2009年12月31日 (木)

フョードルさんは頭が悪い?

萩原さんのブログ、『こころなきみにも』の亀山訳『カラマーゾフの兄弟』批判ですがね、あまりにもミスが多い。ご本人はご自身の「批判」について、冗談のおつもりか、「亀山訳みたいにデタラメなのは困るが、少しぐらいはミスがある方がいいだろう。人間だもの。おまえは相田みつをか」とおっしゃっているが、こんなジョークは百三十億年早い。それくらいミスが多い。それも重大なミスが多い。ありえないミスが多い。亀山批判派の人達だっておかしいと思うにちがいない。なぜ指摘してあげないのだろう。いやはや、まったく奇怪なことになってきた。前回までに挙げたミスもかなりひどいけど、12月21日の記事「致命的なプロットの誤訳」にも驚いちゃった。でね、それより前の記事についても言いたいことがあったので書くつもりだったんだけど、予定変更、明瞭な方を先にね、しましょか。まあね、あちらは大学の先生で、こちらはいつまでたってもドの付く素人だからね、皆さんが信じてくれるかどうかわからんけど、へたくそな説明を試みることにしましょ。

まずは「致命的なプロットの誤訳」にある萩原さんご自身が翻訳されたもの、【試訳6】というのを引用させていただく。(亀山批判についての話だから、亀山訳も並べるべきなのかもしれないが、ややこしくなるので、とりあえず萩原訳を)

 【試訳6】

 第一部 第一編 ある家族の歴史

 1 フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ

 アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフは、わが郡の地主フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの三男だった。この父親のフョードルというのが、当時(今もまだ私たちの記憶に生々しいのだが)、その謎に満ちた悲劇的な最後によって人に知られた人物なのである。その今からちょうど十三年前に起きた事件については、話すべき時が来れば話すことにして、今はただ、この「地主」(そう呼ばれてはいたが、生涯を通じてほとんど自分の領地に居たことはなかった)が、変わったタイプの、しかし、けっこうよく見かけるタイプ、つまり、どうしようもない助平オヤジであるというだけではなく、とことん頭のわるい人物だった、ということだけ述べておこう。もっとも、自分の財産のこととなると──どうやら財産のことだけだったようだが──じつに賢く立ち回ることができた。たとえば、フョードル・パーヴロヴィッチはきわめて貧しい地主で、ほとんど無一文からその人生を始めたのだが、人様の食卓を駆けずり回ったり、居候の口を狙ったりしたりしながら人生を終わってみると、十万ルーブリにも及ぶ現金を残していることが分かった。それなのに、彼は生前、わが郡全体において、もっとも頭のわるい半ば狂人のような人物の一人として生涯を送ったのだ。繰り返すが、ここに見られるのは愚かさではない。この種の狂人のような人物の大半は十分賢明で狡猾なのだ。つまり、その頭のわるさは、何か特別な、わが国民に特有の頭のわるさなのだ。

さらに、萩原先生のおっしゃる「致命的なプロットの誤訳」に関わる部分(どうしようもない助平オヤジ以下の一節に間して)の萩原先生の主張を引用する(たくさん引用しちゃってすいませんねえ)。

また、「ろくでもない女たらし」というのがすでに「分別がない」人物ということだから、このふたつを「ばかりか」でつなぐのは変。意味の重複しない言葉を「ばかりか」でつながなくてはならない。というか、そもそも「分別がない」というのが誤訳。ここでの"бестолкового"は「分別がない」という意味ではなく、「頭がわるい」という意味。また、こう訳して初めて後続の文との因果関係、つまりプロットが明確になる。その明確になったプロットによれば、後続の文は、「頭がわるい」くせに「自分の財産となるとテキパキと処理できる」という意味になる。

 拙稿「ドストエフスキーと「最初の暴力」──外国語の他者性と催眠術としての物語」(前出)でも述べたように、小説の翻訳では等質的なプロットを外国語から母国語にできるだけ正確に移すのが訳者の最大の使命になる。これからも次々に明らかになることだが、亀山は翻訳者のこの使命にあまりにも無自覚的すぎる。というか、自分を売り出すことしか考えていないので原作をおろそかにし、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳でもしばしば等質的なプロットを母国語に移しそこねている。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』に見られるおびただしい誤訳もさることながら、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』のもうひとつの、そして最大の欠陥はプロットの誤訳にあると言ってもいいだろう。訳者がプロットを誤訳すると、読者は作品の筋を追ってゆくことができなくなる。拙稿「ドストエフスキーの壺の壺」(前出)でも述べたように、ドストエフスキーのポリフォニー小説のような、プロットに無数の穴があり、それを読者が埋めてゆくところに最大の醍醐味がある小説にとって、亀山訳のようなプロットの誤訳は致命的だ。それはドストエフスキー作品の翻訳として存在する意味がない。

まあ、いったいこれが「等質的」とか「ポリフォニー」とか持ち出す場合なのか疑問に思うが、どうやら萩原先生としては力の入れどころらしいので、たっぷりと引用させていただいた。が、要は、"бестолкового"は「分別がない」という意味ではなく、「頭がわるい」という意味、というだけのことだ。そしてその根拠は、「分別がない」くせに「自分の財産となるとテキパキと処理できる」というのはだめで、「頭がわるい」くせに「自分の財産となるとテキパキと処理できる」でなければならんってこと。皆さんはどうお思い? おいらは「分別がないくせに」でかまわないと思うんだけど。なぜいけないのかな? 可能性1:分別がなければ財産の処理ができない。これはダメ。萩原さんご自身「ろくでもない女たらし」→「分別がない」とおっしゃる。女たらしだって自分の財産の処理はできるだろう。現にフョードルさん。可能性2:分別と財産の処理は無関係。そんなことはなかろう? 分別がなくて財産を築くことができないのはいくらでもあろうよ。

