2008年5月25日 (日)

亀山訳の検証について(19)

えへへ、笑ってごまかすな、ではありますが、亀山さんのほうがほかの翻訳者より考えているかもしれない、なんて言っちゃったてまえ、次がやりにくくなっちゃいましたわ。言ったことはすぐに自分に返ってくるでねえ。それで、また寄り道。『カラマーゾフの兄弟』亀山訳4の260ページに関して、ドストエーフスキイの会の「点検」その後の付録から亀山訳、原訳、木下さんの論評を引用させていたたきましょう。

亀山訳:「兄さん」声を震わせながら、アリョーシャはまた切り出した。「ぼくが兄さんにこのことを言ったのは、兄さんは、ぼくの言葉を信じてくれるからです。そのことがわかっているからです。《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!いいですか、死ぬまで、ですよ。

原訳:「兄さん」アリョ-シャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことを言ったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。

原文:— Брат,— дрожащим голосом начал опять Алеша, — я сказал тебе это потому, что ты моему слову поверишь, я знаю это. Я тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты! Слышишь, на всю жизнь.

木下さんのコメント:「あなたじゃない!」の個所ですが、これは亀山氏のとんでもない誤訳です。
原訳の「一生をかけて」はна всю жизнь (ナ・フシュ・ジーズニ)で、「永久に」という意味で、自分の発言への確信と責任を表明したものです。米川訳では「ぼくは命をかけて言ったのです!」となっています。「自分が死ぬまで信じています」ならともかく、「あなたが死ぬまで信じてます」とは、ありえない訳です。

さて、さて、皆さんはいかがお考えかな。門前払いみたいなコメントで満足でっか?少し丁寧に考えましょうよ。

Я тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты! のところ、直訳すると、ぼくはあなたに永久にこの言葉を言ったのです、あなたじゃない、と。

「永久に」、普通はこんなふうに使わないな。例えば、この部分のすぐ後にあるように、хотя бы ты с сего часа навсегда возненавидел меня(直訳:あなたがこの時から永久にぼくを憎むことになろうとも)が普通。

つまり、永久に言い続ける、とか・・・だんべえ。「一生をかけて」も「永久に」の意味をもつけど、これも一生をかけて償う、とか・・・原訳の「一生をかけて」は全然違う意味で、これでは日本語に直してからの意味のすり替えでしょ。

「言った」という一回こっきりの行為のありようを表す副詞句として「永久に」は成立しえない。

だいたいねえ、「一生をかけて」とか「命をかけて」ってなんじゃい。それでイワンに殺されるとでも言うんか。覚悟、責任はご立派だが、何を、どう、責任取るんじゃい。

それよりその後ろを見たまえ。Слышишь, на всю жизнь. И это бог положил мне на душу тебе это сказать(直訳;いいですか、на всю жизньですよ。これも、神様があなたにそう言うようにぼくの魂に課したのです)。「あなたじゃない」とともに、神様がアリョーシャにそのままの言葉を言わせたという意味だな。冷静に考えてちょうだい。ねえ、命をかけるのは結構。神様が命をかけて言いなさいと言うのもよかですよ。しかし、神様が、命をかけると言いなさい、ってのは、ちょっと失笑ものでしょ。

もう一度、「あなた(イワン)がこれから先、永久にぼく(アリョーシャ)を憎むことになっても」という一文を見てみましょ。なぜ憎む・・・ム、難しい・・・誰か教えて・・・良心に立ち入ることになるからかな。いや、それだけじゃないぞ。なぜ永久に、か。イワンは永久に(一生)この問題で苦しむからだ。アリョーシャはそれを預言してもいるのだ(このあとのイワンの言葉 『я пророков и эпилептиков не терплю-おれは預言者や癲癇持ちはがまんできない』のあたりを参照のこと)。たとえ、憎しみとともにであってもアリョーシャとその言葉、「あなたじゃない!」を思い出してもらいたい・・・永久に・・・

на всю жизнь-永久に、という言葉がその意味で言われたのは明らかだろう。決してアリョーシャの一生をかけたものなんかじゃない。一生涯意味を持つ言葉として言われたのだ。そしてна всю жизньが『預言』であるなら、もちろん、イワンの一生である。

神の言わせた言葉、それはアリョーシャにとって絶対のものであり、「信じつづける」を超えたものという気もしますが・・・・・ま、亀山訳と原訳のどっちがいいのか、皆さんで判断してちょうよ。

 

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2008年5月21日 (水)

亀山訳の検証について(18)

翻訳とは、自分が理解したとおりに読者に伝えるべく日本語の文章を創ることだ・・・よね。だから、まず解釈ありき。
訳者さんによって解釈が違うことはよくある。どちらかが間違っていたり、両方間違っていたり・・・ご親切によけいなお世話の解説をつけてくれたり、あるいは逆に読者に敬意を表して解釈を放棄していたり・・・雄弁な翻訳、寡黙な翻訳、好みでございましょう。
まあ、でも、たいがい翻訳のほうが原文より詳しくてわかりやすいよね。いいことだということに、しときますかあ。

亀山さんの翻訳は、たしかにどこか今までの翻訳と違うところがあるようだ。評価は分かれるようだが、実際、評価してる人がいるんだから、ねえ。
例の「検証」をみても、誰もが考えつく普通の訳をしておけば文句をつけられないですむのに、あえて工夫した訳をして(反感を買って)いることに気がつく。実は、亀山さんはほかの人たちより考えているかもしれない。良い悪いの判断はひとまずおいておくとして、なんでもかんでも十把一絡げにして誤訳誤訳と騒いではいけない・・・よねえ。
亀山さんの解釈はどんなものであれ間違いと考えることを自らの義務とする人を無批判に信用して亀山訳はだめだと思い込んだら損をするかもよ・・・ってなことは全然言う必要がないな。まだまだ売れてるらしいもん。80万部突破でっか。

まあ、亀山さんもせっかくの工夫にけちをつけられて腹が立つかもしれないが、読者に伝わりにくいところがあるとすれば、それはご本人の責任ってこともあるからなあ。

しかし、最初からあら捜しをするつもりじゃ、目も曇るし、気も狭くなるよ。それはおまえのやってることじゃ?ってか。うひょー、面目ない。ほんと、何をやってるんだか・・・そこに山があるから登るんだ、か・・・ばーか。いや、ほんと、ばかだわ。えーえ・・・

皆さんは、ドストエーフスキイの会の「検証」をみて、ああそうだ、そうだ、って思うかや?亀山さんはどうしてそういう訳をしたんだろうって考えない?ちょっと「点検」その後からひとつ取り上げてみましょうよ。「カラマーゾフの兄弟」亀山訳一巻の92ページから。修正前は:

「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。
「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっております」と修道僧は答えた。

原文:— <…> Так к обеду будем, поблагодарите отца игумена, — обратился он к монашку.
— Нет, уж я вас обязан руководить к самому старцу, — ответил монах.

