2008年5月 9日 (金)

亀山訳で読む大審問官(10)

たとえばさ、一年前と比べても、少しはロシア語がわかるようになってるはずなんだけどねえ、これが全然関係ないんだな。相変わらずわからんもんはわからん。ま、よく考えたら、おつむのよくなる気づかいはこれっぽっちもないからねえ。へへ、ソーユーこと。

だったらどーするのよったって、どーしようもない。いまさら某会に入って教えを請うわけにもいかず・・・なあんて心にもないことを。恥知らず!

ってなわけで、わからないところは後回しにして、とりあえず大審問官の章の終わりまで行っちまおうと思うとりますが、頭のなかでは積み残してきたことが渦巻いて、うんうんうなっちゃうでござる。たはー・・・

295ページ:「ひょっとしたら、兄さん自身が、フリーメーソンなのかもしれない!」と、ふいにアリョーシャは口をすべらせた。

вырвалось вдруг у Алешиですがね、「口をすべらせた」ってのと「口をすべりでた」ってのではかなりちがう。亀山さん自身、読書ガイドでも取り上げている箇所だけになかなか暗示的・・・なのかな。が、あえて「すべらせた」まで踏み込む理由はいまのところわたくしには不明。

299ページ:おれが若葉を愛せるのは、おまえを思い出すときだけなんだ。おまえがこの世のどこかにいるってことだけで、おれには十分だし、生きる気がしなくなるなんてことはまずない。こんな話、もういやか?なんなら愛の告白と受けとってくれてもいいぞ。

(...)Довольно мне того, что ты тут где-то есть, и жить еще не расхочу. Довольно этого тебе? Если хочешь, прими хоть за объяснение в любви

話の内容からしても、アリョーシャのイワンに対する心情からしても(イワンがそれを見誤っていないとすれば)、-こんな話はもういやだろうか-とは思わないのではないかなあ。なんなら、とのつながり具合もなあ。おれには十分だし、と同じような意味で、「おまえにはそれで十分だろ?」ってな意味じゃあなかろか。

300ページ:いいか、こいつはかなり厳密な約束だぞ。

Видишь, довольно торжественное обещание

厳粛な約束の間違い?

301-302ページ:「Pater Seraphicus」という名前が-《兄さんはあれをどこからとってきたのだろう?どこから?》-アリョーシャの頭のなかにちらりと浮かんだ。

«Pater Seraphicus» — это имя он откуда-то взял — откуда? — промелькнуло у Алеши.

兄さんはあれをどこからかとってきんだ。どこからだろう?のように見えますが・・・

302ページ:ああ、僧庵が見えてきた。そうか!そうだったのか、あのお方がPater Seraphicusなんだ。あのお方がぼくを救ってくれるんだ・・・

Вот и скит, господи! Да, да, это он, это Pater Seraphicus, он спасет меня

「そうだったのか」ってのはなんの答ざますか?お兄さんが「もういいから行くんだ。おまえのPater Seraphicusのところにな」と言ってるんだから、答が「あのお方」では答にならないようですが・・・そんな問いは忘れてるっていうか・・・
それはあのお方だ、それはPater Seraphicusだ、あのお方がぼくを救ってくれるんだ・・・「それ」は「救ってくれる人」でしょ。「そうだ、そうとも、あのお方だ、Pater Seraphicusだ、あのお方がぼくを救ってくれるんだ・・・」

302ページ:その日の朝、わずか数時間前、たとえその日のうちに修道院に戻れなくても、ぜひとも兄のドミートリーを探しだし、それを果たさずには帰るまいと心に決めていたではないか。

которого утром, всего только несколько часов назад, положил непременно разыскать и не уходить без того, хотя бы пришлось даже не воротиться на эту ночь в монастырь

や、別に、戻れなくても帰るまい、がいやだってわけでもないんだけど、не уходить が帰るまいってのとちょっと違うかなって思って・・・

必ず見つけ出す、見つけ出さずにはおかないと心に・・・

さて、次回、先へ進むか、戻るかは不明ですが、とにかく、大審問官は片付いておまへん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 5日 (月)

亀山訳で読む大審問官(9)

なんだかよくわからないところを残したまま大審問官の章も過ぎようとしている・・・亀山訳「カラマーゾフの兄弟」2の第5編の5

286ページ:彼らは臆病になり、われわれを見て、まるで親鳥に寄り添うひな鳥のように、われわれにぴたりと体を寄せるだろう。

Они станут робки и станут смотреть на нас и прижиматься к нам в страхе, как птенцы к наседке.

станут робкиが「臆病になり」なら、 станут смотреть на нас は「われわれを見るようになる」だよねえ。え、そう単純なもんじゃない?でもそんなようなもんでしょ。それに、ただ「見る」じゃなさそうだべえ。「一目置く」?いや、ちゃうちゃう。それじゃ偉そうだわ。ふうむ。それと、あれね、в страхеが訳されてないよ。これは怖がってるってことだな。

彼らはびくびくとしてわれわれを伺うようになり、恐怖心から、親鳥に寄り添うひなのように・・・

うまくない!勘弁してちょ。

287ページ:彼らは、自分の良心がかかえるもっとも苦しい秘密を、いや、なにもかもを、われわれのところに持ち込んでくるだろうし、われわれがそのすべてを解決してやる。そして彼らは、われわれの解決を大喜びで受け入れるだろう。なぜならその解決は、すべて自分ひとりで解決しなければならない現在の大きな心労や、恐ろしい苦しみを取り除いてくれるからだ。

Самые мучительные тайны их совести — всё, всё понесут они нам, и мы всё разрешим, и они поверят решению нашему с радостию, потому что оно избавит их от великой заботы и страшных теперешних мук решения личного и свободного.

どうもなんですな、わかりやすくしてやろうってんで、かみ砕きすぎではなかんべえか。どこがあかん?て、いや、あかんちゅうか、そのですね、великой заботы (大きな心労)の意味合いとか、それに関連してрешения личного и свободного(すべて自分ひとりで解決しなければならない)の訳語とか、теперешних(現在の)の位置とか、んんん、でござるよ。どこから行くう・・・

やっぱし自由から。「свободного=自由な」はこの章のルールみたいなものでがしょう。そいでね、разрешимを解決する、としたので、решенияも解決とされたのだろうが、「彼ら」が自分でするのは、解決、というより、決断、決定でしょ。「個人の自由な決断」の心労、苦しみ。それからзаботы(心労)。この言葉がどんなふうに使われているかは270ページや272ページ(そこでは心配)を参照して。さらにтеперешнихはмук(苦しみ)を修飾。要するに、自由な決断をする、その都度存在するのが当面の苦しみ、常にそれを求められていることが大きな心労。直訳:

なぜならそれは彼らを、個人が自由な決断をするという大きな心労や恐ろしい現在の苦しみから救ってくれるからである。

なお、「受け入れる」、原文ではповерят(信じる)。「われわれの決定」を受け入れる、というより、信じる類のことがらについて言ってるわけだ。

289ページ:兄の話に黙々と耳を傾けていたアリョーシャは、終わりに近づくにつれてはげしい興奮にとらわれ、なんども話をさえぎろうとしては、なんとか自分を抑えている様子だった。だが、ついに弾かれるようにして立ちあがりいきなり話しだした

вдруг заговорил, точно сорвался с места

よくわからないんですがね、точно сорвался с местаは、実際に急いでどこかへ行こうとしたのか、そうでなければзаговорил(話しだした)様子を形容したんじゃないですかね。どこへも行きゃあしないんだから、「いきなり弾かれるようにして話しだした」のでは?