──そうじゃなくてさあ、ってか、そこだけじゃなくてさあ、後ろの方も関係してんじゃないの? ──ふうん、そうですか。でも、萩原さんは、今の所だけでプロットが明確になるって・・・まあいい、まあいい。もち、後ろの方も大いに関係してますよ。すなわち、「繰り返すが、ここに見られるのは愚かさではない」、とあるもんね。ということはだ、萩原訳によると、フョードルさん、「頭はわるいが愚かではない」ってこと。なかなか微妙なニュアンスになってきたじゃないですか。──それにさ、見ろや、「賢明」だってよ! ──わあ、ほんとだ。なるほど、分別がなくて賢明ってのはちとまずいかも。しかしですよ、賢明と訳されたумноを利口とか賢いとか訳したら、また風景が変わりまっせ。そもそもなんですよ、頭がわるくてумноってのはかなり細い道を通ってますねえ。

だいたいそのお、小説の冒頭の人物紹介で「頭のわるい」という表現はどうなんでしょ。「おいらは頭が悪いから萩原先生の難しい話はよくわからん」てな使い方なら頭の悪いおいらにもわかるけど、いきなりフョードルさん、頭がわるいって、これ、穏当な表現なのかしらとまで思っちゃう。それにさ、例の修道院でのフョードルさんのふるまいとか、まあ、その他あれやこれやを見てさ、頭のわるい人っての適切でっか? よほど分別がないのほうがふさわしいでしょうに。

──でも、頭がわるいくせに愚かじゃないから自分の財産云々てのは筋は通ってまっせ。──さよか?おいらは逆の方がわかりやすいけどな。例えばホリエモン(ごめんなさい、堀江さん)。ある意味愚かなところもあるけど、頭悪くないだろ。お金も貯めたし(結局とられちゃうみたいだけど)。まあいいや、そんなことは。「愚か」は辞書をみると「知能の働きが鈍い云々」とある。「愚かな」の主な意味に「頭が悪い」があるってことだ。「頭は悪いが愚かではない」ってのは少し無理がありそう。──いやいや、「ばか」が幅を利かせるようになって「愚かな」はあまり「頭が悪い」意味で使わない、「愚かな」人と言えば、ばかげたことをする人だ、頭の良し悪しじゃない。──ほう。ならば、さっきも書いたけど、フョードルさんはまさしく愚かな人でしょう。狂気の沙汰としか思えないようなとんでもない馬鹿げたことをするけど、頭は悪くない、これなら納得いきますがね。

しかしまあ、ロシア語の原文の表現に、日本語の「頭の悪い」と「愚かな」の違いが含まれているとは、皆さんも思わんでしょ。種を明かせば簡単なこと。萩原さんが「頭の悪い」(亀山さんは「分別がない」)と訳されたのはбестолкового、「愚かさ」と訳されたのはглупостьなんですが、бестолковыйにはいくつか意味があって、その中にглупыйがあるんざます。だから、бестолковыйではあるがглупыйではない、という言い方が可能になる。

それでは、それぞれがどういう意味か、ですね。オンラインのУшаковの辞書を参考にしましょ。まず、бестолковый。一つ目の意味として、Непонятливый, несообразительныйと書いてある。よくбестолковый ученикなんて用例が載っているような意味だ。頭の悪い生徒、わかりの悪い生徒。「頭の悪い」ってのはこういうとき使うんだよね。二つ目の意味としては、Несвязный, неразумный, глупыйとある。これは辻褄の合わないとか理解できないとか、例えばбестолковое письмо(支離滅裂な手紙、とか)なんてふうに使われるもので・・・──待った、ちょおっと待った。ごまかそうったってだめだ。二つ目の最後にглупыйとあるじゃないか! ここではбестолковыйはその二つ目の意味じゃない、従って、「頭の悪い」方だろう。萩原先生が正しい! ──ハ、ハ、ハ。見逃してくれればいいのに。厄介だなあ。それはね、глупыйも意味の広がりを持つから。実はね、глупыйを一つ目の意味の方に入れている辞書もあるんだ。そっちで考えた人は、例えば、萩原先生が批判しておられる小沼さんのようにбестолковыйを「とりとめのない」と訳したりすることになる。

ではどちらが正しいか?ですよね(もっとも、あのお、別に、わたし、「とりとめのない」がいいとは申しませんのでね)。そこで、глупыйも調べてみましょ。同じウシャコフさんので見ないとね。глупый、一つ目はС очень слабыми умственными способностями, лишенный сообразительности, ума; не обнаруживающий ума. 知的能力がおっとろしく劣る云々かんぬん。要するに頭の悪かことばい。用例:Глупый человек. Глупая девочка。頭の悪い人。ばかな娘。よろしい? 二つ目: Бестолковый, неумный, неразумный (о словах, поступках)。なんとまあ、最初に、бестолковыйだってさ。辞書であっちを見たらこっちを見ろ、こっちを見たら・・・ってのはよくあるけどね。ただ、これは明らかにбестолковыйの二つ目の意味ね。そして、()内を見たまえ。発言、行為について言うってことだ。Глупая затея. Глупое поведение:愚かな企て、馬鹿なふるまい、とか。

