略)

繰り返しになるが、この「意識」が「自意識」と別物であるのは、諸君、いいんだろうね。日常生活に必要な「意識」。時代、都市環境の影響を受け、知性の発達とともに発達する「意識」。自意識なんてのは、その、ほんの一形態にすぎない。「意識は病気である」が《テーゼ》なら、「意識」は意識して「意識」とするのがあったりまえでしょう、江川さん。わからんなあ。

さて、活動家(やり手)については第Ⅰ部の1にも書かれている。「ぼく」はこんな風に考えている:

умный  человек  и  не  может  серьезно  чем-нибудь  сделаться,  а  делается чем-нибудь только дурак. Да-с, умный человек девятнадцатого столетия  должен и нравственно обязан быть существом по преимуществу бесхарактерным;  человек же с характером, деятель, -  существом  по преимуществу  ограниченным

賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない。何かになれるのはばかだけだ、などと。さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道徳的にもその義務を負っているし、一方、性格を持った人間、つまり活動家は愚鈍な存在であるべきなのだ。(2)(江川訳8ページ)

何にもなれない人間:賢い←→活動家:ばか、というわけ。十九世紀の賢い人間というのだから、この後に書かれる、つまり、上の(1)の、病気の人間が既に念頭にあろうよ。愚鈍な(安岡訳:浅はかな)とされたограниченныйの意味は、духовно неразвитый, неумный, недалекий。まさに、умный(賢い)、развитый(第Ⅰ部2の「知的な」)の反意語だ。

余談。ここで「無性格な」と訳されたбесхарактернымだが、「意志の弱い」とするべき(安岡訳は「意気地なし」)。同様にс характеромは「意志の強い」(安岡訳:「いっぱしの強い意志をもった」)。江川さんは、「意地悪でも善良でも卑劣漢でも・・・ない」から、つまり色に染まらないから無性格としたのだろうが、「何かになれる」に意志を見るべきでしょう。ついで:「活動家」も「やり手」のがいいかも。

そこで、第Ⅰ部の3。直情型の人間や活動家は壁にぶつかると云々、そういう直情型の人間こそ、本来の意味での正常な人間、慈母のごとき自然がかくあれかしと願ったような人間云々、こういう人間は頭が弱い云々、そして、

もしかしたら、正常な人間はもともと頭が弱いはずのものかもしれない(江川訳16ページ)

正常な人間はばか、すると、諸君、その反対は・・・自明。まさしく(2)の賢い人間、(1)の知的人間、少なくとも四倍の意識があると推定される人間。ここに、「自意識」がつけこむ余地は・・・ない。だって、これだけ同じ意味のことがくり返し書かれているのに・・・しかるに、

たとえば、正常な人間のアンチテーゼ、つまり自然のふところから生まれたのでなく、蒸留器から生まれてきたような、強度の自意識を持った人間をとってみた場合、この蒸留器人間がときには自分のアンチテーゼの前ですっかり尻尾をまいてしまい、強度の自意識を持ちながら、すすんで自分を人間ではなく、一個のねずみと思いこんでしまうようなことがあるからなのである。(江川訳)

「強度の自意識を持った人間」はчеловека усиленно сознающего、「強度の自意識を持ちながら」はсо  всем  своим   усиленным   сознанием。いずれも、「意識」でいいはず。「自意識」と訳すべき根拠は何もない。なぜだ?

しかも、それなら、このあとのусиленно сознающая мышьを「強度の意識を持ったねずみ」と訳すのはなぜなのか? さっぱりわからない。

諸君は大したことじゃないとおっしゃるかもしれないが、いや、状況を認識すること、またその能力、あるいは思索に関係するもの、すなわち、ある意味知性を表すものと、他者の意識に映る自己を意識することとを一緒にしてはならない。

なんだか言うのも馬鹿らしいような・・・・まったく、論理もなにもありゃしない。「自意識」は気分だけでしょ。あるいは、ふうむ、こっちが変なのか。あまりのことなので・・・それとも、この訳者さんはあまり意味がわからずに訳してらっしゃるのか・・・意外に全体が台無しかも・・・それについては、まあ、あまり書くこともないけど、次回。文体についても、誤解があるかも・・・  

