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2010年11月30日 (火)

внушительно

внушительноは、ある意味厄介、ある意味御し易い単語だ。厄介というのは、ぴたりとはまる定番の訳語がないからだ。一方、それゆえに、その場に合わせて適当に訳しておけばかまわないということにもなる。
英訳なら、impressivelyとかimposinglyとかで大体間に合うのが、日本語訳だとそういうふうにはいかないらしい。オンラインの露和辞典の訳語をみると、「心にしみるように」と書いてある。しかし、実際には「心にしみるように」と訳された例は少なそうだ。辞典にこないな例文があった。внушительно заявить:「凛然と言い放つ」。難しい。なぜこんな例文を挙げるのか。偉い先生の訳文にあったのかもしれないが、実地の役に立つまい。が、まあ、これを見ただけでも、「心にしみるように」ひとつでは心細いことがわかる。
では、実際にどう訳されているか、『カラマーゾフの兄弟』の亀山、原、米川訳を調べてみた。羅列すると : いかにも感じいった様子で、うやうやしく、仔細らしい調子で、諭すように、教え諭すように、たしなめるように、諌めるように、堂々たる様子で、威厳たっぷりに、鹿爪らしく、物々しい態度で、意味ありげに、おごそかに、ぎくりとするような口調で、胸に浸み込むような調子で、しみじみとした口調で、言い含めるように、胸にこたえるような大声で。

まるで無法地帯だ。ジョーカーだ。こんなにたくさんの意味を詰め込まれて、単語として存在する意味があるのか。作者がこの単語を用いる意味はどこに現れているのか。だが、これらの訳語に間違いがあるのかどうかはともかくとして、まずどうしてこうなるのか考えてみよう。
形容詞внушительныйには主に二つの意味がある。簡単なほうから言うと、「大きい」だ。大きな数字、大きなサイズ。堂々たる体躯とかもこっちかな。
もうひとつの意味はウシャコフさんに聞いてみよう。いわく、Производящий впечатление, способный внушить что-н。どうやら多彩さの源泉はここにあるらしい。前半は、印象を生じるということ。印象的な演説とか。「心にしみる」の系列だ。問題は後半の「внушитьできる」という意味。これを目いっぱい範囲を広げて解釈するとどうなるか。внушитьは、何かを感じさせる、思わせる。恐怖を感じさせることもあれば、敬意を呼び起こすこともある。そうなると、внушительноは、「何かを感じさせるように」となるが、それは怒るときにも、くすぐるときにも、泣かせるときにも使えることになる。それで、たとえば、叱っているらしいときには「たしなめるように」と訳したくなるわけだ。また、внушитьには、「教える、さとす」という意味もある。そこからは「さとすように」という意味ができる。

これでвнушительноがいろいろに訳されるわけがわかった。実際には、「何かを感じさせるように」という、何の色もついていない言葉のはずなのだが、その「何か」を訳者さんが推測して訳している場合が多い。それは仕方がないことかもしれないが、しかし、本当にそんなことをしていいのか。いいとしても、たとえば、印象的な演説が、訳者さんによって、泣かせる演説だったり、面白い演説だったり、教え諭すような演説だったりしていいのか。

辞書によっては、внушительный : Производящий солидное впечатление; представительныйと書いてある。これだと「さとすように」等は排除される。つまり、「心にしみるように」が一般的な意味だが、「凛然と」の系統で使われることが多いのではないかということ。
その傍証として、осанистыйという言葉を調べると、Обладающий видной, внушительной внешностьюと書いてある。「堂々たる」という意味だろう。
もっとも、たとえば、ゾシマ長老が主語の場合だと、「堂々と言った」はふさわしくなさそうだ。そのときは、別の、心にしみるような言い方をしたと考えればいい。
いずれにしても、相手に強い印象を与えるような様子を表現した単語であるから、本来、「たしなめるように」とか「いさめるように」ではありえないはずだ。それらは原文に副詞がひとつあるから、意味が矛盾しないであろう副詞をひとつあてはめただけだ。翻訳でなくて解説である。それでも、おおむね読書の邪魔にはならないから、読者としてはかまわない。しかし、問題は、間違った副詞を当てはめている場合がありそうなことだ。さらに、訳者さんによって訳が違う場合があること。後から訳す訳者さんがここぞ腕の見せ所とばかりにうまそうな訳をひねり出しているからだろう。翻訳者としてはそれでいいのかもしれない。しかし、学者さんとしてはどうだろう。この単語の本籍を定める努力をもう少しするべきではないのか。この単語の扱われ方に再考をお願いしたいのである。
実例に入ろう。まず、『カラマーゾフの兄弟』から、いくつか取り上げてみることにする。