まあ、おいらのように頭の悪い人がほかにもいるかしれんので、繰り返すけど、Глупый человекみたいに人を形容するときはглупыйは「頭の悪い」。(ついでに言えばその反意語がумный。賢明というより頭の回転がいいんだな。もう一つついでに言えば、ドストエフスキーはここでは「頭の悪い」と「愚か」を区別してなさそう)。萩原先生は根本的に間違っているんじゃないかな。

もう一度бестолковыйに戻って、ほかの方がどんな訳語をあてているか見てみますと、米川さんは「わけのわからない」、原卓也さんは「常識はずれな」、原久一郎さんは「不得要領」(甚だ怪しいわての記憶ですので)、小沼さんは「とりとめのない」、亀山さんは「分別のない」、ガーネットさんは「senseless」と、皆さん、二つ目の意味、「頭の悪い」でないほうの意味でとらえている。多数決でこっちの勝ちい! ってわけにはいかないやね。

整理するとこういうこと。бестолковыйには(1)の意味、(2)の意味がある。(1)であるとすると自分の財産を処理できない。これらが前提。だから原文の意味は、フョードルさんはбестолковыйである。つまり、この時点では(1)+(2)。読者はどっちだろうかと思う。あるいは(1)と思っちゃう。そこで、とはいっても財産の処理はできるんだと断りを入れる。そして、「繰り返すと」(1)ではない、「特別な」бестолковыйである、という結論になる。

従って、訳す場合、(1)+(2)に当たる日本語があればいいのだがなかなか難しい。多くの翻訳は、(2)であるが財産の処理はできる、すなわち、(2)であるが(1)ではないと訳している。これを萩原さんは「致命的なプロットの誤訳」と呼ぶ。では萩原訳は? (1)ではあるが財産の処理はできる、すなわち、(1)ではあるが(1)ではないとやってのけたのである! 

えへ、こんな長々とした説明(こういうのをбестолковыйな説明と言うのかな)は必要なかったかな。まあ、「愚か」の方が「頭の悪い」より意味が広いから、「愚か」だけど頭は悪くない」ならいけるのかな? もっとも、プロットも大事だけど、フョードルさんの性格付けも大事だから。「愚か」では原文の言いたいこととはちょっと違うんだろうな。しつこいけど、もちろん、「頭の悪い」はダメ、でしょ?

萩原試訳の終わりの方に、「もっとも頭のわるい半ば狂人のような人物」とある。「狂人のような」というのは、つまり、あの人おかしいんじゃないのって言われるようなことをやってのけるということでしょう。これはどうみたって、「もっとも頭のわるい」より、「わけのわからない」(米川訳)や「常識はずれ」(原訳)の方がぴたっときそう・・・と、わては思うんだけどねえ。ただ、フョードルさんをして「わけのわからんやっちゃなあ」というのは少し表現として弱いかも。最初の「頭のわるい人物」を「常識はずれのたわけもの」、、「もっとも頭のわるい半ば狂人のような人物」を「狂人のような大たわけ」とする、なんてのは、どう?

どうせね、萩原先生には賛成してもらえっこないけどね。だってさ、こっちだって「頭のわるい」なんて訳す先生の感覚がさっぱりワカランのだから。わたくしの考えるところでは、萩原訳の評価は、今回も前回と同様・・・・・  

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2009年12月18日 (金)

アレクセイは『偉大な』人物か?

萩原俊治先生のブログこころなきみにもの亀山訳『カラマーゾフの兄弟』批判を取り上げます。先生の御主張をちゃんと理解するためにはぜひ上記ブログをご覧くださいまし。ここでの紹介に誤解があるといけませんのでね。なにせ先生とわたくしの間には共通感覚なるものが存在しないらしいのであんす!

ぽんじつは、まんず、11月2日分、「アレクセイなんて偉大じゃない」から。下記の亀山訳について。

 著者より

 私の主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフを私の主人公と呼んでいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問が必ず出てくると予想できるからである。

 あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか?どんな偉業をなしとげたというのか?どういった人たちにどんなことで知られているのか?一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくていはならないのか?

萩原先生、アレクセイが「偉大な人物ではない」という部分が誤訳とおっしゃる。根拠は、「偉大な」と訳されたвеликийと日本語の「偉大な」はニュアンスを異にするからだそうだ。ちょいと先生のブログから引用しよう。

 たとえば、ウシャコフ四巻本辞典を見ると、ロシア語の"великий"(偉大な)という形容詞は、人間について言う場合、「ずばぬけて天賦の才があり天才的な、巨大な文化的歴史的意義をもつ」という意味をもつ。たとえば、「偉大なゲーテ」「偉大な人物」という風に使われる。要するに、歴史に名を残すような有名な卓越した人物に対して用いられる。

なるぽど。わかりやす。日本語でこれにあたる形容詞を(ほかに)思いつかないので、とりあえず『』つきで、『偉大な』と表記することにする(まさか萩原先生に従って「無名でない」とするわけにもいかんでのう)。さて、次に、日本語の「偉大な」である。再び、センセのブログより。

たぶん多くの人に同意して頂けると思うが、現代日本語で「偉大」というのは有名、無名とは関係ない。無名であっても、偉大な人はたくさんいるし、逆に、偉大ではないのに、虚名をはせ、有名になる人もいる。要するに、現代日本語で「偉大」というのは、「大きくて(価値・能力が有って)立派だ」(『新明解国語辞典』、三省堂)、「並外れて立派で非常に価値がある」(『類語国語辞典』、角川書店)という意味だ。日本語にはこの意味しかない。