原訳:「(…)とにかく、お食事までには伺います、院長さまにお礼を申しあげておいてください」彼は修道僧をかえりみて言った。
「いいえ、わたくしはあなた方を長老さまのところへご案内いたさねばなりませんので」修道僧が答えた。

江川訳:「(…)では、食事にはうかがいます、僧院長によろしくお伝えください」修道僧のほうを向いて彼はこういった。
「いえ、わたくしは長老さまのところまでみなさまをご案内しなければなりませんので」修道僧が答えた。

亀山訳22刷:「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。
「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので」と、修道僧は答えた。

要するに亀山さんの修正は「ので」をつけただけだ。ま、それでいいんでしょ。してみると、森井さんの分析は興味深い(よろしく「点検」のほうをごらんくださいませませ)けれど、関係なかったわけだ。あ、こんなこと言うといやなこと蒸し返しちゃうかな。

しかしまあ、「一読して会話が成立していない」(森井さんの厳しいお言葉)なんて冷たいこと言わないで、どうしてこんな会話なんだろう、って想像すれば、別の意味も見えてくるんじゃないかな。読者も協力的態度でなければ本なんか読んだってしょうがないんだから。

もともと間接的な意味を含んだ受け答えなんだしねえ。だいたい、原訳や江川訳のようにするほうが楽だで。そのまんまだもん。どうしてそうしなかったかぐらいは考えてあげなくちゃ。なぜか・・・答は風のなかに・・・じゃなくて・・・

亀山さんには修道僧がそう言っているように聞こえたからだ。翻訳とは、自分が理解したとおりを読者に伝えることだ。誰もがする訳をしときゃあいいってもんじゃない。

なぜそう聞こえたか。亀山さんの目に、好奇心まるだしでみんなを長老のもとへ案内したがっているマクシーモフの姿が鮮やかに映しだされたからだ。

もちろん、修道僧もマクシーモフを横目で見ている。彼がマクシーモフをどんなふうに思っているかはすぐ後のセリフでわかる。「案内はありがたいが一緒に入っていただくわけにはいかない」というミウーソフ心配も思いだしていただきたい。マクシーモフには遠慮してもらいたいのだ。だから「私が」と力が入っちゃったんだ。

なんとなれば、それに応えてしゃべっているのはマクシーモフではないか。↓

「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので」と、修道僧は答えた。
「そういうことでしたら、わたしはそのあいだに院長さまのところへ、まっすぐうかがっているようにします」地主のマクシーモフが舌たらずな調子で言った。
「院長さまは、いまたいへん忙しくしていらっしゃいます。しかし、まあ、あなたのご随意に・・・」修道僧は煮えきらない様子で答えた。

いや、そういうわけだから、僧は「ので」なんて言いたくなかったかもしれないよ。自分ではそんなつもりじゃなかったのに、「会話が成立してない」なんて言われると、わたしの言葉遣い、変なのかしら、なんてんで、他人様が「ので」をつけてるからつけとこうかなあ、なんて。

とにかく、ここのところ、マクシーモフがちょこちょこしてる姿が髣髴とするようでなければならーん・・・・・へ、へ、勝手な推測をしてもうた。そんなふうに亀山さんが考えたのかどうか、全然わかりません。そして、はたしていい訳なのかどうか、判断はできかねますが。しかし、ちょっと想像力を働かせると、亀山訳のほうがいきいきとした情景が浮かぶような気がしませんか・・・

ところで、「申しあげてください」って言い方はちょっと気になる。原訳のお食事「までには」もちょっと気になる。それと、「振りかえった」時点で気持ちを切り替えてもらいたい気もする。慇懃にね・・・つ、つ、つまらんことを・・・

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2008年5月12日 (月)

亀山訳の検証について(17)

前に誰かの評論を読んでたらさ、なんか、米川先生の訳が気に入らないらしいんだな、原文で読まなきゃ本物の味わいはわからねえなんて、ちっきしょう、言いやがる。ひとが楽しんでんのに。てやんでぃ、あんたもおいらも--へっへーい、一緒にしてやったい!--あんたもおいらも三十万年たっても米川先生のレベルまでいかねえよ(実際、怪しげなことが書いてあったので)、だったら米川訳で読んだほうが理解できらあ、って言ってやったい。本に向かって。

あの頃は、おいら、米川先生に間違いがあるはずがないと思ってた。でも、米川先生にも誤訳があるとわかった今だって、あの独特の雰囲気は原文にはないものかもしれないとわかった今だって、考えは変わらないよ。ちんたら原文を読むより、翻訳で読んだほうがいい。あったりまえだあな。

翻訳と比べたら、検証なんて楽なもんだ。検証なんて偉そうにやるもんじゃない。米川さんの言うとおり、誰でもできる揚げ足取りだ。偉そうにやるんなら間違っちゃだめだ。・・・えへへ、おいらのことってことで。
ところで、「検証」の検証にちいと疲れ、また、「点検」の森井さんの前書きに圧倒されてしまったので、「点検」はあまりよく見なかったんだけどね、ひょんなことから「点検」その後が目に入っちゃって。それでその、いや、題材そのものよりもどんな考えで亀山さんが(22刷で)修正したのかちょっと興味を感じるところがありまして・・・もちろん、カラマーゾフの兄弟の1巻から。

412ページ:アリョーシャはよろめくようにして通りに出た。カテリーナと同じように、自分も泣きたかった。そこへとつぜん、小間使いが後ろから追いかけてきた。
「ホフラコーワさまからことづかった手紙です。①お嬢様(=カテリーナ)がお渡しするのをお忘れでしたので。②昼のお食事のときからお預かりしていました」

森井さんの指摘:①で、えらく気のつく小間使いだなと思ったところ、②で「ん?」となりました。小間使いは昼すでに手紙を預かっていた? そんなことはない。リーザ・ホフラコーワの手紙をことづかったのはむろんカテリーナである。

なんだか無理やりのような・・・お嬢様が渡すのを忘れたってんだから、ことづかったのはお嬢様に決まってるし、預かってんのもお嬢様って受け取れるけど。ああ、もしかして、「お預かりする」が謙譲語だから?そんなことないよね。だって、

NNさんの解説:手紙をことづかったのは “お嬢様” であり、「お昼に預かって、そのままずっと “お嬢様” の許にあった」というのが②の原文の意味。誤読されることのないように、先行訳はいずれも適宜、語を補って訳しています。

そこで、原訳: お昼のお食事のときからお預かりしておりましたのに。

おりましたにしたからいいってわけないやなあ。「のに」を足せばいい?小間使いが預かってるって思おうとしたら「のに」を足したってだめだあ。私がお預かりしてるのに、お嬢様は忘れたってのもありうるでえ。お食事の時からお預かりでしたのに、とか、お食事の時お預かりになりました、とかしないと、それは解消しない。あれ、だけど、亀山さんの訂正は、