(1) 第1編の3 将軍夫人が下男部屋に来て二人の子供を連れて行くところ。

グリゴーリーは忠実な使用人の心得よろしくこのびんたに耐え、乱暴な言葉などひとことも言わず、老夫人を馬車まで見送り、深々とお辞儀をしてから、いかにも感じ入った様子でこう口にしたものだった。「あわれなみなし子たちにかわって、神さまが償いをしてくださいましょう」(亀山訳34ページ)

ここまでの考察が正しければ、внушительноを「いかにも感じ入った様子で」とするのは意訳だ。внушительноは相手、すなわち将軍夫人に感じ入らせるべき副詞で、グリゴーリーがそうかどうかはわからない。亀山先生がそう感じただけのことだ。
米川先生によれば「仔細らしい調子で」ある。「仔細らしい」とは : 1 なにかわけがありそうである。2 いかにも自分はよく心得ているという様子である。もったいぶっている。 だそうだ。ここで1はない。2は微妙だが、「心得顔」が相手に強い印象を与えることを主眼とする言葉の範疇にあるとは言い難い。
原卓也先生は「うやうやしく」。これも原先生がそうだろうと思っただけのこと。もちろん、原先生は「うやうやしく」と言いたいならほかにいくらも単語があることを御存知の上で、внушительноをなんとでも色づけできる言葉と考えて訳されたのだ。

しかし、внушительноのもつ広がりの中心付近に「堂々と」があるとすれば、普通、第一感、「堂々と」と解釈することを考えたい。ここではそれで矛盾がないと思う。身分上、びんたに耐えるのも義務ではあるが、だからといって、少しも臆するところはないというのがグリゴーリーの立場、考え方であろう。

(2) 第2編8 フョードルさん大暴れ

フョードルのこの悪意にみちた嘘八百に対して、修道院長は頭を下げ、さとすような態度でふたたび言った。
「こうも言われています。『あなたにふりかかる不本意な辱しめを、喜びとともに堪え、心をみださず、あなたを辱しめる者をけっして憎んではいけない』。わたしたちはそのようにふるまいます」(亀山訳237ページ)

「さとすような態度で」がвнушительно。米川先生も「諭すように」。しかし、第一感、頭を下げることと、さとすような態度は矛盾していないか。言葉の中身も、自分たちを戒めるようなものであって、相手のフョードルをさとすようなものではない。

それから、「さとすような態度でふたたび言った」:опять внушительно произнесであるが、これは「ふたたびさとすような態度で言った」でなければならない。なぜなら、修道院長は前の発言の時も頭を下げているからである。ふたたび頭をさげ、ふたたび言ったのだ。従って、ふたたびは「さとすように」を修飾すると考えられる。そこで、その前の発言をみると、

「昔からこう言われております。『人々はわたしにさまざまなことを言い、ついにいまわしい言葉も口にした。けれどもわたしはすべてを聞き、心に言う。これは、キリストの薬であり、わたしのおごった魂を癒すために送られてきたものである』ですから、われわれも大切な客人であるあなたに、謹んでお礼を申し上げます」(亀山訳235ページ)

と、人をさとすような言葉ではない。フョードルがこれを偽善と呼んでいるのもさとすような態度ではなかったからだ。では、ここのвнушительноはどういう意味か。「心にしみるように」であろう。気のきいた訳語を思いつかない。「心をこめて」はまずいだろうか。
原訳は「おごそかに」だ。よさそうか。微妙か。「おごそか」の持ついかめしさはこの場合の修道院長にふさわしくないかもしれない。フョードルが乱入した時、院長は「心からお願いします。愛と親族の睦みにて結ばれますよう」という。終始、いかめしくもさとすようでもない。

ところで、修道院長の言葉、「ですから、われわれも・・・」のところだが、

А потому и мы благодарим вас с покорностью, гость драгоценный!

