2009年6月16日 (火)

エピローグ その2

「兄は、今日あなたに来てほしいと言っているのですが」・・・

Ему вы очень нужны, именно теперь. Я не стал бы начинать об этом и вас преждевременно мучить, если б не необходимость. Он болен, он как помешанный, он всё просит вас

兄には、あなたが必要なんです。とくに今。もしそんな必要がないのなら、こんな話を持ち出し、何も最初からあなたを苦しめたりするようなことはしません。兄は病気なんです。気が変になったみたいなんです。ずっとあなたに会いたがっているんです。(亀山訳18ページ)

「最初から」について。преждевременноの訳語。この「最初から」はどういう意味かな? 「何も」がついているのは、「もとより」の意味ではないことを明示したものでしょ。ということは、「ことにあたって」のような意味でしょうか。

このпреждевременно、米川訳、原訳では「前もって」。これははっきり言ってだめ。「前もって」言わなきゃ話にならないもん。「前もって」ってのは、何かするのは前提のわけだから。「最初から」は似て非なるもの。ずっといい。ただし・・・

преждевременныйという形容詞は、早産とか早熟とか、思ったより早い、普通より早いというときに使うらしい。つまり、公判後五日で、まだ言い出すべき時機じゃないってことかなあ。それでも、「とくに今」なのは、「兄は病気、気が変になったみたい」だから、というわけ。

しかし、「こんなに早く苦しめる」じゃ変だし。「あれからまだ間もないのに」かなあ。え、「何も最初から」のがいい? そうかもねえ。

亀山流

Пусть невозможно, но сделайте

不可能でもいいんです。でも、そうなさってください。(19ページ)

これは論評するより鑑賞すべきところでしょうか。普通は「不可能ではあるでしょうが・・・」でしょうか。

トリフォーンの幸せの1500ルーブル探し

Трифон-то,— заговорил суетливо Митя,— Борисыч-то, говорят, весь свой постоялый двор разорил: половицы подымает, доски отдирает, всю «галдарею», говорят, в щепки разнес

「トリフォーンのやつ」ミーチャは、心配そうに話しだした。「旅籠屋をすっかりぶっこわしちまったって。床板はずしたり羽目板はがしたり、『回廊』までばらばらに壊したそうだ。(24ページ)

回廊:建物をぐるりと囲み、折れ曲がって長く続く廊下。フム、まず、そんなものの存在があやしい。в щепки:ばらばらに。木切れ、板切れにまでしたらしい。床板羽目板はがすだけでなく。フム、建物本体と別に壊せるってわけ。してみると、この«галдарею»、バルコニーじゃないかなあ。《》がついてるのは方言だから?

それから、「心配そうに」も亀山流かな。話と別に心配事があるのを強調してるんでしょうか。普通、суетливоは落ち着きなく、とか?

ミーチャの言いたいこと

「アリョーシャ、おれは、グルーシェニカをものすごく愛してるんだ」とつぜん彼は、涙あふれる震え声でそう言った。
「でも、向こうへは、いっしょに行かせてもらえないでしょうね」アリョーシャが、すかさず引きとった。
それからもうひとつ、おまえに言っておきたいことがあったな」ミーチャはふいに、どことなくはずむような声で話をつづけた。「もしも護送中なり、向こうについてから連中に殴られるようなことがあったら、おれは引き下がらないし、やつらを殺して銃殺にでもされる。(中略)グルーシェニカのためならなんだって我慢できる、なんだって・・・ただし殴られるのだけは・・・なのに、あいつは向こうに行かせてもらえないんだ」(26ページ、訳文中「向こう」に傍点)

グルーシェニカを愛してると言い、彼女と一緒に行かせてもらえないと言われたドミートリー、 殴られるのだけはいやだというのが、もうひとつ言いたいことなのでしょうか? いや、グルーシェニカの話をしてるんだ、大事なのは彼女のことでしょ。だから、ミーチャの長台詞の最後はアリョーシャの言ったのと同じ(彼女は向こうに行かせてもらえない)。従って、

И вот что еще хотел тебе сказать

は、「それからもうひとつ、おまえに言っておきたいことがあったな」ではなく、「いやそこだよ、おまえに言いたかったのは」じゃないかなあ。

スピード重視

でも、これって、イエズス会士の話し合いじゃないか、そうだろう? ほら、おれたちが今こうやってしゃべっているところなんかさ、え?(29ページ)

「こうやってしゃべっているところなんかさ」というと、情景のこと。なぜドミートリーがイエズス会士なんか持ち出したのかなんてことにこだわらずに読み進めさせる効果がある。どうせ考える人は考えるんだからってことかな・・・

・・・終わり

さて、ここらで『カラマーゾフの兄弟』を切り上げるとして、これから何をしましょう・・・一年半もかかりきりだったんでねえ、離れるのにもエネルギーがいりそう。まあ、何をしようと勝手なんだけど・・・とりあえず、てめえの『地下室の手記』の手直しでもしようかと思ってみてみたら・・・あんまりひどいんでびっくり・・・まあ、しょうがないやね。ロシア語もろくに読めなかったこともあるけど、まるっきり翻訳というものがわかってないやんけ。当然だけど。勉強、修行を抜きにいきなり実地から始めたんだから。あーあ・・・なんであんなばかなことを始めようって気になったんだろ。もっともあれがあるから今があるわけで・・・でもねえ。あまりひどいとやる気なくすねえ。・・・安岡さんのにけちをつけようなんて百三十億年早いや・・・ふむ、そういう問題でもないか。なんにも知らないからけちなんかつけられるんだなあ。くふふのとほほ・・・

いまさら気づくということ自体が空恐ろしい、とほほな能力で『カラマーゾフの兄弟』を調べようなんて気を起こしたのは、妙な行きがかりと変な錯覚のせいでもあるが、もしかすると役に立つことをしているのかもしれないという思いが大きかったわけで、そういったことの後では、何をしようと勝手なんてのは少しむなしいものがあるなあ。それでも、人生は続いていくわけで、やはり、とりあえず地下室に帰るべきなのかなあ。

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2009年6月11日 (木)

エピローグ

はてさて、なまじ少しばかりロシア語がわかるようになったせいで、縮こまってますかね、わたくし、書くことが。ちょいとまともなことを書いてみようかしらなんてね、色気を出すとろくなことはないとしたもんで。ふん。だいたいやねえ、わかるようになったったって、英語で言えば中学生レベルかい、なあ。いや、いや、文法とか、基礎からすっぽ抜けだからね、そんな比較すらおこがましい。まあ、こんなことも知らないんですか、怖いですねえ、怖いですねえ、サヨナラ、サヨナラ、って状態だわさ。とすれば、いまさら取り繕いようがないざんす。

・・・というわけで、どうせ短いエピローグ、好き勝手なことを書くという方針で・・・今までだってそうだろうと言われればそうだけど・・・まくらはどうでもいいようなことから

誰の声

Она сидела и говорила с ним в той самой комнате, в которой принимала когда-то Грушеньку; рядом же, в другой комнате, лежал в горячке и в беспамятстве Иван Федорович.