22刷①お嬢様(=カテリーナ)がお渡しするのをお忘れでしたので。②昼のお食事のときからお預かりしていましたのに」

それでいいとなると、おいらには何がなんだか。森井さんに「えらく気がつく」と思わせた「お忘れでしたので」のほうはもしかして問題かもしれないが・・・いや、そんなこたぁねえ。

それから207ページ、こちらは訂正を入れるのもわかるけど、知らん振りして通せないこともなかったんじゃないかと思って。

(ラキーチン:)「(…)ああして、ものすごく高潔でも女好きな男(=ドミートリー)には、越えてはいけない一線があるんだよ。もしもそうでなきゃ、あの人は親父をぐさりとやりかねない。きみの親父は飲んだくれで、抑えのきかない道楽人で、節度なんてものは一度だって理解したことがない人間だけど、二人とも堪(こら)えきれなくなったら、溝のなかに一緒にどぶんと┄┄」

森井さんの指摘:これも接続の問題である。文脈上、ここは順接であり、「人間だから」としなくてはならない。

おっしゃる通りかもしれないけど。だけど、そういう言い方も、時に、するよね。「けど」って、逆接ばかりじゃないでしょ。「人間だけど」と「二人とも」の間に「するとどうなる」が隠されていると思えばいいんだ(それがダッシュでしょ)。で、その「だけど」だけど(この「だけど」はどう?)、どこから来てるかっていうと、NNさんが「新訳では何故かこの “А ア” が訳されていない」とおっしゃる、その“А ア” からなんだなあ。え、へ、へ、むちゃくちゃでっか。しかし、ひとたび「だけど」を味わうと、「だから」はつまんないねえ。堪えきれなく「なったら」があるんだから、いいじゃん、というか、なんとなく「だから」と「なったら」と相性悪いじゃん。だけど、亀山先生が直しちゃったんだから、ま、いいか。しかしまあ、江川訳もしっかり「となりゃ」があるのに、仄かな因果関係とは、上品なこと、おほほ(あ、これはあちらを読んでくださらないとわからないね)。いやあ、・・・人間だけど、二人とも堪えきれないとなると、・・・も棄てがたいなあ。だけど、亀山先生が直しちゃったんだから、ま、いいか。

22刷:きみの親父は飲んだくれで、抑えのきかない道楽人で、節度なんてものは一度だって理解したことがない人間だから、二人とも堪(こら)えきれなくなったら、溝のなかに一緒にどぶんと┄┄」

それよりも、その上の部分、「ああして、ものすごく高潔でも女好きな男(=ドミートリー)には、越えてはいけない一線があるんだよ。もしもそうでなきゃ、あの人は親父をぐさりとやりかねない。」の「もしもそうでなきゃ」の「そう」は何を指してるのかな。「越えてはいけない一線がなかったら」?うーむ・・・原文は、

У этих честнейших, но любострастных людей есть черта, которую не переходи. Не то — не то он и папеньку ножом пырнет.

Не то がいわゆる「さもないと」だな。これは、直前の не переходи「越えてはならんぞなもし」を受けてるんじゃないのかな。さらば、「ある一線があり、それを越すのは禁止なんだ。そうでないと、・・・」と訳したらどうだろね。しかし、「上から順に訳せ教」のNNさんがそうおっしゃらんところをみると、おいらの勘違いかな。

大審問官で疲れたので、今日はちょっと息抜きでした。

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2008年1月29日 (火)

亀山訳の検証について(16)

(16)になりましたでございますよ。よくもまあ、ちまちまとしたことをあきもせず、とお思いの向きもあるでしょうがね。気楽な放言に見えてね、これで結構、大変なんですよ。どうでしょう、亀山訳だけではなく、先行訳にも問題がある、《検証》にも問題がある、ということを示すことができたでしょうか。

いや、だいたいねえ、世に出て一年の亀山訳に誤訳があることより、何十年も直すチャンスのあった訳に間違いがあるほうが奇怪なんで。ま、そういう世界なんだな。翻訳なんて労多くして、だから。ただ、亀山訳の場合は決定版になる前に何十万部も売れちまったから。そーんなにもうかるならもちっとなんとか、ってのは結果論。

怒っちゃった方もいらっしゃるけど、ほとんどの読者は気にしてないでしょ。スタンダードたりうるか、って、気になさる先生方は他に翻訳がないわけじゃなし。ご自分でお訳しになるもよし。論文に引用する学生さんも自分でお訳しになったら。・・・いったい、亀山訳をどうなさりたいんですかね。

しかし、この際、「我慢できん」と、検証してくださった方があるなんて、亀山訳は幸せ者ざます。ま、《検証》そのものにも我慢できんところはあるでがんすがね。フンガー、フンガー。

ま、アタクシの言うことなど聞いてもらえそうもないから、これ以上《検証》(亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証するのことでござる)そのものに異を唱えることにあまり意味もあるまいとは思いますが、どうせここまできちゃったことだし、足早に触れて店じまいにかかりましょうかね。

亀山訳287ページ:いやあ、人間って広い、広すぎるくらいだ。だからおれはちっちゃくしてやりたい。

《検証》さんは「広さ」を「小さくする」というのは日本語として明らかにおかしいという。何という狭い考え方。例えば、家。広い家、狭い家、小さな家。言いませんか。「部屋が広すぎちゃうと落ち着かないや、小さくしたいくらいだ」。言いませんか。わたいはむしろ、縮めたい(米川、原訳)、狭めたい(江川訳)に違和感を感じますがねえ。原語にとらわれすぎでは。まあよろし。同じ日本語を使っているのではないかもしれない。

それより(っていつもこのパターンで寄り道だわさ)、その後の部分:

Черт знает что такое даже, вот что!
亀山訳:それがどんなものかだれにもわからない。そのとおり!
米川訳:ええ畜生、何がなんだかわかりゃしない、ほんとうに!

これぞ亀山ワールド、米川ワールドってことで論評の対象外ですかぁ。なんか破調を感じますがそこがいいのかな。要は《人間の広さにびっくり!》を言い換えてる?《実際、どうなってるんだろうなあ、まったく!》は凡夫。

新訳289ページの「掃きだめに鶴」に違和感があるとすれば「鶴」に焦点があたるから。路地裏の価値を認めないことになるから。(ついでだけど場末に別嬪みたいな意味でも使うでしょ)。《検証》の論理で正しいのは『ミーチャがいかに路地裏を愛したか』というくだりだけ。「金(きん)」が「鶴」より背徳的とか、『おい、通訳さん』とか舌好調ですがねえ・・・あと、亀山さん、「比喩的」というので諺を工夫されたのでしょうが、比喩は路地裏から始まっているので・・・

新訳294ページ:原文のпростатаの繰り返しを多少とも生かした先行訳は江川訳だけで、米川、原訳はただ訳しただけ。「おばかさん」は少なくとも文が生きている。亀山訳の意図を探らず切って捨て、せっかく並べた先行訳の問題点にも触れず、こんな検証ってあり?