なある・・・『偉大な』と「偉大な」は違う。たしかに誤訳だ。亀山批判派は大喜びであーる。どうしてそうすぐに鵜呑みにするかねえ。まあ、よろし。漱石の使用例も結構、《「うちの婆ちゃんは偉大だった」と言っても変じゃない》というのも結構ですよ。まあ、うちの婆ちゃんは偉大な人物だったとは言わんけどね。

さて、どこに手品の種があるか、わかりまっか? 有名、無名で枕をふっておいて、「日本語にはこの意味しかない」で、「偉大な」から『偉大な』を見事に排除してみせたというわけ。しかし、ホントに「偉大な」に『偉大な』の意味はないのか? 皆さんはどう思われまっか? あなたは偉大な人物というと誰を思い浮かべますか?と聞かれれば、「うちのばっさま」と答える人より、『偉大な』人物の名を挙げる人のほうが多かろう。

「偉人」という言葉がある。萩原先生ご利用の『新明快国語辞典』によれば、「りっぱな仕事をした、尊敬すべき人」。日本語にはこの意味しかない、かな。しかし、偉人伝がシリーズで出版されるとしたら・・・みんな、古今東西の有名人、『偉大な』人物が取り上げられることを期待するだろう。だろう? 読者は、伝記といえばとりあえず『偉大な』人物が取り上げられることを期待するのではないかいな。どうだろう、亀山訳の「偉大な人物」だって、多くの人は「『偉大な』人物」と読んでいるんじゃないか? どうです?・・・そもそも、わたくしは『偉大な』の意味を表すのに適切な日本語は「偉大な」ではないかと思うのだ・・・

ここでひとつ芥川龍之介の「菊池寛全集」の序なるものから引用してみよう。

スタンダアルとメリメとを比較した場合、スタンダアルはメリメよりも偉大であるが、メリメよりも芸術家ではないと云う。云う心はメリメよりも、一つ一つの作品に渾成の趣を与えなかった、或は与える才能に乏しかった、と云う事実を指したのであろう。

どうだろう、この《偉大》は『偉大』をまったく含まない「偉大」ではないと思うのだが・・・

偉大についてはこれぐらいにして、ついでに、「大人物」に関する萩原先生の評も引用させてもらっちゃいましょう。

ちなみに、江川卓は、この箇所を他の三人のようには訳してはいない。アレクセイは「大人物などと言えた柄ではない」という訳をつけている。どこをどう叩けばこんな訳が出てくるのか。これではアレクセイが「太っ腹の建設会社の社長とか、右翼の黒幕みたいな人物ではない」というような意味になる。アレクセイが「よっしゃ、わてにまかせときなはれ、ぽん(お腹をたたく音)」と言うような社長みたいな人物でないのは当たり前。江川投手、大暴投。(この箇所とは「偉大な人物ではない」のところ。他の三人とは、小沼、原、亀山のお三方)

「大人物」と訳すほうも訳すほうだが、この評もどうかと思うなあ。右翼の黒幕が大人物。ふうん。ま、いいけどさ。わたくし、アレクセイさんはある意味、大人物だと思うんじゃがの。大人物とは:「自ら恃(タノ)む所が有り、毀誉褒貶(キヨホウヘン)に超然とし、する事のスケールが並はずれて大きい人。」(『新明快国語辞典』)

さて、それでは、当該箇所(冒頭にあげた亀山訳と同じ箇所)の萩原先生の【試訳】をお勉強させていただきましょう。(オベンキョウなんて卑屈な商人みたいでっか、ヘ、ヘ)

【萩原先生の試訳】

作者の言葉

 これから、わが主人公、アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの伝記を記すにあたり、私はいささか困惑している。というのは他でもない。アレクセイ・フョードロヴィッチをわが小説の主人公にしたものの、私自身、彼が無名の人であることを承知しているからだ。これゆえ、諸君が次のような疑問を私に投げつけてくるのは覚悟の上だ。きみのそのアレクセイ・フョードロヴィッチとやらには、どのような注目すべき点があるのか。きみはなぜそのような人物を小説の主人公に選んだのか。彼は何か特別なことでもしたのか。誰に、そしてどんなことで知られているのか。なぜ読者である私がそのような名もなき人物の伝記を研究するのに時を費やさなければならないのか

上にくどくど書いたように、わては「偉大な人物ではない」で良いと思ってる。「無名の人」が良いとは思わない。が、そんなことはどうでもよろしい。わては疑問に思うのである。亀山訳に対してあれほどうるさくケチをつけるドストエーフスキイの会のホームページ(厳密に言えば管理人さんのホームページということになってるね、ハ、ハ、ハ)で紹介されている方々がこの試訳を見てなんとも思われないというのはどうしたことだろう。日本人的な美しい感情ですか? 仲間にはお優しいことで。

「作者」が困惑しているのはなぜだろう? 「というのは他でもない」以下で「困惑している」理由が述べられるわけだが、原文では「アレクセイ・フョードロヴィッチ」から「覚悟の上だ」までが一つの文である。そしてその後コロンがあって、「きみのそのアレクセイ・・・」と続く。従って、予想される「諸君」の質問を前にして困惑しているのだ。だから、「アレクセイが無名の人であることを承知しているからだ」という理由付けは間違い。だいたいこれ、これだけみたって理由にも何にもなってないやろ。しかしこれはまだ失着と言った程度。まだ取り返す余地はあった。敗着は「これゆえ」。これで前に書いたことが確定してしまいました。さらに、既に負けている上にプロとしてあるまじき醜態をさらしたのが「覚悟の上だ」。覚悟の上で困惑しているってのは何なんだ! 