彼女は、いつだったかグルーシェニカを迎えた例の部屋に腰をおろして彼と話をした。隣の別室では、幻覚症をわずらっているイワンが、意識不明のまま横になっていた。(光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』5 8ページ)

アリョーシャがカテリーナ・イワーノヴナを訪ねた時のこと。どこの部屋だなんてことは、おそらく、隣にイワン・フョードロヴィチが寝ていることを言いたいから持ち出したんだな。さて、それでは、この一節、誰の声を文章にしたもの? そんなこたぁ、おめぇさま、語り手に決まってるずら! さよか? だとすると、когда-то :「いつだったか」はいけません。いつだったか、は、はっきりしない過去のこと。13年前のことを克明に書いてきた語り手が、はっきりわからないはずがない。語り手なら「いつか」というはずだ。

じゃ、「いつだったか」がだめかというと、そうとは限らない。たとえば、カテリーナ・イワーノヴナの思ったことを表したとか。しかし、カテリーナ・イワーノヴナならグルーシェニカをтварь(亀山訳では淫売)と呼ばなければならない。すでに通訳されちゃってます。では、アリョーシャなら? アリョーシャなら、イワン・フョードロヴィチとは言わんでしょ。

というわけで、この「いつだったか」は訳者が読者と気分を共有しようとしていると見るべきかな。・・・・・お気楽な話題でげした。

それっていつ?

И это тогда, когда я сама, уже давно перед тем, прямо сказала ему, что не люблю Дмитрия, а люблю только его одного! Я от злости только на эту тварь на него озлилась!

で、そのときなんですよ、それよりもだいぶ以前に、ドミートリーさんなんか愛していない、愛しているのはあなただけって言ったのは! わたしが憎しみのあまり癇癪を起こしたのは、ただあの淫売に対してだけって!(12ページ)

原文の勢いそのままの訳、と思えるが、しかし・・・「そのとき」って、いつ? 当然、それまで話題にしていたときのこと。つまり、カテリーナとイワンが喧嘩したとき。では、「それよりだいぶ以前」の「それ」って、いつ? 日本語だけ見てると、「それ」は「そのとき」で、『前から愛していないとそのとき言った』ととるのが普通かしら。しかし、原文を見ると、『言った』のが『それよりだいぶ以前』ではないですか。すると、妙なことになりゃせんかいなあ。なにがなんだかさっぱりわからなくなってしまいました・・・

ふうむ、「それ」を、「そのとき」より後の、どこにも言及されていないとき、とるのは無理だろうから、従って、言ったのは「そのとき」ではなく、『そのときには、既に以前、言ったことがあった』と考えるよりしょうがないんじゃないかなあ・・・ほかに思いつかないんだけど。そうなると、「わたしが憎しみのあまり云々」も、イワンではなく、アリョーシャに対して言ったことになりそう。

げんなまはどこだ?

Тут же оставил у меня деньги, почти десять тысяч,— вот те самые, про которые прокурор

その場で、わたしのところにお金を置いていきました。一万ルーブルぐらいありましたわ・・・・・・ほら、これがそうです。検事がだれかから、(12ページ)

ほら、これがって出してみせたんでしょうかねえ。そんな必要ないと思うんだけど。ほら、例の、検事が・・・じゃあないんかなあ。それと、「一万ルーブルぐらいありましたわ」って、数えたのかしら?

カーチャ、フライング

Он опять заговорил о Мите.

彼女はまたミーチャの話をはじめた。(15ページ)

確かにこのあと、カテリーナがしゃべりだすのだが・・・しかし、アリョーシャが用件を言い出しにくくてミーチャの話を蒸し返したっていう話の流れでしょう。

ああ、わたしって、わたしって・・・

О, тварь! Это я тварь, я!

そう、淫売なの! 淫売はわたしなのよ、このわたし!(16ページ、カテリーナの言葉)

なんぼなんでも、カテリーナ・イワーノヴナが自分のことを『淫売』と呼ぶことはない・・・と、わては思うんだけど・・・まあ、グルーシェニカのことを常にтварь:淫売と呼んでいるからには、ここも「淫売」としないと、「このわたしが」の味が消えちゃうからなあ。

そもそも、ここ、イワンがドミートリーの話をしたときのことについて言っている。「でも、わたしは、ああ! わたし、あのとき、傲慢にもせせら笑いながらあの人の話を、涙まじりの話を聴いていたんです! そう、淫売なの!・・・」ってわけ。どうかなあ、傲慢にせせら笑って→淫売、ねえ?

тварьというのは、ドミートリーが自分のことをそう呼んでいるところがあるぐらいで、蔑称というか、悪態というか、べつに淫売に限ったわけじゃないんだね。まあ、グルーシェニカ:淫売というのは、いかにもって感じだけど。とくに、第2編、場違いな会合でミウーソフとフョードルの言うтварьは場の雰囲気を徹底するためにも淫売がいいのかな。

しかし、カテリーナが自分のことを淫売とはねえ。自分のことをそう言わないとすれば・・・ま、いっか。

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2009年6月 3日 (水)

翻訳の風景

第4部が終わったところで何かまとめの文章でも書こうかと思ったが、やめた。今まで続けてきたことがすべてであって、それ以上のことは何もない。個々の問題はそれぞれ個別、独自の問題であって、それぞれ個別の解決を必要とする。一般化しようとすればうそになる。共通の事柄があるとすれば、それは問題そのものではなく、問題の発生の仕方、すなわち翻訳の手法にある。しかし、それを書くこともしない。いまさら米川さんや原さんについて言っても仕方ないし、亀山さんはいろいろなゴタゴタ(このブログも含めて)に巻き込まれて多くのことに気づかれただろう。今後も翻訳を続けられるとすれば、どんどんいいものになってゆくにちがいない。翻訳は、学者さんにとっては格の低いものかもしれないが、なかなか奥が深くて難しい仕事だ。長く続けるほどに、以前の自分の翻訳が甘いものに見えてくるにちがいないのだ。それを亀山さんは、数あるドストエフスキーの作品の中から、こともあろうにいきなり『カラマーゾフの兄弟』に飛び込むという、大胆不敵な所業に及んだのである。もっとも、この大胆さこそが世の中で成功する秘訣かもしれないし、また、大成功は反動を伴うのも世の常だ。成功も失敗も、とてもいいことだ。

