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2010年12月31日 (金)

罪と罰第4部(12)

ことしもあとわずか・・・毎年恒例、一年を振り返って、いろいろと反省。釧路もびっくり、失言多々か・・・結局、インターネットって怖いなあとか、他人ごとにしてごまかす。そりゃ違うぜよ、おまえ個人の資質の問題じゃ、インターネットのせいにすな!という声には、そんなことは重々承知とつぶやきつつも反論を考える。考えてもごらんなさいよ、共産主義があかんかったって、共産主義が悪いんじゃない、共産主義は立派だが、持ち切れない人間が粗笨なのよ、と言ったって仕方あんめえ・・・江戸紫

あめにしめった讃美歌の・・・

ピントさん、はずれっぱなし・・・批判の旗印、罵詈雑言になりがちなのは個人の問題としても、ウェブには悪霊が巣食っているような・・・

まあ、何がいけないって、やっぱし、以前は日の目をみなかったはずのレベルの低いものが堂々と発表されるってことか。そりゃあもう、印刷物だっておいそれと信用するわけにはいかないけど、それにしてもある程度のチェックは入るよってに。いい例が、某検証サイトの某先生による、朝日新聞で没になった文章。どう見ても採用されるシロモノじゃない。でき悪し。が、なんか別の理由で没になったと思ってらっしゃるのか・・・だいたい検証が誰の名誉を傷つけたかと言えば、誰よりも某先生ご自身だな。そうじゃないとすれば・・・ロシア文学会は学の文字を取った方がいい。ロシア文会で充分会。専門家が責任を持つことの重みがねえ・・・

勘のよかおひとはお気づきじゃろうがここで断りが入る。私は素人でございまして、エヘヘ。ずるい!・・・自分の書いていることが当たってるんだか、当たってないんだか・・・まあ、明らかに当たってる場合もあるんだけど、自信がなくても書かないわけにもいかないんでして。それから、なぜ亀山訳を中心に取り上げるかと言えば、それが「いま生きている」から。亀山訳が特にどうのという意図は全くござんせん。連中とはちゃう。H先生は、あれは徒党じゃないとおっしゃるが、そう思ってるのはH先生ひとりだあな。ツライものあり・・・

要するに、この反省のない、支離滅裂な文章がこの一年を表しているのでありまして、なんといっても、このブログの関知しないところであまりにもいろいろなことがありまして・・・まったく去年の自分と違うのに、意外に平気なんだけど・・・まあいいや。つまり、来年もこの調子だってことだあ。それでは本年最後にふさわしく、「最後の道」というお題から。

34 《Вот и исход! Вот и объяснение исхода!》

《これが最後の道ってわけだ! 道の説明ってわけだ!》(亀山訳319ページ)

この「最後の道」だが、「最後に行き着く先」と解釈していいのだろうか。「行き着く先を物語っている」という意味にとっていいのだろうか。「最後の道」という言い方が少し難しいので。「道の説明」という表現が少しわかりにくいので・・・「道」は《彼女の道は三つだ》(Ей три дороги)の「道」を生かしたのだろうが、逆に話を複雑にする意味もあって・・・いや、私の解釈で間違ってなければ、んま、結構ざんすがね。

《これが結論だ! 結論の説明なんだ!》(中村訳)
《これが出口なんだ! 出口の告白なんだ!》(工藤訳)
『これが結論さ! 結論の説明さ!)』(江川訳)

исход:「結論」、二票獲得。なぜ、亀山先生は「結論」を避けたのか。この後を読めばわかる。

《これが最後の道ってわけだ! 道の説明ってわけだ!》好奇心もあらわに、じっと相手をながめながら、彼は胸のうちでそう結論づけた。(亀山訳)

「結論づけた」。そうなのだ。「結論」とはラスコーリニコフの心のうちで処理されるものである。ところが、「これ」はソーニャのありようを表すものであり、ラスコーリニコフの思考の結果ではない。ましてや、ソーニャがくだしたわけでもない「結論」をソーニャの言動が「説明」するわけがない。微妙だが、「結論」は正しい言葉の選択ではなさそうだ。この少し前にある部分も同様だ。

彼は、この発狂という思いにしつこくこだわった。ほかのどんな結論(исход)にもまして、発狂というこの結論が気にいったほどだった(亀山訳318ページ)