テキスト:Эта зала была самая большая в доме комната, с какою-то старинною претензией меблированная. <...>

新訳328p: 屋敷ではこの客間がいちばん広い部屋で、見せかけばかりの古い家具が据えつけられてあった。 <…>

《検証》:「見せかけばかりの古い家具が据えつけられた」では日本語としておかしい。原義は「どこか古めかしく装った家具を備えた」である。

米川正夫訳「<…>これは家じゅうで一ばん大きな部屋で、見せかけだけ古代ものの家具が飾ってあった<…>」(142)
原卓也訳「広間は家じゅうでいちばん大きな部屋で、なにやら思わせぶりな古めかしい調度を配してあった<…>」(146)
江川卓訳「<…> この広間は家でいちばん大きな部屋で、妙に古めかしく見せた家具が備えられていた。 <…>」(156

これは無責任ざます。これに続く部分の亀山訳:家具は白塗りのたいそう古めかしいもので・・・。装ったんじゃなくてほんとに古めかしいんでがんす。とすると、家具は家具でないことを証明せねばならないざます。フンガー、フンガー。ちなみに米川訳はこの家具、椅子類。それにしても、そのまた後ろ、「窓と窓の間の壁には、古めかしい彫り物・・・」、ひび割れた壁紙等、古めかしいものの記述が続くでがんす。どう見ても装ったものなんかありゃしない、ほんとに何もかも古めかしそうざます。してみると・・・まだしも「見せかけばかりの古い家具」のが真実に近いでがんす。米川訳が正解?いや、それとも、「時代遅れの虚飾を感じさせる家具」、いや、「どこか装いが時代遅れになった」?これかな。フンガー、フンガー。
「古めかしい装いの」ならよかったのかな。要するに、肖像画もそうだし、数十年前の趣味で飾られたままになっている。それを最初に断ってその説明が続いている。家具は繰り返しを避ける意味でテーブル、椅子の類、がいいのかも。

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2008年1月26日 (土)

亀山訳の検証について(15)

新訳294ページ部分の《検証》から。

Да и недурна она вовсе была, в русском вкусе — высокая, дебелая, полнотелая, с глазами прекрасными, лицо, положим, грубоватое. <...>

亀山訳294p<…> ほんとうにいい娘だったそれがロシア風でさ。背が高くて、でんとしてて、肉づきがよくって、すばらしい目をしていて、顔のほうは、そうだな、ちょっとざつではあったがな。 <…>

《検証》:「ざつな顔」とはどういう顔のことだろう? 顔の形容としてはあまりにも破格ではないか? 原文が顔の形容であれば、あくまでもそれに相応しい訳語を充てねばならぬし、それが難しいような個所でもない。原文の意味は「顔は、そう、ちっとばかしお品がなかったな」である。

米川正夫訳「それに顔もロシヤ趣味で悪いほうじゃなかった、- せいの高い、よくふとった、目つきのいい女で、顔こそ少し下品だったかもしらんが、なかなかいい目をしていたよ」(127)
原卓也訳「でも、器量はいかにもロシア風で、なかなかわるくなかったし、背が高く、むっちりと肉づきがよくって、顔はまあいくらかぎすぎすしていたものの、目が実にきれいなんだ」(131)
江川卓訳「<…> それにけっして
器量が悪いわけでもなかった、背が高くて、体格がよくて、むっちりしていてさ、顔は、まあ、いくぶん品がなかったが、 <…>」(140)

『原文が顔の形容であれば・・・』ねえ。あまり意味のない言葉に権威をにじませる独特の言い回しを支える自信はどこから生まれるのでありましょうか。まあ、あたくしのような半信半疑のはったり風では人が信じてくれませんが。

「ざつな顔」もわかるような気もするけどね。翻訳では許されないのかな。一般に、翻訳文って原文よりつまらんものにしなきゃいけんのかね。

まあ、多数決では「お品がない」らしいけど、ほんとかね?もっとも、むっちりふっくり顔ぎすぎす(原訳)ってのも変だが。でも、整ってないとか、ごつい、とか、可能性はないのかな。目が美しくて品がない、ねえ。

それよりでございます、先行訳は確かに木下先生ご指摘のように一致団結、「顔は器量はって言い換えてもだめ!)悪くないが、・・・顔はなんとやら」、ってやっつけてはりますな。但し、「原文に忠実」には見えませんがの。え、ダッシュの右側の緑の部分はどう見ても左側の説明にしか見えんのですがね。顔は・・・顔はってのも変だし。確かにнедурнаは器量のことを言うらしいですが、ここは単に「悪くない」じゃないんですかね。

確かに木下先生ご指摘のように『亀山訳に限って』別解釈。わてはそれがいいと思いますよ。但し、「ほんとうにいい娘だったピリオドそれが・・・」とすると、直前の文の「この娘ぐらい性格のいい女には会ったためしがない」の意味のいい娘ってことになりまする。よね。(まさか性格のいいのを強調して背が高く、とは言い出さんでしょ)。

これがまた結構いい女でね、ロシア風で、そう、背が高くって でんとして コリャ 肉づきよくって 目がきれい アどした 顔はいかがと聞かれれば ソレッ ちょいとざつではあったがな ホイ・・・ふざけるなってか。 

木下先生(だかNNさんだか)、よく訳文の推敲不足っておっしゃるけど、誤解のようですよ。こないだラジオ聞いてたら、亀山先生、ずいぶん推敲を重ねたとか。但し、訳文だけ見て推敲していくと、時々こういう別の意味になっちゃう、のではないのでしょうか。《検証》のご指摘の中にはいくつかそういうものもありそうですよ。

も一つ。新訳286ページ。

《検証》は亀山訳「なぜって、嵐のような好色だからさ」を《直訳よりももっとおかしい》とおっしゃるが、理由をおっしゃらない。「好色」にもいろいろあるという印象を与えるからかな。いや、そんなことはいい、というかそれだけで終わるべきところ。

「人間の発言は・・・理路整然としていない云々」、「ミーチャの肉声云々」とおっしゃるが、これはドストエフスキーが構成した会話だ。大半のおしゃべり、とか、日常の会話がどうとか言うレベルの話ではない。何度も同じ話をして申し訳ないが、「ぼくを待ってたんだじゃない?」「正にきみをさ」という会話は普通には聞けそうもないが、「ぼく」「きみ」を強調したい場合には立派な小説上の会話となる。・・・いや、人の訳語の選択を忖度して賢しらと言いたいがために持ち出す考察でもあるまいと思ってね。

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2008年1月23日 (水)

亀山訳の検証について(13)

相も変わらず亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する(以下《検証》)を検証する、というなんだかわけのわからないことをしている・・・雪が舞っている・・・ライオンは寝ている・・・

誰も諌めてくれない・・・月の松島しぐれの白河・・・

テキスト:И однако, когда приехала институтка (погостить, а не навсегда), весь городишко у нас точно обновился, самые знатные наши дамы — две превосходительные, одна полковница, да и все, все за ними, тотчас же приняли участие, расхватали ее, веселить начали, царица балов, пикников, живые картины состряпали в пользу каких-то гувернанток. <...>