おいらの手元には米川訳、原訳、亀山訳しかないから、確かなことは言えないけど、これまで現れたこの部分の翻訳のうち、いちばんいただけないのがこの【試訳】に違いないと思う。んじゃなきゃ困るで。

もっとも、わたくしの日本語感覚がおかしいのかもしれんね。公平な人に聞いてみないと・・・なんせ、萩原センセ、おそろしく日本語に自信をお持ちのようだから。《彼女(須賀敦子氏)の日本語が何とか読むに耐えるものになってくるのは『ユルスナールの靴』以降だ》とか《「致命的な問い」というような言葉を使うことができる亀山、江川、小沼(昔に遡れば米川正夫)の日本語能力に私は疑いの目を向けざるをえない》とかおっしゃるぐらいだから。ハ、ハ、ハ・・・そうだ、「致命的な問い」についても書くんだった。が、長くなっちゃったんで、次回にしませうか。

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2009年12月10日 (木)

共通感覚?

フィギュアスケートの織田信成選手を指導するのはニコライ・モロゾフ・コーチだって。ロシア人を紹介するとき、父称抜きというのは、世間では一般的ではないですかな。イリーナ・スルツカヤとか、エフゲニー・プルシェンコとか。してみると、文学を翻訳するときだってそのように表記すべきではないかと思う人がいたっていいわなあ・・・ま、それはそれとして、自分のことだが・・・

どなたもお叱りの声をくださらないので、時々不安になる。まるっきりとんちんかんなことを書いてるんじゃないか? たとえば、前回の萩原先生の「名前について」のこと。《亀山のように、「アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ」から父称を抜いて「アレクセイ・カラマーゾフ」とすれば、ロシア語にはあり得ない奇怪な姓になるだけだ。ロシア人の名前が米国人のように「名+姓」という形になり、アレクセイが「ハロー」と言いそうな感じになる。悪趣味きわまりない》という文章、おらには誤解のしようのないものに見える。しかし、冷静に考えると、萩原先生がこんな文章を書くはずがないじゃないか。なぜなら、父称を抜いた「アレクセイ・カラマーゾフ」なんて表記は珍しくもなんともないからだ。『地下室の手記』の前書きの後にある署名、フョードル・ドストエフスキー。プーシキンの有名な『ボリス・ゴドゥノフ』。こんなことを萩原さんが知らないとは考えられない。となると・・・おらは日本語を理解する能力を決定的に失ってしまったということになる。さもありなむとはいえ・・・トホ。

だが、だが、それにですよ、日本人には決して越えられない壁の向こうにあるロシア人の共通感覚なるもの、それを根拠に日本人が議論を進めてはならないってことは、萩原さんご自身がおっしゃってることじゃないんかのう。読めば読むほど萩原先生の文章が奇怪なものに見えてくる。わからんやつが悪いと言われりゃそれまでじゃがの。

いや、そもそも「共通感覚」ってのが怪しげなものでござる。たとえば、萩原先生とおいらの間に、なにか共通のものがあるけ? なんだかわけのわからない、そこらにぼんやり漂っているような「共通感覚」なるものを振り回す議論に意味があるのだろうか? まあ、そんなこと言ってもしゃあないが。

共通といえば・・・萩原先生、《「致命的な問い」というような言葉を使うことができる亀山、江川、小沼(昔に遡れば米川正夫)の日本語能力に疑いの目を向けざるをえない》とおっしゃるが、それらの先生方に共通の理解があって、萩原先生お一人それを解さないとなると・・・もちろん、《彼以外の同時代人がすべて、何らかの一時的な風によって、なぜかひととき、その変人から切り離されているという場合もある》とはいえ、こと言葉に関する限り、みんながしゃべって通用しちゃってればそれでいいんじゃないの・・・「致命的な問い」については、もしかしたら後で。

さてと・・・まずは萩原先生が亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を点検する際の作業手順というのを読むと、《「万全を期して」という風にはやりたくない》とある。すばらしい! 多くの訳者さんが手がけたにもかかわらずいまだかって「万全」といえるものはなさそうなのに。あるいはできなくもないと思ってらっしゃる風。これはよほどすごい方か、あるいはとんでもない勘違いをしている御仁か。フフ、やりたくないってのはどういう意味じゃろ。そして、《少しぐらいはミスがあるほうがいいだろう。人間だもの》だそうな。しかしねえ、他人のことぼろくそに言い、《この素晴らしい誤訳・不適訳の祭典を亀山訳と試訳を読み比べ楽しもうではないか、諸君》とまでおっしゃってるのだ、ほんとに《少し》でないと困るで。なあ、諸君。

しかも、《ブログの読者からの批判に同意できるなら、私見および試訳にそれを生かす》ときちゃ、他人のミスは笑っておいて、ご自分のミスは隠しちまおうってんですかい。だめですぜ、ちゃんと残しておかなくちゃ。もっとも批判なんぞ誰もしないだろうけどさ。読者は亀山批判派に決まってるからな。