290ページ:そんなのはローマです、ローマといってもぜんぶじゃない、ぜんぶと言ったら嘘になる・・・・・そんなの、カトリックのいちばん悪い連中です、審問官です、イエズス会の連中です。

Это Рим, да и Рим не весь, это неправда - это худшие из католичества, инквизиторы, иезуиты!..

それはローマです、(・・・)それは嘘です、それはいちばん悪い連中です - 真ん中だけ、組織、人じゃない。だから真ん中の「それ-это」だけ違う、だから「それ」=「ぜんぶと言ったら」ってのはわかるんだけど・・・だけど、どこを受けて「それ」って言ってるのか。それに途中でトーンダウンするような言い方をするだろうか・・・да и も「といっても」というより「しかも」の上げ潮路線じゃないかと思うんだけど。文脈からэтоは「自由についてのそのような理解のしかた」で、ローマというのはローマの理解を略したものでよろしいんじゃないでしょうか。

えー、と、例のドストエーフスキイの会の点検その後に関連して。前回書いた付録の「これはおまえか?」のところを見ている時、つい、その上のところが目に入っちゃって。大審問官と関係ないけど、今書いておかないと忘れちゃうので。亀山訳カラマーゾフの兄弟1の413ページ

「さあ、命が惜しけりゃ、金を出すんだ!」
「なあんだ、兄さんか!」アリョーシャは、震えあがったが、それでも驚きのほうが強かった。

- Так это ты, Митя! - удивился сильно вздрогнувший, однако, Алеша

森井さんの的確な指摘、NNさんのもう一歩つっこんでほしい解説、木下さんの反亀山以外なんの視点もないコメントについては「点検その後」のいちばん後ろを見ていただくとして、この一文ではっきりさせなければいけないのは(はっきりさせたところで全然どうってことはないから、NNさんの態度が賢明かもしれないが)、однакоだろう。однакоがなければ、亀山さんもこのような訳をしなかったにちがいない。

しかるに、NNさんの解説は、『原訳(「なんだ、兄さんじゃありませんか!」ひどく震えあがったアリョーシャは、びっくりして言った。)は基本的な意味は確実に捉えている。“однако アドナーカ(それでもやはり)”という間投詞が反映されていないのは、おそらく意図的なものでしょう。この間投詞はロシア人にも些か場違いに映るようですから、敢えて無視したものと思われます。』として、それを軽視なさっている。

いやいや、解説のなかでちゃんとоднакоを踏まえた訳を示している:「震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、驚きの声を上げた」とおっしゃるか。したがどうだ、この文ちとおかしかないか?震え上がって、「なあんだ」という驚きの声を上げるのに、なぜ「それでもやはり」なんだ?森井さんはそこは突っ込まないのか?・・・なんてね。要するにさ、ロシア人でも場違いに映るなら、余計に穿鑿すべきだんべえ。

森井さんは時間的経過に注目なさっているが、まさにそこ、この一文自体が時間的経過に逆行しているじゃないか。なんだ、驚き、однако、震え。このоднакоは時間を逆行してるんだ。りはやもでれそ・・・違うってば。こんな驚きの声を上げたが、(森井さんの言う認識の前には)それでもやはりひどく震え上がったのだった。・・・って訳すわけにはいかんしな。

「なあんだ、兄さんか!」と驚きの声を上げたけれど、本当はすっかり震え上がったアリョーシャではありました。

こんなんにすると袋叩きかい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 2日 (金)

亀山訳で読む大審問官(8)

黙示録についてくどくど書いたけど、あれは言わずにいられぬカルタショフだわ。聖書を参照して忠実に訳せなんてのは、一部の意見を代表しているだけだな。獣だの淫婦だの、早い話がねえ、多くの読者にとって解釈不能、迷惑至極、いっそ取っ払っちまえー・・・ってすぐ極論に走るんだから。ま、訳者さんたちがいいころかげんなところにおさめてくださってることに感謝するんですかね。

ところで、あちらのほうでまた小さな動きがありましたので、気が向いたら触れますがね、その前にちょっと。

284ページ:自由と自由な知恵と科学は彼らを密林に誘い、彼らのうち反抗的で凶暴な連中は、途方もない奇跡や解決できない神秘の前に立つためにわが身を滅ぼし、ほかの、反抗的ではあっても非力な連中はたがいを滅ぼしあい、あとに残された非力で不幸な連中は、われわれの足元にはいずり寄ってこう泣きつくことになる。

Свобода, свободный ум и наука заведут их в такие дебри и поставят пред такими чудами и неразрешимыми тайнами, что одни из них, непокорные и свирепые, истребят себя самих, другие, непокорные, но малосильные, истребят друг друга, а третьи, оставшиеся, слабосильные и несчастные, приползут к ногам нашим и возопиют к нам

ふたつの疑問。1.「途方もない奇跡や解決できない神秘の前に立たせるために」として「彼らのうち」の前にもってきてはいけないのか。2.この訳でも「途方もない奇跡や解決できない神秘の前に立つ」のは「反抗的で凶暴な連中」だけと受け取るほうが悪いのか?ちょっと考えりゃわっかるだろうって?どうなん?構文の問題。such...thatね。

もうひとつ疑問。なして「自由と自由な知恵と科学」が彼らを奇跡や神秘の前に立たせるのか。内容の問題。密林に誘うのはよろし、したが、神秘の前に連れていくわけではあるまい。どうなん?それらでは奇跡や神秘は解決できないということでおましょ。だからして・・・そこでお訳を借用しつつでっちあげてみますと、

自由と自由な知恵と科学によって密林に誘い込まれ、途方もない奇跡や解決できない神秘に直面させられた彼らのうち、反抗的でうんぬんかんぬん

解釈を訳に持ち込みたくはないけどね、「自由・・・」と「前に立つ」との関係が亀山訳では希薄すぎるような気がちいとしたもんで・・・余計なお世話かな。

284ページ: われわれからパンを受け取るさい、彼らははっきりと目にする。われわれが彼らの手で収穫されたパンを取り上げるのは、どんな奇跡もなしに彼らに分配するためだということを。そして彼らは、われわれが石をパンに変えたのではないことを知るだろうが、じつのところ、彼らはパンそのものより、われわれの手からパンを受け取れることのほうがうれしいのだ!