新訳295~296p:それでも、女学校出の彼女がやってくると(ほんのちょっと里帰りしただけのことで、すっかり居ついたわけじゃなかった)、町全体がすっかり若返ったみたいで、町でも名門の奥さん連中は、といっても将軍夫人が二人に大佐夫人が一人、つづいてみんなが彼女を褒めそやして、ご機嫌とりにかかったんだ。となるともう、舞踏会でもピクニックでも女王さまだし、どこぞの家庭教師を助けるために活人画の催しまでやってのけるありさまだった。 <…>

《検証》:原文を誤読したわけでもなかろうが、「やってのける」などという不適切極まりない訳語を採用しため、新訳はあたかも活人画を開催したのがカテリーナであるかのような印象を与えかねぬものになってしまっている。活人画を開催したのはカテリーナをちやほやしている町の上流の奥方たちである。「活人画の催しまでやってのける」を「活人画まで開催される」に改めれば、少なくとも読者の誤読を誘発する危険性はぐっと小さくなるだろう。

米川正夫訳「しかし、その令嬢が帰ってきたとき(ただし永久にというわけではなく、ほんの当分逗留して行くつもりだったのだ)、町じゅうはまるで面目を一新したようなぐあいだった。第一流の貴婦人たち ― 将軍夫人がふたりに大佐夫人がひとり、さっそくそのあとについてねこもしゃくしも動きだした。どうかして令嬢をたのしませようというので、四方から引っ張りだこにするさわぎで、令嬢はたちまち舞踏会やピクニックの女王となってしまった。何か家庭教師の扶助だとかいって、活人画の催しまであった」(128)
原卓也訳「ところで、いよいよその女学校出がやってくるや(といっても、すっかり帰ってきたわけじゃなく、遊びにきただけなんだが)、町全体がすっかり面目を一新したようになって、いちばんの上流夫人である、将軍夫人ふたりと、大佐夫人ひとりをはじめ、みながそれにつづいてすぐに仲間入りして、彼女をちやほやし、楽しませにかかって、舞踏会だのピクニックだのの女王にまつりあげお付きの家庭教師か何かのためには活人画なんぞ催してやる始末さ」(132)
江川卓訳「<…> それはそうと、いよいよその女学院出がやってくると(しばらく滞在するだけで、ずっと住みつくわけじゃなかった)、町じゅうがまったく面目を一新した感があった。町でも一番名流のご婦人、つまり、将軍夫人が二人と大佐夫人一人が先頭を切ると、それにつづいて、だれもかれもが、たちまち彼女にご執心で、引っぱりだこでご機嫌をとり結ぶんだ。彼女は舞踏会やピクニックの女王におさまって、婦人家庭教師救済の名目で活人画の会まで催される騒ぎだった。 <…>」(141)

うっりゃとっと うっりゃとっと・・・

誤読がどうとか、ムダが多いねえ。しかし、先行訳の入力に手間をかけていただいたのには感謝しなくちゃねえ。でも、皆さんどう、読んだ、読まないでしょ?主語がどれかの指摘に、新訳をこきおろすのに、必要ないもん。それでも律儀に載せてくださったのは誠実なのか、それとも・・・

なにもいうぅまい こととぉいばぁあしぃぃぃの・・・

わてらはたいして気にせず読み進んですぐ忘れちゃうけど、翻訳する方々は苦労なさってるねえ。ドミトリーさんがぶっちぎったような話をするから、皆さんつじつまあわせに青い字の部分を補って。つじつまが合ってるんだかないんだか。だいたいドストエフスキーの文、つじつまが合ってるんだか。

いったいカテリーナと活人画と家庭教師の関係は何?はてさて、活人画は何のため?どうもあれよ、состряпали、その活人画(複数回)、急ごしらえっていうのかな、上等なしろものじゃなかったみたいよ。ただ「開催された」でいいのかどうか。まあ、読者としてはどうでもいい、だから米川さんみたいに知らん振りして淡々とすましちゃうのが利口かな。しかし、三人そろって「面目を一新」ってのはなんでだろ。

誰が為に活人画・・・・・この際、家庭教師(不特定、複数)が肝心って思う人はいないだろう。江川さんは「カテリーナを招く、喜ばす」ため、という解釈かな。だから名目で。こういうのをみると頭がいいなあ、と思うなあ。でも変な文なのは間違いない。原さんは嘘と知りつつ、お付きの家庭教師か何かのため。うん、これが親切かな。そんなもんがどこにいるって突っ込む人もないでしょ。

あ~あ一緒になる気もないくせに・・・

とはいえ、カテリーナが女王様、という流れは確かなので、(ここからは妄想、勝手読み)どうでもいい家庭教師なんかがでしゃばるのは女王様の思し召しに関係してるんじゃないのか。やってのけるがうまくないにしても、女王様の一言であっちでもこっちでもあわてて・・・いわく、カーチャってのはな、そういう女なんだよ・・・

さあ、そうなるとお付きの家庭教師のためじゃ困る。婦人家庭教師救済、てのが(出汁ではなくて)味噌だから、名目もだめ。「どこぞの家庭教師」も怪しい。

・・・まるで町じゅう生き返ったよう、上流夫人たちは、将軍夫人二人と大佐夫人が口を切ると、後から続々寄って集って彼女を奪い合い、ご機嫌取りにかかる、女王様はあっちの舞踏会、こっちのピクニック、婦人家庭教師救済のための活人画の会へと引っ張りだこになったんだ・・・なんてやっちゃうと叱られまっかね。

それはそうと、原さんの「ところで」、江川さんの「それはそうと」はどうなの。上の引用の直前から、『つまり、親戚はいるけど、それだけのこと、そこに期待するのはかまわんが、今のところ金はない(ここ、米川、亀山訳の現金はない、ってのは少し違和感)、というわけだ。それでもこの女学生が、・・・』が自然でしょ。つまり花嫁候補としての価値云々、という話じゃないの。

ところで、この部分の後ろもちょっと気になるんざんすが、またにしやしょうか。

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2008年1月21日 (月)

亀山訳の検証について(12)

どうも消化不良で,、蒸し返しますが、つまらないことを。亀山訳203ページから。

- Не меня ли ждешь? - спросил, поравнявшись с ним, Алеша.
-     Именно тебя, - усмехнулся Ракитин.