亀山さんは指摘が正しいと思えば増刷の際に修正をされる。ご多忙の中、面倒だろうし、出版社は紙面刷新を嫌って抵抗するそうだから、苦労なさっているのかもしれない。(きりの良いところで章が終わるよう工夫しているとすればなおさら)。だが、気づいたことがあれば、是非、随時、正していってもらいたいものだ。亀山訳が良くなるだけではない、将来、亀山訳を参照する訳者さんのためにもなるのだから。以前、インターネット上で見られた折原浩さんの『翻訳の社会学』という一文から一箇所引用しておこう。

翻訳とは、原著者の思念内容を忠実に読者に伝える営為。一見「正しい」翻訳でも、原著者の思念内容を読者に伝えられない誤訳ないし不適訳もある。原著者の思念内容を確認するのに、原著者の他の著作も参照する必要が生ずるばあいもある。そういうわけで、一挙に完全な翻訳を仕上げることは至難とすれば、訳文を漸進的に、どう是正していくか、が重要となろう

これは、社会科学書だけでなく、ロシア文学の翻訳にもあてはまると思うのだが。

ふむ、書くのはやめたとか言いながら、つまらないことを書いてしまった。ひとつ気分転換に、難しいなあと思う例でも挙げておきますか。「幸運の女神がミーチャに微笑みかける」より。カテリーナ・イワーノヴナがミーチャに有利な証言をしようとしている場面。

Если б он пришел тогда ко мне, я тотчас успокоила бы его тревогу из-за должных мне им этих несчастных трех тысяч

もしあのとき、彼がわたしのところに来てくれれば、わたしに借りたあの不幸な三千ルーブルのことで、不安を鎮めてあげられたのにと思います(亀山訳475ページ)

несчастныйは「不幸な」が第一の意味だし、わざわざこの単語を用いているからにはそう訳すのが普通だし、実際、不幸を招いたのも確かだから「不幸な三千ルーブル」はいかにも感じが出ているように思えるし、何にも問題ないと思われる。ところが、・・・、Ушаковの辞書のнесчастныйの項に、まさしくこの箇所が用例として挙げられていて、その際の意味は、

для выражения неприязненного, пренебрежительного или презрительного отношения к кому-чему-н

とあるのだ。要するに、何かに対し、敵対、軽蔑を表すわけだ。「みじめな野郎だぜ」なんかに使えるのかな。「不幸なやつだぜ」では、言い方を工夫してもそのニュアンスは出なさそう。まして「不幸な三千ルーブル」にその意味はない。もちろん、辞書が必ず正しいわけではないが、カテリーナ・イワーノヴナが、三千ルーブルはたいした問題ではなかった、ということを言おうとしているとすれば、なるほど、「不幸な」ではないわけだ。別の辞書には同じ意味で、Жалкий, ничтожныйとある。そうすると、この際は「つまらない、どうでもいい」という感じになりそう。

しかし、そのように訳せばнесчастныйであったことは消えてしまうわけで・・・

ところで、ちょっとエピローグも眺めてみたんですが、いきなりよくわからなくて・・・どうしようかなあ・・・

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2009年5月25日 (月)

悪魔のお仕事

積み残したよくわからないところをひとつ。11編の9『悪魔、イワンの悪夢』から。申し訳ありませんがすごく長く引用します。

でも、ですよ、ぼくの運命のほうがはるかに深刻ですよ。だって、自分にはぜったいに理解できない前世の宿命とやらのために、何ごとも《否定する》のがぼくの定めなんですから。ところがじっさいに、ぼくはものすごく善良ですし、否定することなんてぜんぜん柄じゃないわけです。いや、だめなんです。否定しなくちゃいけない、否定がなけりゃ、批評はない、『批評欄』がなかったら雑誌とはいえない。批評がなかったら、残るは『ホザナ』だけになってしまう。でも、人生は『ホザナ』だけじゃ足りない。この『ホザナ』とやらは、懐疑の試練をくぐりぬける必要がある、とまあ、こんなぐあいです。
といっても、ぼくはこうしたことに首を突っ込まないことにしているんです、僕が作ったわけじゃありませんし、責任がぼくにあるわけじゃないですからね。まあ、だれかスケープゴートを選びだしてきて、そいつに批評欄を書かせれば人生一丁あがりっていうわけです。ぼくらはこのコメディがよくわかるんです。
たとえば、ぼくなんか、ごく単純に自分がこの世から消えてなくなることを願っているんです。ところが、生きていてくれ、きみがいなくなったら何も残らなくなってしまう、と人から言われる、この地上のすべてのものが理にかなっていたら、それこそ何も起こらなくなってしまう。きみがいなくなったら、いっさいの事件がなくなる。事件はなくちゃならないんだ、とこうです。(亀山訳373-4ページ)

《否定する》のが役目の悪魔氏、実は向いていないのだが、きみがいなければ何も起こらなくなってしまうと言われ、しぶしぶ役目を果たしている──という大筋はちゃんと理解できるから何も問題はないとしたものですが、しかし、スケープゴートってだれのこと? それを選びだしてくるのはだれ? 亀山訳からの印象は・・・選ぶのは悪魔氏かな。でも、原文はそうじゃない。それに、悪魔氏、結局、首を突っ込んじゃってることになりゃしない? それに批評欄を書くというのは比喩で、ひらたく言えば否定すること、つまり、悪魔氏の役目、しぶしぶやってる役目でしょ。だから、スケープゴートは悪魔氏のはず。と・・・なんか、前後のつながりが妙でっせ。妙でしょ? 