ここでは工藤さんは「出口」だが、ほかの三方は「結論」だ。исходは、おおざっぱに言うと、「出口、解決、終わり」である。「結論」ではない。しかし、ラスコーリニコフの頭の中で想定された「最後の姿」ということで、「結論」を選択されたのだろう。しかし、彼はまだ結論を下していないし、想定されるべきは結論ではなく、結末だろう。「結末」と訳すべきだと思う。

「出口」は・・・出口ではないのでだめ。

お話かわって、朗読を始めようとするソーニャの様子から二題

35 その一

この感情が、じっさいに彼女のほんとうの、おそらくもうだいぶむかしからある秘密をなしていて、もしかしたらそれは、ほんの幼い少女だったころから(後略)(亀山訳324ページ)

настоящую и уже давнишнюю, может быть, тайну ее, может быть еще с самого отрочества

秘密は、настоящую(ほんとうの)であり、もしかしたら、だいぶ前からあるものであり、もしかしたら、ほんの少女だったころからのものであり、というふうに時を遡っていく手法をみると、настоящуюは「ほんとうの」ではなく、「現在の」秘密でもあるということを表しているのではないかという気がしたのですが・・・

その二

たしかにいま朗読をはじめようとして、悲しみにくれ、何かをひどく怖れてはいるが、(後略)

ここで、тосковала:「悲しみにくれ」という訳は、たぶん、亀山さん独特(江川さんは「心を悩ませ」)。なかなかおもしろい。

36 福音書の朗読

イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。マルタは言った」
(そこで苦しげに息をつぎ、ソーニャは、まるで自分が公衆の前で懺悔しているかのように、ひとつひとつの言葉を、はっきりと力をこめて朗読した)
「『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、キリストであるとわたしは信じております』」(亀山訳326ページ)

точно сама во всеуслышание исповедовала:「まるで自分が公衆の前で懺悔しているかのように」という訳がわからない(ちなみに、工藤さん、江川さんも同様)。「自分が」とは、マルタの言葉を自身の言葉であるかのようにということだろう。してみると、明らかにこれは「懺悔」ではなく、信仰の「告白」、あるいは「宣言」だろう。ね!

それでは、みなみなさま、よいお年を。

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2010年12月24日 (金)

罪と罰第4部(11)

ラスコーリニコフさん、ソフィアさんのおうちを訪ねますが・・・

29 ろうそくと燭台と床

① そこにあるつぶれかけの椅子の上には、ひしゃげた銅の燭台にろうそくがひとつ灯っていた(亀山訳295ページ)

「つぶれかけの」とはビミョーな表現。座面がへこんでいるのであれば(たぶんそういうことだと思うんですが)、「つぶれた」? 「ひしゃげた」も。「ひしがれた」とは語感が違ってきているので。しかしほかにうまい表現がないのかな・・・ところで、なぜ、ひしゃげてしまったのか。ろうそくが載るのか・・・まあ、まあ、先へ。

② 一分ほどすると、ソーニャも部屋に現われ、手にしたろうそくを床に置くと、そのまま彼の前で立ちつくしてしまった。(亀山訳296ぺージ)

え、床へ? 原文ではどこに置いたかわからないが・・・まあ、まあ、先へ。部屋は広い。テーブルは右手の壁の隣に通じるドアの前。ラスコーリニコフは反対側の壁の隅近くにある箪笥の上に聖書を見つける。

③ 彼はその本をろうそくに近づけ、ページをくりはじめた。(亀山訳321ページ)

「ろうそくに近づけ」とは、そばにほかのろうそくがあるよう。しかし、彼はソーニャに、ラザロのところを見つけて読んでくれと言って腰を下ろし、テーブルに頬杖をつく。ソーニャはテーブルに歩みより、本を手に取る。従って、本は「ろうそくのところまで持ってきた」、そして、ろうそくは「床」ではなく「テーブル」の上にありそう。

④ ねじれた燭台に載っているもえさしのろうそくは、もうだいぶ前から燃えつきようとして(亀山訳329ページ)

「ひしゃげた」と「ねじれた」はちょっと違う。ねじるのは容易じゃない。もしかしてデザイン? 燭台を修飾している形容詞は、 искривленномにしてもкривомにしても、湾曲しているという意味らしい。何か「不自由さ」を暗示するために「ひしゃげた」とかが選択されたのかな。ま、ま、たいした話じゃござんせん。すまんこってす。

30 ソフィヤさん、11時でござんすか?

