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2010年10月31日 (日)

罪と罰第4部(3)

しかし、工藤精一郎さんの『罪と罰』には大胆不敵なところがあるなあ。清水正先生など、批判なさっている方もあるが、例の、あの方々は知らんぷりでござる。彼らの攻撃の動機には多分に個人的なものがあるということになってしまうだなあもし・・・んなことはどうでもよろしい。が、思うに、亀山先生って、あんましドストエフスキー的じゃない感じなんだなあ。爆笑問題をロシア料理店に連れ出すなんてスマートすぎる。ほかの先生方は研究室でしんねりやってるじゃん。まあいいや・・・でも、今度のK先生の『悪霊』の「検証」は、少し無理矢理のところもあるかな。そこまで言うなら、ほかの翻訳にもそんなのはごまんとありまっせって感じ。もち、仰せの通りというとこもある。そうそう、わても気になってたんだ。『罪と罰』でも亀山訳、上から順に訳して文章を短く切ってくの、かなり目につく。きちんと伝わってる場合は結構ですが、びみょ~なところもあるでねえ。ま、いいか。そうそう、「勧工場」ってのも確かに古い。ちょっと、どういうところかイメージわかない。ああ、「明治・大正時代、一つの建物の中に多くの店が入り、いろいろな商品を即売した所」だって・・・そういや、こないだ旅番組でパリのパサージュ、やってたっけ。あれには、成立の要因があって、近道として通り抜けられるということが肝心なところで・・・ムニャムニャ、忘れた。

忘れることがしあわせと 遠くささやく鐘のおと

カーン! はい、御苦労さまでしたあ。

ロシアのパサージュは作られた背景も形式もパリとは違うんだろうな。写真で見た感じでは、確かに勧工場様。ま、勧工場も古いが、K先生のおっしゃる「通廊式マーケット」のマーケットも別の意味では隆盛だけど、この意味では死語二十年。

さ、無駄話はやめて、永遠について語ろうじゃないか。来世はあるのか。はたしてスブタでよいのか?

くもよ かぜよ そらよ おまえたちは知ってるかい

5 亀山訳234ページから。スヴィドリガイロフ氏:

「でも、もし来世にあるのが蜘蛛の巣だけとか、何かそんな類のものだけだとしたら、どうです?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこにちっぽけな部屋を想像してみたらどうです。田舎風の煤けた風呂場みたいなところで、隅から隅まで蜘蛛の巣が張っている。で、これこそが永遠っていうふうにね。

「隅から隅まで蜘蛛の巣が張っている」というのは「煤けた」の感じを強調してるのかな。至るところ蜘蛛の巣だらけで、天井からはぶら下がってる、足を踏み入れればまとわりつく・・・

江川訳は、「四方の隅には蜘蛛が巣を張っている」。少し部屋の様子が変わってきましたよ。工藤訳だと「どこを見ても蜘蛛ばかり」。おお、まったく違う。

以前、某掲示板で、訳によって蜘蛛がいたりいなかったりするけど、原文はどっちだという質問があった。蜘蛛がいるのといないのでは大違いと考える人もいるということだ。原文は по всем углам пауки、どの隅にも蜘蛛がいる、のようだ。そこで、何もいないよりは蜘蛛でも居た方がましという感想を、掲示板の質問者は持たれたようだ。だけど、ま、ものは考えようとはいえ、ここの蜘蛛は、何かいやらしいものの象徴ではないかという気もする。

しかし、いくら蜘蛛の巣だらけとはいえ、「そこにあるのは蜘蛛の巣だけ」という表現をするかなあ。蜘蛛の巣なんて「ある」ものとして取り上げるべきもの? 少なくともちっぽけな部屋のが優先するのではないかな。それに、そんな類のものって、どんなものかな。ふむ、原文に「蜘蛛」とあるのだからねえ。それも複数・・・亀山訳は永遠をまったく何にもない古びたものと考えようという意味だろうけど、蜘蛛の存在は何がしかの意味がありそうに思います。

6 ちょっとだけ?

Действительно, я человек развратный и праздный. А впрочем, ваша сестрица имеет столько преимуществ, что не мог же и я не поддаться некоторому впечатлению

たしかに、わたしは女好きですし、ひま人です。でも、ですよ、あなたの妹さんはほんとうにすばらしいところをもってらして、わたしもいくらか心を動かされてしまったというわけです。(亀山訳237ページ)

スヴィちゃんが何かを感じたのは「ひまと女好きのせい」というラスコーリニコフに答えたものだけど、この亀山訳は「でも、ですよ」がかなり薄味。「妹さんがすばらしい」の強調具合がね。
それより、いくらか腑に落ちないのが「いくらか心を動かされ」。スヴィちゃんが本当のことを言ってないとはいえ、「いくらか」じゃなかったのは互いに知ってるだろうし、не мог же и я не поддаться (抗しきれない)という強い表現ともどうかと思うし。некоторомуは「ちょびっと」ではなく「何か」(すなわちその心の動きをはっきり定義できないということ)ではないかと・・・

7 いくつか些細なことを

Дети мои остались у тетки; они богаты, а я им лично не надобен. Да и какой я отец!