このгость драгоценныйはたしかに「大切な客人」には違いないが、カンマの後にあって「大切な客人であるあなた」とは読みにくいような気がする。素人考えだが、гость драгоценный!は決まった言い方で「よくおいでくださいました!」とかの意味ではなかろうか。

長くなりました。どんな結論になるかわからないまま次回に持ち越しでござる。

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2010年11月24日 (水)

罪と罰題4部(7)

もう何年、こうやってブログを書き続けているだろう。我ながらしつこい。その割に進歩が見えない。やり方、性格、いろいろ問題があるにしても・・・そろそろ、揚げ足取りから翻訳研究に位をあげたいんだが・・・

ひとつにはどうでもいいことにこだわりすぎる。たとえば、亀山訳の262ページに次のような文章がある。

ルージンはその言葉を聞いたとたん、大きな態度にでた。

原文は、Петр Петрович тотчас же закуражилсяで、「その言葉を聞いた」なんて書いてないので、わてなら「ルージンはたちまち・・・」としたいところ。もちろん、「その言葉を聞いたとたん」に間違いないのだから、かまわないとしたものだが、なんだかひっかかる。何が引っかかるのだろうと考え込んでしまった。結局、その言葉とか、聞いた時点とかに重心がおかれ、ルージン氏の変わりっぷりがかすんでしまうからだという、怪しげな結論に達したのだが、こんなことをぐずぐず考えているから・・・

それからまた、257ページに、

拷問を受けて死んだ下男のフィーリカの話

とあるけど、虐待ならわかるけど、拷問とはまたすごいな、なんでそんなことをするんだろう、趣味かしら・・・истязатьの用例をみると、対象は、奴隷、農奴、馬、子供等、やっぱり普通は虐待だろう・・・とか、同じ257ページ、ドゥーニャの言葉に、

あのフィーリカという男

とあるけど、なしてドゥーニャは知らない男を「あの男」なんていうんだろう、そういや前にも亀山先生、そういう「あの」の使い方をしてたっけ、えーと、どこだどこだ・・・とか、また、それから、261ページ、

「この場に兄を同席させないように、というあなたのお願いを実行しなかったのは、たんにわたしがそう主張したからで、ほかに理由はありません」

という訳は正しい。しかし、間違いはないにしても、どうも釈然としない。だって、こういう言い方をするのは、たとえば・・・I投手との交渉が不調に終わったことに関して、ライバル球団に入団させないために契約する気もないのに落札するという裏技を使ったのではないかと疑われるA球団がそれを否定する時だ。曰く「契約に至らなかったのは、たんに条件面で折り合わなかったからで、ほかに理由はありません」。疑念に対し、ごく当然の、まともな、往々にしてたいしたことのない理由を挙げてチョンにする時・・・じゃないかなあ。だとしたら、「・・・実行しなかったのは、ほかでもない、わたしがそう主張したからです」のほうがよかあないか。これなら、さあ、そのわけを聞きましょう、となるぜよ・・・とか、あるいはまた、263ページ、

「ああ、そういうこだわりはすべて忘れてくださいませんか、ルージンさん」

の「こだわり」と訳されたобидчивостьは「かっとしやすいこと、すぐ気を悪くすること」で、明らかに「こだわり」とは違う。だがしかし、健忘長官が大声を出している質問者に言うなら、「まあ、いちいちそうかっかしなさんな」でいいかもしれないけど、ドゥーニャの「感情をこめた」言葉となるとなかなか難しい。もしかすると、「こだわり」はなかなかうまい? だけど、「忘れてくれ」より「捨ててくれ」のがよかあないか、とか・・・

いったい、何を考えているのか、果たしてこれが翻訳の本質と関係があるのか・・・うーん、唸ってしまう・・・えーえ。いや、まったく何が本題かわからなくなってきたけど、一応、まあ、次からということで、

17 ルージン氏、かっときております。

わたしと・・・・・・この横柄な青年を同列に置くといった、屈辱的で奇っ怪なもの言いはもちろんですが、あなたのそのもの言いですと、わたしと交わした約束を反故になさる可能性を認めてらっしゃることになるのですよ。(亀山訳264ページ)

「もちろん」ってのは、たとえば、「酒はもちろんのこと、コーヒーも控えてください」など、「もちろん」の前に当然のこと、後に意外かもしれないことがくる。もちろん、酒の方が余計に悪い。すると、ルージン氏は、約束を反故にするより、奇っ怪なもの言いの方が許せないのかな。おいらはそうは思わない。だから、ナニナニはもちろん、と訳されたНе говоря уже ни слова об だが、辞書にНе говоря уже о - оставляй в сторонеと書いてあるので、ナニナニは「言うまでもなく」ではなく、「おいとくとして」とか「言わないとしても」と考えたい。