そいで考えたんだけど、悪魔氏をきみと呼ぶ人たちが出てくるでしょ。悪魔氏の話にはその相手との対話が含まれているんだ。悪魔氏自身の考えも、イワンにではなく、その相手に対して言ったものがあると考えてみましょう。

まんず、相手はだれか? 「いや、だめなんです。否定しなくちゃいけない」のところ、原文は:

Нет, ступай отрицать──いや、行って否定したまえ

「行って」だから、もちろん、あちらの「人たち」だ。「とまあ、こんなぐあいです」は:

ну и так далее, в этом роде──なんたらかんたら、云々

ということにしてみよう。すると、全体で「いや、行って否定したまえ、・・・、なんたらかんたら、云々」。という「彼ら」に対して、悪魔氏が答える:

Я, впрочем, во всё это не ввязываюсь, не я сотворил, не я и в ответе──でも、ぼく、そんなことに首を突っ込みませんよ、ぼくが作ったわけじゃなし、ぼくに責任もありません。

とまあ、ここまではいいとしても、やっぱり次の一節とは断絶があるような・・・:

Ну и выбрали козла отпущения, заставили писать в отделении критики, и получилась жизнь──というわけで、(彼らが)スケープゴートを選びだし、批評欄を書かせたら、人生が生じた

なんか変。しかし、スケープゴートは悪魔氏、という考えを押し通せば、

そしたら、スケープゴートにされて、無理やり批評欄を書かされて、人生一丁あがりってわけです。

つなげると : いや、行って否定したまえ、・・・、なんたらかんたら、云々。でも、ぼく、そんなことに首を突っ込みませんよ、ぼくが作ったわけじゃなし、ぼくに責任もありません。そしたら、スケープゴートにされて、無理やり批評欄を書かされて、人生一丁あがりってわけです。

それから、「たとえば」以下、「自分がこの世から消えてなくなることを願っているんです」のところ、「たとえば、・・・自分の消滅を要求する」ではないのかなあ。

しかし、書いてる本人が釈然としないのですから・・・

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2009年1月16日 (金)

ダイアグラム

彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。天頂から地平線にかけて、いまだおぼろげな銀河がふたつに分かれていた。
微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。(107)

4 ガリラヤのカナ。アリョーシャになにかがおこり、庵室の外に出たシーン。「輝く星。サファイア色の空。しかし、詳細な時間表を作ってみると、ちょうどこれと同じ頃、フョードルカラマーゾフは殺され、外は闇だった。上の『サファイア色』という表現はそれを忘れたドストエフスキーのミスではないか。」亀山先生はラジオの講座でこうおっしゃっていた(誤解があったらごめんなさい)。でも、ドミートリーがモークロエへ向かうところ、こんなふうに書かれている。

その速さに、ミーチャの心はさわやかなものになった。空気はひんやりと澄みわたり、雲ひとつない夜空には、大きな星がいくつも輝いていた。アリョーシャが地面につっぷし、「有頂天になって永遠に大地を愛すると誓った」のと同じ夜、ことによると同じ時間だったかもしれない。(235)

ドミートリーが親殺しでないばかりか、グリゴーリーが生きていることも暗示しているような晴れ渡る夜空。明々白々、ミスとは思えない。また、こういうことで現実に立ち戻る必要もないと思うのだが、気象の変化であるとして、そこで:これがはたしてほんとうに殺害時刻と一致していたのか。というわけで、5巻の解題にある物語のダイアグラムを参考にしながら読んでみたところ、いくつか気になる点があったので、今日はそれを。

まず気がつくのは、ホフラコーワ夫人の家を訪ねてからペルホーチンの家を訪ねるまで、ものすごくミーチャは忙しいということ。ちょっとミーチャの行動を書き出して見ましょう。()内は筆者のおせっかい。数字は亀山訳『カラマーゾフの兄弟』3におけるページ(上の引用でも同様)。

 彼が呼び鈴を鳴らしたのは、七時半頃だった。(ホフラコーワ邸;164)
 (ホフラコーワ邸を出て)広場に出たとき、彼はとつぜん、何かにがつんとぶつかった(サムソーノフの女中と;179)
 (グルーシェニカがすぐ帰ったと聞いて)モローゾワの家へ駆け出して行った。それはちょうど、グルーシェニカが馬車でモークロエに向かって去っていったのと、同じ時刻だった。彼女が出てから、ものの十五分も経っていなかった。(180)
 (フェーニャと話。杵をもってカラマーゾフ邸へ。そして・・・)。
 飛んで行った先は、またしてもモローゾワの家だった。(中略)「(グルーシェニカは)先ほど、二時間ぐらい前ですか、チモフェイの馬車でモークロエに出かけました」(と、プローホル;194-5)
 (フェーニャと話。)家に駆け込んでから、かれこれ二十分が過ぎていた。(199)
 それからきっかり十分後、・・・、ペルホーチンの家に入って行った。すでに八時半を回っていて、(201)
 今日の九時に彼(ドミートリー)はまたわたしのところにやって来まして(と、ペルホーチン;342)
(補足) マリアはふと思い出した。さっき九時ごろ、隣り近所にまで響きわたるような、恐ろしい、耳をつんざくような叫び声が隣家の庭の先から聞こえたのだ。(グリゴーリーが「父殺し!」と叫ぶ声;359)

さて、どなたもお気づきだろう。ミーチャが短時間にたくさんのことをしたこと。さらに、記述に矛盾があること。なお、原文ではのところ、Было уже половина девятого,(すでに八時半;回っていない)。おそらくは、地の文が正確で、会話文の中の時間は不正確、と、解釈すべきなのだろうが・・・

まず、一つだけ解決しておこう。グリゴーリーが叫び声を上げたのはの途中。それは、より、少なくとも八時半より前だ。ところが、では九時ごろになっている。マリアの記憶が大まかか?いや、そうではない。テキスト:

Дорогою Марья Кондратьевна успела припомнить, что давеча, в девятом часу, слышала страшный и пронзительный вопль на всю окрестность из их сада

『罪と罰』の「六時すぎか七時か」について亀山先生の解説をお読みになった方はおわかりだろうが、в девятом часуは九時ではなく「八時過ぎ」だ。八時半より前と考えてもいいはずだ。これをあえて「九時ごろ」とすると何か都合がいいのだろうか。他の記述のほとんどと矛盾するように思うが。ところが、なんとしたことか、米川訳でも「九時ごろ」(岩波文庫三巻138ページ)、原訳でも「九時近く」(新潮文庫中巻476ページ)なのだ。なぜだ?!まあよろし。とにかく「八時過ぎ」ということにしよう。

