2009年5月13日 (水)

カラマーゾフ12編 その12

前にも書いたかもしれないけど、すべての疑問点に自分なりの解決をつけてここに書くというのは無理。実力的に。かといって、こちらとしての考えもまとまらないのに、ひとの翻訳をおかしいぞというのも失礼だし。でも、ほっとくのもなんだし。結局、あて推量で書くことになるわけだな。というわけで、こんな話から。

今、法廷では・・・

Суд решил давеча продолжать заседание, но теперь пока, в ожидании, я бы мог кое-что, однако, заметить, например, по поводу характеристики покойного Смердякова

で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。(米川正夫訳岩波文庫(四)第59刷336ページ)
当法廷は先ほど審理の継続を決定しましたが、さしあたり今、それを待つ間にわたしは、たとえば、検事があれほど鋭く、きわめて才能豊かに描きだした故スメルジャコフの性格分析について、二、三の指摘を行ってもかまいますまい。(原卓也訳新潮文庫(下)六十一刷568ページ)
法廷は先ほど、審理の継続を決定しました。しかしさしあたり、それに期待しながら、たとえば亡くなったスメルジャコフの性格分析についていくつかの指摘を行いたいと考えるのです。(亀山郁夫訳光文社古典新訳文庫4第15刷630ページ)

原訳にある「検事があれほど・・・」の部分は原文では後ろについていて、米川、亀山訳では、後ろに分けて訳してある。これは原訳の方針だし、「検事があれほど鋭く」という表現を含めてこういう日本語をしゃべる人はあまりいないだろうけれど、小説だからいいんでしょう。余談。

わからないのは、評議、もしくは審理の継続とは何か? 特に、米川、原訳では、「それを待つ間」、弁護士はくっちゃべってる・・・となると、弁護士の弁論と無関係に何か審理がなされるのか? それとも、これは弁論ではなくて、ただのおしゃべり? なにせ、裁判のことは何も知らないので・・・ふむ、亀山訳の「それに期待しながら」というのもわからない。期待は、「今後継続される」ことになのか、「継続された」ことに(つまり、まだ見込みがあるという意味で)なのか? 前者なら米川、原訳と同じ。後者なら、弁護士の弁論も聞かずに結審していた可能性もあるということか・・・思うに、・・・思うに、今、行われていることこそ、審理ではないのか? 

とはいえ、「審理の継続を決定した」と書いてあるのは事実。なんでこんなことを言うんだろう。それに、в ожидании。何かを待つなり、期待しているのも事実。それに、пока:さしあたり、とも書いてある。変だなあ・・・というわけで、わからない。サヨーナラー・・・では、あまり芸がないので、仮説。

в ожидании、「それを」待つとは書いてないぞ。待つもの、あるいは、期待すべきものは、後ろにあるのではないのか? それについては、быとмог。米川。亀山訳では、「一言しておこう」、「行いたい」と前者が生かされ、原訳では「かまいますまい」と後者が生かされている。しかし、余、思うに(だからって余談とは限らないってね)、これは「できるかなあ」じゃなかろうか。つまり(в ожидании以下は)、「ちょっとさ、といってもほれ、死んだスメルジャコフの性格分析なんかについて、言っちゃえるんじゃないかなあなんてさ、思ってるわけよ」。この「思ってるわけよ」のところが「期待」ね。

では審理の継続とさしあたりはどうするんだい? こんなところで:「当法廷は先ほどの決定により審理を継続しておりますが、ここでひとつ・・・」

次は、亀山先生の工夫に立ち入ることになるので・・・どうかと思うけど・・・ その工夫が必要なのか疑問でもありますので。

伝言ゲーム?

„В ню же меру мерите, возмерится и вам“ — это не я уже говорю, это Евангелие предписывает: мерить в ту меру, в которую и вам меряют

『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはわたしの言葉ではなく、マタイ福音書に書かれた教えです。あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです。(亀山訳648ページ)

教え(предписывает)の後にコロン。弁護士は「つまりこうとも言える」と言い直しているわけだ。その部分は普通に読むと、(亀山訳の)「あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量る」のではなく、「あなたに用いられるそのはかりで量ること」、すなわちそれで「量りなさい」ってことだ。亀山先生もそんなことは百も承知だろうが、亀山訳は前半と後半がほとんど同じで弁護士の言い換えを無視している。なぜか? この言い換えの意味が明瞭でない、わかりにくいと考えられたからだろう(こんな忖度をしてもしかたがないが、後にそれがはっきりする・・・と、思う)。

余談だが、вам меряютは、与格だから、「あなたを量る」ではないだろう。自分も量られる、ではなくて、自分の分も量られる。たぶん、亀山訳はわかりやすくするためだろう。米川さん、原さんも同様だから。なお、辞書によると、Мерить в ту же меру は福音書の表現として、「与える、払う」のような意味があるようだ(возмеритсяも辞書に見つけることができなかったのだが、それに近いらしい。嘘だったらすみませんです)。当の福音書も引用しておこう(一応、「量り与えられる」という訳に注意を)。マタイ7章2節:

ибо каким судом судите, таким будете судимы; и какою мерою мерите, такою и вам будут мерить

あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。(日本聖書協会口語訳)

さて、弁護士の言い換えは重要である。検事も後でそれを取り上げている。すなわち、福音書の教え、戒めを、「量りなさい」という行動を求める言葉に換えているからである。ここは親子の対立について論じている箇所だから、したがって、親への戒めが、子への許可に変貌しているわけだ。それで、

子どもたちがわたしたちを同じはかりで量ったとしても、どうしてそれを責めたりできるでしょうか?(亀山訳648ページ)

となる。とはいえ、ここが微妙なところなのだが、弁護士として、あまり極端な、反感を買うような言葉を用いてはいけないので、上記の『言い換え』は見過ごせば見過ごせるほどの、サラリとした、しかしながらある効果を持つフレーズとして発せられたわけだ(かどうかも微妙だが)。が、これが検事の注意を引いたのである。再び登壇した検事は:

И вот воздвигают пред нами лжеподобие Христа! В ню же меру мерите, возмерится и вам, восклицает защитник и в тот же миг выводит, что Христос заповедал мерить в ту меру, в которую и вам отмеряют

そうして、わたしたちの前に偽のキリスト像を建造したのです。『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』といったその絶叫のすぐあとで、キリストは、キリスト自身が量られたのと同じそのはかりで量れと説いた、というのですから。(亀山訳662-3ページ)

検事は、弁護士の言ったことの前半部分(『』内)はちゃんと引用しているが、後半部分(キリスト自身云々)はまったくの創作になっている。亀山訳、648ページのそれ(弁護士の発言)と、663ページのそれ(検事の引用)を並べてみる。

мерить в ту меру, в которую и вам меряют
あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです

мерить в ту меру, в которую и вам отмеряют
キリスト自身が量られたのと同じそのはかりで量れ

これはきっと、「偽のキリスト像」であることを明確にするための読者サービスだろう。しかし・・・しかし、検事が弁護士の言葉をつくりかえてはまずい・・・だろう。討論にならない。それに、その後の検事の議論ともかみ合わない。検事はこんなふうに言っている。

しかし、キリストが命じられたのは、ほかでもありません、こんなことをしてはいけない、こういう行いはつつしむようにということでした。(中略)わたしたちを辱めた者が量った、同じそのはかりで量ってはならないのです。わたしたちの神が教えてくれたのはこういうことであって、子どもたちに父親を殺すことは禁止するのは偏見だ、などということではけっしてありません。(亀山訳663ページ)

つまり検事は、「自分を量ったはかりで量れ」という検事の言い換えは間違っていると言いたいわけで、この議論を生かすためにはそのように訳さなくてはならない。

父親らしいところなんざ・・・

Но отец, отец — о, все сделал лишь вид отца, его ненавистника с детства, его врага, его обидчика, а теперь — чудовищного соперника!