亀山先生もそのあたりに違和感を感じて「なるのですよ」などという、教えてつかわそうみたいな言葉を付け加えられたのかもしれない。だが、「なるのですよ」ってことは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは自分の言葉を理解してないとルージン氏が思っているということだ。しかし、彼女の言葉「兄を選べばあなたと縁を切らなければなりません」に誤解の余地はない。

さらに、「可能性を認めてらっしゃる」も妙な表現だ。おそらく、亀山先生も(中村先生もそう)御自分の創作なら「認める」という表現はなさるまい。この「認める」は、気づく、判断するの類ではなく、受け入れる、の親類だ。すなわち、約束を反故にするかもしれないという疑念が自分以外に存在していなければならない。たとえば、「インフルエンザが大流行することはあるのかという記者団の質問に答え、感冒長官はその可能性を認めた」という具合。(これもついでだが、江川訳の「約束を破棄されるかもしれない意思表示になっていますよ」というのも意訳のわりに冴えない)

なるほどдопускаетеは「認める」が定番だけど、 Предполагать, считать возможнымというような意味も載ってる。Я не допускаю, чтобы он так поступил.なんて例文は、「彼がそうするとは認めない」のではなく、「彼がそうするだろうとは思えない」だろう。そこで、

「お言葉からすると、あなたは私との約束を反故にすることもありうべしと考えていらっしゃる」

18 ルージン氏、ますます・・・

それどころか、彼はまるで調子づいたように、ひとこと発するごとにますます執拗な感じになり、いらだちを深めていった。(亀山訳265ページ)

「まるで調子づいたように」と訳されたточно во вкус входилだが、少し調子づくのとは違うような気がする。いや、現象としては調子づく面もあるのかもしれないが、現象だけ見ているのでは平板だ。ここの感覚はドストエフスキーではおなじみのもので、訳者さんにはそれがインプットされているので、どう訳してもわかったつもりでいらっしゃるのかもしれないが。ほかのお訳を参考にしますというと、

中村訳 : まるで、それが趣味にあいでもするように。
工藤訳 : いよいよ話に身が入ってきたようだ。
江川訳 : なにか調子づきでもしたようだった。

中村訳は直訳に近いがなんとなくわかる。工藤訳はこの部分だけ抜き出してもしょうがないが、точноが生きていないし、心理が理解できていないようだ。結論を言うと、Входить во вкусは、何かに喜びを感じ始める、ということ。

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2010年11月19日 (金)

罪と罰第4部(6)

本日は、ルージン氏三題。

14 ルージンは、部屋に入ると、ことさらもったいぶった態度を示しながらも、ふたりの婦人たちとやけにていねいに挨拶をかわした。もっとも、いくぶん気後れし、なかなか打ちとけられない様子だった。(亀山訳250ページ)

時間どおりに二人の部屋を訪れたルージン氏、ラスコーリニコフがいることに気を悪くし、二人を罰するために帰ってしまおうかとも思ったが、決心がつかず、ことを明らかにするためにも部屋に入った。
そこでじゃ、そのような御仁が気後れするかのう、どうじゃろう? いや、そのような御仁とは、二人が自分の言うことを聞くのは当たり前と思っているお方のことじゃ。思うに、ひるんでいるのではない、なぜ面子をつぶされなければならないのか理解できないのじゃ。そこでじゃ、すぐ後に「同じように困惑した様子のプリヘーリヤ」ともあるし、「気後れ」より、「とまどい、まごつき」がよいと思うのじゃがのう。
ついでに、「もっとも」以下のところ:

Впрочем, смотрел так, как будто немного сбился и еще не нашелся

「打ちとけられない」と訳されたне нашелсяじゃが、найтисьはБыстро сообразить, что надо делать в данном затруднении, не растерятьсяとか。するとじゃ、「どうすべきか思いつかない」あるいは、「冷静さを失っている」状態じゃのう。

15 それから、

Петр Петрович не спеша вынул батистовый платок, от которого понесло духами, и высморкался с видом хотя и добродетельного, но всё же несколько оскорбленного в своем достоинстве человека, и притом твердо решившегося потребовать объяснений

ルージンは、香水のにおいのするバチスト織のハンカチを取りだし、鼻をかんだ。その態度は、いかにも立派な感じはするものの、いくぶん面子をつぶされ、釈明をもとめようと固く決心しているようすがうかがえた。(亀山訳251ページ)

これ、必要な事柄は訳しだされているのでいいのだろう。しかし、満点だろうか? ルージンの鼻をかむ動作は何を表そうとしたものか?