「ええ、そう、そうでした!」そこに自分のすべてがかかっているとでもいうように、急にあわてて言いそえた。(亀山訳298ページ)

заторопилась она вдруг, как будто в этом был для нее весь исход

исходを「結果」とみると、亀山訳のようになる。が、「出口、解決」の意味にとれないだろうか? 「急にあわてて」という、とびつく感じからすると・・・それで何かから脱出できるかのように・・・露骨ですか・・・

31 ソフィヤさん、あの人が好きなんですね?

「カテリーナさんが? そんな、決まってるでしょう!」ソーニャはふいに苦しげに両手を組み、哀れっぽい調子で、ゆっくりと答えた。(亀山訳302ページ)

— Ее? Да ка-а-ак же! — протянула Соня жалобно и с страданием сложив вдруг руки

「ゆっくりと答えた」はпротянулаに対応している。江川訳は:

「きまってるじゃァありませんか!」(中略)引きのばすような、哀れっぽい調子で言った。

すなわち、ка-а-акの部分が「引きのばすよう」だ。как →ка-а-ак 。しかし、「きまってるじゃァ」では引き延ばした感じはあまりしないし、意図は伝わってないような。「ゆっくりと」は違うでしょ。

как жеはもちろんでございますという意味。決まってるじゃありませんかで結構だけど、それに決まってるわけじゃあない。中村さんは「それはもう!」。これでは味気ないけど、ちょぉっと変えて、「そりゃぁあ、もぉ-ぉお!」とかしたら、どぉお?

32 ほなら、出てゆけ~!

今日も家主のおかみさんが、出ていってほしいと言ってきたらしいんですが、カテリーナさんはカテリーナさんで、こっちこそ一分だっていたくないって返事したとか(亀山訳304ページ)

только хозяйка, слышно, говорила сегодня, что отказать хочет, а Катерина Ивановна говорит, что и сама ни минуты не останется

カテリーナさんのことだからそう返事したにちがいないけど、говоритだからなあ、「言っている」じゃないかなあ・・・カテリーナさんはカテリーナさんで一分だっていたくないって言うんです、では・・・その場の返事より「言っている」ほうが厄介な場合もあるし・・・

33 リザヴェータが持ってきた襟と袖あて

『ねえ、ソーニャ、わたしにこれ、プレゼントしておくれよ、お願い』って言うんです。お願いってせがむくらいですから、ほんとにほしかったのね。でも、そんなものつけて、どこに出かけるっていうんです! ただ、幸せだった昔のころを思いだしただけなんですよ! 鏡にうつして、うっとり見とれてましたけど、着るものなんて一着も持っていないんですよ、一着も。いえ、持ち物だって何もない。もう何年もです!(亀山訳308ページ)

結局、ソーニャは、あげるのが惜しくて、「こんなものもらってどうなさるの?」と言う。その気分がここにも、いや、この訳にも出ている。着けていくところもないくせに。思いだしたってしょうがない・・・とくに重要なのは、「鏡にうつして、うっとり見とれてましたけど、着るものなんて一着も持っていないんですよ」のところ。着る物もないのに襟があってもしょうがないという意味でしょ。しかし、「持ち物だって何もない」に齟齬の兆し。いや、ほかの訳者さんも同じ様な訳し方してるけど、変だと思うんだなあ。すでに、出かけるところはない!と断ち切っているのに、「着るものなんて」なんて。

こう考えたらどうでしょう。「それを着けていくところがあるでしょうか! ただそうやって幸せな昔を思いだしただけなんです」は、あげたくない気持ちの反映ではなく、ただカテリーナの気持ち説明しただけと。そして、Смотрится на себя в зеркало, любуется, は「うっとり見とれてましたけど」ではなく、(昔を思いだそうと)「鏡にうつしてうっとり見とれようにも、着物もないし、小物もないんですから、もう何年も!」

いや、どうも釈然としないけど、少なくとも、「うっとり見とれてましたけど」は変でございます。

おまけ。どうでもいいかな。ちょっと戻って、あの廊下のシーンの後の、ラスコーリニコフと別れたラズミーヒンですが、こういうところがある。

彼のことは自分がしっかりと監視し、きちんとした立派な医師を見つけだして、立ち会い診察を受けさせると請けあった(亀山訳294ページ)

