2006年9月14日 (木)

ある無神論者の話

さて、「神がなければ何をしても許される」といった場合、「許す」のは誰なのか。社会や他人ではないとすると、ラスコーリニコフの言葉を借りれば、「自らの良心に照らして」ということになる。しかしそれだって善悪の絶対基準がない以上、相対的良心、社会的良心にほかならず、言ってみれば「人が神になる」式の実態のない、「単なる言葉」にすぎないことになる。ま、許すも許さないもない、というか、それが「できる」存在がない状態だが、ドストエフスキーはそんなことは百も承知でわかりやすいところから話を展開させたのである。勘違いしてこれがドストエフスキー究極の思想である、などとのたまう方もあるようだが。

ここで、カッコつき、といった体で前回のことにちょっと触れておこう。「神がなければ」を「無神論者の立場からすると」に変えると若干ニュアンスが異なる。ここで、この無神論者は真理のうちにある必要はないからである。自らの思想を広めることを善と考え、また、社会が許さなくとも歴史が許すと想像する、そんなおめでたい無神論者からすると、邪悪な行為も最も不可欠な、最も賢明なことになると認められるであろう。

さて、別の角度から理解するために「本願誇り」について考えてみよう。あの「善人なおもて往生す」ってやつである。当然、「念仏さえ唱えていれば何をしてもかまわない」(これを本願誇りというらしい)と考える者が現れる。(なにやら似たような話を選んだのはいろいろ考える手がかりになれば、と思うからである。)この宗教の場合、本来は悪行は業縁によるものであり、悪も、あるいは念仏を唱えることすらも、あえて自らなしうることではなく、「何をしてもかまわない」などとうそぶくやからを恐れるはずもない。が、しかし嘆かわしいのは確かであり、というのもなされる悪ゆえではなく、それも業縁と言い切ることに直感的疑問を生じるからである。

ふむ・・・例によって何の説明にもならぬ世迷言になってきたが・・・要は、善と悪、審判と救済、そして何より、「何をしても許される」という以前に、いったい人間に「何ができるのか」という点に思いを馳せてから小話に移ろうと思ったのだ。しかし、枕が長すぎたかなあ。実は話が始まってもまだ枕が続くんだ。この辺で切らないと誰も落ちまで読んでくれないかな。まあいいや、どうせ大した話じゃないんだ・・・

時代も場所も不詳としておこう。この話の主人公は無神論者といってもイワンのアネクドートにでてくるような筋金入りではない。いや、それどころか本当に無神論者かどうか怪しいし、無神論の意味さえわかっていないかもしれない。(実は無神論者である必要もないのだが話を少し単純にするためにね。)なに、よくいる奴さ。俺は神も仏も信じねえ、とか言いながら、占いを気にしたり、験をかついだり、要するに世間並み、無神論者としてはありふれたやつだ。だからあまり難しい話にはならないので、諸君、安心してくれたまえ。しかし、ひょっとすると、君たちは難しい話を期待しているのかもしれないが、僕には無理だから。

この男の、いや、別に女でもいいんだが、普通と違う所は、死刑になったということだ。もっとも僕はその処刑を見たわけではないから、それで死んだのかどうかは知らない。つまり、死刑判決を受けたということだ。この男、何をしでかしたかというと、いわゆる極悪非道にしてなんとやら、なことだ。ふむ、ここで極悪非道の定義をするつもりはないが、諸君、裁判官が被告を前にしてやる、あの、被告の犯罪は極悪非道、云々、云々、というやつは、笑っちゃうねえ。羊飼いのリシャールじゃあるまいし、おっしゃるとおりでございます、今こそ私は悟りました、私は悪いことをしたのでございます、それを知って死んでいける私は幸せでございます、なんて言いやしないもんなあ。あれは滑稽、というより余計なことだし失礼だな。だいたい死刑とは何物だろう。一般に、被告の得にはなるまい(たとえそいつが万一のため、南無阿弥陀仏を唱え始めたとしてもだ)。とすると、社会のために死んでいただくんじゃないか。あなたには申し訳ありませんが、私たちのために死んでください、とお願いする立場じゃないのかねえ。それを死んでいく人間にお前は悪い奴だ、ひどい奴だ、ってなんだろ、これも世間向けかい、だとしたらえらくさもしいこった。それに死刑囚を拘束する根拠はあるのか?彼は既に死ぬことが決まっている。従って彼にはこの社会のルールに従う義務はない。彼を抑えているものは単なる暴力だ。まだ人間であるはずのものをもはや人間として扱っていないのだ・・・