さてはて、いまひとつメリハリが・・・「分配するためだから」ヨカッタヨカッタヨカッタ、奇跡はないけどショーガナイショーガナイショーガナイ、でもヨカッタヨカッタって段取りかな。ふむ、昭和も遠くなりにけり、赤くなったり青くなったり、か。原文がどないか、というと・・・

Получая от нас хлебы, конечно, они ясно будут видеть, что мы их же хлебы, их же руками добытые, берем у них, чтобы им же раздать, безо всякого чуда, увидят, что не обратили мы камней в хлебы, но воистину более, чем самому хлебу, рады они будут тому, что получают его из рук наших!

конечно(むろん)、чуда(奇跡)、но(しかし)がこの文をしめてるんだなあ。おいおい、だってパンはぁ?ってな予想される問いに対して、むろん、というこった。ほんでもって、当然のことがらを受けた後、しかし、とくらあな。だから、一旦、ヨカッタヨカッタと持ち上げちゃいけないんだ。つまり、二番目の文は「取り上げる」で決めろってこと。それと、奇跡。その言葉のすぐあとに「石をパンに変えなかった」という一節はある。こういう印象めいたものは翻訳不能。そこであえてでっちあげると、こんな感じ?

われわれからパンを受け取るさい、もちろん彼らは、われわれが彼らに分配するために彼らのパンを、彼らの手で収穫したものを、彼らから取り上げるのをはっきりと目にするだろうし、奇跡などひとつもない、われわれが石をパンに変えはしなかったのを知ることになるが、うんぬんかんぬん、と。

亀山訳はちょいとことを複雑にしてるんじゃないかなあってね。

さて、ドストエーフスキイの会にまたまた検証、点検のその後登場。それからこちらも。それで「こちら」のほうの後ろのほうに大審問官の一箇所が取り上げられているのでちょっと一言。260ページ。

深い闇のなかでふいに牢獄の鉄の扉が開かれ、手に燭台をたずさえた老審問官がゆったりと中に入ってくる。付き人はなく、背後で扉がすぐに閉じられた。<・・・>やがて静かに歩みより、燭台をテーブルに置いて彼に言うのだ。
 『で、おまえがあれなのか?あれなのか?』しかし答えを得られないまま、彼は早口でこう言い添える。<・・・>

ま、「こちら」のコメントを見ていただくとして、ここはわっちも取り上げようかどうしようか迷ったとこでね。亀山さんの解説を読んだら訳にそれなりの理由があるわけで、いいんじゃないかと思ったわけ。ま、お読みになる気も理解する気もない方に言ってもしゃあないが。たとえば、「おまえは」でなく「おまえが」になってる意味とか考えたんかなあ。
で、問題にされているのは『で、おまえがあれなのか?あれなのか?』-原文、Это ты? ты?-これを直訳すると、『これは おまえか?おまえなのか?』で、そう対話的に呼びかけるところに、この場面の深い意味があるんだそうな。対話的とか、深い意味とか難しいことを言われるとシロートは困ってしまいますが(だってさ、これがそれで、あれがそれじゃないってのもよくわからんし、どこがどう深いんだか言ってくれないとお)、それはそれとして、問題は、亀山訳を「問題」としているのに、原訳の『お前はキリストなのか?キリストだろう?』は意訳として認めていること。これはあれですかね、一種、大審問官的態度?それとも・・・ともかくもそういう立場を取る限りそれは・・・

だってね、「これ」って何さ?これでしょ。目の前にある人の姿をしたものはおまえなのか?上では引用されてないけど、<・・・>のなかにある「長いこと顔をじっとのぞきこむ」なんてのはそれで意味をもってくるんだろ。
だいたいねえ、「おまえ」よ。ピラトだって新共同訳じゃ「おまえ」、口語訳じゃ「あなた」ってゆうようなしろもんだからね。え、話をそらすな?
いや、まあ、あれです、「これはおまえか?」という訳もよろしいと思うのですがね、その分析、批判は高邁すぎてどうもその・・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月26日 (土)

亀山訳で読む大審問官(7)

罪と罰が楽しみだなあ。
それで評価がわかるんだろうな、カラマーゾフの。みなさん、買いましょうって待ち構えているかどうか。
これはもう、誰にも止められませんよ。
それにしてもあの騒動はなんだったんだろう。本質的には喜劇、とんでもない喜劇。錯乱、錯乱!でっか。
でも笑えないのは、そのお・・・まあ、天上のことに地下から口を入れてもしゃんめえ。

亀山訳カラマーゾフの兄弟2の5編の5

279ページ:彼らは、おまえの十字架を持ちこたえ。イナゴと草で食いつなぎながら、荒野での飢えたむきだしの生活を何十年も耐え抜いた。

Они вытерпели крест твой, они вытерпели десятки лет голодной и нагой пустыни, питаясь акридами и кореньями

荒野での飢えたむきだしの生活を何十年、というのは意訳でございますな。голодной и нагой は荒野を修飾しております。ですからして、飢えた生活はよろしい、が、むきだしの荒野におるからむきだしの生活というのは、ちょっととんでますか、コンスタンチノープル。ありていに言うと、食べる物の実らぬ不毛の荒野での何十年ですかな。ホ。

280ページ:われわれが、このように学び、実行してきたことは正しかったのか、さあ言ってみてくれ!

Правы мы были, уча и делая так, скажи?