「ぼくを待ってたんじゃないよね?」相手と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。
「いや、きみさ」 ラキーチンはにやりと笑った。

角を曲がると友人が人待ち顔。目が合う(勝手に決めるな、と言う声は無視)。そこで普通の抑揚で声をかける。「ぼくを待ってるんじゃないの?」-これは促す問い-「うん、実はね・・・」。「ぼくを待ってたんじゃないの?」-確認も加わる-「うん、そうなんだ」。ここは後者だ。どうしても「きみさ」と答えさせたい-『ぼくを』と『ないの』に力をいれたまえ。特殊な抑揚は伝わらん-「・・・じゃないよね?」にしたまえ。

しかし、ロシア語のわからんものとしてはИменно тебяはНе меня正確に対応しただけで、前後の文からも「ぼく?」-「きみ」じゃなくてもいいんじゃないかと思うんだが。「正にきみをさ」だの「きみをだよ」なんて小説だからいいが普通に聞けそうにはない。いや、いいんですよ、それが原文の正確なニュアンスだってんなら。でもこんなとこさらっと行っちゃったほうがいいんじゃない?「ぼくを待ってたんだね?」-「その通りさ」(その通り、もあんまり言わないか。「ピンポーン!」はどやされるだろうな)。

210ページの「よろしく」-「ちゃんと」。若い人は「よろしく伝えて」なんて言わないと思ったかな。「よろしくね・・・」ぐらいなら言うんじゃないかな。それにしても《検証》も亀山さんの意図を理解しようとした上で批判してくれればよかったのにな。

282ページの詩のところもなあ。あっしら詩に縁遠いようなものに物語との関連を示そうと言う努力を・・・「深い恥辱にまみれた」に傍点まで打って、人を男と訳し・・・不用意、とは不用意なのかわざとなのか・・・さて、やはり詩に関連して。

Но только вот в чем дело: как я вступлю в союз с землею навек? Я не целую землю, не взрезаю ей грудь; что ж мне мужиком сделаться аль пастушком?

亀山訳283ページ:ただし、問題はだ、つまりどうやってこのおれが、大地と永遠の契りを結ぶかってことさ。おれは大地に口づけなんかしないし、大地の胸を叩いたりするようなまねもしない。

米川正夫訳「<…> おれは大地を接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもしない。 <…>」(122)
原卓也訳「<…> おれは大地に接吻もしないし、大地の胸を切りひらきもしない。 <…>」(127)
江川卓訳「<…> おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をこの手で耕すこともしない <…>」(135)

《検証》は「大地の胸を叩く」を「大地を耕す」にしろと言う。引用はしない、なんか偉そうなんで。なにしろ根拠は詩的感興がないということ。感想ですね。直訳の「大地の胸を切り開く」は《おどろおどろしくて》だめなのに、原文はなぜそうじゃないのかについて説明なし。それどころか・・・まあ、いい。おまけに「どうしてこのおれが、百姓や羊飼いになれる?」の引用を避けた・・・まあいい。「大地を耕す」でも結構。だが、それが亀山訳や先行訳より優れているか、趣味の問題って感じ。つまり何の策も講じなかったものをそんなに大威張りで・・・

壁ぎわに寝がえりうって・・・お料理するなら台所・・・

ドミトリーさんが無理やり詩を引用するから。みんな迷惑。まあ、「大地を耕す」も潔いが、「胸」を残した皆さんも誠実。「切り開く」は開墾でしょ、みんな飛びつくかと思ったけどだめなのかねぇ。母の胸を叩く・・・契りとどうかな。

結局さぁ、永遠の契りと農業をつなげる詩的な文句が入ればいいんで、「胸」に拘る必要があるのかな(引用とわからない、詩としても珍妙、ってんじゃ、ねえ)。江川さんなんかかえって中途半端。(おっしゃるとおり、これも感想でげした)。この際、「大地を孕ます」は大きく出すぎかね。ぐっと控え目に「大地と生きる」は?だって耕すは芸がないでしょ。

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2008年1月18日 (金)

亀山訳の検証について(11)

つまらん揚げ足取りは前回でオワと思ったかもしれんが、マルメラアーアーアードフ。

だがあの会の人達はどう思ってんのかな。自由な意見ははばかられるのか、誰だかに何か含むところがあるのか。不気味な沈黙。いや、わっちに対してじゃなくあっちによ。

むろん、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する(以下《検証》)とそれをホームページに載せている会のことでっせ。さて、《検証》の検証。

新訳227ページ、「あなたはどうして、そうまで人を憎むのですか?」に関する部分。今ここでおいらが《検証》さんに「あなたはどうして、そうまで人の文章を意地悪く解釈するのですか?」(人のこと言えるかってのはこらえてね。ちなみにこの「人」も人間一般じゃあない)と申し上げ、それに対して「だって亀山訳は・・・」と答えていただけば、それは意味をなさないどころか、前段を知らない人への説明にもなる。直接話法で『だれそれ』なんて、気がさすという感性も大事だわ。もっとも、『弁解の余地ない誤訳』ですってよ、こういう言い方が日本語にあることさえ認めていただけないかな、オーコワ。

新訳249ページに関する部分。言われておられる(敬語が間違ってられる!)ことはよおっくわかりますけどさ、「やってきて」がしっくりくるかこないかについては民主主義でいきませんか。それからこういう場合に「帰省」にしないのも民主主義かな、それとも・・・

では、本日の打ち止め~。

テキスト:Алеша знал, что и старик назавтра же наверно отпустит его опять в монастырь, даже сегодня же, может, отпустит. Да и был он уверен вполне, что отец кого другого, а его обидеть не захочет. Алеша уверен был, что его и на всем свете никто и никогда обидеть не захочет, даже не только не захочет, но и не может

亀山訳266ページ:じっさいアリョーシャは、父が、他の人間はどうあれ自分を怒らせようなどという気を起こすはずがない、と固く信じきっていた。世界にだれひとり、自分を怒らせようなどという気を起こす人はいない、いや、気を起こさないのではなく、気を起こせないのだとアリョーシャは信じきっていた。

《検証》の指摘は二点。обидеть「怒らせる」でなく「侮辱する」とすべき、というのが一点。не можетはне может захотеть обидетьでなくне может обидеть であり、「怒らせようという気を起こせない」のではなく、「怒らせることができない」だ、というのがもう一点。

米川正夫訳 父がほかの人はともあれ、自分を侮辱しようなんて気を起こすはずがない、こう彼は固く信じていた。彼は世界中で誰一人自分を侮辱するものはいない。いな、単にないばかりではなく、できないのだと信じきっていた。(118)
原卓也訳 それに、父がほかのだれかをならともかく、この自分を
侮辱する気など起こしっこないという自信も十分にあった。アリョーシャは、世界のだれ一人、決して自分を侮辱しようなどと思わぬことを、いや、単に思わぬばかりか、侮辱するはずもないことを確信していた。120)
江川卓訳 そのうえ彼は、父がほかの者ならいざ知らず、自分を
いじめようなどという気を起こす気づかいはないと、確信しきっていた。この世の中で自分をいじめようなどという気を起す者は絶対にいない、たんにそんな気を起こすはずがないだけでなく、起こすことができないのだ、とはアリョーシャの確信だった。(128)

