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2010年12月31日 (金)

罪と罰第4部(12)

ことしもあとわずか・・・毎年恒例、一年を振り返って、いろいろと反省。釧路もびっくり、失言多々か・・・結局、インターネットって怖いなあとか、他人ごとにしてごまかす。そりゃ違うぜよ、おまえ個人の資質の問題じゃ、インターネットのせいにすな!という声には、そんなことは重々承知とつぶやきつつも反論を考える。考えてもごらんなさいよ、共産主義があかんかったって、共産主義が悪いんじゃない、共産主義は立派だが、持ち切れない人間が粗笨なのよ、と言ったって仕方あんめえ・・・江戸紫

あめにしめった讃美歌の・・・

ピントさん、はずれっぱなし・・・批判の旗印、罵詈雑言になりがちなのは個人の問題としても、ウェブには悪霊が巣食っているような・・・

まあ、何がいけないって、やっぱし、以前は日の目をみなかったはずのレベルの低いものが堂々と発表されるってことか。そりゃあもう、印刷物だっておいそれと信用するわけにはいかないけど、それにしてもある程度のチェックは入るよってに。いい例が、某検証サイトの某先生による、朝日新聞で没になった文章。どう見ても採用されるシロモノじゃない。でき悪し。が、なんか別の理由で没になったと思ってらっしゃるのか・・・だいたい検証が誰の名誉を傷つけたかと言えば、誰よりも某先生ご自身だな。そうじゃないとすれば・・・ロシア文学会は学の文字を取った方がいい。ロシア文会で充分会。専門家が責任を持つことの重みがねえ・・・

勘のよかおひとはお気づきじゃろうがここで断りが入る。私は素人でございまして、エヘヘ。ずるい!・・・自分の書いていることが当たってるんだか、当たってないんだか・・・まあ、明らかに当たってる場合もあるんだけど、自信がなくても書かないわけにもいかないんでして。それから、なぜ亀山訳を中心に取り上げるかと言えば、それが「いま生きている」から。亀山訳が特にどうのという意図は全くござんせん。連中とはちゃう。H先生は、あれは徒党じゃないとおっしゃるが、そう思ってるのはH先生ひとりだあな。ツライものあり・・・

要するに、この反省のない、支離滅裂な文章がこの一年を表しているのでありまして、なんといっても、このブログの関知しないところであまりにもいろいろなことがありまして・・・まったく去年の自分と違うのに、意外に平気なんだけど・・・まあいいや。つまり、来年もこの調子だってことだあ。それでは本年最後にふさわしく、「最後の道」というお題から。

34 《Вот и исход! Вот и объяснение исхода!》

《これが最後の道ってわけだ! 道の説明ってわけだ!》(亀山訳319ページ)

この「最後の道」だが、「最後に行き着く先」と解釈していいのだろうか。「行き着く先を物語っている」という意味にとっていいのだろうか。「最後の道」という言い方が少し難しいので。「道の説明」という表現が少しわかりにくいので・・・「道」は《彼女の道は三つだ》(Ей три дороги)の「道」を生かしたのだろうが、逆に話を複雑にする意味もあって・・・いや、私の解釈で間違ってなければ、んま、結構ざんすがね。

《これが結論だ! 結論の説明なんだ!》(中村訳)
《これが出口なんだ! 出口の告白なんだ!》(工藤訳)
『これが結論さ! 結論の説明さ!)』(江川訳)

исход:「結論」、二票獲得。なぜ、亀山先生は「結論」を避けたのか。この後を読めばわかる。

《これが最後の道ってわけだ! 道の説明ってわけだ!》好奇心もあらわに、じっと相手をながめながら、彼は胸のうちでそう結論づけた。(亀山訳)

「結論づけた」。そうなのだ。「結論」とはラスコーリニコフの心のうちで処理されるものである。ところが、「これ」はソーニャのありようを表すものであり、ラスコーリニコフの思考の結果ではない。ましてや、ソーニャがくだしたわけでもない「結論」をソーニャの言動が「説明」するわけがない。微妙だが、「結論」は正しい言葉の選択ではなさそうだ。この少し前にある部分も同様だ。

彼は、この発狂という思いにしつこくこだわった。ほかのどんな結論(исход)にもまして、発狂というこの結論が気にいったほどだった(亀山訳318ページ)

ここでは工藤さんは「出口」だが、ほかの三方は「結論」だ。исходは、おおざっぱに言うと、「出口、解決、終わり」である。「結論」ではない。しかし、ラスコーリニコフの頭の中で想定された「最後の姿」ということで、「結論」を選択されたのだろう。しかし、彼はまだ結論を下していないし、想定されるべきは結論ではなく、結末だろう。「結末」と訳すべきだと思う。

「出口」は・・・出口ではないのでだめ。

お話かわって、朗読を始めようとするソーニャの様子から二題

35 その一

この感情が、じっさいに彼女のほんとうの、おそらくもうだいぶむかしからある秘密をなしていて、もしかしたらそれは、ほんの幼い少女だったころから(後略)(亀山訳324ページ)

настоящую и уже давнишнюю, может быть, тайну ее, может быть еще с самого отрочества

秘密は、настоящую(ほんとうの)であり、もしかしたら、だいぶ前からあるものであり、もしかしたら、ほんの少女だったころからのものであり、というふうに時を遡っていく手法をみると、настоящуюは「ほんとうの」ではなく、「現在の」秘密でもあるということを表しているのではないかという気がしたのですが・・・

その二

たしかにいま朗読をはじめようとして、悲しみにくれ、何かをひどく怖れてはいるが、(後略)

ここで、тосковала:「悲しみにくれ」という訳は、たぶん、亀山さん独特(江川さんは「心を悩ませ」)。なかなかおもしろい。

36 福音書の朗読

イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。マルタは言った」
(そこで苦しげに息をつぎ、ソーニャは、まるで自分が公衆の前で懺悔しているかのように、ひとつひとつの言葉を、はっきりと力をこめて朗読した)
「『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、キリストであるとわたしは信じております』」(亀山訳326ページ)

точно сама во всеуслышание исповедовала:「まるで自分が公衆の前で懺悔しているかのように」という訳がわからない(ちなみに、工藤さん、江川さんも同様)。「自分が」とは、マルタの言葉を自身の言葉であるかのようにということだろう。してみると、明らかにこれは「懺悔」ではなく、信仰の「告白」、あるいは「宣言」だろう。ね!

それでは、みなみなさま、よいお年を。

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