いやね、「監視」という言葉はプリヘーリヤさんの求めるところと違うんじゃないかと思って・・・

ふう、年内にもう一回更新できるでしょうか・・・

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2010年12月18日 (土)

罪と罰第4部(10)

25 さてさて、ルージンさん、さいなら~で喜んだラズミーヒン君です。

いまこそ、彼女たちに自分の一生をささげ、仕えることができる・・・・・・そう、これからいろんなことが起こる! もっとも、彼は、怖ろしさが先に立ってそれ以上考えられず、勝手に空想が先走るのを恐れていた。(亀山訳281ページ)

ここから出題:

Да мало ли что теперь!

中村訳: それに、こうなった以上、何事が起るかしれたものではない!
江川訳: いや、いまとなっては、そんなことすら問題ではない!
亀山訳: そう、これからいろんなことが起こる!

辞書によると、мало ли что~は、~は重要ではないという意味。мало ли что!なら「それがどうした!」、「たいした問題じゃない!」。従いまして、江川解答者1ポイントかくと~く!・・・ちょいとお待ちよ、おにいさん。本当に「そんなこと」は「問題ではない」かい? おかしいよ、その上、「すら」なんかつけちゃってさ。調べなおしてごらんよ・・・と、мало ли что бываетは「何があってもおかしくない」らしい。その線だと、中村訳が近いかな。そのほうが意味はぴったり。確たる証拠はないけど、とりあえず中村さんに1ポイント、にしておきませう。ただ、心の片隅にでも小さくメモして・・・

26 Меня же возьмите в друзья, в компаньоны, и уж уверяю, что затеем отличное предприятие

ぼくも友だちのひとりに加えてくださいよ、仲間に入れてください、それに、じつはすばらしいプランを考えてるところなんです。ほんとうですとも。(亀山訳285ページ)

ラズミーヒン君は母娘がペテルブルグに残るように説得しているところでありやす。でしょう? あおによし、ならば今少しうまく話しをしないとね。「それに」はいけません。文の前、後半が無関係になってしまって一つの文になってる意味がなくなっちゃう。それに、затеемの主語はぼくたち。だから、「考えてるところなんです」とはならない。みんなで事業を始めるんでなくちゃあ。

「まずはぼくを友達に、仲間にしてください。ぼくたち必ず、すばらしい事業をはじめられるんですから。(まあ聞いてください)」という調子。

この前の部分も気になるのでちょtっと:

А главное, вы здесь все вместе и один другому нужны, уж как нужны, - поймите меня! Ну, хоть некоторое время...

大事なのはここでみんながいっしょに暮らすことですよ、おたがいに助けあって、そう、そのほうがどんなにいいか、ぼくの言うことを聞いてくださいよ! しばらくの間でいいですから・・・(亀山訳)

「しばらくの間でいいですから」のところですけど、

中村訳: まあ考えてごらんなさい! たとえちょっとの間にしてもですね・・・
工藤訳: ぼくの言うことがわかります! そして、ときどきでいいですから・・・
江川訳: おわかりでしょう! いや、当座だけでもいい・・・
亀山訳: ぼくの言うことを聞いてくださいよ! しばらくの間でいいですから・・・

よくわからないんですが・・・工藤さん以外はおんなじようなことなんですかね。工藤さんのはわかりやすい。「ときどき仲間に入れてちょ」。たぶんまちがいだけど。江川さんのは「当座だけでも残ってくれ」かな。しかし、「当座だけでもいい」という言い方は失礼な気がするな。「いい」って、あんたが決めんのかい? そういう意味で、亀山訳は「しばらくの間でいいから聞いてくださいよ」と取りたくなっちゃうんだけど、それも変なような・・・
「せめてしばらくの間・・・」と訳しておけば無難なような・・・

27 いちばん肝心な手段のひとつ、つまり自分たちの資金ができたっていうのに、なぜ、どうして、せっかくのチャンスをのがすんです?(亀山訳287ページ)

手段 : あることを実現させるためにとる方法。――だそうです。と、資金をいちばん肝心な手段のひとつと呼ぶことに、おいらとしては抵抗がある。もとの単語средствоは、たしかに「手段」だが、必要な道具、金をさすこともある。そういうものを全部含めて、いちばん肝心なсредствоのひとつと言っているのだろうから、「いちばん肝心なもののひとつ」でいいんじゃないすか。

28 翻訳も出版も勉強もいっしょにやろう、それには自分が役に立つ、と、ラズミーヒンが熱弁をふるっている。「出版社をあちこち駆けずりまわって、もうすぐ二年ですよ、裏の裏まで知りつくしています」につづいて。

не святые горшки лепят, поверьте!