亀山訳の後半部分、「するものの」でそのまた前後半に分かれ、両者が対立する構成だ。ルージン氏の表さんとするところが後ろのほう、つまり、面子をつぶされほうだとすると(鼻をかむという行為はそのようにとれる)、「立派な感じ」はルージン氏の個性となる。これは全体の流れからいっていまひとつしっくりこない。一方、ルージン氏がいかにも立派な感じを出そうとするのはいかにもありそうなことだが、すると、面子云々、決心云々は思わず現れたことになる。が、それは鼻をかむ行為の意味するところではない。

では、どうなのか。ルージン氏は両方表そうとしたのだ。香水のにおいのするバチスト織りのハンカチを「おもむろに(江川訳не спеша)」取り出すこと、鼻をかむことで両方を表そうとした。
そこで、思うに、хотя и ... но...の部分を一体としてとらえなければならない。хотя и ... но...とは、厳しいけれども真実だ、とか、空にはほのかながら星が輝いていたとか、そんなときに使う。「するものの」でもいいんだが(いや、実際には、もしかすると「するものの」も悪い)、ただし、今回の場合は、さらにс видом ...... человекаで括られていることを考慮すべきだ。つまり、単純化すると、「立派だけれども尊厳を傷つけられた人といった様子で(鼻をかんだ)」となる。多少のニュアンスの違いがあろう? さらに、「立派な人間がいささか尊厳を傷つけられて・・・といった様子で」というところまで踏み込んでいいかどうかわからないが、ルージン氏の気分としてはそうだろう。他の訳も参照しましょうか。

中村白葉訳: 上品ぶってではあるが、傷つけられた自分の面目に対して十分の説明を求めようとかたく決心した人の態度で、
工藤精一郎訳: その態度はおだやかではあるが、しかしいささか人格を傷つけられ、その釈明を求めることをかたく決意している様子がうかがわれた。
江川卓訳: 控えめにしてはいたが、その様子には、いささか面目をつぶされて、断然その釈明を要求しよう決意したらしい態度が見えた。

みなさん、決意のほうに重心をおいて、前の方はそれに合わせた意訳。ついでに言うとдобродетельногоは、「徳の高い、高潔な」といった耳慣れない訳語があてられるらしい。高潔な人。だから、「立派な」はいいでしょう。「上品な」もいいとして、「おだやか」とか「控えめ」はどうかな。気分は三つとも同じかな。しかし、工藤訳、江川訳は原文のつくりとルージン氏の気持ちを半分無視したもので、わかりやすいからいいってものじゃない。中村訳、まあまあ。亀山訳、惜しい。と、勝手なことを言っております。

16 さて、そんな気分の中でルージン氏は尋ねる。

— Надеюсь, путешествие прошло благополучно? — официально обратился он к Пульхерии Александровне

「道中、とくにお変わりなかったと存じますが」彼はプリヘーリヤにむかい、いくぶん格式ばった口調でたずねた。(亀山訳251ページ)

официальноはどうみてもofficially。公式に、正式にというところだろうが、形式的に、形式ばったもあろう。ちょっとひねれば格式ばったですか。

格式ばる : 身分・家柄や礼儀・作法などを重んじる。また、形式を重んじて堅苦しく振舞う。

だそうです・・・が、口調に形式がのるだろうか? 言葉そのものが格式ばっているとも思えないのだが。もっとも、ルージン氏が堅苦しい態度をとることはありそう。中村訳はその線。「彼は改まった口吻で、プリヘーリヤ・アレクサーンドロヴナに向って口を切った」。

一方、工藤訳は「彼は型どおりにプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナに尋ねた」。ルージン氏に特段の思いはなし。江川訳は「彼はプリヘーリヤに型どおりの質問を発した」。これは微妙。официальноにはいまひとつ熱のこもっていないというニュアンスの使い方もあって、その感じかな。「形式的に」にもその意味はある。あるいは「儀礼的に」。