уча(учить)は学びか教えか?279ページから280ページをごらんあれ。「そしてもし神秘であれば、われわれも神秘を広め、彼らにこう教えることができたわけだ。つまり大事なのは、心の自由な決断でも愛でもなく、自分たちの良心にどれだけもとろうと、やみくもに従わなくてはならない神秘だとな。われわれがやってみせたのは、そういうことなのだ。」文中、彼らに(こう)教えるは учить их、われわれがやってみせたはмы и сделали.されば、凡人なら、「教え」とするところであんしょうが・・・ふうむ。

とほ。またヨハネの黙示録でございますよ。そこへまたご老人が思わせぶりな文句を付け足すから・・・黙示録の意味と、大審問官が転用した意味と、二重の謎で・・・ひとまず訳の問題はおきましょうか。えー、今回は17章。まず1-5

さて、七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。「ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。 地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった。」 そして、この天使は“霊”に満たされたわたしを荒れ野に連れて行った。わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった。 女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。 その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。

前回(268ページ、黙示録13章のところ)もう少し掘り下げておけばよかったんですがね、なんだかわからんうちに通り過ぎちゃったんで、ちと復習から。

獣、七つの頭と十本の角。13章の獣と同じですね。これはローマ帝国を象徴している。13章2節にある「龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。」というのは悪魔が 皇帝に教会を迫害させた、てな意味。13章3節にある「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」ってのは、ネロが生き返ってまた支配したという伝説をイメージしたもの、とか。「そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」というわけ。それと、13章13節「そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。」

人間とはそういう「奇跡」、「しるし」に従うものだ、という意味が隠されているのが、268ページ「そして人間どもは『この獣に似たものが、われわれに天の火を与えた!』と口々に歓呼しながら、そのもののうしろからついていくのだ。」(あとのことを考えても、前述のように、似たもの、はなくていいと思う)。

地上の霊は悪魔、獣は帝国:悪魔に権威を与えられた帝国。「地上の霊が地上のパンの名において(どうも『地上のパンのために』はしっくりこないんですがね)おまえ(キリスト)と戦って勝つ」、とは、力で地上を支配するものが生殺与奪の権を握り、同時に自由な信仰を迫害すること。

そこで、17章に進んで、大淫婦バビロンとは、ローマの象徴的名。地の王たちがこの女とみだらなことをする、とはローマの属国の王たちがローマ皇帝の宗教を採用すること。地上に住む人々はそれに従う(この女のみだらな行いのぶどう酒に酔いしれる)。したがって、「自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に」持つということは、つまり、ローマの教義で酔わせるってこと。えーえ、やっとつながってきましたか。そこで、カラマーゾフに戻って、

283ページ:しかしそのとき、われわれのもとに一匹の獣が這いより、われわれの足を舐め、その目から血の涙をしたたらせるのだ。そこでわれわれはその獣にまたがり、高々と杯をさしあげる。そしてその杯にはこう書かれるのだ。『神秘!』と。

「一匹の獣」はもちろん、268ページの獣と同じだから、「一匹」とか「その」とかはいらないかな。ま、そんなことはいいや。獣は皇帝を戴いた国家だから、国家がわれわれに這いよってくるということ。そしてわれわれ、ローマカトリックは国家にまたがる。大淫婦を教会に置き換えている。

黙示録の「秘められた意味の名が記されていたが」のところ、ロシア語訳はнаписано имя: тайна,--「тайнаである名が記されていた」。このтайнаですがね、大審問官はたびたびこの言葉を口にする。亀山先生はこれを場合によって、「神秘」と「秘密」に訳し分けている。杯には、やっぱり、神秘と書かないとなんかかっこ悪い。一方、「われわれ」がアレについていく、なんてのは、秘密だな。ところが、原語では一緒ってところが問題なんだなあ。杯に書かれているのは『神秘!』だが、それが湛えているのは汚い秘密ではないのかしらん。

さあて、「大淫婦に対する裁きを見せよう」というのだから、おかわいそうに、裁かれるわけだ。

黙示録17章12-14 また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間、獣と共に王の権威を受けるであろう。 この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣にゆだねる。 この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。

288ページ5行目からの「人の話や預言によれば、・・・」はこの部分などを指しているらしい。それに続くところが、17章16節 また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。--これは異教の王たち-属国、非支配者-が淫婦にそむき、図らずも神の意志を実現することだ、そうな。

288ページ:人はまたこうも言う。獣にまたがり、両手に神秘を握りしめている淫婦は辱められる、非力な人間たちはふたたび決起し、淫婦の赤い衣を引き裂いて、その『穢しい』体をはだかにする。

皇帝の剣を取り、神秘を掲げている教会は、反逆者の手にかかり、「キリストのために」という虚偽の衣を引き裂かれ、穢しい本当の姿をさらけ出す-それが裁きと言うなら、・・・と、大審問官は立ち上がり-288ページの続き-まだ罪を知らない、何十億という幸せな赤ん坊たちをおまえに指し示してやろう。・・・『できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい』・・・・・

さて、ひとりよがりの注釈はこのへんにして、だね。держащая в руках своих тайну(イタリックは原文まま、亀山訳「両手に神秘を握りしめている」)ですがね、具体的な持ち方を表した言葉なのだろか。あるいは比喩とするとどういうことを表すのか。淫婦と置き換えられるはずの「われわれ」は、そうではなく、「秘密を保持している」のではないのか・・・あーあ、黙示録はもういいか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月23日 (水)

亀山訳で読む大審問官(6)

もう少しロシア語を勉強すべきところではありますが、習いに行く気もなし、辞書も参考書も買う気がないんだなあ。というわけで、いつまでたってもど素人だわ。これは断っておかんといけんのでね。

272ページ:ところで、人間の自由を支配するのは、彼らの良心に安らぎを与えてやれる者だけだ。おまえには、パンという文句なしの旗が与えられようとしていた。パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく。なぜなら、パンほど文句なしのものはないからだ。だが、同時におまえ以外のだれかが彼らの良心を支配することになったら、そう、そのとき人間はおまえの天上のパンを棄て、その良心をそそのかすもののあとにしたがうだろう。その点でおまえは正しかった。なぜなら、人間存在の秘密というのは、たんに生きるということにあるだけでなくて、何のために生きるのかということにあるからだ。

テキストには天上のパンとは書かれていない(тогда он даже бросит хлеб твой)。あえて天上のパン・・・亀山先生としては一言あるところにちがいない・・・が、人間がひざまずく文句なしの旗は地上のパン・・・ですよねえ・・・おいらにはよくわからん・・・興味のある人は考えてみて。
ところで、「おまえには、パンという文句なしの旗が与えられようとしていた。」- С хлебом тебе давалось бесспорное знамя: だけどね、仮定のありかは文の外じゃなく、С хлебом じゃないのかな。「パンを取ればおまえにとって文句なしの旗となったのだコロン」-どしろーとの憶測だからねえ。

275ページ:あの恐ろしい賢い悪魔が、おまえを神殿の頂上に立たせ、『もしも自分が神の子かどうかを知りたければ、そこから下に飛び降りてみるがいい、なぜなら、天使はおまえを受けとめ運びあげてくれるから、地面にたたきつけられけがをすることもないだろう。そうすれば、自分が神の子であるかどうか知ることができるし、自分の父である主への信仰がどれほどのものかを証明できる』と言ったが、--

《Если хочешь узнать, сын ли ты божий, то верзись вниз, ибо сказано про того, что ангелы подхватят и понесут его, и не упадет и не расшибется, и узнаешь тогда, сын ли ты божий, и докажешь тогда, какова вера твоя в отца твоего》,