直訳すると、「ポットを作るのは聖人じゃない、信じなさーい!」 ですか? さて、どんな意味でしょう? 三択です。ジャン、ジャン♪

中村訳: なあに、決してむずかしいものではありません。大丈夫です!
江川訳: なに、おなじ人間のやることですからね、まかしてください!
亀山訳: けっこういい加減なところがあるんですって、ほんとうに!

これ、ウクライナの諺らしい。ロシア版は、не боги горшки обжигаютとか。意味としては、特別なスキルを必要としない、あるいは、難しいけれどもできる、ということだそうな。中村訳にまるをつけましょう。

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2010年12月12日 (日)

罪と罰第4部(9)

今日はいくつか日本語の問題も含めて・・・といっても、まったくの誤解でなければ、たいがい日本語の問題ということになるのかなあ・・・まあいいや。とにかく、わても自信ないけど、気になるところをね、あげておきましょう。まずは、第4部の3の冒頭から。

19 最大の誤算は、ぎりぎりの瞬間まで、こんなふうな幕切れになろうとは予想もしていなかったことである。彼は、ふたりの貧しく身よりのない女たちが、自分の支配下から抜けだすことができるだろうとは考えることもできず、最後の最後まで横柄な態度をとっていた。(亀山訳276ページ)

「最大の誤算は」という出だしは、語りを一気にルージンに視点に移す、とてもうまいやり方だが・・・しかし、誤算というのは、予想に誤りがあった、あるいは、あてが外れたことを言うので、「予想もしていなかったことである」って時に使っていいのかどうか・・・いや、みなさんがいいって言うんならいいんですよ・・・って、言いっぱなしもずるいので、一例。

最大の誤算は先発投手陣の不調であった。

とくれば、投手の不調は予想もつかないことだった。ところが、

最大の誤算は、先発投手陣の不調を予想もしていなかったことである。

となると、これは、コーチの責任を問うている。そんなことも予想できんかったんか、そうとは思わなんだわ。クビ!

これをルージン氏に引きうつすと、そんなことを予想できない人とは思いませんでした・・・って、誰が思いませんでしたのか?・・・「最大の誤算」を生かしたかったら少々変更した方がよさそう。あるいは、Главное дело было в томという出だし、「こんなことになったのはなんと言っても・・・からである」ってな調子でどうかなあ。

もうひとつ。「最後の最後まで」と訳された до последней черты。これは、時間的なことではなく、程度の問題を言ってるのではないか。つまり、「とことん」とか。

20 оставить

もっともあのとき、ドゥーニャに結婚を申しこんだときも、彼はすでに、ああした中傷がじつにばかげたものであることを完全に確信していた。マルファ自身が公然とその噂をくつがえし、ドゥーニャを熱心に弁護する町中の人々も、とっくの昔に忘れてしまっていたからだ。(亀山訳277ページ)

なんだか変である。「忘れて」に問題がありそうだ。弁護する人はそんな中傷を信じていないだろうから、忘れるも何もあるまい。というか、みんな忘れてしまったとか、陰口屋も忘れてしまったとかいうんならわかるんだけど、主語を弁護する人にする意味、ある? しかし、中村白葉さんも、工藤精一郎さんも似たような訳。あれえ、みんな変だと思わないのかなあ。江川さんは、忘れた云々を訳出せず。きっとおかしいと思ったんだよ。でも、ずるい。

давно уже оставленных всем городишком, горячо оправдывавшим Дуню

「町の、ドゥーニャを熱心に弁護するみんなに、とっくにоставитьされた」

оставитьの忘れるは、忘れると言っても、置き忘れる感じ。置いてどこかへ行っちゃってそのままって感じ。

埃にまみれた 人形みたい
愛されて 捨てられて 
忘れられた 部屋の片隅

こういう「忘れられた」は、記憶にないのではなく、見向きもされない感じ。その線でいかないとね。

「その噂は、マルファ自身が公然と覆してしまったし、町中の人々も熱心にドゥーニャを弁護するようになり、とうに相手にしなくなっていたからだ。」

21 непризнанный

непризнанныйは、「正しく評価されない、真価を認められない」という時に使われる。このнепризнанныйが以下の文章では「恩を仇でかえされた」と訳されている。