しかしそれは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた陵辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか!(米川訳353ページ)
ところが、父親となると、そう、すべては子供のころから憎むべき相手であり、仇敵であり、侮辱者であり、そして今や恐るべきライバルとなった、父親の姿がなせるわざなのです!(原訳589ページ)
しかし、相手は父親でした。つねづね姿かたちだけの父親、子どものころから大嫌いな相手、自分の敵、自分をおとしめる者、そしていまや・・・・・・怪物のごときライバル!(亀山訳655ページ)

三人三様。正解はどれでしょ? まず、米川訳。Делать вид がпритворятьсяつまり、「・・・のふりをする」だから、сделал лишь вид отцаは「父親の仮面を被っているだけ」となる、という解釈でしょう。実にそれらしいが・・・しかし、後ろにつづくненавистникаとかврагаとか・・・はどういう扱いなんだ。отцаと同格でしょ。でしょ? 父親にして子供のころからにっくき奴、敵であり無礼者、そしていまや・・・その仮面ってのはおかしい。

ここまで間違っていないとすれば、亀山訳も変だ。同じ理屈で「姿かたちだけの」が「ライバル」まで修飾してるはずだから。それにсделалはどこに行った? そもそも「姿かたちだけの父親」の意味もよくわからない。

というわけで、原訳が正解と思うのですが・・・もうちいとすっきりした文にして欲しいとは思うけど・・・

あとは、小さなことをいくつか。

多数の一瞬

В действительности может мелькнуть тысяча вещей, ускользающих от наблюдения самого тонкого романиста

現実には、きわめて緻密な小説家の観察眼からさえこぼれおちてしまう、おびただしい事実が、一瞬にして起こるかもしれないのですよ。(亀山訳624ページ)

мелькнутьという言葉は、よく「ひらめく」とか訳されるんじゃないかな。辞書的に言うと、「ごく短い間現れる」かな。だからね、たくさんのことがチラチラチラチラしたかもしれんってわけで、一瞬の間に多くのことが生じるのとは違います。

『窓越しにスヴェトロワ嬢の不在を確かめるのは無理』という検事に対し、弁護士が被告は父親の動きか何かから察したかもしれないと言っているところ。被告が何かを耳にしたかもしれない、目にしたかもしれない、被告の注意を引くべきものはたくさんあったかもしれない、というわけだ。「おびただしい事実が起こる」のとはいささか違うのだ。ちょっとしたしるしはたくさん現れていたかもしれない、という感じ。「しるし」なんてどこにも書いてないとか、完了体がどうとか言われそうだけどね。ま、そういう人は論外。

憎むというから・・・

Считая себя сам (и на это есть факты) незаконным сыном Федора Павловича, он мог ненавидеть свое положение сравнительно с законными детьми своего господина: им, дескать, всё, а ему ничего,

当人が自分をフョードルの私生児とみなしていたため(これを裏づける事実もあります)、主人の嫡出子たちと自分を見くらべながら、おのれの出自を憎んでいたかもしれません。あの方たちにはいっさいが与えられている、しかし自分にはなにもない、(亀山訳631-2ページ)

少し前に(631ページ)「おのれの出自を憎み」(ненавидел происхождение свое)という一説があるのに、あえて「出自を憎んでいたかもしれません」と訳したのには相当の理由があるのだろうが、しかし、ここで憎んでいるのはсвое положение であり、それにすぐつづいてсравнительно(比較して)という言葉があり、さらに比較している内容が「あの方たちにはいっさい云々」とあれば、このположениеは立場とか身分とか訳したほうがいいと思うのでありまする。

臆病なふるまい

Мы даже особенно не должны бояться теперь и, так сказать, отмахиваться от иной идеи, как дети или пугливые женщины, по счастливому выражению высокоталантливого обвинителя

とりわけわたしたちは、いまはとくに恐れてはいけません。才能あふれる検事のすばらしい表現をお借りするなら、子どもや臆病な女のように、ある思想をぽいと投げ捨ててしまうべきではないのです。(亀山訳642ページ)

こんなことまで取り上げるのはどうかと思うけど、もうすぐ終りだからね。妙な批判をされないためにもよく考えなくちゃってな意味で。というのは・・・恐怖から、ぽいと投げ捨てるという表現が気に入らない。отмахиватьсяの第一の意味は、蚊とか蝿とか振り払う動き。明瞭。第二の意味は、たとえば、難しい問題にぶち当たった時に、やりたくねえって顔をしたり、なおざりにしたり、拒絶したり・・・結局、いやだってわけでしょ。顔の前で手をふっていやよいやよ。отмахиватьсяを生かすなら、手の動きであらわすんだろうけど、一言でその意味を表すなら、「ある思想から目をそむけてはいけないのです」。これも不適切訳とか言われるのかなあ・・・なお「思想」という訳語も議論の対象かもしれませんねえ・・・

この際自分は・・・

я позволю назвать предмет собственным его словом, собственным наименованием

わたしは対象を、自分なりの言葉で、自分なりの呼び名で呼ばせていただこうと思うのです。(亀山訳647ページ)

どうしてこれが、собственным его словомが、「自分なりの言葉」なのか、わからない。「対象なりの言葉」、すなわち「それにふさわしい言葉」ではないのかなあ。

another

Катя, прощаю тебе! Братья, други, пощадите другую!

カーチャ、きみを許すよ! 弟たち、友だちも、どうかあの人を許してやってください!(亀山訳673ページ)

другуюはほかの女。亀山訳の「あの人」はカーチャのように読めないかなあ・・・

・・・・・とりあえず、4巻の終りまできたようです・・・

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2009年5月 8日 (金)

カラマーゾフ12編 その11

しかし、そんな同情を示せるような瞬間だったでしょうか。いいえ、彼が飛び降りたのは、ほかでもありません。自分の凶行の唯一の目撃者が、はたして生きているのかどうかを見届けるためだったのです! 注意してほしいのは、彼がグリゴーリーを介抱し、額をハンカチでぬぐってやっていることです。しかし、相手が死んでいると思いこむとすっかりうろたえ、全身血まみれのままふたたび恋人の家へ引き返しました(亀山訳566ページ)

(いいえ以下)Нет, он соскочил именно для того, чтоб убедиться: жив ли единственный свидетель его злодеяния? Всякое другое чувство, всякий другой мотив были бы неестественны! Заметьте, он над Григорием трудится, обтирает ему платком голову и, убедясь, что он мертв, как потерянный, весь в крови, прибегает опять туда, в дом своей возлюбленной

ドミートリー・カラマーゾフが飛び降りたのは同情からではない、という出だし。ところが、飛び降りたとたん、介抱し、死んだと思いこむとすっかりうろたえ・・・ 彼の心に何か起きたのかと思えるような訳。はたしてイッポリート・キリーロヴィチは彼の心のよき変化に注意を促したかったのでありましょうか? 飛び降りてそばについたとたんに生きていてほしいという気持ちの生まれる人間の心の美しさでありましょうか? いや、いや、検事が注意を向けたのは、血。なんとなれば血まみれで平気な犯罪者の心理について、この後展開しているのであります。したがって、検事の考えによれば、ドミートリーは同情からの行動を取らないはず。見届けようとして(чтоб убедиться)、見届けた(убедясь)のである。「思いこむ」は、意味はこの上なく正しいが、目的と達成がぼやけるかなあ。それから、「見届ける」という言葉は「・・・かどうか」と相性がよくないような。

さてさて、検事によれば、ドミートリーは確かめるために飛び降りて確かめた。その線で冷静に見ると、трудитсяは、べつに「介抱する」という意味ではない。グリゴーリーのために、ではなく、グリゴーリーのことで「労をとった」のである。すなわち、「手間をかけてグリゴーリーの頭をハンカチでぬぐい」、である(くどいようだが、それで血まみれになったことに検事は注意を促した)。さらに、死んだと思い込んでうろたえたのではない。グルーシェニカの家へ駆け出すに際して、死んだと確信しており、同時にкак потерянныйであり、また、血まみれでもあったのだ。彼が動揺していたのは、グリゴーリーを殴ったからではなく、ここにもグルーシェニカはいなかったからだ。как потерянный、途方にくれたのではあるが、それは、どうしていいかわからないからで、こういう訳をすると、某集団からはバカといわれそうだが、「やみくもに」のような感じではないのか・・・と、これが検事の立場からの一貫した論理と考えますのですが、まあ、こんなことでガタガタ言うのは変人だな。ついでだけど、600ページの「殺してしまったのか確かめるため」、「介抱した」というのもなんだかいやだな。弁護士が検事の言葉遣いを皮肉ってるみたいで。そこで使われているхлопотатьもたぶんтрудитсяを言い換えただけで、「介抱する」でなくてもねえ。

カラマーゾフはピストルで自殺する、人の記憶に残るだろう! 彼もむだに詩人なわけではありません! ろうそくを両端から燃やすように、おのれの命を燃焼させたのもむりはありません!(569ページ)