いや、亀山訳に文句があるんじゃなくて、ちょいと直訳ふうの補足ね。天使が受けとめて運び、神の子は落ちてけがをすることはないと言われており、おまえが神の子かどうかを知ることになり、おまえの自分の父への信仰がどれほどのものかを証明することになる。「亀山さんの読書ガイドにもあるけど、大審問官が言っているのはルカによる福音書4章9-11節のことだ。

そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

「言われている」というのは何のことかわかりにくいので省いたんでしょう。で、その、言われている、とか、福音書中の「書いてある」ってのが何かと言うと、詩篇91章の11-12:

主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る

なんだか聖書関連の注釈ばかりでしょうがないなあ。気を取り直して277ページ:

人間をあれほど敬いながら、まるで彼らに同情するのを止めてしまったかのようにおまえはふるまった。なぜなら、おまえは彼らにあまりにも多くのものを要求したからだ。そして、それがだれかといえば、自分以上に人間を愛したおまえではないか!人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求はしなかったろうし、そうすれば、人間はもっと愛に近づけたはずだ。なぜなら、そのほうが人間の重荷は軽くなったはずだからな。

Уважая его менее, менее бы от него и потребовал, а это было бы ближе к любви, ибо легче была бы ноша его.

要求が重荷で愛に近づけない・・・わかるような気も・・・しかし、этоは何なんだ?敬わず、要求しないこと、だよねえ。とすると、そうしたほうが、より愛というものに近い、ではないんかね。それと最初の文、おまえのふるまいは・・・のようになってしまった、というのも・・・式のほうがよさそうな気がするんだけど・・・よくわかりまへん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月19日 (土)

亀山訳で読む大審問官(5)

亀山先生は相変わらずご多忙。それに引き換え検証騒動は熾き火がチロチロ。お願いだからジャック、石炭を持ってきておくれよ。へ、おまえさんはどっちなんだい。
情勢はいまや、アッハ、火を見るより明らか。保守党は戦略を誤ったか、戦術が・・・・・ワーゲンハイムの看板倒れ!
はたまたわたしは、天より降る火を見たのか。

こういうことはねえ、ロシア文学を学ぶ学生さんがやりゃあいいがね。特に、亀山先生の教え子さんたちなんか、どう?先生、ここはこうではないのでしょうか。いや、ぼくの考えはこうなんですよ・・・先生喜ぶよお。

いや、わてがやるのはいいんだけど、あまり時間がかかって、はた迷惑じゃないかと・・・・・ムダ話ばかりしとるからや、ぼけ。

今日は273ページの後半から読んでみましょう。

人間にとって、良心の自由にまさる魅惑的なものはないが、しかしこれほど苦しいものもまたない。ところがおまえは、人間の良心に永遠に安らぎをもたらす確固とした基盤を与えるどころか、人間の手にはとうてい負えない異常なもの、怪しげなもの、あいまいなものばかりを選んで分けあたえた

Нет ничего обольстительнее для человека, как свобода его совести, но нет ничего и мучительнее. И вот вместо твердых основ для успокоения совести человеческой раз навсегда — ты взял всё, что есть необычайного, гадательного и неопределенного, взял всё, что было не по силам людей,

スラスラスラっとした訳だべ。原文は、おまえは異常なもの、怪しげなもの、あいまいなものばかり取った、人間の手にはとうてい負えないものばかり取った、てなとこかな。選んで分けあたえた、というのはわかりやすくということだろが、取った、というと、ニュアンスがちと違う。選んだでもいいや。彼は何を分けあたえたでしょう?
強調すべきは、「三つ」の怪しげな言葉、異常なもの、怪しげなもの、あいまいなもの。意味がよくわからないが、この、三つというところに注目すれば、誰しも三つの問いを連想する。それらに対応すると考えるところだろう・・・フム、この強引さが根拠のなさを如実に・・・
彼は三つの誘惑をすべて退けた。そして、彼が「取ったものはすべて」、なんだかよくわからないものになった。необычайного-天上のパン、гадательного-証明のない信仰(不確かなものといいたい)、неопределенного-示されなかった従うべきもの。

そこで、少し飛ばして274ページへ。

人間の自由を支配するかわりに、おまえはそれを増大させ、人間の魂の王国に、永久に自由という苦しみを背負わせてしまった。おまえが人間の自由な愛を望んだのは、おまえに魅せられ、虜になった彼らが、あとから自由についてこられるようにするためだった。確固とした古代の掟にしたがうかわりに、人間はその後、おまえの姿をたんなる自分たちの指針とするだけで、何が善で何が悪かは、自分の自由な心によって自分なりに判断していかなくてはならなくなった。

ここのテキストの註によれば、確固とした古代の掟(твердый древний закон)とは旧約聖書の掟。キリストのзаконはおもに愛の掟にある。
たとえば、マタイによる福音書22章37-40節:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

古代の掟のかわりに自由な愛の掟-あいまいなもの-が示されたんだな。
余談ですが、上の福音書の訳で、掟はзаповедь、законは律法です。

実につまらんこってすがね、「あとから自由についてこられる」というと、ついてゆき方が自由なような・・・いいのかなあ。

ま、それやこれやもあって、274ページのもう少し進んだところ、「ところで、おまえに示されたのは、それだけだったろうか?」-А между тем то ли предлагалось тебе? のところ、「それだけ」→「そんなこと」のほうが都合がいいんだけど。

どさくさにまぎれて、もうひとつつまらん?ことを。267ページに戻りマース。

おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。

あのー、まだ出ようとしているところなのに、おののくばかりだった、のはまずかぁないかな。
それはそれとして、原文:они, в простоте своей и в прирожденном бесчинстве своемざんすがね、お訳を借りれば、「人間は単純で、生まれつき恥知らずときている」んだなあ。え、どっちでもいい?そうさなあ、でも、わざわざ「単純」飛ばして、「恥知らず」を修飾してるんだからねえ、「生まれつき」と。生まれつきというと、原罪を思うでしょ。では、自由の約束を恐れるとは?
ローマ信徒への手紙、7章19-24節などは参考にならないか:わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

とんちんかんなことを言っていたら、そう言ってちょうだい。

大サービスでもうひとつ。271ページ:

自由の身となった人間にとって、ひざまずくべき相手を少しでも早く探しだそうとすることぐらい、たえまない心労はない。しかし人間というものは、ひざまずくべき相手をつねに求めている。それも申し分のない、すべての人間がいっせいに膝を折ることができる、そんな文句なしの相手だ。

Нет заботы беспрерывнее и мучительнее для человека, как, оставшись свободным, сыскать поскорее того, пред кем преклониться. Но ищет человек преклониться пред тем, что уже бесспорно, столь бесспорно, чтобы все люди разом согласились на всеобщее пред ним преклонение.