だからいま、階段を降りながら、自分が極度に辱められ、恩を仇でかえされたと考えたのもむりはなかった。(亀山訳277ページ)

しかし、これは、中村訳のように、「正当に認められないで極度の侮辱をうけた」としたほうがよさそうだ。ルージン氏の憤りよりも未練が表されているような気がする。

22 игривый

仕事を離れ、静かに憩いながら、彼は空想のなかで、この誘惑的で浅はかなテーマについて、どれほど多くのシーン、どれほど甘いエピソードを創りあげたことだろう!(亀山訳278ページ)

игривыйには「浅はかな」という意味はある。しかし、ルージンの気持ちに沿って進んできて、彼の空想を「浅はかな」としてしまうのはどうですかね。楽しいでも、心はずむでもいいと思うけど。

23 карьера

彼は、長いあいだあれこれ考え、機会をうかがいながら、ついに思いきって仕事を変え、より広範囲な活動の舞台にのりだし、と同時に、前々から憧れにも似た思いを抱いてきた上流社会に少しずつ入っていこうと、腹を決めたところだった。(亀山訳279ページ)

карьераはキャリア。訳すのが難しい。経験とか経歴とかは後からついてくるものだから、この場面のようにпеременить карьеру「карьераを変える」なんてのはどうすりゃいいのさ思案橋だ。だが、「思いきって仕事を変え」ちゃあ思い切りがよすぎる気がする。ルージンさん、仕事を変えるのではないだろう。そうさな、亀山先生の筆致なら、「キャリアアップを狙って」というところでしょうか。

24 落雷

さっきの、とつぜんのぶざまな決裂は、落雷のように彼をうちのめした。(亀山訳279ページ)

ルージン氏はうちのめされているか? いや、「いや、このままではすまされない! 明日にも、明日にでも・・・」という具合、そう柔な人ではないらしい。いや、そもそも「落雷のように」というのは、打ちのめされるようなときの比喩か? いや、衝撃的なときだろう。落雷のような衝撃を与えた・・・かな。なお、удар громаは雷鳴。直訳すると、雷鳴のような作用を及ぼした。亀山流の筆致なら、青天のへきれきであった。もっとも、これはどこかで使用済みだったかな。ふむ、工藤、江川両氏の「落雷のように彼を打った」という日本語もちょっと気になるなあ。

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2010年12月 6日 (月)

罪と罰第4部(8)внушительноのつづき

すぐに『罪と罰』に戻りますよって、もう少々ね、внушительноの話の続き。 

(3) 第2編の4 病気が治った例を言いにきたリーズを見て、オブドールスクの修道僧がゾシマ長老に言う

「どうして、あんな大それたことをされるのです?」諌めるような、ものものしい態度でリーズを指さしながら、修道僧は尋ねた。彼はリーズの「全快」のことを仄めかしていたのだ。
「そのお話をするのはむろん早すぎます。楽になったからといって全快を意味するわけではありませんし、ほかの理由でも起こりえることですからね。でも何かがあったのだとすれば、それは神のおぼしめし以外の何ものの力でもないのです(亀山訳143ページ)

前にも書いたが、わたくしめの考えでは、フム、あくまでわたくしめの考えですが、これは誤訳。だって会話になってないもん。諫言するなら全快してからにしてください? 
そもそも諌める理由がない。病人を連れてやってくる人々に会うなというのか。
たしかにオブドールスクの修道僧は前から長老制を有害な新制度と思っていた。しかし、ホフラコワ夫人の手紙が伝えた奇跡に衝撃を受けたではないか。
それに、隣にホフラコワ夫人とリーズがいるのに諌めるなんて失礼じゃないか。
米川先生、原先生も同様。信じられない。もしや信じられないのは自分の頭のほうではないかという疑念を押さえつけながらもう一度原文に目をやれば、