Недаром же мы поэт, недаром же мы прожигали нашу жизнь, как свечку с обоих концов

二つのнедаромを訳し分けるところが独特だが、それはそれ。疑問点は「おのれの命を燃焼させた」。ろうそく云々の形容がついているので、全体で、生き急ぐ、のような意味にとれるからそれでいいのかもしれない。しかし、「おのれの命を燃焼させた」というとちょっとかっこいいようなところも感じられるが、どうもそうでなさそう、というか、この場合のпрожигатьは成句の一部でもある。ろうそく云々と合わせて二様に使うところがしゃれてるんだな(と、これは想像)。すなわち、прожигать жизнь  :вести беспорядочный образ жизниあるいは、бесцельно и бесполезно проводить время в шумных удовольствиях, губительных для здоровья и материального существованияで、乱脈な生活を送る、あるいは、無意味に時間を浪費する、のような意、かな。ですからね、一工夫ほしいかなあ、と・・・

複数の目撃者が、惨劇の一ヶ月前モークロエで、カテリーナ・ヴェルホフツェワ嬢から受けとった三千ルーブルを、まるで小銭みたいにいっぺんに使い果たしてしまったところを見ている。とすれば、そんな男に半分のお金を取っておけるはずがない。(613ページ)

半分のお金を取っておけるはずがないのは、「そんな男だから」ではなくて、全部使い果たしてしまったから。というか、не мог отделить от них половинуは、「そこから半分取り分けることはできなかった.」。ま、取っておけるはずがない、のほうが感触はいいかな。

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2009年5月 3日 (日)

カラマーゾフ12編 その10

ながながとほとんど本筋と関係ないことばかりほじくり返してきましたが、残り少なでもありますし、サクサクっといきたい。というか、パソコンの調子悪し。作業しづらし。そろそろ買い換えようかと。その前に終えたい。というか、いろいろと面倒だで、簡潔にね。というか、まず、わかりやすいところから。

Вспомните, вам дана необъятная власть, власть вязать и решить.

思い起こしてください、あなたがたにははかりしれない権限が与えられています、人間を縛り、裁くことのできる権限です。(亀山訳638-9ページ)

何も問題はない? いんや。「縛り→裁く」権限はないはずだ。さらに、решитьに裁く意味ありや? へへ、簡潔にというなら、こういうもって回った言い方はやめて、早く結論を言ったらよかろに。グラタン。ウエスタン。Ушаковの辞書によれば:

РЕШИТЬ:Развязывать; только в выражении: власть решить и вязать - полная, непререкаемая власть (евангельское выражение)

つまり、福音書の表現で、власть решить и вязать の形でのみ用いられる。意味はвязать(縛る)の反対、「解く」(問題を解くの解く、じゃなくて、解放するほう)だ。「つなぐ←→解く」の問題はたしか2巻にもあったね。たぶんそのときも引用したんじゃないかと思うけど、今回もテキストの註にあったので、マタイ福音書18の18を引用しておく。ロシア語訳のほうはрешить и вязать の形じゃないけど、こころはそうだということで。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる(日本聖書協会新共同訳)
Истинно говорю вам: что вы свяжете на земле, то будет связано на небе; и что разрешите на земле, то будет разрешено на небе

スメルジャコフの自殺に関して;

самоубийца, накладывая на себя руки, в этот момент мог вдвойне ненавидеть тех, кому всю жизнь завидовал

自分の命を絶とうと両手を胸にあてたその瞬間、自殺した彼は、一生を通じてうらやんできた人々への憎しみを、何倍にもふくらませていたかもしれないのです。(亀山訳637ページ)

またまた辞書によれば、Наложить на себя руки - покончить жизнь самоубийством。つまり、これだけで「自分を手にかける」って意味らしいね。だから、両手を胸にあてたかどうかは、神のみぞ・・・のような。

ふう、これで一応一安心。あとはどうとでも・・・まあ、上記もどうでもいいか・・・

с тем чтоб уж совершенно исчерпать весь этот вводный эпизод о подозрении Смердякова в убийстве и покончить с этою мыслию раз навсегда

スメルジャコフの殺人容疑という当初の説を徹底的に洗い、その考えに永久にけりをつけるためである。(亀山訳543ページ)

スメルジャコフの殺人容疑=当初の説? 当初の説ではないでしょう? 最初っからそんなこと言ってたのは誰かと言えば・・・そうじゃなくて、「容疑の発端となったエピソード」では? というのも、イッポリート・キリーロヴィチがスメルジャコフ論をどう切り出したか、見よ:

「まず第一に、このような容疑の可能性はどこから生じたのでしょうか?」(亀山訳544ページ)

次もおもいっきり些細だけど、考えてる余裕がないので

Человек, не смигнувший задумать такое бесстрашное и зверское дело и потом исполнить его

これほどにも恐ろしい野蛮なことを、何のためらいもなく計画し、実行にうつすような人間が、(亀山訳552ページ)

бесстрашныйは恐れを知らぬ、大胆不敵。「恐ろしい」でもいいようなもんだけど、スメルジャコフが「恐怖心から口を滑らす」ような人間じゃないと言うところだし、わざわざбесстрашныйという言葉が選ばれたのだから・・・

もう一つ

если б он промолчал хоть только об деньгах, а потом убил и присвоил эти деньги себе, то никто бы никогда в целом мире не мог обвинить его по крайней мере в убийстве для грабежа

もし彼が、たとえお金のことだけでも黙っていて、あとで殺してそれをふところに入れてしまえば、彼を疑う人など、この世界にだれ一人としておりません。すくなくとも、強盗殺人などという容疑はかけられません。(亀山訳553ページ)

「・・・しまえば、」のあと、原文は、「世界中のだれ一人、彼に、すくなくとも強盗殺人の容疑をかけることはできません」。それを、わかりやすくするために二つの文にわけたのだろうが、「彼を疑う人など一人としておりません」とやってしまってはだめ。この部分だけみて、結局同じことでしょ、まあいいじゃないの、と言ってもだめ。というのは、検事の論理を先取りしちゃってるから。強盗殺人はない→それじゃ動機は・・・ときて、「とすると、彼に嫌疑がかけられるとしても、それはむろん最後のことであり、」(553ページ後ろのほう)とくる。慎重に論理を積み上げているのに、最初から「一人としておりません」とやっちゃだめ。

いつにもましてずさんな話になっていたら・・・ごめんちゃいです。

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2009年4月28日 (火)

カラマーゾフ12編 その9

Чему же верить? Первой ли легенде — порыву ли высокого благородства, отдающего последние средства для жизни и преклоняющегося пред добродетелью, или оборотной стороне медали, столь отвратительной?

いったいどちらを信じるべきなのか。最初の伝説、つまり、なけなしの生活費をなげうち、慈善に身を投じた高潔な衝動のほうでしょうか。それとも、じつにいやらしい、メダルの裏側でしょうか。(亀山訳526ページ)

ドミートリーの二つの側面について検事が述べているところ。問題は「慈善に身を投じた」。ひとつには、一度限りの行為を見て、「慈善に身を投じた」というかどうか。さらに、慈善:добродетельを行ったのはドミートリーということになるが・・・同じ箇所:

善行の前に膝まずいて(米川訳268ページ)
善行の前に頭を垂れた(原訳476ページ)

この「善行」はカテリーナ・イワーノヴナの行為。さて、いったいどちら? преклонятьсяはお辞儀をする、とか、崇拝する、とか。おそらく第1部第3編の4、ドミートリーがカテリーナ・イワーノヴナに五千ルーブルの債権を手渡したあと、「これ以上ないというぐらいうやうやしく、思いのかぎりをこめてお辞儀した」(亀山訳1の305ページ)ことをさしているのだろう。というわけで、一件落着・・・・・

とはいかないんだなあ。そもそも、добродетельを善行と訳したのが悪いんでないかい(もちろん、この場合、の話よ)。あの、カテリーナ・イワーノヴナの行為を日本語で善行とは言わない・・・と思う。いや、絶対に言わない・・・・・と思う。米川さんまで・・・・・では何と言う? 美徳、かな。いまどき使わない言葉を避けるなら、善いというより、むしろ美しい行為と言うべき・・・と思う。

お話かわって、実につまらないことですが、亀山訳529ページ:

всегда могу пойти к оскорбленной мною невесте

自分を侮辱した婚約者のところへいつでも出かけて行き、

мною(自分に)、оскорбленной(侮辱された)、невесте(婚約者)。自分が侮辱した、の誤植かな。・・・そのすぐ後:

だまし取ったふところのお金の半分を目の前に差し出して

「ふところのお金」というのは現在の所持金である・・・と思う。だましてふところにした金、ならよかです。・・・さらに少し先:

Этот самый бешеный, но слабый человек, не могший отказаться от соблазна принять три тысячи рублей при таком позоре,— этот самый человек ощущает вдруг в себе такую стоическую твердость и носит на своей шее тысячи рублей, не смея до них дотронуться!