だが、おいらはなんでこんなことをやってる? どうして木下先生のサイトや萩原先生のブログにケチをつける? それは・・・誤訳問題を亀山現象で片付けてはいけないからだ。問題は、翻訳という仕事のおかれた状況にある、あるいは、ロシア文学界そのものにある・・・今さら亀山批判をすること自体が問題意識の欠如だと思うのだ・・・ナンチッテ、嘘だな。ここ数年、いろいろ見聞きするうちに、ロシア文学界全体のレベルを上げて欲しいなんて望みは消えた。最初はあったと思うんだけど、それも怪しいや・・・ふん、ただ気に食わないだけかな。なんだかエッラソウナわりにたいしたことなさそうなんだもん。

さて、それでは、萩原先生の亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批判ですが、11月28日から更新されていないので、元に戻って最初から取り上げていくことにしやしょうか。【誤訳】、【不適訳】というのは萩原先生が誤訳、不適訳と考える亀山訳(その定義については萩原先生のブログを読んでね)、【理由】というのは萩原先生がそう考える理由。《( )内は亀山と同じように誤訳あるいは不適訳を犯している訳者》だそうな。というわけでブログから引用させていただく。

【誤訳】「なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくてはならないのか?」の「暇をつぶす」(小沼)。

【理由】「暇をつぶす」という言葉は、やることがなくて暇をつぶすという場合に使う。『カラマーゾフの兄弟』を読む人は『カラマーゾフの兄弟』を読むというやるべきことがあるので、「暇をつぶす」のではない。原文では「暇をつぶす」のではなく「時間を浪費する」となっている。

この【理由】がわてにはさっぱり理解できない。『カラマーゾフの兄弟』は暇つぶしに読んではならん!とか言うんならわかるんだが(そんなことを言う人には近寄りたくないけど)、もちろんそうじゃない。仮想の読者は読む意義を問うている。「やるべきこと」かどうかを問うているのだ。それを、やるべきことがあるので、と言ってしまうのは、自衛隊の行くところが・・・みたいな話だ(え、古い上にピントはずれ? ケヘ)。そもそも、何かをしたら暇をつぶすことにならないとしたら、暇をつぶすなどという言葉は存在し得ないだろ。デジタル大辞泉に載っている用例:「暇つぶしに将棋をさす」。将棋をさすというやるべきことがあるから暇つぶしにならないのか? 萩原先生はたいそう日本語感覚に自信をお持ちのようだ。してみると、わての使っているのは日本語ではないんだな。

といっても、「暇をつぶす」に賛成というわけではない。「暇をつぶす」と時間を費やす( тратить время )とは時間に関して逆の感覚を表すこともあるからだ。なお、それを強調するためだろうか、「原文では時間を浪費するとなっている」とお書きだが、「浪費する」の時は、тратитьとпопустуなどを組み合わせるらしい。

次は「一代記」という訳語。萩原先生によると【不適訳】。【理由】の一部を引用させていただくと、《「親鸞聖人一代記」とか「空海上人一代記」とは言わない。こう言うと、親鸞さんや空海さんを俗界に引きずり下ろすような感じになる。だから、やはりアレクセイという、高貴なお坊さんに近い人物の一生について述べるとき、それを「一代記」というのは間違い》だそうな。しかし、世間では「親鸞聖人御一代記」、「空海上人御一代記」なるものが販売されている。

あーあ、つまらんことばかり書いてしまった。これからが面白いところなんだが(ほんとですかい?)、長くなっちゃったので、次に譲りましょう。.

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2009年12月 4日 (金)

名前について

名前の話・・・姓と名字は違うんだってねえ。え、常識? とほ・・・直江兼続の直江は名字で姓は藤原とか。そういや、一条さんとかは、戦前まで戸籍に藤原って書いてあったって・・・薬袋さんでどうしてみないさんて読むかっつうと、武田信玄の落とした薬の袋を届けた人が、中を見たかと訊かれて、見ないって答えたら、これからみないと名乗れって・・・みいんな聞きかじりだからね、どこでどう間違えてっか・・・

どうして名前の話を始めたかっつうと、萩原俊治さんのブログ、「名前について」(11月28日分)について書きたいから。

まあ、なんですね、萩原先生のご批判も少し詳細に過ぎるのが難点ね。だんだん読むのがつらくなるし、全体にぼけるし。ポイントを絞ってもらえるとね。おそらく感受性が極めてゆたかな方なんでしょうねえ。こっちからするとどうでもいいように見えることが・・・えへ、なにせわっちときたら鈍感なもんで。たとえば、「腹づもり」がお気にいらないとか(11月22日分)。わしゃ、なんですよ、「腹づもり」が政治家とか商人の使う言葉ってのは初めて知りました。勉強になるなあ。まあ、政治家の知り合いはいないけど、テレビで政治家が腹づもりなんっちってるの、聞いたことないし。商店街の真ん中で生まれ育ったけど、腹づもりなんて誰も言ってなかったしなあ。どうやら先生、「腹」にある種のイメージをお持ちのようで。
そいから、「青春のひとコマ」(11月15日分)。これくらいでハチマキとは。気恥ずかしいってのはわかるけど、世の中には現実にそんなのは満ち溢れているし。だいたいやねえ、「青春のひとコマ」が不適訳だというなら、それは萩原先生にとって恥ずかしい表現だからじゃなくて、物語の核を為す事件を考えたとき、そんなふうに言うのがふさわしくないからでしょ。

どうもねえ、いまひとつ批判が的を射ていないような気がするんでがす。ときどき冗談がすべってますます皿が割れるんじゃないかと心配になるし。もっとも、あんたにはこの冗談は高級すぎたなどとおっしゃる方だ。あたくしども、しもじものものは、ありがたく笑わせていただかなくては。なんせね、おかしくなくても笑顔を作ると脳が勘違いしてNK細胞が活性化するんだって・・・ありがたや、ありがたや、ナンマンダブ、ナンマンダブ、どじょう屋ー!