変でしょ。しかしこんなに長々引用することはないやね・・・たしかに、Ноしかし だけど、「しかし人間の求めているひざまずくべき相手は・・・」とこなくちゃね。え、承知の上だろって?心労だけれども求めている、の「しかし」ってわけか。でも文章の構造からすると、少しでも早く、だけれども、誰でもいいってわけじゃない、の「しかし」でしょ。それと、「いっせいに膝を折る」ならいいけど、「いっせいに膝を折ることができる」はちとまずいかな。アレゴリーじゃなくなっちゃうから。すべての人間がみんなで膝を折ることを一斉に同意するってなとこが直訳かな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月15日 (火)

亀山訳で読む大審問官(4)

こういうストーリーに関係のないところは、よくわからないと眠くなるよねー。

カラマーゾフの兄弟2 第5編の5より

おまえはそのそも警告とか注意とかを十分に受けていたはずなのに、それでもその警告にしたがわず、人々を幸せにするたったひとつの道をしりぞけてしまった。(亀山訳264ページ)

アリョーシャも尋ねているが、この警告とか注意とか(предупреждение и указание)、とはなんだろう。イワンの答えによれば、それは「三つの問い、誘惑」のことらしい。具体的には267ページの『』の中、おまえは世の中に・・・おののいてはいるがなの部分だろう。してみると、これは、人間とはこういうものだ、という警告、石ころをパンに変えてみろ、という指示、ではないのかな。275ページの神殿の頂上から飛び降りてみるがいい、というのも指示。なぜ、警告とか注意とか、なのかなあ。

266ページ:おまえが相手にしているのは、人間の日々の知恵ではなく、永遠の、絶対的な知恵だということがな。

что имеешь дело не с человеческим текущим умом, а с вековечным и абсолютным

たとえば、「うつろいゆく」←→「永遠の、絶対的な」であって、「日々の」ではないような気が、ねえ。

さて、ヨハネはんの黙示録。亀山さんの読書ガイドにもあるように、ちょいと見ておいたほうがよさそうでがす。12章(7-9節)。

さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。

ふうむ。なんだかわからん。竜が悪魔ね。レーベジェフさんに助けてもらいたいところではありますが・・・この、地上に落とされたものが「地上の霊」になるのかな。 次は13章1-4節、竜のほかに獣も出てきますよ。

わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。 わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。 この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。 が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。

ますますなんだかわからんが、最後の部分のロシア語訳を見てみましょうか。
и поклонились зверю, говоря: кто подобен зверю сему? и кто может сразиться с ним?

そこで、大審問官:но знаешь ли, что во имя этого самого хлеба земного и восстанет на тебя дух земли, и сразится с тобою, и победит тебя, и все пойдут за ним, восклицая:"Кто подобен зверю сему, он дал нам огонь с небеси! "

亀山訳268ページ:しかし、わかっているのか。まさにこの地上のパンのために、地上の霊はおまえに反旗をひるがえし、おまえと戦い、おまえに打ち勝つのだぞ。そして人間どもは『この獣に似たものが、われわれに天の火を与えた!』と口々に歓呼しながら、そのものの後ろからついていくのだ。

「地上の霊」とは上で言ったとおり、悪魔とその使い。『この獣に似たもの』という謎めいた表現の由来もわかったというわけだ。訳は--上の訳(聖書協会の新共同訳)とか同口語訳(だれが、この獣に匹敵し得ようか)を借用したのでは唐突ということかなあ。できれば生かしてほしいなあ。・・・われわれに天の火を与えてくれたではないか!とかなんとかごまかして・・・だって、前項、『結んだり解いたり」は難解なまま、そのままだったじゃん。それに、『似たもの』にしてはだめじゃないのかなあ。
ついでに13章の7節、13節も見ときましょう。

獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。(13-7)
そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。(13-13)

てへ、少しわかった気分になったということで・・・
しかし、「地上の霊」がそういうものを指すとすると・・・まさにこの地上のパンのために(во имя этого самого хлеба земного )の「ために」はどうでがしょ。地上の霊にとっての目的ではないでしょ・・・われながらしつこい・・・

いや、5巻にある「天上のパン」、「地上のパン」に関する亀山さんの解説はちょいとおもしろいですが・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月12日 (土)

亀山訳で読む大審問官(3)

ルカによる福音書24章45-48節

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(47節中、その名によってはво имя Его )

マタイによる福音書28章17-20節

そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(父と子と聖霊の名において、はво имя Отца и Сына и Святаго Духа)

しつこいなあ、またво имя かいや。イエス。じゃなくて、イエスがどのように弟子たちに『仕事をゆだねてくれた』(亀山訳カラマーゾフの兄弟2の264ページ)のかなあって。どのような言葉で弟子たちを遣わし、どのような権限を与えたのでしょうか。

ヨハネによる福音書20章21-23節

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

おー、聖霊を受け、罪を赦したり赦さなかったりする権限を持つわけだ。お、お。ねえ、『なぜなら今になってようやく(つまり彼は異端審問のことを言っている)、人間の幸せについて考えることができるようになったからだ』(264ページ)のところ、何が「つまり」なのか、どこが「異端審問」の話なのか、疑問に思ったかたはありまへんか?え、あたくしだけ・・・少しつながりが見えたように思ったんだけど・・・それはそれとして、では、マタイではどう言っているかというと、

マタイによる福音書16章18-19節

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

ペテロは岩かあ。つなぐ、とか、解くはなんでしょ、ねえ。ラビの用語らしい。教えを説く権限らしい。あるいは、罪を犯した兄弟を受け入れる、受け入れない権限・・・ヨハネ20にある罪を赦す、赦さない、と同じような意味でしょうかね。下記の18章の前後でも兄弟が罪を犯した場合どうすべきか、ということが書かれている。

18章18節

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
Истинно говорю вам: что вы свяжете на земле, то будет связано на небе; и что разрешите на земле, то будет разрешено на небе.

こちらはペテロひとりではなく、あなたがたに、だね。そこで、本題。え、やっと?亀山訳264ページ:

しかし幸いなことに、おまえはこの地上を去るとき、われわれにその仕事をゆだねてくれた。おまえは約束し、自分の言葉で断言し、結んだり、解(ほど)いたりする権利をわれわれに与えてくれた。だから、今となってはむろん、おまえがその権利をわれわれからうばうことなど考えられもしないことだ

но, к счастью, уходя, ты передал дело нам. Ты обещал, ты утвердил своим словом, ты дал нам право связывать и развязывать и уж, конечно, не можешь и думать отнять у нас это право теперь.