彼はきわめて凶暴な男です。しかし弱い人間です。あれほどの屈辱を味わいながら三千ルーブルの受け取りをこばめない弱い人間が、とつぜん自分自身にこれほどストイックな意志の強さをおぼえ、千五百ルーブルに指一本ふれることなく、首にかけて持ち歩いていたというのですから!

ドミートリーの性格分析。бешеныйは確かに「凶暴」だし、ドミートリーは確かに「凶暴」だし、まったく正しいとしか言いようがないし、読みやすくするため文章を短く切ったのは結構なことだし、・・・しかし、彼がきわめて凶暴な男であるという一文がここにある意味はあるか? ストイックな態度が彼に似合わないというのがここの趣旨である。そして、亀山訳では「弱い人間」が後半の長い文章の主語になっているが、原文では、「この、きわめて凶暴だが、弱い人間」に尾ひれがついて、もう一度「この人間」と言い直して主語になっている。(この言い直しがなければ、бешеныйを誘惑に対抗しうる力と解釈する可能性があるかもしれないが、そうではないので)、бешеныйも金に対する意志の弱さと関係がなければならない。「凶暴」でいいか? 参照:

この非常に乱暴であると同時に、あんな屈辱を忍んでさえ三千ルーブリの誘惑を斥け得なかった弱い人間が、突然こんな堅固な克己心を発揮して、千ルーブリ余の金に手もつけず、頸にかけていたというのです!(米川訳270ページ)
あのきわめて激しやすい、それでいてあれほどの恥辱を忍んでまで三千ルーブルを受けとる誘惑を拒みきれなかった弱い人間が、ほかならぬその男が、突然、これほどストイックな意志の強さを内に感じて、千ルーブル以上もの金を首にかけて持ち歩き、手をつけようともしなかったというのです!(原訳478ページ)

ноを「あると同時に」とか「それでいて」とかしたのはいいと思う。「乱暴」はどうかなあ。「激しやすい」はいいかな。「抑えのきかない」とかだともっといいような・・・「ほかならぬその男が」は実に、原文に忠実たらんとする原さんらしいけど、この位置でも必要なのかどうか・・・文章の構造が違うし、ニュアンスもまったく違っちゃうと思うけど・・・意味も「ほかならぬその男」というより、「まったくこういう人間」ってな感じ?

その続き:

Сообразно ли это хоть сколько-нибудь с разбираемым нами характером?

はたしてこれが、わたしたちが検討してきた被告の性格と、ほんのすこしでも合致するというのでしょうか。

разбиратьは分析する、とか。もち、検討するもよさそう。しかし、普通こういう場合、わたしたちは「わたしたちの理解する」と言う。理解するという意味もあるようだし・・・現在形だし・・・しかし・・・

しかしねえ、キミ、日本語ではこういう場合こう言う、式の考え方は危険じゃないの? ロシア人がそんな使い方をしているかどうか、キミにわかるはずがない。だいいち、「理解する」なら他に単語が・・・・・いや、こういう場合はこう、というすり合わせを重ねるほか、翻訳なんかしようがない。辞書の先頭から順に合いそうな訳語を探すんじゃだめだよ。それからね、「理解する」ったって、いろんな使い方があって、この場合の理解するはразбираемыйがぴったりなのさ・・・きっと・・・たぶん・・・

調子にのりすぎだな、些細なことで・・・

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2009年4月23日 (木)

カラマーゾフ12編 その8

検事の論告から

Тут происходит его встреча с молодою, высокого характера и развития девушкой. О, я не смею повторять подробностей, вы их только что слышали: тут честь, тут самоотвержение, и я умолкаю

このころ、高潔で教養もある若い令嬢との出会いが生まれました。そう、その詳細をここでくり返すことはいたしません。みなさんが今しがた、お聞きになったとおりです。名誉とか自己犠牲とかいう問題もありますので、そこはわたしも口を閉ざします。(亀山訳525ページ)

この訳文を素直に読むと、キミの辞書に素直という言葉はあるのかねと言われると困りまするが、うー、名誉とか自己犠牲とかに関わる問題に触れることになると差しさわりがあるので口を閉ざす、詳細をくり返すことはしないというのもさような意味である、ととれる。つまり、なんだな、「裁判長も検事も・・・彼女(カテリーナ・イワーノヴナ)の乱心に乗じて告白を聞きだすということが、恥ずかしかった」(501ページ)のを引きずってるんだな、いまだに。「若い令嬢」のいたいところにさわりたくないってことだな。アタボーよ、ちゃんとне смею と書いてあるぜ、そりゃもう、そういう意味だろが、とおっしゃるか。そりゃもう、そんなことようしいひんというムードは”О”にも現れちょるけ、それはそうかもしれないが、あまり重点を置いてはあきまへん。なぜなら、これは、被告の話をしているところだから。

ねえ、ドミートリー・フョードロヴィチの名誉、自己犠牲、は触れてはならんことじゃないでしょ。そうなのよ、これは、少し後に「裏側」について説明がある、「メダル」の表側を言ってるんだね。ただし、それを言うのに一からくり返すのははばかられるというだけ。なんとなくね・・・「名誉の問題がある」と言ってはかえって失礼! слышали(お聞きになりましたでしょ)のあとに:(コロン)があるでしょ。それは、「くり返」さない理由を示してるんじゃない。思い出してもらいたいことはこれです、という意味のコロン。

тут честь, тут самоотвержениеという言い方。「あれは名誉です」、「あれは自己犠牲です」と良いところを挙げたわけさ。だから、後につづく文も、「軽薄でだらしないながら、真の高潔さや高邁な思想の前に率直にこうべを垂れた青年の姿が、わたしたちの目にじつに好ましく映りました。」となる。だからして「そこはわたしも口を閉ざします」のではなく、文句のつけようがないので口を閉ざすんでしょう。

スメルジャコフの遺書

スメルジャコフの遺書、どう思う? いきなりそう訊かれたって、ねえ。ま、何気なく読んでいれば、別になんとも思わんし、そこだけ取り上げて「だれにも罪を着せないため」ってのはどういう意味だ?と言われりゃ、「アレはあっしがやりやした」ということだと解釈したって責められまい? さてさて、そこでさ、訳者さんたちは、そないな意味をも込めて訳してるのか、そもそも原文にそないな意味はあるのか? あっしにはわかりやせんが、ま、こういう問題もある、ということで。

アリョーシャがスメルジャコフのうちのテーブルの上に見た遺書は:

Истребляю свою жизнь своею собственною волей и охотой, чтобы никого не винить

余は何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ(米川訳181ページ)
だれにも罪を着せぬため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ(原訳360ページ)
だれにも罪を着せないため、自分の意志と希望によってみずからを滅ぼす(亀山訳399ページ)

イッポリート・キリーロヴィチはちょっと間違って引用している:

Истребляю себя своею волей и охотой, чтобы никого не винить

ま、どうということはない。原さんはまったく同じに訳してるし、米川さんは「帰せぬ」→「帰せない」だけ。ただし、亀山訳は:

だれにも責めを負わせないため、自分の意志によってみずからを滅ぼす(560ページ)

変化が原文より大きいように思う。「責めを負わせない」のほうが、親殺しから遠のいて良いようにも思う。その部分に相当する、原文の後半部分は変化がないのだから、最初からそう訳すべきではないか? ふん、余計なお世話だ。

物語の中でこの遺書はあまり重要視されていない。検事がちょいと取り上げているだけで、弁護士が、だれにも罪を着せないとはある種の自白である、ってなことを言う様子は微塵もない。それはもともとこの遺書の言いたいことが