どうも、ここのофициальноは、口調を言ったものではなさそうなので、江川訳に賛成しておきましょう。

おまけ 亀山訳のちょっと気になる敬語の使い方。誤訳よりまずい。

254ページ あの男とは、たった二度お会いしたことがあるだけですが

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2010年11月11日 (木)

罪と罰第4部(5)

亀山先生の翻訳を丹念に読んだ方なら、その言葉づかいに少し他の訳者さんと違うところがあることに気づかれるだろう。もちろん、そこには何らかの目的があるのだろうし、なるほどと思わされることもある。しかし、おいらのようなぼんくらにはその意図がわからないことがある。もともとそれは、そこで立ち止まって頭をひねるためではなく、読み過ぎる一瞬に何か印象を残すために配された言葉なのだろうが、それがなぜかわからないのだ。たとえば、第4部の2、部屋の入り口でスヴィドリガイロフと出くわしたラズミーヒンがたずねる。

「おい、あの男、だれだったんだ」(亀山訳246ページ)

亀山先生独特ではないかな。中村白葉氏『おい、いったいありゃ何者だい?』、工藤氏「おい、あれはいったい誰だね?」、江川氏「おい、あれは何者だい?」、これらが普通。亀山訳を一般的に解釈すると、次のような前段が考えられる。ポルフィーリー宅へ向かう道すがら、

「おい、今君のことを見てる男がいたぞ」―「ああ」―「気がついてたか。誰だい?」―「知らん」―「ソフィヤ・イワーノヴナをつけていったみたいだぜ」―「ソフィヤ・セミョーノヴナ!」

・・・しかし、それはない。また、二人には面識のない人物であり、かつ、互いに今の人物に面識がないことを知らなかったとあれば・・・えーい、わけがわからん。そ、そういうことです。
次は、スヴィドリガイロフがどこに住んでいるか問われたラスコーリニコフの

「それがわからないんだ」

ほかの方々の訳はあっさり「知らない」といったところ。訊きたかったけど訊くわけにいかなかった感じをだしているのでしょうか。しかし、訊かなきゃわからないのが自明であってみれば、少し情けない男のよう。

それから、「見たか」と訊かれたラズミーヒンの「まあね、・・・しっかりと見ておいた」、「まあね、はっきり覚えているよ」の「まあね」が変わってるけど、まあ、いいか。

12 ここの、ラスコーリニコフとラズーミヒンの会話はちとすれ違っている。結局、「・・・あれは幻覚かもしれないって思ったんだ」(ラスコーリニコフ)「いったいなんのことだ?」(ラズーミヒン)ということになるが、そこまで会話が進んだのは、ラスコーリニコフが微妙な言葉を使ったからであり、そこを翻訳するのが難しい。

「きみはやつを見たのか?」しばらくの沈黙のあとでラスコーリニコフはたずねた。
「まあね、顔は見たよ。しっかりと見ておいた」
「やつを正確に見たんだな? はっきりと見たんだな?」ラスコーリニコフはしつこく聞いた。(亀山訳247ページ)

「正確に見る」というのはなかなか難しい。言葉もそれ自体も・・・と、わては思う。わてなんかはものを正確に見ることができない。たとえば・・・似顔絵を描くのが好きだけど、写真とかを横に置いてそっくりに描くことはできるけど、動いている人間の特徴をつかんで、というのは難しい。あるいは・・・さっき会った人の服装を言え、と言われると・・・事件の証人なんかにはなれそうもない。フム、どうも「正確に見る」のは能力、習慣に属するもので、「正確に見たんだな?」とは訊きづらい。

と、つまらないことを書いているのは、それが誤訳だと思うから。

— Ты его точно видел? Ясно видел?

『しっかり見たかい? はっきり見たかい?』(中村訳)
「正確に見たのか? はっきり見たのか?」(工藤訳)
「しっかり見たのかい? はっきりと?」(江川訳)
「やつを正確に見たんだな? はっきりと見たんだな?」(亀山訳)

точноに「正確に」という意味はある。正確に定義するとか、正確に五時に来るとか。まあ、そういったような。しかし、ラスコーリニコフが尋ねる意味がそれではないことは明らか。なぜしつこく尋ねるのか? もちろん、幻覚かもしれないと思ったから。とすると、このточноは、たしかに、本当に、の意味で捉えなければならない。ほんとに見たのか?・・・へ、へ、そう訳してもいけないから難しい。いや、いけないというほどでもないかもしれないけど、やはりラズミーヒンからすれば、ほんとに見たのかとはなんだということになる。