《検証》のご指摘は尤もだがもう少し深くつっこんで考えましょうよ。侮辱の内容。これはね、同じく266ページのはじめのほうと対応している。

亀山訳:前もって断っておくが、「枕と布団をかついで」と父親が大声で叫んだ言いつけに、彼は少しも怖気づいてはいなかった。(「」には238ページにある、今日中にすっかりうちに引っ越して来るんだぞ、が隠されている。)

そして問題の部分の前に、一夜明ければ、ことによると今日中にも修道院へ帰してくれるかもしれない、という文がある。つまり侮辱の内容とは「フョードルがあくまで言い張って修道院へ帰してくれないこと」。

さて、これを果たして侮辱と言うかだす。アリョーシャは傷つくというより困るんじゃない?その考察をなさったのが江川訳。エライ、と言いたいところでやすが「いじめ」はどうじゃろ。芝居じみたフョードルの気分とちょっとなあ。

さらに、同種の命令に対する「怖気づく」(米川訳では「恐れる」)と「怒る」(侮辱を感じる)のギャップ。これは両者歩み寄ったほうがよかないかね。そこで「怖気づく」→「心配する」、「侮辱する」→「意地悪をする」、なんてやっちゃいたいけど、そんなのは余の辞書になあい!って怒られそうかな。しかも、「世界にだれひとり」にまで適用するとなると、一般的な訳語、「傷つける」くらいにとどめるのがいいのかなぁ、いやあ・・・

さてもう一点、не может、《検証》はそれ以外読みようのない構文とおっしゃるが、どうなんだろう。こういう場合、なになにばかりか(あるいは、だけでなく)の後ろにはなになにをさらに一歩進めた言葉が続くはず。とすると、「気を起こせない」というのは素直な取り方じゃないすか。とはいえ、「・・・気を起こすことができない」もなんだか妙で(つまり「そんな[気になる]はずがない」とか「・・・ありえない」というのならわかるんだが)、わっちとしては若干《検証》に軍配を上げたいところ。だが、物言いのつくところかな。

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2008年1月11日 (金)

亀山訳の検証について(9)

亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する(以下《検証》、その公開の目的については左記リンク先を参照ください)で取り上げられている問題を別の立場から検証する試みです。《検証》を引用させていただいています。

「あらずもがな」の誤訳のようですが、いくつか問題を含んでいるので。

テキスト:Но тогда же я услышал от иных помещиков и особенно от городских учителей моих, на мои расспросы...

亀山訳122ページ:しかしすでにそのころ、わたしの問いに対してほかの地主や、ことに町の先生方は・・・

《検証》:唐突に「ほかの地主」などという言葉が出てくるので、少なからぬ読者が当惑するだろう。対照されるべき地主への言及が前後にまったく見当たらないからだ。“иной イノーイ”というロシア語には「ほかの」という意味もあるが、この文脈ではもうひとつの語義「ある種の」と解さねばならない。読書の“流れ”に思わぬ渋滞を惹き起こすあらずもがなの誤訳である。

米川正夫訳「その当時、地主のだれかれや、ことに町の学校の先生などに根堀り葉堀ししてきいてみたら」(52)
原卓也訳「そのころそこらの地主たちや、特に町の学校の先生などは」(56)
江川卓訳「その当時、私が何人かの地主たちから聞いたところでは、また町にいる私の先生たちにわざわざたずねてみたところでは」(60)

私のコメント:《検証》のおっしゃることは、亀山先生、百も承知、二百も・・・では、なぜだろう・・・ですが、もしかして『町の先生』に対して『他所の地主』?原先生もその感覚?《・・・ねばならない》とまで言えない?
しかし、『何人かの』のほうがよさそうですね。ところで、『ある種の』はある種の誤解を招くもとでは?
それより、особенно。亀山訳、原訳と米川訳、江川訳では意味が違うようだ(米川訳はその意味においてもやや不正確な印象も)。どちらでしょう?地主の中にはそう言う人たちもあった(иной)が、ことに先生たちがそういう意見だった、という意味ではないかと思うのですが(つまり亀山派)。あと、亀山訳の『すでに』に違和感が。

テキスト:По сыночку мучусь, отец, по сыночку. Последний сыночек оставался, четверо было у нас с Никитушкой, да не стоят у нас детушки, не стоят, желанный, не стоят.

亀山訳125ページ:あの子を思うとつらいのです、長老さま、あの子のことが。たった一人、生き残った子です。私とニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、でも立って歩けるまでには育ちませんでした。長老さま、育たなかったのでございます。

《検証》:短い文中にまったく同じ表現が三度も繰り返されているので、ロシア語をご存知ない方にもやや異様な印象を与えるのではないだろうか? ここではわが子を失った農婦の抑えようもない嘆きが民衆の素朴な会話体で綴られているが、 “стоять スタヤーチ”という動詞が「育つ」の意味で使われているところにそれが特徴的に現れている。上流階級の人間であれば、“стоять スタヤーチ”を「育つ」の意味で使うことはよもあるまい。“стоять スタヤーチ”にはいろんな意味があるが、ここでは「存続し続ける」、「(食べ物が腐らずに)保つ」という語義が転じて「(子どもが亡くならずに)育つ」という意味合いで用いられるようになったものであろう。農婦のいかにも素朴なもの言いのニュアンスを伝えるのであれば、そのまま「うちでは子どもが保たないのでございます、保たないので、お前さま(註: 長老への呼び掛け)、保ちませんのでございます」という訳し方も悪くない。もちろん新訳の「育ちませんでした、育たなかったのでございます」でも別に問題はない。しかし、「立って歩けるまでは」というのは逸脱もはなはなだしい過剰な語の補いであり、既に創作の領域に入っており、到底首肯できるものではない。

米川正夫訳「どうもわたしどもでは子供が育ちません。どうも聖人さま、育たないのでございます」(54)
原卓也訳「うちでは子供が育ってくれません。うまく育ってくれないのでございます」(58)
江川卓訳「うちでは子供が育ちませんのです、はい、ありがたいお坊さま、ひとつも育ちませんのです」

私のコメント:原文を分析するまでもなく、三歳まで三ヶ月だし、128ページを見れば、まずいです、これは。このようなことの批判にあまり力をいれるのも・・・それから「保たない・・・」という訳し方、本当に悪くないですか。
それより、ロシア語がよくわからない悲しさ、全員がそろって「育たない」とされたのだからそうなんでしょうが、どうにもよくわからない。いや、亀山訳式に「育たなかった」ならまだわかるんだが、原文もお三方も「育たない」。確かに、「うちでは子供が育たない」というのはおさえようもない嘆きですが、亡くなった子供たちのことを悲しんでるんじゃない、我が身の不幸を嘆いてる、というか不平じみている。ところで、この文の後は

亀山訳:最初の三人の葬式を済ませたとき、わたしはそれほどかわいそうとは思わなかったのに、最後の子を葬ってからは、どうしても忘れることができないのです。

やはり失った悲しみ。「子どもが四人おりましたが、」と「最初の・・・」の間には「あの子たちはうちにいないんです、いないんです、長老さま、いないんです」のほうがふさわしい気がするのですが、ロシア語がそれを許さないのなら、すぐ引っこめます。教えてください。