わたしは自分自身の意志により、好きこのんで自分自身の生命を抹殺するのだから、だれも責めないでください

であるからだ。それはきっと、検事にも、弁護士にも、聴衆にも明白なのだろう・・・と、ロシア語がよくわからないわては想像する・・・スタヴローギンの遺書を、これに似たものとして取り上げる方が時々おられる。

Никого не винить, я сам

何人も咎むることなかれ、余自らなり

ね、主旨は、だれも咎めるなってことなんだ。スヴィドリガイロフの遺書はもっと明白。

оставил в своей записной книжке несколько слов, что он умирает в здравом рассудке и просит никого не винить в его смерти

手帳には、正気で死ぬのだから、自分が死んだことでだれも責めないようにと、二、三言、書置きしてあったとか(江川卓訳)

されば、なにゆえ、スメルジャコフの遺書に限って、親殺しという重大な問題が絡んでくるかもしれないのに、「罪を着せる」などというきわどい言葉(そう思うのがわてだけだったらごめんなさい。でも、訳文から間違った想像を膨らませるのは良いことでなかろうよ)になるのか? そのわけは、この遺書が

писанную своеобразным слогом

「独特の文体で書かれています」(イッポリート・キリーロヴィチ評)からだ。独特の文体ってのは、つまり、普通はこうは書かないってことだ。もう一度遺書:

Истребляю свою жизнь своею собственною волей и охотой, чтобы никого не винить

問題は、чтобы(~ために)である。従属節の動詞が現在形だから、主語は主節と同じってことになるらしい。そこで、「誰も責めないために」自殺する、ではおかしいってことで、「だれにも罪を着せない」とされたのだろう。しかし、この場合、彼の立場から「罪を着せる」という意味がвинитьにあるように思えない。ま、親殺しを匂わせるために、あえて「罪を着せる」を選択されたのなら、それはそれで一つの見識・・・・かなあ・・・・・

この短い文で、わざわざ「独特の文体」って言ってるのは、スメルジャコフがスヴィドイリガイロフと同じような意味にしたかったのに、舌足らずな、あるいは、間違った文章を書いたということではないだろうか・・・

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2009年4月17日 (金)

カラマーゾフ12編 その7

カテリーナ・イワーノヴナがイワン・フョードロヴィチについて話しているところ。

Я имею честь быть его единственным другом! — воскликнула она вдруг, точно как бы с каким-то вызовом, засверкав глазами

あの方のたった一人の友人であることを、わたしは光栄に思っています!」彼女は目をぎらぎらさせ、まるでだれかをけしかけるような調子で叫んだ。(光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』4の502ページ)

「だれかをけしかけるような調子」とは意味深。

けしかける:1 犬などに声をかけたり態度で示したりして、目標に対して攻撃的な態度を取らせる。 2 元来その気の無かった本人をうまい言葉で誘ったり 勧めたり して、やる気を起こすように仕向ける

一方、вызовは、ここでは「挑戦」。例文:С вызовом посмотреть на когон(挑むようにダレカを見る)

どうもおもむきが違うような・・・え、承知の上の工夫だろうって?・・・うーむ・・・

さて、サクラも北へ行ってしまいましたが・・・カラマーゾフの兄弟にも「さくら」が出てくるのでしょうか。亀山訳でいうと515ページ。イッポリートの演説に二、三の「さくら」が拍手する、というんですが・・・なぜ「さくら」と訳されるかというと、

(裁判長も)「さくらをきびしくにらんだだけだった」(文中「さくら」に傍点)

лишь строго поглядел в сторону клакеров

とあるところの、клакёрが、Человек, нанятый для того, чтобы шумно аплодировать пьесе или артистам и тем создавать впечатление успеха(金で雇われて芝居や役者に拍手する連中)、つまり、まさしく「さくら」だからですが、いや、検事がさくらを雇いますかね。あるいは、金は出さずとも、誰かに頼んだりしますかね。「ロシアのトロイカ」のところで拍手、「民族主義と神秘主義」のところで拍手(521ページ)・・・勝手に拍手してるだけに思えるんですがねえ。ここでклакёрは、клак(拍手)する人というだけの意味じゃないですかねえ。芝居見物の雰囲気を匂わせるためにそういう言葉を使ったんで・・・とすると、「大向こう気分の連中」とかね。

519ページ:

На этом замечании я прерываю начатую характеристику

このひとことをもちまして、わたしはいったんこの男の人物描写を打ちきることにします。

「この男」というと、スメルジャコフのことを言っているのかと思ってしまう。しかし、(以下大いに蛇足ではありますが)、今は「老人の子どもたち」の話をしていること、「このひとこと」のさすもの(『息子たちのうちのだれが、大旦那さまにいちばん性格が似ているかと申しますと、それはイワンさまでございます!』というスメルジャコフの評言)、これにつづく文章(そう、わたしはこれ以上の結論を引き出し、この若者の行く手には破滅あるのみだなどと、カラスみたいに不吉にがなりたてるつもりはありません)から考えて、イワン・フョードロヴィチの話だ。したがって、「この男」はやめてほしい。「いったん」はначатуюからきてるのかな? начатуюは「はじめられた」かな。まあ、「はじめられた人物描写」とやっつけるわけにもいくまい。しかし、「いったん」を成立させる状況証拠はない。むしろ、「これ以上の結論を引き出」」さないのだから、「途中ですが」としてもいいような・・・ま、「いったん」はやめてほしい。

521ページ。長々引用するわりに中身のない話ですが:

わたしは、善良であり、かつ才能ゆたかなこの青年に幸多かれと願うものであり、彼のナイーヴな理想主義と、民衆の原理に向けたそのひたむきさとが、世間でよく起こることですが、のちのち、精神的な面では陰気な神秘主義とか、社会的な面では排他的な民族主義とかに変わることのないよう、心から願うばかりです。と申しますのも、ここに述べたふたつの資質は、誤った理解のまま簡単に受容されたヨーロッパ文明が、つまりこの若者の兄、イワン・カラマーゾフ氏の苦しみの根拠となったヨーロッパ文明が早々にもたらした退廃よりも、もっと深刻な害悪を、国民にもたらしかねないからです。

枝葉を取りますると、害悪をもたらすのは「ふたつの資質」。そしてそれがさすのは「陰気な神秘主義と排他的な民族主義」であって、「理想主義とひたむきさ」ではない。一方、資質とは、生まれつきの性質や才能。ここまで間違ってない? 間違ってなければ「資質」はいけません。では、「資質」にあたるкачествоをどう訳すか。本来、量に対する「質」なのでしょうか。ここでは、一般的に獲得されうるものとして、「傾向」なんてのはどうかなあ。  

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2009年4月11日 (土)

カラマーゾフ12編 その6

亀山訳『カラマーゾフの兄弟4』505ページより

И, однако, промелькнула страшная вещь:

とはいえ、恐ろしい考えが彼女の頭をよぎった。(1)

原文には「彼女の頭を」はない。なるほど、彼女(カテリーナ・イワーノヴナ)に関する叙述の途中である。誰かの頭をよぎるとしたら、彼女以外にない。そして、「恐ろしい」という強烈な感覚を持ちうるのは本人しかない。彼女の頭と考えるのが妥当なのだろう。

米川訳:けれどここに一つ恐ろしい疑問が閃いた。(岩波文庫四巻253ページ)
原訳:それにしても、ミーチャとのかっての関係を話しながら、自分は彼をおとしめるような嘘をついたのではないか、という恐ろしい疑念がちらとひらめいた(新潮文庫下巻456ページ)

原訳は原文のコロン以下を含んだ訳。「自分は」とあるから、書いてなくても「彼女の頭」であるのは明白だ。米川訳も「彼女の頭に」を念頭に置いていると考えるのが普通だろう。なに、それでいいじゃないかって? しかし、ここにはかすかな疑問があるような気がするのだ。みんなに無理やり逆らって、妄想を膨らませてみよう。疑問点:ひとつ──やはり「彼女の頭」と原文に書いてあるべきだ。ふたつ──вещьは「もの、こと」だ。「考え、疑念」ではない。「恐ろしい考え」でなく、「恐ろしいこと」となると、ことは若干客観的になる。みっつ──いったい、いつ、彼女の頭にひらめいたのか。「一回だけ」。それが意味のあることなのか? だって、夢中になっている彼女がその場で疑問に対する答を出しているはずがない。よっつ──промелькнутьには、появиться, обнаружиться едва заметно(ほとんど気づかないほどに現れる)という意味がある。「(彼女の証言に)恐ろしいことが顔をのぞかせた」とか。そこで、続き:

:лгала ли она на Митю, описывая бывшие свои к нему отношения, ──вот вопрос.