, внушительно и торжественно указывая на Lise,

と書いてあるではないか。言い方でも、全体的な雰囲気でもない、リーズを指さすその態度がвнушительноなのではないか。どうやれば諌めるように指させるのか。明らかにこれは、「大きな身ぶりで」指さしたのだ。いや、指さすというより、手で示したというべきか・・・当然、「あんな大それた」云々も肯定的に訳さねばならぬ。(隣にいるとすれば、「あんな」もどうかな)


『カラマーゾフの兄弟』のвнушительноに関しては、ほかにも問題と思われる個所があるのだが、わずかな状況証拠で結論を出すわけにはいかない。もう一度、この単語の扱いについてはよく考えていただくことを先生方にお願いして『罪と罰』に帰ろう。

『罪と罰』にも何度かвнушительноは登場する。たとえば、

「そのことで正確な情報を持っているとかおっしゃいましたが、それって、ほんとうですの?」たしなめるような、きびしい調子でドゥーニャはたずねた。(ルージン氏に)(亀山訳255-6ページ)

たしなめちゃっていいかどうか疑問だけどいいとしましょ。ルージン氏は「そのことで正確な情報を持っている」と言ってはいないので、「本当にそれについて正確な情報を持ってらっしゃるんですか?」という訊き方がいいと思うけど、それもいいとして、次の例をちと考えてみたい。

第4部の2。スヴィドリガイロフの申し出を今は言えないというラスコーリニコフにルージンが気を悪くして席を立とうとする。ドゥーニャがお話があるんでしょうと引き留める。ルージンはその通りですと腰を下ろすのだが。

再び椅子に腰をおろしながら、威圧的な調子でピョートル・ペトローヴィッチは言ったが、帽子はまだ手に持ったままであった。(中村白葉訳)

ピョートル・ペトローヴィチはまた椅子に腰をもどしたが、帽子はやはり手にもったままで、意味ありげに言った。(工藤精一郎訳)

ルージンはまた椅子に腰をおろしたが、帽子は手からはなそうとせず、なじるような口調で言った。(江川卓訳)

ルージンはまた椅子に軽く腰を下ろしたが、帽子はそのまま手から離そうとせず、どこか言いふくめるような口調で言った。(亀山郁夫訳)

внушительно : 威圧的な調子で、意味ありげに、なじるような口調で、言いふくめるような口調で。これだけばらつきがあるということは、これらのうちのどの意味も、本来、внушительноにはないということかもね。いずれにせよ、使用に耐えるのは一つ以下のはずだが、かといって、否定するのも難しい。しかし・・・
先生方は御自分の訳がいいと思ってらっしゃるから平気なのかもしれないが、こんな状況、いいのかね。
たとえば、「なじる」だが、ルージン氏がなじりたいような気分であることは大いにありうるし、四つの訳の中で江川訳が最も実態に近いのではないかという気もするが、しかし、しかしである。внушительноになじるような意味合いはまったくない。ルージン氏がなじっている証拠もない。ほかの三人の訳者さんはその気分を感じとっていない。ああそれなのに、それなのに、ねえ・・・なじるようななんて訳してかまわない? もちろん、こんなこと、このシーンにも、物語全体にも影響はない。だが、こういうことをしてもいいという考え方が、いざという時、「諌める」などというスカタンな解釈を呼ぶのだ。

もちろん、ほかのお三方の訳も推薦する材料はない。同じ伝で、訳し方そのものに疑問があるから。内容も、帽子をおいていないことからすると、工藤訳はたぶんダメ。亀山訳も不利。

じゃあどうするんだようと言われても、おいらにはわからない。でも、たぶん、たぶん、この場面、ルージン氏は、物々しい言い方をしたのだろうと思う。それならвнушительноの本道からはずれていないと思うので。

さて、внушительноについては、さらなる検討が必要・・・だが、わてがこの単語をどのようにとらえているか、それが正しいかどうかはともかくとして、ぼんやりと見えてきたと思う。もう一つの例にそれをあてはめて、ひとまず、ということにしよう。

第3部の4。ラスコーリニコフがポルフィーリーに会いに行く途中、ラズミーヒンに何らかの印象を与えたくて、「いまいましい熱病」という言葉を使う。

О бреде он произнес особенно внушительно

彼は熱病という言葉にとくに力をこめた。(江川訳)

熱病という言葉を、彼はとくに思わせぶりな口調で言った。(亀山訳)

今までの議論からおわかりだろうが、わてとしては、江川訳に軍配。

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