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2008年1月10日 (木)

亀山訳の検証について(8)

自らの浅ましい姿を四方の鏡に映しながらタラーリタラーリの作業です。さて、

あまりおもしろくない題材(ごめんなさい、NNさん)も取り上げることにしました。これは結局、自分を除けば、誰よりNNさんと亀山さんに見ていただきたいがためにやっていることだから(ご迷惑かもしれませんが)。こだわりがあるから丹念にお書きになったのでしょうから。亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する(以下《検証》)から引用させていただきます。まず、前項に気づくきっかけとなったところ。

テキスト:он трепетал за него, за славу его, боялся оскорблений ему, особенно тонких, вежливых насмешек Миусова и недомолвок свысока ученого Ивана, так это всё представлялось ему

亀山訳82ページ:長老の、とくに名誉に侮辱が加えられたりはしないか心配でならず、ミウーソフが慇懃無礼な調子でからかったり、博学なイワンがさも見下したように話を途中でやめてしまったりする光景が、ことさらありありと目に浮かんできた。

《検証》“недомолвка ニェダモールフカ”というロシア語には、「言い忘れ、言いそびれ」という意味と、「あてこすり」という意味があるが、ここでは直後に“свысока スヴィサカー(傲慢に)”という副詞があるので必然的に「あてこすり」の意味になる(傲慢に言い忘れたり、言いそびれたりする者もなかろう)。新訳の文体で訂正すると「博学なイワンがさも見下したようにあてこすりを言ったり」という感じだ。“недомоловка ニェダモールフカ”という名詞は「不完全・不足」を表す接頭辞“недо- ネェダ”と“молвка モールフカ(言うこと、話すこと)”から構成されており、「最後まで言い切らないこと」というふうに字解きできる。即ち、その第一義は「言い忘れ、言いそびれ」という意味で、「(わざと最後まで言い切らず、曖昧な言語表現をすることで相手を)あてこすること」というのは転義である。「話を途中でやめてしまったり」という訳は“недомолвка ニェダモールフカ”の字解きをそのまま日本語に置き換えたものだろうが、これでは「あてこすり」という転義が活きてこないので読者にはなはだ不可解な印象を残すことになってしまう。

米川正夫訳「博学なイワンの人をみくだしたような口数少ない皮肉などが恐ろしかった」(36)
原卓也訳「学識豊かなイワンの見くだすような当てこすりとを恐れた」(40)
江川卓訳「とりわけ、慇懃無礼なミウーソフの冷笑と、学識あるイワンの人を見下したような言外のあてこすりが恐ろしかった」(42)

私のコメント:原語で理解できる方が訳語の典型に拘られることもないでしょう。時には「言いさし」もいいかなと。米川訳の『口数少ない皮肉』、江川訳の『言外のあてこすり』を見てもただ『当てこすり』と訳すことにためらいをお感じになったのではないかと思う。コンスタンス・ガーネットさんはhalf-utteranceと訳しておられる。利用している辞書をへたくそだが訳してみると『当てこすりを含んだ不完全な表現』(それどころか、当てこすりという強烈な意味を持たない、肝心なことを言わないという意味もありそう)。言いそびれ、言い忘れが原義とおっしゃるなら、これは《言わないこと》に重点があるのではないか。
ところで、見下したように当てこすりを言ったりしてしまうのはかなり過激だ。《検証》でも取り上げておられる108ページの庵室での面会者の態度からして、イワンもそこまではするまい、とアリョーシャは思っているとの解釈があってもいいのではないか。長老や宗教に関して直接『当てこすりを言う』なんてとんでもない、傲慢な物言いだけでも充分侮辱ではないのか、という解釈も。米川訳{ミウーソフの婉曲で慇懃な冷笑・・・)や江川訳はそれを考慮したものと思われる。もっとも、『ミウーソフが・・・からかったり』とやっつけてしまったら、当てこすりのほうがいいかもしれない。
『見下したように話を途中でやめてしまったり』が不完全に感じられるのは話をやめることが見下すことになるかしら、という疑問を感じるからだ。これは途中に読点を入れるだけでも少し改善する。また、途中云々を批判するなら『口数少ない皮肉』というのも決してわかりやすい言葉ではない。もちろん思わせぶりでいろいろに考えられていいという考えもあろうが、もとの意味には取れない。『言外の当てこすり』というのはお見事だが、本来の意味とは違う。でも、イワンの人物像と矛盾しなければこれでいいのではないでしょうか。

次に、またまた、大勢に影響がないことと思う(ごめんなさい)のですが

テキスト:Дмитрию Федоровичу еще накануне сообщен был и час и срок, но он запоздал

亀山訳87ページ:ドミートリーにはすでに前の晩、始まりと終わりの時間を伝えてあったが、彼は遅れていた。

《検証》:原文 “и час и срок イ・チャース・イ・スローク” の “час チャース” は 「(単位としての)一時間、時、時間」の意で、“срок スローク” の方は「期間、期限、刻限」の意味、それから “и … и … イ…イ…” という表現には「…も…も」というニュアンスがある。文字通りに訳せば「時も刻限も」となるが、日本語として語呂が悪いので、「時刻を」ぐらいに訳しておくのが妥当だろう。「始まりと終りの時間を」という訳は文章の中で不自然に浮いてしまっており、座りが悪い。

米川正夫訳「ドミートリイは、きのう時刻も日取りも知らせてやったのに遅刻したのである。」(38)
原卓也訳「ドミートリイにはすでに前の晩に時間を連絡しておいたのに、遅刻していた。」(41)
江川卓訳「ドミートリイにはもう前日のうちに時間と刻限を知らせてあったのだが、彼は遅刻だった。」

私のコメント:もし本当に『始まりと終わりの時間を』知らせてあった場合にはそれでいいと思うのですが。別にすわりが悪いとも感じませんが。
それはともかく、この検証は(『時刻』でいいなら)原文でなぜи час и срокという表現がなされたのか、という私どもロシア語をよく知らないやからの素朴な疑問に答えておられない。語呂が悪いとか、合わせて時刻、などの論理がわからない。(約束の時間という意味なら刻限のほうがいいし)。
亀山さんは、前者を時間、後者を長さと考えたのだろう。だが、私は、江川さんのように、前者が時間、後者が刻限ではないかと思う。86ページに次のような個所がある。

長老との面会は、遅めの礼拝式が済んだあとの十一時半頃と決められていた。しかしわが修道院の訪問者たちは礼拝式に参列せず、ちょうどその終わり頃に二台の馬車で乗りつけてきた。

礼拝式に参列していない、と当てこすられている。従って、時間とは「礼拝式の時間」、刻限とは「約束の刻限」をさしていると考えれば解決がつくと思うのですが。礼拝式と面会の時間、とか。

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