すると、ドミートリーがペルホーチンの家に入った時間が八時半ではまずいことになる。より、グリゴーリーを杵で打ったのは三十分以上前、従って、八時過ぎでなく、八時前になるからだ。しかも、それではドミートリーのカラマーゾフ邸での滞在時間が短すぎる。を詳しく引用してみよう。

それからきっかり十分後、ドミートリーは、さっきピストルを抵当に金を借りた例の若い役人、ピョートル・ペルホーチンの家に入って行った。すでに八時半を回っていて、ペルホーチンは自宅でお茶をたっぷり飲んだあと、料理屋『都』にビリヤードをしに出かけようと、ふたたびフロックコートを着込んだところだった。(201)

Ровно десять минут спустя Дмитрий Федорович вошел к тому молодому чиновнику, Петру Ильичу Перхотину, которому давеча заложил пистолеты. Было уже половина девятого, и Петр Ильич, напившись дома чаю, только что облекся снова в сюртук, чтоб отправиться в трактир «Столичный город» поиграть на биллиарде.

原文どおりに八時半とせず、「回っていて」としたことでいくらか矛盾が緩和。 しかし、八時半を回ったところでドミートリーが来たと読めるのは確か。それに、テキストは明らかに八時半。背番号24。とすると、ドストエフスキーのミスでないとすれば、テキストの読み方を変えねばならない。Былоから語りの視点の転換が起り、行動に移るペルホーチンの意識した時間が八時半だったのだ。(茶をすませて出かけることにした時間。ちと苦しい?):

すでに八時半になっていたので、ペルホーチンが、家で茶をすませ、ちょうど料理屋『都』にビリヤードをしに出かけようと、ふたたびフロックコートを着込んだところだった。とすれば、ドミートリーが来たのは八時半をだいぶ過ぎていて、ペルホーチンのおおよその感覚では九時と言っても()それほど離れていなかった・・・ということにしておこう。

もう一つの矛盾は解決不能。のドミートリーがモローゾワの家に向かった時間は七時四十五分より前ということはありえない(ドミートリーとホフラコワ夫人の会話の量からみて)。従って、グルーシェニカが出発したのは七時半以降。ところが、より、、プローホルがドミートリーを迎えた時間は八時半以後ではありえない。すると、出発の時間は六時半以前。と、いうわけで、ほかの記述は辻褄があっているので、プローホルの勘違いかな。と思うんですがね、ところが、亀山先生はこのプローホルの言葉をダイアグラムに採用しているのだ。なぜだ?

の八時半を無視。の九時も無視。さては、の「八時過ぎ」を「九時」にしたのもそれを計算して? 九時にグリゴーリー叫ぶ。九時十分ぐらいにプローホル証言(二時間前:七時半前後としても許せる)。しかし、ペルホーチンの家に着くのは九時四十分を過ぎちゃうぞ。アンドレイの馬車でモークロエに出発する時間は十時を過ぎちゃうぞ。一時間十五分でつける距離(235)で三時間近くも出発時間に差があっては、(グルーシェニカの乗ったチモフェイの馬車を)「一時間と先には着かせません」(アンドレイ;221)のは無理だろう。それに、話が戻るけど、ドミートリー、フョードルの前でぐずぐずしすぎ。いけません。

というわけで、プローホルの「二時間前」を却下。グリゴーリーが叫んだのは「八時過ぎ」。ドミートリーがペルホーチンの家に入ったのが九時前。と、しよう。

そこで、実際の犯行時刻、スメルジャコフがフョードルを殺した時刻だが。亀山先生のダイアグラムでは22時頃。そうだろうか? いや、この辺は微妙なところで、かなり幅がありうる。しかし、グリゴーリーの叫び声を聞いてからスメルジャコフが犯行に及ぶまでの時間のほうが、犯行時刻からマリアが警察に駆け込むまでの時間より長いとは思えない。
(4巻331-6ページあたり参照)ベッドで心臓をどきどきさせながら耳をすます。起きてフョードルが生きているかどうか聞き耳を立てる。フョードルに声をかけ、倒れているグリゴーリーの様子を見に行く。グルーシェニカをネタに部屋の中に入り、あとは・・・窓際に誘導して殺すだけ。これが犯行前。
犯行後。自分の体を調べ、文鎮を戻し、聖像の後ろの封筒から金を抜き取る。庭のりんごの木の洞の奥に金を隠す。ベッドに戻って考える。うめき声でマルファを起こしにかかる。マルファ、グリゴーリー発見。─この間に、グリゴーリーが「おそらく、何度か意識を失い、またも人事不省におちいりながら、長い時間這いずったにちがいない」(3巻357ページ)(もちろん、スメルジャコフが部屋に戻ってからにちがいない)ことに注意─マルファは取り乱し、事を手際よくはこぶことなどできない。が、フョードルを見にいき、隣家に駆け込み、隣家の母娘を起こし、二人がフォマーを起こし、グリゴーリーを離れに運び、頭を洗ってやり、・・・・・どう考えても犯行後のほうが長い。たぶん、犯行時刻は十時より九時に近いだろう・・・・・

さて、サファイア色の空と暗闇のことはどこかへいってしまった。それに、犯行時刻なんかどうだっていい。それなのに、細かいことをくどくど書いてきたのにはわけがある。ドミートリーの時間をすべて洗い出した上でダイアグラムを眺めると、ある、大きな謎に気がつくと思う。すなわち、ドミートリーの時間はびっしりなのに、アレクセイの時間がスカスカであることだ。

アレクセイは、むろん、グルーシェニカがモークロエに向けて出発する前にモローゾワの家を出た(98)。七時半から遅くても八時より前。そして、「アリョーシャは、町を出ると、修道院に向かって野道を歩き出した。」とだけ描写されている。町から修道院までは一キロとちょっと(От города до монастыря было не более версты с небольшим;第3編11の冒頭)。ところが、彼が「僧庵に着いたのは、この修道院のしきたりからすると、もうかなり遅い時刻」で、「すでに九時の鐘も鳴り終わ」っていた。一キロちょっとを一時間以上かけて、たぶん早足で(96)歩いたのか? なぜだ?