ああ、勘違いしないでくれ、僕は死刑反対論者なんかじゃない。僕は何事にせよ、反対するなんてごめんだ・・・しかし、僕のことなんかどうでもいいんだった・・・

ここでこの男の犯罪について書かないのはずるいかもしれない。が、この男の具体像、許されざる行状を知れば、同情の余地なく、さっさと吊るせの声ばかりで彼の言い分など憤激を買うだけだからな。そこで、彼の言い分だが、この男は起訴事実についてはまったく争わなかった。「はい、私がやりました、その通りです、それに違いありません、しかし、

私には責任はないように思うのです。

私はただの転がる石にすぎません。自ら道を選んでいるように見えて、実は岩にぶつかったり、傾斜が変わったりして転がっているだけで、神様が見れば次にどうなるかもわかるはずです。いや、しかし、神様なんていませんよね。そりゃあ私だって夜空の星を見つめながら、俺がいなくなっても、誰も彼もいなくなっても、生きているものなんかなくっても、あの星は回ってるんだと思うと背中をうそ寒いものが通り過ぎますがね、つまり、神秘って言葉が頭をかすめるんです、が、やっぱり昔ながらの神様がいるとは思えません、そうなると人間だって昔と同じじゃいられない、私なんか、いや、皆さんはどうか知りませんよ、でも私は石ころと変わりない、生まれ出た時に私が持っていたのは遺伝子だけですよ、遺伝子だけ。さて、その後私を肉付けしたのは、私にインプットしたのは皆さんですよ、社会ですよ、私の内からにじみ出たものなんかありゃしない、そうでしょ、その結果がこれですよ。さあ、どうです、私は遺伝子のために責任を取らなければいけないんですか、それとも皆さんが教え込んだことのためですか、え、どうです、裁判長、あなたが私の命を取るというのなら、私の間違いを指摘してください。」

まあ、大昔からある犯罪の原因は環境にあるといった理論と大差ない、こんなたわごとだ、裁判長も相手にする必要はなかったのだが、お定まりの言葉の後に付け加えたね。

「仮に被告の理論が正しいとして、被告に一切の責任がないとしても、その理論によればここで私が死刑判決を下すこともまた必然の行為であり、また私に一切の責任はなく、さらに社会にも責任はない。ごきげんよう。」

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2006年8月26日 (土)

神がなければ・・・

「失礼、」思いがけなくドミトリー・フョードロヴィチが突然叫んだ、「聞き違いをしないよう、伺います。いかなるものにせよ無神論の立場からすると、邪悪な行為は許されるべきであるばかりでなく、最も不可欠な、最も賢明なことになると認められる。そうなのですか、そうじゃないのですか?」

「まったくその通りです」とパイーシイ神父が言った。

「覚えておきます。」

(カラマーゾフの兄弟・第一部・第二巻・第六章どうしてこんな人間が生きている!より)

ま、いまさらねえ、僕の人生に、こうして現実に生きていることに神様なんか関係ないし、多くの諸君にとってもそうだろう。しかしその一方、ほんのわずかでも知的な活動をしようという時に、神も魂も、そんなもなあ存在しませんよ、などと公言するほどおめでたい頭脳を僕は持ち合わせていない。いや、それどころか、何か「意味のある」ことを語るには神の問題から始めなければならない、と僕は思うんだ。たとえば、転がる石が、ただの転がる石であるならば、満足できない、と叫ぶことすら何だか滑稽だからね。

しかし、この問題は何と言っても僕の現実とは乖離しているのだから、本の中のことから話を始めるのが無難だろう。さて、そこでミーチャの言葉だが。

ご存知のように日本語の構文は多くの外国語と違っている。上のドミトリー・カラマーゾフのセリフ、(いかなるものにせよ無神論の立場からすると、邪悪な行為は許されるべきであるばかりでなく、最も不可欠な、最も賢明なことになると認められる。)をロシア語の原文の語順に少し近づけてみよう。日本語にはならないが、どんな感じか見ていただくため。

邪悪な行為はただ許されるべきであるばかりでなく、また認められる、最も不可欠な、最も賢明な結果として、立場から生ずる、あらゆる無神論者の。

さて、してみると、初めの方の文はただ訳が下手なばかりでなく、後者とは別の意味になってしまうことがわかる。すなわち、文頭で「無神論の立場からすると」、と宣言してしまうと、その時点で、文意からして「邪悪な行為」は存在しなくなってしまう。これはもう、「我思う、ゆえに我あり」の最初の「我」はどこから来たんだ、式の難癖に近いかもしれないが、物事、厳密に考えないと見えてこないものもある。そこで、さらに着目すべきは「許されるべき」という言葉であり、許す主体はいったい何だろう?これが肝心なところだ。その意味によって後者の文は幅広い解釈が可能になる。どうか諸君、その辺をちょっと考えてみてくれないかね。

それで、もしよかったら、次回は一つ小話でも披露しようかと思うのだが・・・

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