связывать и развязывать 」と 「свяжетесвязыватьの完了体二人称複数) и разрешите」では違いましょうが、それでも、『自分の言葉』とは上に引用した部分と考えられる、でしょ。なお、亀山訳の「結ぶ、解く」にしても同じこと、禁止と赦しを表してるんだな。
そこでざんすが、この部分を読んで、「結んだり、解いたり」で意味を理解できるのか。アタクシはわからんかった。えーい、わかりやすいと評判の亀山訳がそれでいいのか!え、ひとのせいにするなって?そーかい、そーかい。
しかし、「つないだり、解いたり」にしても大差ないしなあ。「罪びとを」なんて足したら怒られるだろうなあ。「罰したり、赦したり」では捏造とか言われそう・・・
ま、いいか。
これを読んで参考になったなんて人がいるかもしれないよ。いやいや自分がわかった気になっただけで・・・よしとしよう・・・

つどのはやりに こころみーたせーる きよーおな ぼくではなーーいー

ふうむ、「だから」だから、「考えられもしないことだ」とくるんだなあ。「与えてくれたし、」とくれば、「もう今となってはむろん、その権利をわれわれからうばうことなど考えてもならないのだ」となるんだろうなあ。そのほうが趣味なんだけど、いけませんかねえ。

1961年の今日、ボストーク1号が打ち上げられたそうな。へ、へ、ちっともおあとがよろしくないようですが・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月10日 (木)

亀山訳で読む大審問官(2)

ドストエフスキー読むなら、聖書を読めったってねえ・・・
理解できないうちに、必要のない世界へ行っちまいそうで・・・
ドストエフスキーは想定する読者にどこまで期待していたんじゃろ。

したがどうじゃ、大多数の日本人はおまえのことなどよく知らんぞ。おまえの言葉など知らんぞ・・・そもそも、おまえをおまえと呼ぶことは当を得ているんじゃろか--ってなことはともかく、聖書からの引用をどう訳す?

わては訳注はきらいじゃ。ユリシーズに訳注をつけるなんて作業はたまらなくおもしろいに違いないが、読むほうとしては目がうつろになるだけじゃった(脳はもともとうつろじゃけんのお)。だいたいあの翻訳は上手なんかね・・・もとい!・・・って西鉄だったっけ?大洋?・・・ホエー。1970年ぐらいまでクジラってずいぶん食べてたらしいねえ・・・そういや連中は牛も食べないって・・・草はいいのか・・・食物連鎖の問題ねえ・・・天井でコウモリがコツコツってのはなんざんしょ・・・天地無用!・・・も、もとい!

みずいろーに のこされーた かげをおーおってー

感想はともかく・・・訳注をつけないとなると、聖書からの引用はどう訳す?大多数のものはおきざりにして、少数のために聖書協会の新共同訳かなんか引用しとけばいいんかのお・・・おおげさにいうほどのこっちゃないか・・・

まるやませつないこいあかり あーああーあ・・・

さて、さて、さて、余談は奨励会を勝ち抜いてからじゃ。亀山訳カラマーゾフの兄弟2の257ページから。

胸のなかでは愛の太陽が燃えさかり、栄誉と啓蒙と力が光のように瞳から流れ、人々のうえに降りそそぎ、彼らの心をたがいの愛によってうちふるわせている。

Солнце любви  горит  в его сердце, лучи Света, Просвещения и Силы текут из очей его и, изливаясь на людей, сотрясают их сердца ответною любовью.

「たがいの愛」とは誰と誰の愛だとお思いになる?人々同士?それでいいんかなあ。ответноюは相互の、でもありますが、ここは応える愛、じゃないすか。文の主語は愛の太陽、栄誉と啓蒙と力の光線。それに応える愛、という意味・・・ところで、лучи(ビームの複数) Света(光), Просвещения(啓蒙) и Силы(力)-放射状の光 を目から発している絵画的状況ですねえ。え、どうでもいい?じゃ、258ページ。

棺の出迎えに外に出てきた大聖堂の神父は、胡散臭そうな面持ちで彼を見やり、眉根を寄せる。そのとき、---

Вышедший навстречу гроба соборный патер смотрит в недоумении и хмурит брови. Но вот ---

神父の行動は、「そのとき」と連動するようなものでもないから、動詞は不完了体だし、「眉根を寄せている」じゃないすかねえ。え、ますますどうでもいい?じゃ、261ページ。

--qui pro quo(人ちがい)であってほしいっていうんなら、それでもかまわん。たしかにそのとおりなんだから」と言って、イワンはまた笑い出した。
「なんてったって相手は九十歳の老人だからね、--

— хочешь qui pro quo, то пусть так и будет. Оно правда, — рассмеялся он опять, — старику девяносто лет,

前を受けて「たしかにそのとおり」なんじゃなくて、「たしかに老人は(と言ってイワンはまた笑い出した)九十歳だしね、--」ではないのかなあ。さっさと次へ行け?

263ページ:『それでもわれわれはこの仕事を、最後までやり遂げたのだ。おまえのためだ。--

но мы докончили наконец это дело во имя твое

亀山さんはво имяナントカナントカのためと訳している。たとえば、

269ページ、もし天上のパンのためにおまえのあとから何千何万という人間どもがついていくとしても
если за тобою
во имя хлеба небесного пойдут тысячи и десятки тысяч

とか270ページ、ほかのなによりも高く掲げた自由のために
во имя свободы, которую поставил выше всего

で、こちらは「目的」の「ため」だが、「おまえのためだ」の「ため」はちと違うよね。っていうか、違って受け取るよね。それでいいのかしら。なかなか味のあるところで、その後のアリョーシャの言葉:「大審問官は皮肉を言って、笑っているんですか?」と呼応するなら「おまえのためだ」もよろし。一方、во имяをあくまで目的、とするなら、なんか考えないとね。クラシックに「おまえの名において」とか、「おまえの世界のため」って意訳するとか・・・269ページの次の箇所とも絡むんでね。

なぜなら、塔を完成できるのは、食わせてやれるものであり、おまえのために彼らを食わせてやれるのは、われわれだけだからだ。もっとも、おまえのためというのも、嘘にちがいないがな。
ибо достроит тот, кто накормит, а накормим лишь мы,
во имя твое, и солжем, что во имя твое.