 

  

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2008年8月 5日 (火)

ロシアの修道僧(10)

長いことお世話になりました亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2、どうやら最後のページまでたどりつきそうでやんす。う、う、なにひとつやり通したことのない人間が、よくぞ、よくぞ・・・って、たった一巻じゃないの。それくらいのことで、ケッ・・・とにかく、亀山先生、それから、お付き合いくださった皆様に感謝いたしやす。

さぁてと、後は野となれだぁ、与太話によりをかけて・・・といきたいところではありますが・・・どうもその・・・無理な言いがかりと感じるようでしたら、この項を(9)で終わらせたくなかったんだなとお思いください。

455ページ:まことに、わたしたちはこの地上をさまようかのようであり、かけがえのないキリストの姿が目の前になかったならぱ、わたしたちも大洪水前の人類のようにすっかり道に迷って、滅び去ったことだろう。

На земле же воистину мы как бы блуждаем, и не было бы драгоценного Христова образа пред нами, то погибли бы мы и заблудились совсем, как род человеческий пред потопом.

いや、さもありなん。キリストの姿がない→道に迷う→滅び去る。じつに筋がとおった話でやんす。きっとその通りなんざんしょ。
し、しかしですよ、それってこんなふうに書かれるものざんすか:погибли бы мы(わたしたちも滅び去った) и(そして) заблудились совсем(すっかり道に迷って)。順番がなあ。ふうむ、そういうものだと言われちまったらそれまでだけど。

いや、しかしねえ、大洪水前の人類は道に迷って滅びたのかしら。むしろ、きまりを守らなかったんじゃなかったっけ。創世記6章11~13節を見るとお:

この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。(日本聖書協会新共同訳)

だとさ。そりゃまあ、道に迷うってのもかなり意味は広いから、ねえ。でも、ちょびっとちゃうんとちゃうんじゃないかってね。堕落と不法でしょ。そこでさ、погибатьは堕落する、заблудитьсяは道を踏み外すといきたいなあ。

459-460ぺージ:悪行を犯した者も、もしかするとおまえの光に照らされていれば、それを犯さずにすんだかもしれないのだ。
 そして、かりにおまえが光を与えながら、それでもおまえの光のもとで人々が救われないことに気づいても、心をしっかり保ち、天の光の力を疑ってはいけない。たとえいまは救われなかったにしても、いずれは救われるのだということを信じるがいい。そしてその後も救われなくとも、彼らの息子たちは救われるだろう。なぜなら、おまえの光は、たとえおまえが死んでも消えることはないのだから、正しい人は去っても、彼の光は残るのだから。
 人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。人類は預言者を受け入れようとせず、次から次へと彼らを殺してきたが、人々は自分たちの受難者を愛し、迫害された者たちをも敬う。

Спасаются же и всегда по смерти спасающего:人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。・・・いや、さもありなん。きっとそうなんでしょう。うぅむ、それに、名訳という声もある(こちら<ドストエフ好きーのページ)ところに異を唱えるとは無粋でげすが・・・

しかし、『つねに死後』でなくっても、ねえ。 前の段落から長々引用したのは若干、『つねに死後』は矛盾しやせんかと思って。ね、生きてるうちに救っちゃうこともあるように書かれてなあい?というかね、『つねに死後』なら最初からそう言えっての。

いやさ、『正しい人は去っても、彼の光は残る』。だから、ある救おうとする者が死んでも、光は残って、したがって、救いはいつでも・・・つまりさ、死んだら、じゃなく、死んでも・・・そんなふうなながれではないかと・・・

.あーあ・・・えーえ・・・まあね・・・

なにごとも終りは空虚な大納言

甘納豆なんざ喰ったってなあ、太助、現実はどもならんぜ

おぅよ、大門からこっち、一切の希望を棄てるなんて甘っちょろい言葉は薬にしたくってもねえからなあ

いのちみじかく わたる浮世は あめもつらいぜ ・・・・・

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2008年7月29日 (火)

ロシアの修道僧(9)

暑さのせいでもないけれど、おつむのほうがおやすみで。ま、いまにはじまったこっちゃないけど。そういうわけで、いつにもましてとぼけたことを言ってもご容赦を。

亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2より

420ページ:そうして彼はついに心の底から、自分の罪を告白することでまちがいなく自分の魂を癒し、永遠に心の安らぎを得ることができると信じるようになった。
 しかし、いったんそうは信じられても、心の奥では恐怖の念におびえていた。どうやってそれを実行すればよいか、およそ見当がつかなかったのだ。

Наконец уверовал всем сердцем своим,что, объявив свое преступление, излечит душу свою несомненно и успокоится раз навсегда. Но, уверовав, почувствовал в сердце ужас, ибо: как исполнить?

わかりやすい・・・しかし、信じる一方、恐怖もあるのではなく、確信したために恐怖心が生じた、のではなかろか。確信によって、夢想が実行すべきことに変わったので・・・

440ページ:公爵家に出入りしても、しょせんは性根の腐った百姓にすぎない。

Ездит ко князьям, а всего-то сам мужик порченый

なんと申しましょうか・・・・・ 大統領が他国の首脳に「おたくには××がいますか」とのたまわったとかいう某国でのムカシ(かなあ)のおはなし。××解放に献身するきわめて人道的なお方が、駐車場で自分の車にわるさをする××を見つけて、「この×××め!」とお罵りになった、とか・・・・・ なんだかそれと似たような・・・

442ぺーじ:これは夢ではない、わたしはこれまで、わたしたちの偉大な民衆のうちにひそむ真に卓越した資質に賛嘆の念を覚えてきた。この目で見たのだから証言もできるが、それを見るたびに悪臭に満ちた罪の数々や、ロシアの民衆の乞食のような外見にもかかわらず賛嘆の思いを禁じえないできた

поражало меня всю жизнь в великом народе нашем его достоинство благолепное и истинное, сам видел, сам свидетельствовать могу, видел и удивлялся, видел, несмотря даже на смрад грехов и нищий вид народа нашего.