「正確に」とすればラスコーリニコフを裏切り、「確かに」とすればラズミーヒンを裏切る。すれ違いの会話のはずが、間抜けな会話になる。точноが、「正確に」でもなく、「確かに」でもなく、両方を単純に足したものでもなく、точноだからだ。正確に訳すのは無理。

では「しっかり見たのか」はどうか。точноと意味が違うけど、見方を尋ねているようでありながら、見た事実も確認しているようにも感じられるのでベターでしょうか。
で、おいらならどうするかというと・・・「ちゃんと見たのか?」

亀山訳の「・・・見たんだな?」という訊き方。疑念が現れていてラスコーリニコフの気分としては正しい。しかし、ここでそれが現れていいかどうかは疑問。それから、「やつを正確に」の「やつ」。幻覚かもしれないと思っているだけに、難しいところ。

13 ラズミーヒンの話から。

сходя с лестницы, мысль одна пришла, так и осенила меня: из чего мы с тобой хлопочем?

階段を降りる途中、ある考えが浮かんできてさ、それがそのまま頭に残っているんだ。おれたち、なんでこうやきもきしているのか、とな?(亀山訳249ページ)

「それがそのまま残っているんだ」という表現は無用ではないかねえ。浮かんだ考えを今披露するんだもん、そんなことを言う必要はなかろ。いくらドストエフスキーが悪文を書くったって(それも本当かどうか知らないが)、これはないだろう。

осенитьはпоявиться, внезапно прийти (о мысли, догадке)。つまり、突然考えが浮かぶという意味。なんだよ、ダブってるじゃないか、それこそ無用、というなかれ。ここで浮かんだ考えは、コロンの後ろ。なぜやきもきするのかってこと。一方、「ある考え」のほうは、「何の危険もないじゃないか」ということだろう。でしょ? так иは「それで」。ここは中村白葉さんの訳を推薦しましょうか。工藤訳、江川訳はあげることもありますまい。

ひょいとある考が浮んで、はっと気がついたんだ。

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2010年11月 6日 (土)

罪と罰第4部(4)

9 チャンス!

スヴィドリガイロフがラスコーリニコフに

разрыв, от которого, я уверен, она и сама была бы не прочь, явилась бы только возможность

もっとも、ルージン氏と手を切られること自体は、アヴドーチャさんも、それが可能だということなら、けっして異議はないと確信するのですがね。(江川訳)

この破談については、うまくきっかけさえつかめれば、アヴドーチャさんご自身も反対はなさらないだろうと確信しております。(亀山訳)

亀山先生、凝りすぎではないかな。возможность、まずは、可能であること、可能性、でしょう。同時に、手段とか条件とか、あるいは好機の意味もあるらしい。日本語でも可能ならという時、条件が合えばとか、チャンスがあればの意味もあろうよ。それで、「うまくきっかけさえつかめれば」もあるんでしょうねえ。

しかし、「可能性が生じる」のと、「きっかけをつかむ」とでは大違い。つかむ人はだあれ? すぐあとに「ご自身も反対はなさらない」とあるから、アヴドーチャさんではござらぬ。受け身の立場(こういう場合、わてなら「ご自身」というより「ご本人」という)。と、要するに、ロジオン・ロマーノヴィチ、時機を見計らってうまくやってちょうだいませ、という意味になりまっせ。下手をするってえと、あたくし、どしてもルージンさんがよござんす・・・

これはいかんぜよ。破談そのものについては、二つ返事に違いなかけんねえ。それに、возможностьは主語、状況の変化を示すものだろうから、江川訳でよろしいんじゃ・・・異議なしの声をひとつ・・・

10 期待

またまたスヴィドリガイロフがラスコーリニコフに

Мне всё кажется, что в вас есть что-то к моему подходящее

私はなにかいつも、あなたと私とは、しっくりいくものがあるような気がしていましてね(江川訳)

あなたのなかに、何かわたしと似ているところがあるような気がしてましてね(亀山訳)

「しっくりいくものがある」か「似ているところがある」か。常識的には「似ているところ」のほうがしっくりいくような気がするけど、どうかなあ。中村白葉さんは「共通したところ」、工藤さんは「似た何か」、ガーネットさんは「something about you like me」。おお、江川さん、不利。多勢に無勢。しかし、皆がそうだから、原文にもそう書いてあるはずだみたいな考え方は慎むことにいたしたいですねえ、みなさん。