ますます「おまえのため」という訳は好ましいかな・・・が、「もっとも」とか「ちがいない」に相当する言葉が原文にないのがちと気になりやす・・・どうだろね、嘘にちがいないんじゃなくて、嘘をつくんじゃないかいな、否応なく嘘をつくんじゃないかいな。つまりさ、「おまえのために」を最初から条件としておくから、「もっとも」とか入れなきゃいけんのでしょ。じゃなくて「食わせてやれるのは、われわれだけ、それもво имя твое、それでво имя твоеと嘘をつく」って書いてあるように見えるんだがのお。
おいおい、ほんで
во имя твоеはどうするんじゃいって?たしかに「おまえのため」で通ればすっきりするんだがのお。しかし・・・おまえを戴く?、おまえを目的とする?・・・
うむ、「食わせてやれるものであり」→「おまえのために食わせてやれるのは」の論法も、前段からの必然性がないというか、間違ってそうだわね。

次回、いよいよ核心にせまる!・・・なあんて日はこないのかのお。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 3日 (木)

亀山訳で読む大審問官(1)

ダイシンモンカンかあ・・・
ダイシンボルガードの話のほうが気楽でいいなあ・・・

あーあ。珍銀行じゃないけど、とんでもないことに手を出して、気がついたら責任も取れないような状態になってること、うーい、あるんだなあ。ねえ、イシハラさん。
誰が悪いって・・・そりゃあもう、能力もないのに始めたアタシがいちばん悪い。
だけどなあ、シロートもびっくりってな翻訳を時々なさる、大家も、ねえ。おおやさんじゃないよ。いまのおおやさんはいい人・・・
それから、例の検証。ロシア語のプロと言われる方があんな断定的口調で・・・その上研究者が責任を持つと・・・ああそれなのに、それなのに、ねえ・・・
それがどーしたって、イシハラさんじゃないんだから、ねえ、イシハラさん。
ばかが錯覚をしたってしょうがあんめえってことよ。

そういうわけで、こういうことになって・・・苦労したところで、誰かの役に立ってるんだか、ただただ害毒をタレ流ししているんだか・・・ま、いっか、どっちにしろ大した影響はなかろ。

さてと、249ページのあたりから抜粋。

「--いつだったか、おれは物語詩(поэма)を書いた(сочинил)ことがある--」
「物語詩(поэма)を、書いた( написал )ですって?」
「いや、書いた( написал )わけじゃない」そう言ってイワンは笑い出した。「おれはこれまで、詩(стих)なんか二行だって書いた(сочинил)ためしはないさ。ただ、おれはこの物語詩を頭のなかで考え出し、覚えこんだんだ--」(--のところは略)

括弧つけると読みにくいねえ。みんな、「書いた」だけど、сочинитьには作曲とかの「作る」って意味があって、написатьは文字通り「書く」かなあ。で、поэмаは詩で、стихは韻文。ってほうがわかりやすくないかなあ。どうでもいいやね。ま、肩ならしに。

249ページ:--もしあと十分、暇つぶしにおれとつき合う気があるなら、その話をしてやってもいいがね」
Если можешь потерять со мной еще минут десять, то я б ее тебе рассказал?

ムダ話という意味合いでの「暇つぶし」かなあ。ただ、時間をつぶす、とせずに、あえてそういう言葉を選んだ理由はよくわかりまへん。ま、いいか。肩ならしにね。

250ページ:「ただし、ここでも前置きなしってわけにはいかないんだよ、つまり書き手の序文なしってわけにはね、ちぇ、困ったもんさ!」イワンは笑い出した。「まるで一人前の作家きどりだもんな!--
то есть без литературного предисловия, тьфу!

書き手の序文、ねえ。たぶん、作家きどり云々に調子を合わせた訳なんでしょう。ってわかりもしないで穿鑿したって・・・何にも考えなければ文学的序文って訳しちまうもんな。考えたらそんなの意味ないな。もっとも、意味がなくてもいいような気もするけど。どうでもいいか・・・えー、気を取り直して、当の序文部分を読んでみると、内容は文献学的序文っていうのかな。注釈的序文?そういうのはだめかね。ま、いいか。フム、肩ならしばかりで登板しないまま終わるという噂が早くも・・・

253ページ:なぜって、天から人間に与えられた保証が消えて以来、もう十五世紀が過ぎているんだから。
ибо пятнадцать веков уже минуло с тех пор, как прекратились залоги с небес человеку

прекратилисьは消えた、というより、途絶えたでは?・・・ま、いっか。

254ページ:人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。
в человечестве началось уже сомнение в правдивости этих чудес

「早くも」は調子、かな。だけど、уже(凡人なら、「既に」。工夫をしている亀山さんはえらい!か?)を「早くも」とする時間軸がアテにはよくわからないんざんすが・・・えーい、つまらんことばかり・・・肝心のところがよくわからない腹いせかや。

257ページ:降り立った場所は、南国の町の『熱い広場』だが、ちょうどこの広場にある『壮麗な火刑場』では、つい前日、国王、廷臣、騎士、枢機卿、それにとびきり美しい宮廷の奥方たちが列席し、セヴィリア全市から集まったおびただしい数の住民たちが見守るなかで、百人ちかい異端者たちが、枢機卿である大審問官の手でいちどに焼き殺されたばかりだった。 ad majorem gloriam Dei(神のより大いなる栄光のため)、彼はしずかに、人に気づかれないように姿を現したが、不思議なことに人々はすぐその正体に気づいてしまうのさ。
--, была сожжена кардиналом великим инквизитором разом
чуть  не  целая  сотня  еретиков  ad  majorem gloriam Dei. Он появился тихо,
незаметно,  и вот все - странно это - узнают его.

長々引用しちゃいました。彼が登場する場面だから・・・じゃあないんだけど。原文では、 ad  majorem gloriam Deiは前の文にくっついてるんだけど。錯覚かなあ、それとも・・・でも、後ろにくっつけるのは意味も妙だよ、ねえ、イシハラさん・・・でも、亀山さんは文を途中で切って改行しちゃうこともあるから・・・たとえば、125ページ

こうなった以上、わたくしはもう貴族などと申せた義理ではございません。そこはまあ、ご自分でご判断なさってくださいまし。
 さっきわたくしの邸宅においでくださいまして、何をごらんになりましたか。
Нет уж, где нам дворянами оставаться-с.
Да и посудите сами-с, изволили сами быть сейчас у меня в хоромах — что видели-с?

「ご判断なさってくださいまし。」の後ろで改行してますが、原文は後ろとひとつながりでっせ。改行するならその前でがしょう。ほんで「それにご自分でご判断なさってくださいまし。さっき・・・」としたほうがいいような・・・そこはまあ、ご自分でご判断なさってくださいまし・・・なんて余計なことを書くから、もう。
それと・・・貴族などと申せた義理って、なにも貴族って訳さなくっても、ねえ
。「こうなった以上」も間違いかな。ちょっと前を読んでちょうだいな。『きさまが将校なら、おれも将校だ、--』(ドミートリーさんがそう言った、とスネギリョフさんが言ってる)。これに対して言ってるんで、直訳すると「いいえもう、わたくしどものどこに軍人が残っておりましょう」ってなこっちゃないすか。

枝葉末節ばっかりでしたか・・・ま、いっか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)