いやいや、ひとをいのらば穴一つ、堕ちていくのは我ばかり、アーこりゃこりゃと。得意の実のない反省をして・・・本題へ。萩原さんのブログから初めの方を引用させていただこう(以下、この項では萩原さんのブログからの引用は《》で」くくることにする)。

《「アレクセイ・カラマーゾフ」、「フョードル・カラマーゾフ」と亀山が訳している箇所、原文ではそれぞれ「アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ」、「フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ」だ。読みやすくするためにこうしたのだろうが、これは誤訳だ。その理由を説明しよう。つまらない問題みたいに思う人がいるだろう。しかし、これはロシア語に限らず、翻訳の根幹に関わる重要な問題なのである。》

前にわても似たようなことを書いたことがある。名前の呼び方もさまざまな意味を含んだ情報だからだ。しかし、萩原さんのおっしゃりたいことはそれではないようだ。いや、そもそもお話が難しくておいらなんぞにはよくわからないのだ。「等質的」とか「共通感覚」とか、どうしてそんなものを持ち出さなくてはいけないのか、さっぱり理解できない。《原作者の意図は最大限尊重しなければならない》ってなことは共鳴できるのだが、《たとえば、「田中」という姓と「中田」という姓の質的な意味がまったく異なるということは、日本語を母語とする者にとっては自明の事柄だろう》となると、何がおっしゃりたいのか・・・もすこし、わてみたいなもんにもわかるようにしてもらえると・・・異人さんには「田中」と「中田」は一緒なのかな。それとも、それぞれに日本人にしかわからない意味があるってことかな。「田中」は「田んぼの中の一族」とか。

どうやら「アレクセイ・カラマーゾフ」と訳すのは、「田中さん」を「田ナカさん」と書くようなものであり、それらはそれぞれロシア人にしかわからない!、日本人にしかわからない! ということらしい(だって森有正さんとか引っ張り出すってのはそういうことでしょ。ここに矛盾はないのか)のだが、はたして適切な例なのか、質的がどうとかいう話なのか、どうも釈然としない。まあいい、まあいい。

いやあ、森有正さんは自説を展開なさりたいから登場させられただけのよう。まして須賀敦子さんの話は余計ごと。要するに、我々が「田ナカさん」を変だと思うように、ロシア人は「アレクセイ・カラマーゾフ」を変だと思うってことね。それだけのことでしょ。よかよか。

しかしまあ、またそこに江川卓さんまで引っ張り出して・・・そりゃまあ、ワリサキヒデオ(ラスコーリニコフ)だっけ、アマイモンダ(マルメラードフ)だっけ、それがどうしたって感じもするし、なんやら胡散臭いけど、ドストエフスキーが名前に意味を込めていたら・・・って考えたってええやんけ。まあいい、まあいい。

え、何が言いたいかわからんのは、萩原先生じゃなくておまえだって? いや、正直に「アレクセイ・カラマーゾフ」の話だと思って読んでたら、先生、周辺の話ばかりだから・・・あ、学者さんの話って、そうなの・・・では、わてくしも肝腎なことを。萩原先生のおっしゃるには:

《亀山のように、「アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ」から父称を抜いて「アレクセイ・カラマーゾフ」とすれば、ロシア語にはあり得ない奇怪な姓になるだけだ。ロシア人の名前が米国人のように「名+姓」という形になり、アレクセイが「ハロー」と言いそうな感じになる。悪趣味きわまりない。》

これまでは、わてのようなぼんくらはいまひとつ話についていけないというだけのことでしたが、ここにいたって、萩原さん、江川さんと同じ誤りを犯しているか、さもなくば・・・というのは、お気づきの方もいらっしゃるだろう、原文に《ロシア語にはあり得ない》アレクセイ・カラマーゾフが登場するからだ。
アレクセイがスネギリョフ家を訪ねるところ、Я... Алексей Карамазов「ぼく・・・アレクセイ・カラマーゾフです」。え、自分で言う分にはいい? そうかもなあ、ドミートリーなんか、さかんに自分のことをドミートリー・カラマーゾフって言ってる。きっとアメリカに行くからだな。練習してんだ、米国人になる・・・
でも、コーリャ・クラソートキンもアレクセイ・カラマーゾフって言ってるぜ。コーリャは悪趣味なんだな、きっと。でも、第十二編で検事や弁護士もドミートリー・カラマーゾフとかイワン・カラマーゾフとか言ってるで。えーい、しつこい、法廷ではいいんじゃ、ぼけ!・・・
そうなのかあ。でも、地の文にもあるで。ペルホーチンが飲み屋に行ったところ。
──もう一ゲーム終わると、彼はふいに相手の一人に、ドミートリイ・カラマーゾフがまたもや大金をつかんだことや(後略、原訳)・・・それはなあ、それはなあ、父殺しは、父殺しは、父称が・・・えーい、その容疑がかかる前兆じゃ! ・・・ほんまかいな。

