2006年12月 6日 (水)

ジョイス・ダブリン市民

いや、だいたい私にはあの『意識の流れ』という言葉がさっぱりわからない。というのは私の意識は流れてくれないからである。私の『意識』は現在及び思考と関係している。まあ、現実と空想と言ってもいいや。(実はそんなふうに分ける必然性はなく、邪道なのだろうが、正面突破する論理の力がないからこそこんな所で好き勝手なことを書いていられるんだ。)で、現在の意識は一瞬の存在、あるいは存在の一瞬であり、その現在が過去となればその意識も消滅する。ところで、思考は流れるかもしれない。私の思考はよどんでいて常に行きつ戻りつし、流れるような思考をなさる方は実にうらやましい・・・が、そんなことはこの際関係ない。思考と意識を混同してはならない。思考する時の意識とは、思考に関係する関係である。(おお、何という独創性の欠如!)想念が過去へ戻ろうと、未来へ馳せようと、意識は現在の一瞬の存在である。流れるのは時であって、意識は、回転する地上の一点が定点として存在するように、常に時間の流れにのった、ただし膨大な過去を背後に従えた、現在の一点なのである。そんなものは言葉の定義の問題だろう、とおっしゃるかもしれないが、私の考えでは、内面を叙述していれば意識をとらえていると解釈するのは浅薄であって、自分の意識を覗いたことのない人が言うことである。内面に関する意識の現われとはエピファニー(この言葉についても全然理解していないのにこういうところで用いては笑われるだけだろうとは思うが)のようなもので、むしろ外面的現象からその存在が暴露されるべきものである。・・・が、まあ、自分でも何を書いているのかわからない、益体もないことはもうやめにしよう(尤ももう誰も読んではいまい)。

さて、せっかく金字塔といわれるユリシーズを手にしながらその価値を理解できなかった不幸な私の『ダブリン市民』との出会いだが、もうそのときの印象も、訳者が誰だったかも覚えていない。ただ、まあおもしろいところもいくつかあったが全体としてひどく暗い感じを受けたような気がする。凡庸な読者の平均的印象だろうか。実際、アイルランドの歴史も、当時の時代背景も、宗教のことも知らず、ジョイスの画期的な文体を読み取れない私なんぞが読んでも、箱のふたを半分、いや、もしかしたらほんの少し開けて覗き込んでいるようなもので、ただ誤解して終わっただけかもしれない。しかしまあ、あの本一冊読むだけのために、歴史や宗教の勉強から始める人もいないだろうから、ごく普通の日本人にとってお勧めの一冊なのかどうか、疑問だ。さはさりながら、あれが名作であることは疑いないらしいので、英語や文学を勉強しようという方にはいいのではないかと思う。かくいう私も数年前に突然思い立って原文で読んでみることにしたのだ。私なんぞの英語力でジョイスを読むなど無謀の限りであるということも知らないほど愚かだったのが幸いしたともいえよう。確かに無謀にはちがいないのだが、インターネット上にglossary、解説等の資料が豊富にあり(これほど豊富なのはジョイスだけではないだろうか)、それを調べているだけで勉強した気になるし、実際、勉強になると思う。お勧めである。

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2006年12月 2日 (土)

ジョイス・ユリシーズ

ジョイスのユリシーズは20世紀文学の金字塔だそうな。だいたい金などというものが絡むとろくなことはないと知りつつ、見栄を張って、それもばかげたことに誰にでもない、自分に対して見栄を張って、何年だか前、丸谷才一、永川玲二、高松雄一の新訳が出た時に買ってしまった。ま、予期したとおり、私にはおもしろくなかった。そう言うとフフンと軽蔑され、『私には』と強調しないと怒られそうなところがこうしたものの恐ろしいところである。しかし私の趣味が低俗なものであろうとも、いたしかたない、おもしろくないものはおもしろくない。向こうだって私のようなばかが買って読むことだってわかってるはずである。ご立派な出版を成立させるためにはある程度犠牲者が出るのも仕方がないとも思うが、せめて品質表示法に基づいて警告をのせてもらいたい。警告:愚か者には難しすぎて途中で放り出し、足の上に落としてけがをすることがあります。

ところで、あの翻訳だが、いや、文体を翻訳できるのか、とかいう私には無理な議論は抜きにして、あの翻訳だが、あれはどうなんでございましょう。あれを読んだ頃は英語をほとんどまったく知らなかったので、翻訳家のご苦労というものも想像がつかなかったわけであり、しかも訳文から判断しただけであるが、それにしても何とセンスのない、と感じたのでありました。それに訳注が多くてねえ。