ミーチャとの昔の関係を述べることで自分はミーチャに対して嘘をついたのではないか、という思いである。問題はそこにあった。(2)

「思い」は彼女のものであり、「問題」も彼女のものである。したがって、その解決は彼女がなさねばならぬ。この続きの部分で、亀山訳は、彼女の立場から問題に答えており、正しい態度である。一方、原訳では(お持ちの方はごらんになって)、答がいつのまにか客観的なものになってしまっているが、そのかわり、ある矛盾を避けることができた。その矛盾とは? 続きを亀山訳で:

いや、あの床につくほどのお辞儀のせいでミーチャは自分を軽蔑したと叫びながら、意図して彼を中傷していたわけではなかった! 彼女は自分でもそう信じていたし、ことによると、そもそもあのお辞儀の瞬間から、彼女は自分をあがめていた当時の素朴なミーチャが、自分をからかい、軽蔑していると深く信じ込んできたのかもしれない。(3)

矛盾とは:自分を軽蔑するミーチャが、自分をあがめる素朴な人物であるということだ。「当時の」という言葉もついている。「素朴な」とは、客観的な意見ではないのか? ここまできて、最初の疑問に立ち戻るわけである。最初の一文のстрашная вещь「恐ろしいこと」は彼女の頭にではなく、客観的に存在したのではないのか。賛同いただけないかもしれないが・・・

ところで、(2)の、「ミーチャに対して嘘をついた」のところの、лгать на когоは辞書によると、клеветать, наговариватьで「だれだれに対して嘘をついた」ではなく、「だれだれを中傷する」という意味だろう。「中傷した」は(3)にも出てくる(ここでは клеветала )。別の言葉で言い換えようと思うとなかなか難しいが・・・ 

おはなしかわって、512ページ。検事はん、酷い事件を紹介した後で:

かりにこれを悪党と呼ぶにしても、わたしは今、これが現代においてはひとり特殊な悪党である、などと申し上げることはしません。人殺しこそしなくても、この男とおなじように考え、感じている人間がおり、心のなかでは彼と同じように恥知らずなのですから。
もしかすると、悪党もひそかに良心と向かいあい、自分にこう問いかけているのかもしれません。『それなら、恥を知るとはいったい何だ。血を流すのが悪いなどというのは偏見ではないのか』

もしかすると以下が問題。まるで悪党にも良いところがありそう。ところが、『』内がそうではない。ここ、「悪党も」ではなく、「彼らは(人殺しこそしなくても、悪党と同じように恥知らずな人間)」でしょう。亀山先生には深い考えがあるのかもしれないが、そんなに面倒な話を検事がするとは思えない。

513-4ページ:

あるいは、小さい子どものように、両手でおそろしい幽霊を追い払い、そのおそろしい幽霊が消え去るまで頭を枕の下にうずめて、消えたとたんに、それをばか騒ぎと、悪ふざけとみなして忘れ去ってしまおうと思っている。

как малые дети, отмахиваем от себя руками страшные призраки и прячем голову в подушку, пока пройдет страшное видение, с тем чтобы потом тотчас же забыть его в веселии и играх

これもひねりすぎのような気が。「楽しく遊んで忘れちまおう」が普通ではないのかなあ。

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2009年4月 6日 (月)

カラマーゾフ12編 その5

どうも細かいことばかりで恐縮ですが・・・

検事の質問に、アリョーシャが、悪くすると父を殺すかもしれないとミーチャが言った、と答えたところ。そして検事が、

И вы, услышав, поверили тому?

「あなたはそれを聞いて、信じましたか?」

なんだかその、面妖な質問という気が・・・だって、それは「信じる」べきことがらではないような・・・かりにわたくしがアレクセイ・フョードロヴィチだとしまして、兄が父を殺すかもしれないと思ったとしても、「そう思いました」とは言っても、「その言葉を信じました」とは絶対に言いまっせん! って力を入れるこたぁない。え、わてだけ? そんなことないでしょ・・・それでね、ロシア人に違和感がないとしたら、веритьと「信じる」との間に多少の違いがあるということになる。

верить чему.:принимать за истину чтон。まあ、「本気にしましたか?」ならおかしくないかなあ・・・が、が、本題はそれではない。検事の質問に対するアリョーシャの答。

Боюсь сказать, что поверил. Но я всегда был убежден, что некоторое высшее чувство всегда спасет его в роковую минуту

信じたとは言いかねます。しかしぼくはいつも、ある高潔な感情が、そうした宿命的な瞬間に兄を救ってくれるだろうと信じていました。

そうよ、「信じる」ってのはこういうときよ。あ、それは今はいいのね。そうじゃなくて、「宿命的」。もし救われたとしたら、何も起らなかったわけで、そうなるとそれは「宿命的瞬間」ではなくなってしまうのではないか・・・え、どうでもいい? そうでした、そうでした。問題は、Боюсь сказать, что поверил:「信じたとは言いかねます」。いや、「信じましたか」と訊かれりゃあ、そう答えるのが人情。しかし、「しかし」が・・・Ноが・・・

米川訳:信じたとは申し兼ねます。けれど、・・・(岩波文庫四 225ページ)
原訳:信じたと言うのが、こわいんです。でも・・・(新潮文庫下 419ページ)
亀山訳:信じたとは言いかねます。しかし・・・(光文社古典新訳文庫4 466ページ)

まず、原訳は字面どおりに訳されてはいますが、いまさら何を怖がるんだか・・・「でも」は生きてるけどね。でもだめ。

さて、「しかし」ということは、「兄が本気で言ったとしても」、「しかし」、「そうはならないと思った」という意味じゃなくちゃね。検事につられて、「信じたとは言いかねます」と、否定が勝っちゃまずい。

そこで、Боюсь сказатьですが、使い方がよくわからなかったんだけど、 (как вводное предложение) - не знаю наверноеと書いた辞書もありました。「えぐわがんね」か? 「言いかねます」はよさそうだけど、場合によるんだろうなあ。たとえば、

彼のこと好きだけど、боюсь сказать, что делать?

こんな時(こういうのをちょっと見かけたもんで)は、「言いかねます」じゃなくて、「わからないの、どうしたらいい?」だろうなあ。えー、そういうわけでね、よくわからないってことで、「信じた」可能性も残しつつ言葉を濁すべきでしょう。言いかねるんなら、「なんとも言いかねます」とか・・・え、誤訳って言われるぅ? 大丈夫。このわたくしが・・・このわたくしが・・・へ、へ・・・いや、すんまへん、боюсь сказать, что うけあいます・・・

もうひとつ、ささやかな話題を調子っぱずれにご提供。検事の論告が始まったところ。

Начал он надтреснутым, срывающимся голосом, но потом очень скоро голос его окреп и зазвенел на всю залу, и так до конца речи

彼は、かすれ声でとぎれとぎれに話しだしたが、やがてその声は力をおびて法廷じゅうに響きわたり、その調子は論告の最後まで変わることがなかった。

надтреснутым, срывающимся голосомとはどのような声かという問題。その部分の各訳:

米川訳:罅隙のはいったような、きれぎれなふるえ声(258ページ、ムズな字は「ひび」)
原訳:とぎれがちの、かすれた声(460ページ)
亀山訳:かすれ声でとぎれとぎれに(509ページ)

先生方には申し訳ないんですが、わたくし、どれ(つまり、ひび、とぎれ、かすれ、ふるえ、の、どれ)がнадтреснутымで、どれがсрывающимсяなのか、わからんでございます。なにも謝るこたぁない、わっしがばかなだけですかい。ふん。露英の辞書、надтреснутый=crackedとある。ということは、こちらが、「ひびのはいった」もしくは「かすれた」でっか?するってえと旦那、срывающимсяが「とぎれとぎれ」? ・・・参考までに某所の英訳(ガーネットさんではございません)にhoarse and falteringとあった。ふうーん。なんだかなあ・・・

надтреснутыйのほうはなんとなくわかりやした。辞書にо голосе, звуке: дрожащий, дребезжащийとある。「ふるえ声」でおますな。あや、こっちが「とぎれとぎれ」? あれ、あれ、そうすると、ひびはどこへ行っちゃうの? かすれは? もしかして、срывающимсяもお仲間さん?
結論を先に言っちゃうと、うー、懸命に(?)調べたけんど、срывающимся голосом、どないな声かわからへんかった。ということで、よろしく、でございます。ふむ、気を取り直して、参照、第4編6。アリョーシャがスネギリョフ家を初めて訪ねたところ・・・あー、ここを読んでいたのが遠い昔のような・・・