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2009年8月29日 (土)

自意識過剰

日本語訳の地下室の人は自意識過剰じゃないのか・・・自意識が意識を過剰に占領してはいないか。訳者さんが、主人公の自意識過剰を過剰に意識していないか。ありていに言えば、「意識」とすべきところを「自意識」と訳していないか。

もちろん、意識が自己に向けられている場合は自意識でいい。主人公が自意識過剰であることも認めよう。しかし、あまりに自意識を意識することで、意識は病気であるという名言を歪めていないか。狭めていないか。江川氏の翻訳とあとがきから、そのような疑問をいだくのである。

ドストエフスキーはこの「絶望の分析」において、おそらくは前人未踏の境地にまで到達した。「意識は病気である」というテーゼを、彼は文体そのものによってさえ表現している。(江川氏あとがき)

いや、その通り。しかし、江川氏の意識は早くも、意識は病気、から、自意識そのものに移ろうとしている。

『地下室の手記』一編のモノローグには、おそらく他者を、さらには他者の意識に映る自己を意識していないような文章は、一つとしてないだろう。(同)

いや、これもその通り、ではあるが、しかし、自己が前面に出ることもあれば、底でじっとしているようなこともある意識の微妙なところを、どうやら無視しようとしているようだ。かくして、

かくして意識は、二枚の合せ鏡に映る無限の虚像の列のように不毛な永遠の自己運動をくり返し、ついになんらの行動にも踏み出すことができない。(同)

すばらしい表現とうなるほかはない。だが、一直線の飛躍である。よくあるやつだ。都合のいいところをつまみ出して、結びつけて、美しく飾ってみたものの、それは虚像にすぎない。行動を押しとどめる、論理の無限連鎖に陥る意識と、自意識とは同一ではない。書くという、自己をあらわす行為と、その中に描かれる一般的な行為を混同してはならない。

言葉の定義の問題に関わるのでсознаватьー「意識する」がどのように使われているか、第Ⅰ部の2から少し例を挙げておこう。

いったいどうしたわけで、ぼくはあの瞬間、つまり、一時期、わが国でよく使われた《すべての美にして崇高なるもの》の微妙なニュアンスをあまさず意識するのに最適となるあの瞬間に、まるでわざとのように、それを意識するどころか、あんな見苦しい行為をしでかす羽目になっているのだろうか?

ぼくの場合には、いまだけは絶対にすべきでないと固く意識している折も折、まるでそこをねらったように、おのずと出てきてしまうのだ。(いずれも江川訳)

どうやらこれらの「意識する」は《普通に「意識する」である》、もしくは、《日本語の「意識する」にきわめて近い》ものであって、自己を意識するときだけに使われる言葉でないと言ってかまうまい。名詞のсознаниеも同様。「意識」であって、「自意識」と訳すにはそれなりの大義名分を必要としよう。

そこで、いまの引用部分の少し前、最初に意識が描写されている部分にかえってみよう。

誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。(江川訳)

いわく、ペテルブルグに住む知的人間の意識の四分の一、いわゆる直情型、活動家程度の意識で十分だそうな。知性と意識がカップリングし、活動家(やり手)と対比されている。ここでの「意識」は明らかに自意識ではなく、認識能力とか思索するものに近いものだろう。そもそも、自意識過剰は、はなから病的であって、「《テーゼ》」になりはしない。ああ、こりゃ余計でしたか。ふむ、そして、《テーゼ》というほどのものであるとすれば、ことさらに「意識」という時には、ここで意識された「意識」でなければならないだろう。

ひとつ、第Ⅰ部の5の後半をごらんいただきたい。行動における「やり手」と「ぼく」についてである。かいつまむと、

活動家が行動的であるのは、愚鈍で視野が狭いためであり、それで、二義的原因を本源的なものと取り違え、自分の行動の絶対的基礎を見つけたと思い込み、何の疑点も残らないからである。一方、「ぼく」は、

さしずめ思索の訓練を積んでいるから、どんな本源的原因を持ってきても、たちまち別の、さらにいっそう本源的な原因がたぐり出されてきて、これが無限につづくことになるだろう。そもそもあらゆる意識ないし思索の本質はまさしくそういうものなのだ。(江川訳)