問題は「にもかかわらず」。つまり、民衆の罪や外見は、その卓越した資質を見たときに賛嘆の念を覚える障害となるのか。それとも、それを見えにくくしているのか・・・という問題。

442ページ:じっさいにこんな言葉は吐かないにしても、(彼らはまだそういう口のきき方を知らないからだ)、彼らはそんなふうに行動し、そんなふうに経験してきたのを、わたし自身この目で見てきた

Воистину, если не говорят сего (ибо не умеют еще сказать сего), то так поступают, сам видел, сам испытывал, (イタリックは原文のまま)

「経験してきた」のも「見た」のも同じ主語のように見えますが・・・ところで、「行動し」は、なぜイタリックになっているのかな。そのように行動で示しているというような意味がこめられているのでしょうか。

451ページ:動物を愛しなさい。神は動物たちに、原初の思考と穏やかな愛を授けたのだから。動物を怒ってはいけない、苦しめてはならない、喜びを奪ってはならない、神の御心に逆らってはならない。

Животных любите: им бог дал начало мысли и радость безмятежную. Не возмущайте же ее, не мучьте их, не отнимайте у них радости, не противьтесь мысли божией

「動物を怒ってはいけない」のところ。疑問一 なぜих(彼ら)でなく、ее(彼女)なのか。つまり、動物、じゃないんじゃないのぉ。疑問二 「怒っては」じゃなく、少なくとも、「怒らせては」じゃないのか。
では、ееはなんざましょ。直前のрадость безмятежнуюかなあ。一方、возмущатьの意味のひとつ、Побуждать к мятежуは、普通、扇動するというようなことらしいけど、ееがрадость безмятежную(безはwithout、мятежныйは形容詞形) とすれば、結局、穏やかな愛をかき乱す、ってな意味ではござらぬか。
радостьがだぶってちょっと妙だけど、「それをかき乱してはいけない、 動物たちを苦しめてはならない、その喜びを奪ってはならない」とすれば、そんなに違和感はないような・・・
ところで、後のほうのрадостьは「喜び」なのに、なぜ前のほうは「愛」になさったのだろう。

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2008年7月18日 (金)

ロシアの修道僧(8)

亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2の436ページから。

自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自由の本質を歪めているのだ。なぜなら彼らはそこに、数多くの無意味でおろかな習慣、このうえなくばかげた思いつきを生み落としているからだ。

Понимая свободу как приумножение и скорое утоление потребностей искажают природу свою, ибо зарождают в себе много бессмысленных и глупых желаний, привычек и нелепейших выдумок.

えー、わたくし、ルールを知らないので困っちゃうんですがね、こういう場合свойは『彼らの』だと思っていたのですが・・・
『自由の本質』と訳されてますねえ。それに伴ってв себе は『そこに』。『そこ』とはどこだ?自由?
しかし、アホな習慣も、ばかばかしい思いつきも自らのうちに生じると考えるほうが普通・・・いや、普通がいいってんじゃないけど、普通でよさそうな時は普通にするのが普通・・・
そこで、やっぱり、自由の本質じゃなく、自らの本質・・・だか性質だか人間性だか、そんなふうに訳すのが普通・・・じゃないかなあ・・・

フン、普通がいいなんて言ってるんじゃ、あーた、えらくなれませんことよ。むふふ。

ところで、某週刊誌の影響で増えていたアクセスももとに戻ったようでげす。それで、積み残してきた疑問を片付けちゃおうかと。フム。いや、そのへんの理屈は自分でも意味不明ですが・・・ま、どうとでも。

367ページ:すると彼はつと立ち上がり、鳥たちの姿にじっと見とれながら、小鳥たちにまで許しを請うた。

И стал он вдруг, глядя на них и любуясь, просить и у них прощения:

思い切った訳ではあり、感動的情景ではあるのですがぁ、そのお、なんです、ふと疑問がわいてきましてね、この時、マルケルにつと立ち上がる体力があったかどうか。このさい、「小鳥たちにまで許しを請い始めた」という解釈もある、とだけ言っときますかねえ。

372ページ:本はあまりに大きすぎて、当時のわたしには運ぶのさえたいへんそうに見えたが、少年はそれを経机にのせると、・・・

такою большою, что, показалось мне тогда, с трудом даже и нес ее, и возложил на налой

実につまらんことで難癖をつけるようで・・・あのお、「当時のわたしには」とやると、自分が運ぶことを想像していることになるけど、それがいいのかどうか・・・たとえば:

もって行くのもたいへんだなあとその時思ったほど大きな本だったが、・・・

392ページ:そしてそのとき、わたしはふと兄のマルケルが死にぎわに召使たちに放った言葉を思いだした。

И вспомнил я тут моего брата Маркела и слова его пред смертью слугам

兄マルケルと兄が死にぎわに召使に放った言葉・・・ですね。

412ページ:また時によると、長いこと刺しつらぬくようjなまなざしでこちらをみつめることもあった。「いよいよ何かしゃべりだすぞ」と思っていると、彼はいきなり話の腰を折って、ごくありきたりな世間話をはじめるのである。

Иногда же долго и как бы пронзительно смотрит на меня — думаю: «Что-нибудь сейчас да и скажет», а он вдруг перебьет и заговорит о чем-нибудь известном и обыкновенном

どうも「腰を折る」べき話を「わたし」がしているように思えない。перебьет、まあ腰を折ったにはちがいないんでしょうが。「わたし」の思いをさえぎったか、自分の思いを断ち切ったか、そんな意味じゃないでしょうか。

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2008年7月11日 (金)

ロシアの修道僧(7)

たとえば、こないな文があるとするだよ。

There was a pause again. Mr. Power turned to Mrs. Kernan and said with abrupt joviality:

前置詞+形容詞+名詞というのは、やっかいなことがあるだな。
何も考えずに「突然陽気に言った」でいいこともあるんだろうけど。どうしても「陽気」を修飾したいと思うと意外に難しい。突然陽気になったわけじゃなし・・・
某先生は、いや、まったく不確かな記憶でスマンことじゃがの、「とってつけたように陽気に」だったかな。うまい、名訳!・・・か。
なるほど、パワー氏とカーナン夫人はひと芝居打っているわけだし、読者もそれがわかっている(ということにしといてちょうだいよ)。いかにも、この一句は、不自然さ、わざとらしさをかもし出すものかもしれないな。
だが、しかし、一座の中でカーナン氏だけは(少なくとも表面上)だまされていなければならない(ということにしといてちょうだいよ)。とすると、わざとらしさは表面に出てはならんのだよ、だんなさん。
つまり、それが「とってつけた」ようなものであるにもせよ(それにはそれなりの解釈が必要なわけで、必ずしも賛成するわけではなーい)、それは隠されているべきであり、いかに正しい解釈であっても、そういうのは訳者の越権行為ではないのくわわーんだべ。ましてやこのabruptが選び抜かれた言葉だとすれば・・・

ドストエフスキーはそんなうるさかことを言わんかもしれんけんど。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』435ページを見てみませう。

彼らはいまは孤独のなかで、過去の神父、使徒、殉教者から受けついだキリストの御姿を、みごとに、そのままの姿で、神の真理の清らかさのなかで保持しており、時がくれば、揺らぎだした世界の真理の前にその姿を現そうとしている。

Образ Христов хранят пока в уединении своем благолепно и неискаженно, в чистоте правды божией, от древнейших отцов, апостолов и мучеников, и, когда надо будет, явят его поколебавшейся правде мира.