紅茶のおいしい 喫茶店♪

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2009年11月29日 (日)

イズレナリヤ・フョードロヴィチ・ゴドク

萩原俊治さんが「こころなきみにも」というブログで亀山郁夫批判を展開されている(昨日気づいたばっかしでしてな)。萩原さんは、江川卓氏、中村健之介氏も批判しておられる(「こころなきみにも」やそこからリンクした論文に詳しく書かれている)。中村さんの「永遠のドストエフスキー」についてはまったくおっしゃる通りだと思う。一方、江川さんの「妄説」については、その通りと思うところがある反面、「罪が重い」あるいは、「詐欺」とまで言えるのかとも思う。多くの人が功の面を認めているからだ。多くの人が専門家でないとしても、軽視したり、だまされているんだとバカにしたりすることはない。

ともかく、亀山さんひとりを標的にしようという気はさらさらない方だと思い、ドストエーフスキイの会とは一線を画した批判がなされるものと期待して読ませていただくことにした。その結果・・・なにしろ、ぼんくらなわてのこと、萩原先生おっしゃる「トンボ文」でなくても意味が取れなくてすぐ目を回してしまうので、変だなと思うのはこちらのせいに違いないが、気になるところがあったので、ひとつ、ふたつ、ねえお菊さん、コメントでもしてみようかという気になったのだが・・・

萩原さんが本名を名乗らん者は相手になさらない(ドストエフ好きーの掲示板)ということを思い出した。そうだ、上記掲示板にメールアドレスがあったはず! メールしてcoderatiで投稿する許可をいただこう(だってこの世界ではcoderatiと言わなきゃ意味ないし)・・・だが、そうまでして・・・そもそも礼儀知らずのおいらです、メールそのものに失礼があったら・・・こわいこわい。また、許可ナラーンってなことになっても、先生のお手間を取らせた上に、こちらも外枠発走もなしのマルゾンスキーだし、いや、それよりなにより、最終的に何らかの形でコメントしたところで、なんや、おまえのコメントなぞ見る価値もないわ(その可能性大!)ってのがいちばん傷つくよねえ・・・

いろいろ考え、結局何もできない──いや、それが何よりなんだ! 長年の経験でわかってる。コメントなんか投稿したら、結果がどっちにでても、この後何年も苦しむに違いない──結局何もできないワタシは、ここに書くことにした。どうせ明瞭に説明する能力もないんだし。無視されたってさ、てめえの胸のつっかえがとれりゃいいのよ、つまり。ふん、ここもなんだな、『地下室の疑問』なんていうより、『負け犬の遠吠え』にするんだったな。

さて、アタクシの感じた疑問とは・・・11月8日分、「トンボ文と命名」から。萩原さんは亀山訳の「誤訳」、「不適訳」を挙げた後、試訳を示していらっしゃる。亀山訳と萩原さんの試訳をみていただこう(数字3は萩原さんご自身がつけられたもの)。

亀山訳3
 もしもみなさんがこの最後のテーゼに同意せず、「いや、そんなことはない」とか、「かならずしもそうとは限らない」とでも答えてくれるなら、わたしの主人公アレクセイ・カラマーゾフのもつ意義について、わたしとしてはきっと大いに励まされる思いがするだろう。なぜなら、変人は「かならずしも」部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風の吹きまわしでしばしばその変人から切り離されているといった事態が生じるからである・・・。

試訳3
 もし諸君がこの最後の命題に同意せず、「そうではない」あるいは「そうとも限らない」とお答えになるとすれば、私もアレクセイ・フョードロヴィッチを主人公にしてよかった、と胸をなで下ろすことができる。なぜなら、変人というのは「必ずしも」社会の孤立した部分であるとは言えないからだ。それどころか、逆に、まさにその変人が社会全体の核になるものを自分の内に抱えている場合もある。そして、彼以外の同時代人がすべて、何らかの一時的な風によって、なぜかひととき、その変人から切り離されているという場合もあるのだ。

どっちが優れた訳かは、どっちのグループに属するかが決めるこったろう。わての知ったこっちゃない。
わてが釈然としないのは、亀山訳で「大いに励まされる思いがする」となっているободрюсь духом を、「よかった、と胸をなで下ろす」と訳された点だ。確かに日本語としてはおかしくないのかもしれない。「よかった、よかった」と一件落着風だが、それにしては「なぜなら以下」の理由がピンとはずれに感じるのもわてだけかもしれない。しかし、わての考えでは(まあ、そんなもんに何の価値もないことは認めるが)、ここは作者はん、「諸君」の答を聞いて、わが意を得たりとばかりに、勢い込んで「なぜなら・・・」と説明にかかっているのだ。だからして、「励まされる」とか「元気づく」とかいう訳語のほうがふさわしいと思う。いや、「作者」の「釈明」はまだ続くのであって、「よかった」は早いんじゃないか。どうだろ諸君、もしかすると、ひとのもんをトンボ文と言う前に・・・

もう一点、「かならずしも」に括弧がついている理由、読者はわかるだろうか?

はてさて、わたくし、罪と罰の翻訳について書くんだったのに・・・いやはや・・・おちゃにごに一言だけ。

後にラスコーリニコフは、ふとしたはずみで、例の商人夫婦がなぜリザヴェータを自宅に招(よ)んだのか、知るところとなった。(亀山訳152ページ)

「知るところとなった」という言葉ですが、ナニナニはダレダレの知るところとなった、と使うもんだと思ってたんだけんど・・・

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