愚鈍の対極にある、思索を支配する意識について、明確に説明する箇所である。合せ鏡がなくとも、行動に踏み出すことはできないようだ。が、それはいい。問題は、ここで「行動」の話に立ち至った原因だ。「ぼく」がなぜ「行動しないか」という話はどこから出たか? 「ぼく」が退屈だった、惰性におしつぶされていた、というところからだ。「活動家が行動的であるのは」の直前の文章を引用すると、

ところで、それがみな、退屈から出たことなのだ。諸君、退屈のなせるわざなのだ。惰性に押しつぶされたのだ。もともと自意識の直系の嫡出子とも言うべきものは、惰性をおいて、つまり、意識的な拱手傍観をおいてほかにない。(江川訳)

さて、どうだろう、拱手傍観、すなわち行動しない理由が後に示されたもの(つまり上記のこと)だとすると、惰性の直接の親が「自意識」でなく、「意識」であるのは明白じゃないか。

さて、今日はこの辺にしておこう。僕がとんでもない勘違いをしているなら、誰か指摘してくれたまえ。残りを書く前に・・・ふむ、江川さんも安岡さんもだが、知性と愚鈍の対比を軽んじているのは、お二人が「知的なやり手」だからだろうが、そういうところにも、翻訳の限界はあるのかなあ。

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2009年8月21日 (金)

ある疑い

引き続き、地下室の手記ですけど、フム、江川さんにだまされたなんて、前回書いちゃったけど、もちろん、それは、そのお、いい意味であって、おかげさまでバカなあたしにもなんとか読めたってこと・・・にしておこう・・・かな。とはいえ、なんか、わかったような気にさせられちゃっているけど、本当のことを言うとなんだか変だなあってなところは結構いっぱいあって、それは、まず第一にあたしの物分りの悪いせい、でなけりゃ主人公のねじけた性格〈ホントかなあ〉のせい、でなけりゃドストエフスキーの物言いが妙なせいということなんざましょうけど、もしかしたら・・・もしかしたら、訳者さんが本当はよくおわかりじゃないのに、わからないなりになんとか筋の通るようにしちまおうとしてるんじゃないかという疑念が、チラと、チラと・・・いや、具体的にどこがそれじゃい、と訊かれると困るんじゃがの、というのも、もともと、わかりにくいことを言ってるのも確かであり、きっぱり間違いを指摘するのは難しいからでして、そこで、ひとつ、ピントはずれかもしれないけど、こんな例から。第Ⅰ部の3。

しかし、じつをいえば、この冷やかな、身の毛もよだつような絶望半分、希望半分の状態、つまり、やけくそ半分にわれとわが身を四十年間も意識的に地下室に生埋めにした事実、こうして強引に作りだしはしたが、まだいくぶんは眉唾なところを残している八方ふさがりの自身の状態、さらにいえば、内攻した欲求不満のやり場のない毒素、永遠不変の決断を下したと思うまもなく、たちまち悔恨に責められねばならない、熱病にうかされたような不断の動揺──これらいっさいのなかにこそ、ぼくが言ったあの奇妙な快楽のエッセンスが含まれているのである。〈新潮文庫三刷 18-9ページ 江川卓訳〉

ひとつは、「強引に作りだしはしたが・・・」のところ。

в этой усиленно созданной и все-таки отчасти сомнительной безвыходности своего положения

こうして強引に作りだしはしたが、まだいくぶん眉唾なところを残している八方ふさがりの自身の状態〈江川訳)

こうした懸命に創り上げた、それでいてどこか疑わしい己の絶体絶命状態〈光文社古典新訳文庫初版第1刷 26ページ 安岡治子訳)

「強引に」と「懸命に」ではずいぶん印象が違う。懸命に創り上げた絶体絶命状態、とは、自身に対する皮肉ならともかく・・・というようなことを言いたいのではない。強引にしろ、懸命にしろ、そのように作りだすというのが、どうもしっくりこない、ってな気がしない? 自身をネズミと考え、侮辱に対する恨みを募らせ、とはいえ復讐に正義をみることはできず、疑問ばかりが山積みとなり、結局すごすご引っ込んで、悪意と屈辱感を膨らませ・・・なんにしろ、強引、あるいは懸命に創り上げているとはどうも思えない。