そもそも私はあの訳注というやつが大嫌いだ。あっち見たり、こっち見たりしてられるかい。訳注とはそれが物語であることを無視したものであり、その上見たところでわかった気がするだけで、少しも賢くならない。なぜならそれは知的作業ではないからである。それに引き換え、訳注をつけるという作業はきわめておもしろいにちがいない。これは知的であり、大変な作業であろうが、大きな達成感、満足感を得られる。おそらくジョイスは読者にその楽しみを提供したものであろう。インターネットで検索して見られよ(ただし英語ね)。ジョイスの小説の解釈をのせたところがたくさんある。みんな、どうだ、と言わんばかりである。すなわち、あれは物語がおもしろいんじゃなくて解釈するのがおもしろいのである。してみると、あの膨大な註をのせた本はそれによって読者を縛りつけ、本文から註へ、註から本文へとさまよう羊となるように飼いならすものではないのか。もしかしたら、ジョイスを読む楽しみをすべて自分たちで奪い去った末のものを提供しているのではないのか。そうでないとすれば、すなわち、読者の側にあれに対抗できる知能、教養があるとすれば、あれなんか読まずに自分で原文を読むはずである。まったく、あれは誰に読ませようというのか?

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2006年10月31日 (火)

ジョイス・二人の色男

私の英文理解力は一つの単語にこだわるレベルには達していない、つまり、家中雨漏りがしているのに一つ穴をふさいでも仕方がない、といった程度ですが、それでも他人様が違う事を言っていると気になるし、なぜ作者がほかの単語でなく、その単語をわざわざ使うのか、という視点も大切なのではないかと思います。そこで、ジョイスのダブリンの人たち(普通ダブリン市民と言われているようですが)の中の『二人の色男』からwinnowという言葉について。状況は--二人の色男、コーリーとレネハンがラトランド・スクエアから南へ向かっている。傍若無人な歩きっぷりで自慢話を続けるコーリーに対してレネハンは目算があって追従笑いをしている。で、問題の場面。

When he was quite sure that the narrative had ended he laughed noiselessly for fully half a minute. Then he said:
"Well!... That takes the biscuit!"
His voice seemed winnowed of vigour; and to enforce his words he added with humour:
"That takes the solitary, unique, and, if I may so call it, recherche biscuit! "

he(レネハン)は、相手の長話が終わったのを確かめると、たっぷり三十秒も声を立てずに笑って、そいつはやったな(みたいな訳しにくい)ことを言う。ところが、彼の声はseemed winnowed of vigour; --というわけである。winnowは元々、風を送って穀物を吹き分ける、穀物から籾殻をあおぎ分けるという意味だ。今では籾殻に限らず、取り除くという意味、穀物に限らずよいものを選り分けるという意味もある。また、winnowの前のseemedが曲者だ。つまり、そう思われるが、実体はどうなのか、である。そこで、私の解釈。1.レネハンは演技をしている。2.まずはたっぷり三十秒声を立てずに笑い、それから世辞を言う。3.が、それは後からenforceが必要な言葉となったように見えた。4.winnowedであるからには空気は勢いよく吹き出していると考えられる。5.wellとThatの間に...があり、どちらにも!がついている。従って・・・何のこともない、レネハンはしゃべろうとしたものの、おかしくて吹き出さずにはいられないふりをしたのである。winnowを生かしてそれをどう訳すかは難しいものの、意味は明確だ、と私には思われたのであります。ところが、・・・

南谷覺正、ジェイムズ・ジョイスの「二人の伊達男」(群馬大学社会情報学部研究論集 第5巻 79-101頁 1998--ciniiで検索すると閲覧できます。ただで閲覧できるようにしてくださっているのは大変すばらしいと思います。)を見ると、まったく違うではありませんか。中の二文の南谷訳を引用させていただきましょう。

-いやぁ・・・そいつは何とも傑作だ!
彼の声は活力が抜けていて、それを繕うためにユーモアを込めてつけ足した。

いや、これではwinnowが泣かないか、seemedは訳者の鼻息で吹き飛んでしまっているじゃないか、それを繕うためにenforceは矮小化されている・・・大学の先生がこんな訳をして、それを基に論文を書いたりしていいものか・・・とは思ったものの・・・あちらは大学の教授で、こちらは頭にドが百回もつくしろうとだ。だんだん自信がなくなってくる。・・・はたして我が方に援軍が現れるでありましょうか、それとも、地下の奥深く退散すべき時が来ているのでありましょうか・・・

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