たしかに、主語は彼らだし、ロシアの修道僧とはどういうものかを述べた箇所だし・・・するけんど、文頭にキリストの姿がある原文とはおそらく印象が違うんじゃなかろか、ねえ。特に、『彼らはいまは孤独のなかで』の節で、『彼ら』にぐーんと重みがかかっとる。
また、『姿』を三度も繰り返すことで、間違いのないように工夫されちょるが、やはり、『彼らは・・・・・その姿を現そうとしている』という文は誤解の余地あり、かな。というより、こういう『姿を現す』の使い方はあまりわたくしめにはなじみがないのでございます。ま、おらの無教養のせいかしらんでな。

ともかく、『いまは』と『時がくれば』は『キリストの御姿』においてくっきり対比されるとよかよねえ。

キリストの御姿を、過去の神父、使徒、殉教者から受けついだ彼らは、いまは孤独のうちに・・・・・保持しているが、・・・・・

はあ、いまやっつ、ですかあ。
それはそれ、はなしかわって、『神の真理の清らかさのなかで』というのも、わかったようでなかなかでござる。これも、『彼ら』がそのなかにいるってことかな・・・
в чистоте というと、よく例として、содержать в чистотеなんてのがのっとります。部屋を「きれいにしている」とか?
だから、『神の真理』がくっついてなけりゃ、たとえば、『清らかに』保持するで、なあんでもなかあ・・・にちがいない。ところで、このさい、『清らか』がいいかどうかは、読み手によって意見の分かれるところかな。
さてさて、神の真理の清らかさ、てのは、つまり、神の真理とは清らかなものだという意味かな。ウーィ、こんだらふうによくわからん時は(わからんのはおらひとりかしれんがの)・・・
あっちこっちを見比べる。最後の一文。『キリストの姿』が『世界の真理』と対峙するだな。っつうことは、とうじぇーん、『キリストの姿』は『神の真理』と等価なものとなある。ウィ、したがって、清らかな神の真理として、でよろしい、かな・・・というような・・・気も・・・えーい、はなしかわって。

благолепно и неискаженноだがね。неискаженноは、歪めることなく、だから、『そのままの姿で』なんだな。するとだねえ、ちみい、благолепноもキリストの姿を形容するものじゃないのかねえ、保持ぶりを示すのではなく。благолепныйは壮麗とか、厳粛にして美しいとか、そんな意味らしいけど・・・え、『みごとに』で」いい?そうかなあ。

まあいいか。しかし、べつにどうということもないのに、こう長々書いているというのは、ふーう、暑さのせいですか。みなさん、おからだ大切に・・・

そうだ、この一文の直後、 Сия мысль великая(なんという偉大な思想だろうか!:亀山訳)と続くのだが、どの辺が『偉大な思想』なんざましょ。

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2008年7月 4日 (金)

ロシアの修道僧(6)

どうしましょうねえ。もうすぐ2巻も終わるけど。3巻・・・

どしろうとが、よくわかりもしないで出まかせを無責任に垂れ流している。
そもそもこういう場でやるべきことではない。
まして匿名ときちゃなおさらだ。
ふざけた態度がケシカラーン。
だいたい本質と関係ないつまらん話が多い。

ってな声のある一方、・・・まあ、もう一方はいいや。

要するに、こういう体裁が遠慮せずに言いやすいからそうしてるわけ。さいわいにして面倒な方々と関係なくやれるし・・・どうしようかなあ。

ま、とりあえず、いますこしがんばりましょうか。

亀山訳2の380ページ:神父さま、先生方、みなさんがとっくの昔からご存じの話で、わたしなどより百倍も上手にみごとに説いておられることを、まるで幼い子どもに話しかけるみたいにお話ししているのを、どうか怒らずお許しいただきたい。

Отцы и учители, простите и не сердитесь, что как малый младенец толкую о том, что давно уже знаете и о чем меня же научите, стократ искуснее и благолепнее.

なるほど、「まるで幼い子どもに話しかけるみたいに」のかわりに「幼い子どものように」を入れると しっくりこない(どうしてかはよくわからないけど、目的語が頭でっかちなので、そんなふうに話をするのが幼い子どもらしいと錯覚させてしまうからかな)けれども、как малый младенецは、やはり「幼い子どもみたいに」のように見えるのだが・・・だとすると、「幼い子どものようにお話ししている、それもみなさんが・・・」式がよろしいんじゃないのかなあ。 

381ページ:仕事の中身があまりに愚直すぎて、下手をすると人に笑われるのではないかと恐れ、言い出すのもはばかられるが、その実、これはきわめてたしかなやり方なのだ!

Дело столь простодушное, что иной раз боимся даже и высказать, ибо над тобою же засмеются, а между тем сколь оно верное!

仕事の中身:民衆の心を目覚めさせる素朴な話を読んできかせること(381ページ)。愚直:愚かなライナー、ではなくて、そういうことをばか正直に続けること・・・しかし、これはあたりまえのことをしているわけで愚直かどうか、きわめてムズ。
そもそも、長老はんは、「収入が少なくて民衆に聖書を教えることもままならない」とこぼす司祭たち(377ページ)に対して、せめて一週間に一時間さいて、その仕事をやっていただきたいとおっしゃってはるのよ。そうしたところで、とてもとても愚直な仕事ぶりとは・・・
だから「中身」なんでしょ。そうかあ。そうねえ。でも、やはり、司祭が民衆に聖書を読んで聞かせることが言い出すのもはばかられるほど愚直なのか・・・
「一粒の種を彼らの魂に投げ入れる」(380ページ)ことの意義や、「わたしたちの国の民衆がどれほど慈悲深く、感激の思いに満たされ、いずれ百倍もの恩返しをしてくれる」(381ページ)ことを信じるのが、あまりにもпростодушноеなのではないか?

素朴な信頼がロシアを救う!

いや、しかし、それがね、それと関連してこの後ろのところ(382ページ、『神を信じない者は、神の僕である民衆を信じない』以下が難しいんだなあ。宿題。

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