だが、アリョーシャのそばに走り寄った主人は、踵でくるりと娘のほうに向きなおると、興奮気味に、どことなく調子っぱずれな声でこう答えた。
「そうじゃございません、ワルワーラさん(略)

Но господин, подбежавший к Алеше, мигом повернулся к ней на каблуках и взволнованным срывающимся каким-то голосом ей ответил
— Нет-с, Варвара Николавна

ここにございましたがな、срывающимся каким-то голосом。

米川訳:ちぎれちぎれな調子で(一 404ページ)
原訳:何やら素頓狂な声で(上 490ページ)
亀山訳:どことなく調子っぱずれな声で(2 108ページ)

え、え、これはまたどういうことでございましょう。ちぎれちぎれはともかく、素・・・いや、いや、考えてみれば「ちぎれちぎれ」ってのは声じゃないぞ。голосは声だろうに・・・それにしても、срывающимся氏、なかなかやるな。ある時は、とぎれとぎれ、またある時は、調子っぱずれ、しかしてその実体は・・・実はこの正体不明のところが、この言葉の本質かもしれませんねえ。

そもそもこれ、сорваться с языка(思わず口から漏れ出る)なんて時に使う言葉でありやして、この、「思わず」ってところが意外に肝心らしいんですよ。というのもね、сухим, дерзко-срывающимся голосом(意味はとりあえずわからん)という表現に関する批評がありましてね、いわく、срывающимся голосомは思わず出ちゃう声なのに、дерзкийは厚かましい、つまり、意図的であって、それをダッシュでつなぐとはどういうことか、うんぬんかんぬん・・・

ふむ、依然、意味は全然わからん。ちょっと使用例を。なんだかわからないお話から。

Волки! -срывающийся голос разнесся по всей улице

「狼だ!」というсрывающийсяな声が通りに響いた。

どうもねえ、とぎれとぎれではなさそうな・・・

次は夢判断か何か。夢でこんな声を聞いたら? というお話・・・ばかばかしいとおっしゃらずに、つきあってくんなまし。

Слышать во сне чей-то голос означает, что Вас ожидает приятное примирение в том случае, если голос спокойный и приятный. Если же голос высокий и срывающийся, то ждите разочарования и неудачи

つまりね、ここでは、спокойный и приятный(静かな心地よい)声とвысокий(高い) и срывающийся声とが対照されている(もちろん、前者は結構で、後者はよろしくないという夢判断。バカバカしい)。

それから、話し方指導で、姿勢が悪いと、писклявы(かん高い), срывающийся голосになる、というのもありました。
また、声の大きさとは関係ないようで、кричал(叫ぶ)場合もあれば、срывающимся шепотом(ささやき)のこともある(叫ぶほうが多いけど)。срывающийся от рыданий голосはわかるね。むせび泣きで思わず出ちゃう声。срывающимся от обиды голосомは腹立ちまぎれの声かな・・・というわけで、取り留めないというか、結局、どういう声かわからなかったのであります。というか、声質を形容するのではなく、意志と無関係に出る声、という意味じゃないかという気がしてきたのですが・・・

そういう意味で言うと「調子っぱずれ」は意外にいい線かも。・・・では、問題のнадтреснутым, срывающимся голосомはどういう意味かというと、さっぱりわかりません。「声の震えをおさえられずに」ってのはどうですかねえ・・・どうも「かすれ声」は根拠薄弱のような。だとすると、「とぎれとぎれ」になるのかどうか・・・ま、想像でものを言ってもしょうがないや。

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2009年4月 1日 (水)

カラマーゾフ12編 その4

выеденного яйца(腐った卵じゃないの?)は諺か金言か? (いやまあ、使い方を調べようと思ったのに)、さようなことで議論する人たちがいるのでござるな。拙者、用もないのに、ようわからんのに、眺めていたら、выедатьを分析して、これは生卵でもいり卵でもない、半熟ゆで卵であり、したがって・・・ああ、時間の無駄でござる。かくなる時に言うのでござるか、Не стоит выеденного яйца。ち、違う? さらば、いかなる時かの? 其れがわからなければ話にならん。これにてご免・・・とも、いかぬゆえ、拙者、またしても、ク、またしても、無理筋の議論をせねばならぬ。ク、ク、・・・

Все удивлялись и спрашивали себя: что может сделать из такого потерянного дела, из такого выеденного яйца даже и такой талант, как Фетюкович?

だれもがふしぎがってこう自問したものだった。こんな一縷の望みもない負けいくさで、フェチュコーヴィチのような天才といえども、いったいどんな手が打てるというのか、と。(亀山訳432ページ:)

「こんな一縷の望みもない負けいくさ」というところ。такого потерянного が「こんな一縷の望みもない」だろうから、выеденного яйцаが「負けいくさ」。他のお訳は:

こうした絶望的な手のつけようもない事件(米川訳201ページ)
こんな見込みのない、取るに足らぬ事件(原訳388ページ)

一見して原訳の「取るに足らぬ」は間違いだろうという気がする(だってさ、「取るに足らぬ」からって「どうすることもできまい」ってことはないし、なんたって「全ロシア的に評判になった」[いずれも原訳]んだからねえ)けど、でも、辞書にこんなのがあった。Выеденного яйца не стоит чтон.: о чёмн пустячном, не имеющем никакого значения。要するに、つまらねえ、意味がねえってかい。なるほど、取るに足らぬとしたくなる、が、が、こういうのもあった。не имеющем никакого значения, на что не стоит тратить усилий。どうしてつまらねえかっつうと、努力をしても甲斐がねえからなんだな。ま、卵がどうにかなっちまったっていう元の意味からしても、文脈からしても、取るに足らぬは見込みなし。

では、「手のつけようもない」は? ちょおっとニュアンス違うね。それに、「手のつけようもない事件はどうすることも出来ない」というのはかすかな撞着を含んでいる。なぜか? 原文ではВыеденного яйца не стоит という諺のうちの「腐った卵」だけが使われてるからだ。「どうにもしょうがねえ」という結論は読者の頭の中に予定されてможет сделатьと合わせて意味を帯びるんだなあ。イッヒ、自分でも何を言ってるかわからんぞ。

というわけで、「腐った卵」のようなしょうもないものを訳語とすべし。諺にでもあればなおよし。フム、思いつかない。してみると、少し意味は違うけど、「負けいくさ」はうまいのかな・・・例によって尻すぼみ・・・

次はホントに取るに足らぬ話で・・・アホか、と思わないで・・・

いやそればかりか、おそらくわずか二、三日のごく短い滞在期間に、彼が驚くほど深くこの事件に精通し、「こまかいところまで調べあげた」のを見て、一同はすぐにいかにも満足そうな声をあげた。(亀山訳432-3ページ)

いやね、「満足そうな声」ってどんな声をあげたのかなあって。だってさ、何か一つの行為を見て感嘆の声をあげるのはいちどきだけど、この場合、皆さんがそういうことに気づくのは「すぐ」とはいえバラバラで、あちこちでなんだかわからん声があがることになりゃあしないかって、いらぬ心配をしちゃうでござるよ。その部分、 все с удовольствием сейчас же заметили, что он, 「すぐに見てとって満足した」では不満足?