Concordances of The Complete Works of F. M. Dostoevskyで、その部分をみると、усиленно созданнойではなく、усиленно-сознанной〈強く意識された)になっている。発表当初はそうなっていたということである。その後変えたということもありうるが、そんな地口のような変更をするだろうか。それに、「強烈に意識しているとはいえ、それでもやはりどこか疑わしい」のほうが意味もわかりやすかろう。さらに、усиленно、усиленныйはこの小説に、この部分を除いて7回ほど登場するが、第Ⅰ部の5で「しつこく」の意味で使われている以外はすべて〈見逃しがなければね)「意識」「意識する」を形容するのに用いられている。

というわけで、усиленно-сознаннойのほうがいいと思うのだが・・・ほかにそうなっているテキストを見つけられなかったのでね・・・強くは言えないのですが・・・仮にусиленно-сознаннойが正しい〈つまりナウカ版とかは誤植だ〉とすると、どうなる? 先生方はもともと間違っているものを懸命にお訳しになって、それで意味が通っているとお思いになってるってこと。そういうこともあるのだとすると・・・

いや、たしかにさ、元の文章もわかりにくいところがある、構文の違いで日本語にしにくいところもある、でも、でもさ、もしかしたら、もしかしたらさ、訳者さんが余計にわかりにくくしているところもあるんじゃないかという疑念が、チラと、チラと・・・えーい、どこがそれじゃいって訊かれると困るんじゃがの。シランプリして上の所からもう一箇所。

во всей этой лихорадке колебаний, принятых навеки решений и через минуту опять наступающих раскаяний

永遠不変の決断を下したと思うまもなく、たちまち悔恨に責められねばならない、熱病にうかされたような不断の動揺〈江川訳〉

激しく動揺したかと思うと永遠に揺るぎない決心をし、その一分後には再び後悔の念に苛まれるという、こうした熱病状態の中にこそ〈安岡訳〉

ま、これはどうみても、колебаний(動揺),  решений(決心),  раскаяний(後悔)が同列に並んでいると考えたほうがよさそう。つまり、後ろの二つが並列でколебанийにくっついているという江川訳は魅力的だが残念ながら・・・かなあ。構文は安岡訳のほう。ただし・・・激しく動揺の、激しくってのはどこからきたのかね? ないと調子が出ないから? そんなことしていいのかね? ・・・とか言ってますが、実は「動揺」に疑問がね。

колебаниеは揺れることなんだけど、ちょっと「動揺」と違うようなんさ。いや、江川さんのように、決断と悔恨の間で揺れるというような動揺ならいいかとも思うんだけど、「激しく動揺したかと思うと」、なんてときに使うのかどうか・・・

колебаниеが心の揺れを表す場合、それは、「ためらい」とか「不決断」(нерешительность)のことらしいですよ。すると・・・ねえ、明快でしょ、ためらい、決心、後悔。それが繰り返される。

ふうむ、激しく動揺ってのは、どこから来たのかなあ・・・

ま、今日はこんなところで。ですがね、こういう小説こそ、訳者さんの話の持って行きかたで、こっちゃの理解が大きく左右されるんじゃないかと。たとえば、なんだかさ、日本語訳の主人公は必要以上に自意識過剰なんじゃないかと思うんだ・・・フム、文字通りにとってもらっちゃ困るけど・・・いや、文字通りなのかな・・・まあ、気が向いたらそれについてもいつか・・・

ところで、安岡さんは増刷の際に修正を入れているだろうか? 指摘の声は届いているだろうか? たとえばごくつまらないこと。44ページ、「なにしろあんた方は、私の知る限り」、45ページ、「私の友人というのは」とか。え、そんなのはどうでもいい? まったくだ。しかし、冒頭の「ねじけた根性」なんてのは何があろうと絶対に変更されないだろうからなあ。え、あれがいい? しょ、諸君・・・はあぁ・・・

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