подходящееを調べると、大まかに二つの使い方(が多い)。ひとつは「近づいてくる」。ラス君を見送るドゥーニャに近づくスヴィちゃんとか。もうひとつは「適切な、フィットする」。ふさわしい質問とか、仕事にあったやり方とか、襟が服にぴったりとか。ちょいと範囲を広げて「合致する」というような意味もあるけど、「似ている」とはどうなのかなあ。それに似たところがあるなら違う言い方をするんじゃないかなあ。ごめんなさいよ、しろうと考えで。

さりとて、「なにか・・・あなたと私とは、しっくりいくものがある」というのも、なんだか都合よく言葉を並べ替えてしまった感じがする。直訳すると「なにか私のものにフィットするものがある」だと思うんだ。что-то はラスコーリニコフに何かがあるんだけど、「しっくりいくもの」の「もの」は形式名詞でしょう。どうもしっくりこないものがあるなあ。

それから、「フィット」の仕方だけど、ぴたりと重なる(つまり「似ている」系)というより、必要な部分にぴたりとはまるというような使い方みたい。なんだか、ラスコーリニコフが自分の必要とする人物であるような厚かましさを感じるけど。だから、そのすぐ後で、私はしつこくないと言っている・・・「私にぴたりとくる何かがあなたにあるような気がしている」・・・うーん、ちょっと違うようだけど、言い方が難しい。

11 カドマツはメイドの旅行の・・・

亀山訳244ページ

で、ひとつ質問したいんですが、旅行にはまもなく出られるんですか?」
「旅行って、なんです?」
「そう、その『旅行』に出るとか・・・・・・自分でそうおっしゃったでしょう」(旅行にヴォアヤージュとフリガナ)
「旅行ですって? ああ、そうでした! たしかに、旅行の話をしました・・・・・・でも、さっきのはかなり漠然とした問題でしてね・・・・・・それにしても、いまあなたがたずねられていることの意味、おわかりにならんでしょうな!」

「旅行」が五回出てくる。三つめに『』がついてるのは、「さっき話に」出たから。しかし、日本語で読んでる読者に、なんでくどくど旅行旅行っていうのか、また、なんで三つ目だけ『』がつくのかわかれってのは、どうかなあ。だって振り仮名をつけたところで旅行は旅行だがな。ついでに言わしていただくと、「その『旅行』」の「その」もなんだろう?(江川さんもだ。もっとも江川さんは全部「旅行」じゃないから「その」の意味も違ってくるけど)。「旅行ですって?」もおいらなら「旅行に?」だな。

その旅行、原文では、ふたつめまでпутешествие、みっつめは «вояж»-то 、よっつめ、いつつめはвояж。つまり形式だけ原文に従って中身はすべて旅行にしたということ。まあねえ、どっちも意味は旅行です。путешествиеのほうがずっと一般的、вояжは皮肉やユーモアを込めるとき使うとか。日本語でその感じは出ないし、どうせ同じ意味なら全部「旅行」ってことだろうけど、形式と中身が泣き別れではねえ、流れがさっぱりつかめません。

ぼうしふりふりあとふりむけば あけののかぜがたださむい

ではほかの方々はどう訳されているか。五つの「旅行」を列挙しますと、

中村白葉さん: 旅 旅 《航海》 航海 航海
工藤精一郎さん: 旅行 旅行 《航海》 航海 航海
江川卓さん: 旅 旅 「旅行」 旅行 旅行

やはり、みっつめから変えるのが普通でしょうねえ。航海は英語的?(よく知りませんが)、だとしたらナンセンス。ま、二つの単語の持つニュアンスを出せないとしたら、旅と旅行という江川さんの選択は常識的でござんしょうか。しかし、しかしですよ、あっしにはよくわからないんでござんすが、なんでスヴィドリガイロフの旦那が「旅行」と言ったか。いや、あっしらならね、あちらへ行く時は「旅」と言いますがね。旅立つんであって、旅行に出るとは言わない.。あっしなら、旅行 旅行、「旅」 旅 旅。

それから、「かなり漠然とした問題」(вопрос обширный)のところも、ちょっと。漠然: ぼんやりとして、はっきりしないさま。広くてはてしのないさま。「さっきのは」と限定しているから、旅行そのものが漠然としてしまう。「広い意味で言った」という江川訳に一票。

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