最後はラキーチンがグルーシェニカを「商人サムソーノフの囲いもの」と言っちゃった場面。

Дорого дал бы он потом, чтобы воротить свое словечко, ибо на нем-то и поймал его тотчас же Фетюкович

のちにこの一言を撤回するためになら、彼はどんな高価な代償でも払ったにちがいない。なぜなら、フェチュコーウィチがすぐさまこの一言で彼の挙げ足をとったからだ。(原訳398ページ)
この失言を帳消しにするためなら、彼はどんなに高い代償でも払ったにちがいない。というのも、フェチュコーヴィチはこのひとことで、ただちにラキーチンの正体を見抜いたからである。(亀山訳443ページ)

米川訳は後半が抜けているので省略。さて、「挙げ足をとった」か「正体を見抜いた」か? どうも「正体を見抜いた」とは思えない。なぜなら、その一言で正体を見抜かれたことをラキーチンが見抜くとは思えないからだ。すると、後悔することにはならない。

Ловить(поймать) на слове когоは、その言葉に乗じて、相手に言ったことを実行させるような時によく使うよう。ここでは「利用する」ような意味では? 「挙げ足をとった」とは少し違うけど、でも、まあ、そっちのほうでしょうか。

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2009年3月26日 (木)

カラマーゾフ12編 その3

だいたいねえ、ひとつのことをくどくど考えるほうが得意なもんでね、こうやって毎回新しいネタを探すのは大変でおます。まあ、おかげさまでね、数年前には一行読むのに数十年かかっていたロシア語も、いくらかわかるようになってきたかしら。千兆キロ踏破も夢じゃない! ま、そういう錯覚も、一人でやって、一人で納得してるだけだから生じるこって。だいたい千兆キロ踏破したところでどうだってんだい。フン、と、負け犬は胸を張るのではありました-с。

さてと、ちょっと長引用。

Но к нему другой с умом не пришел, а он и свой пустил... Как это, куда он его пустил? Это слово — куда он пустил свой ум, я забыл,— продолжал он, вертя рукой пред своими глазами,— ах да, шпацирен.
— Гулять?
— Ну да, гулять, и я то же говорю. Вот ум его и пошел прогуливаться и пришел в такое глубокое место, в котором и потерял себя.

でも、ですよ、この青年のところには、賢いお客、来なかったもんで、この人は、自分の知恵を出しきってしまったんですな・・・・・、で、どうやって、その知恵を、どこへ出し切ってしまったか? あの単語、何といいましたか・・・・・どこへ自分の知恵を出し切ってしまった、ど忘れしました」──と、そこで彼は、目の前で手をくるくる回しながらつづけた。「そうだ、シパツィーレン」
「道楽でしょう?」
「そうそう、道楽です。わたしが言ってるの、それと同じです。この人の知恵は、道楽に出かけて行って、ひじょうに深い場所に到着し、そこで自分を見失ったのです。(亀山訳460-461ページ)

まあね、もともとゲルツェンシトゥーベ先生の話がよくわからないから、苦心の訳なんでしょうが、「道楽に出かけて行った」知恵を「道楽へ出し切ってしまう」と表現するでしょうかねえ? それと、シュパツィーレンは・・・

まず、пустилから。上の一部を抜き出して:

а он и свой пустил

この人は自分の智慧をそのまま使ってしまったのです(米川訳221ページ)
この人は自分の知恵も手放してしまったのです(原訳413ページ)
この人は、自分の知恵を出しきってしまったんですな(再掲)

свойの前にи があるので、原訳の「自分の知恵も」に賛成。つまり、「賢いお客、来なかったもんで」ではなく、「賢いお客は来ないし」。異論もあるでしょう。先生、「智慧は結構、しかし二人の智慧はなお結構」(米川訳)とかいう諺から話を始めており、したがって、「二人」であることが肝要、と考えると、「もう一人が来ないので」と、前半を理由と考える訳し方はうなずける(米川訳もそう)。しかし、だからといって「出しきってしまう」理由にはならないし、「そのまま」なんて言葉を補う理由もない。先生が諺好きなのはわざわざ断ってあるわけだし、そこだけ理詰めに考えないほうがよさそう。свойの前のи のこともあるし、пустилに無理な訳語を当てずにすむなら・・・

そこで、пуститьの意味ですけど、普通は、自由にしてやる、とか。たとえば、小鳥を放してやるとかね。それから、どっかへ行ったり、入ったりするのを許すとかね。辞書にこんな例文もありましたがな。пустить детей гулять:お子たちにгулятьさせてやる、かな。なんか、出来すぎ君ではありますが・・・ふうむ、いったい、же、普通に訳してはいけないわけがあるのだろうか? いや、なんかあるにちがいない、と考えてみたけどわからない。なにも工夫しなければ、

он и свой пустил:彼は自分のもやってしまった・・・

それに続けて、「といって、どこへそれをやってしまったのか?」 というわけだあな。原訳の「手放す」というのは近いけど、ちょっとニュアンスが違う。今ひとつだと思うんだけど。だってさ、「どうして、どこへ手放してしまったのか?」(原訳413ページ)は少し変だけど許せるとしても、「手放した先」(同)のシュパツィーレンがねえ。たしかさ、ドイツ語の授業で最初のほうに習うじゃん、シュパツィーレン ゲーエン、идти прогуливаться・・・まあいいや、今度はその部分。

— ах да, шпацирен. — Гулять?

「ああそうそう、Spazieren」 「遊蕩でしょう?」(米川訳221ページ)
「ああ、そう、シパツィーレンです」 「遊ぶことですか?」(原訳413ページ)
「そうだ、シパツィーレン」 「道楽でしょう?」(再掲亀山訳)

いや、結構ですよ、гулятьに「遊ぶ」意味を見ても。しかし、その意味でspazierenというドイツ語を使いますかね、ドイツ人が? ましてや同じ意味で、прогуливатьсяと言ってはりますで。spazieren、гулять、прогуливатьсяは「ぶらぶら歩く、散歩する」という意味で完全に対応してるんじゃないですかねえ。言葉というものは、お互いの了解の下に使われていないと意味がないわけで、日本人はともかく、ドイツ人とロシア人の間でここで「遊蕩」の意味で使えますかねえ。少なくとも、「Гулять?」と口をはさんだ検事の脳裏に「遊蕩」はないはず。

пошел прогуливаться は「散歩に行ぃちゃぁったあ♪」でしょ。ゲルツェンシトゥーベ先生がしてるのは「道楽」みたいな具体的な話じゃなくて、たとえ話でがしょう。それから、行き着いた先の「ひじょうに深い場所」:такое глубокое местоですが、この「深い」:глубокоеは森の奥深く、みたいに使うときの「深い」でしょう。さらに、потерял себяですが、

路を迷ってしまった(米川訳)
自分を見失った(原訳、亀山訳)

「自分を見失った」のはミーチャじゃなくて知恵ですからねえ。なんで知恵が自分を見失うんだか・・・よくわかんないよお。いやはや、何もかもがすごく意味ありげ。「ひじょうに深い場所」ってのは自分を見失うような怪しげな場所なのかな。
うーむ、もっとずっと、ずううっと単純な話じゃないのかな。ぶらりと出かけて遠出しすぎて帰ってこられないというような・・・
フム、「道楽に出かけてひじょうに深い場所に到着して自分を見失った」ねえ。実にそれらしいけど、もう一度言うけど、ミーチャじゃなくて知恵ですからねえ。ミーチャから離れて、知恵が行動しているという話ですからねえ。

米川訳の「路を迷った」はтерять себяをlose oneselfと英訳したような感じ。そういう意味があるかどうか、辞書ではわかりませんでした。「消えちゃった」でもいいんじゃないかという気もするけど、ま、わかりません。

しかしまあ、学識豊かな大先生方の翻訳になんも知らないド素人がケチをつけるなんて、滑稽もいいところでやんすが、まあ、批判がなければホザナだけになっちゃうそうだからね、いいとしましょうよ。そういや、あれですよ、ひとさまの翻訳にやけに厳しいあの妙な会の代表の方も米川訳を持ってらっしゃるようだが、「遊蕩」について何十年も何もおっしゃってこなかったんだろうから(まあね、今回の「遊蕩」に限らないけどさ)、きっとそれでいいんでしょうよ。ああそれなのに、それなのに、なぜド素人が苦労を重ねるのでしょうか? 誰一人、нет 君にやめられちゃ困る、なんて言う人はいないのに・・・そしてこの喜劇の真の意味を理解している人はいるのでしょうか・・・・・

ちょっと戻りますがもうひとつ。

「おみごと、やぶ医者!」(亀山訳459ページ)

いくらなんでも「やぶ医者」は失礼じゃないのですかねえ。確かに、「やぶ医者」と訳されたлекарьは、未熟な医者に対して使われることもあり、現にコーリャ・クラソートキンはイリューシャを診察に訪れたモスクワの医者に対して「侮辱してやるため」にこの言葉を使っている。しかし、ここでミーチャがワルヴィンスキー医師をやぶ医者と呼ばなければならない理由がわからない。え、物わかりが悪い? ええ、ええ、どうせばかです、あほうです。しかし、ここでは「若先生」ぐらいの意味じゃないのかなあ。

  

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