子どもたちは、伯母たちの家にあずけてあります。伯母たちは金持ちですし、個人的に、わたしなどあの子たちには必要じゃない。このわたしにしたって、しょうもない父親ですから!(238ページ)

伯母さんは複数ではなく一人。金持ちは伯母たちではなく子供たち(スヴィドリガイロフは一年前にマルファがくれた分だけをとったのだから)。そして、彼は金の提供者でもなければ、彼自身も必要ではない。というわけで「わたし自身」が適当と思うんだけど、「個人的に」はそういう意味にとれるのかなあ・・・

8 Охота мне・・・

Охота тебе! (вам, мне, ему 等)は、「雨の中をもの好きな」みたいなものが主要な例文となっており、「もの好きな!」と訳すのが通例のようだ。しかし、中村白葉訳『罪と罰』第2編の6、ラスコーリニコフのラズーミヒンに対する言葉、

人を苦しめるなんて、実際ものずきな話だよ。

が、明らかに不適訳である(と、おいらは思う)ように、「もの好き」は万能ではないし、むしろ不適の場合が多い。実際、意味としては「なぜそんなことをするんだ」であり、もう少し「やめたまえ」のニュアンスが強いようである。「何を好き好んで人を苦しめるんだ!」とか・・・と、ここまでが、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたときに得たわての結論だ。そこで、

«Охота вам, говорю, Марфа Петровна, из таких пустяков ко мне ходить, беспокоиться». — «Ах бог мой, батюшка, уж и потревожить тебя нельзя!»

『あなたもご苦労ですね、マルファさん、こんなくだらないことのためにわざわざやってきちゃ、気をもんだりして』と、こう言ってやりましたよ。すると、『あらまあ、ちょっとくらいならいいでしょうよ!』(亀山訳230ページ)

「ご苦労ですね」は「もの好きでんな」の変形みたいなものだけど、マルファさんの答がポイントを押さえているからいいのかな。ただ、そのマルファさんの答だけど、これまで堅苦しくアルカージイ・イワーノヴィチと呼んでいたのが親しみを込めたбатюшкаになり、васがтебяになったことを考えると、亀山訳よりもうちょっと感情のあらわな表現じゃないかなとの感想を持ちました。

が、それよりбеспокоитьсяの解釈。これそのものは「気をもむ」でいいのだが・・・

ねえ、お前もものずきだなあ、マールファ・ペトローヴナ、こんなつまらないことのために、いちいち気をもんでわたしの前に出てくるなんて(中村訳)
マルファ・ペトローヴナ、おまえももの好きだねえ、こんなつまらんことでわたしのところに来て、わたしをわずらわせるなんて(工藤訳)
マルファ、なんだって酔狂に、そんなくだらないことでわざわざやってくるんだい?(江川訳)
あなたもご苦労ですね、マルファさん、こんなくだらないことのためにわざわざやってきちゃ、気をもんだりして(亀山訳)

беспокоитьсяは三通り。中村訳と江川訳が同じ(構文)。もの好きにも、気をもんで/面倒な思いをして、出てくる。工藤訳は、わてには解釈不能(工藤訳に親しんだ方はこういうところ―すなわち、意味はよくわかっても原文と違うところがあるので、要注意)。亀山訳は、もの好きにも、やってきたり気をもんだりする。つまり、江川訳の「わざわざ」はбеспокоитьсяだが、亀山訳のそれは付け足しってこと。
出てきたマルファさん、気をもんでる風でもないこと、ходить, беспокоитьсяの間がカンマなので、おいらも多数派に一票。

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2010年10月26日 (火)

罪と罰第4部(2)

他山の石という言葉は間違った意味で使ってる人の方が多いんだってねえ。他人の良い言動が手本になるというように。まあ、聞いてみなきゃわからないなあ。誤解のもとになる言葉は使わんこってす。いちいち調べてから使わないと危険な言葉辞典とかいうのを出したらどうかねえ。ふん、なんだか気勢をそがれちゃって。他山の石的な話題は後日に・・・えー、気を取り直して本日の一つ目。まず、亀山訳を読んでいただきましょう。相変わらず些細なことに引っかかっちゃっいまして。ラスコーリニコフの問い、スヴィドリガイロフの答:

3 「じゃ、あなたはカード師もやったことがあるんですか?」
「そりゃ当然でしょう? 八年ぐらい前のことですが、われわれ、ちょっとした仲間を作っていましてね、これがじつに礼儀正しい仲間でして、よくまあ暇をつぶしたもんです。しかも、みんな、ちゃんと作法をわきまえた連中ぞろいで、詩人もいました、資本家もいましたよ。それに、われわれのロシア社会で、いちばん立派なマナーの持ち主っていうのは、たいていがカモにされた連中ですよ――そこのところに気づきましたか?(亀山訳222ページ)

問題はカモのところ。

Да и вообще у нас, в русском обществе, самые лучшие манеры у тех, которые биты бывали

Constance Garnett訳 : And indeed as a rule in our Russian society the best manners are found among those who've been thrashed

中村訳 : それに、一般的に言って、わがロシヤの社会では、最もすぐれた態度作法というものは、ちょいちょいくらいこんだことのある連中の中にあるものなんですよ

江川訳 : だいたいわがロシア社会では、もっとも礼儀正しいのは海千山千の連中のようですな

亀山訳 : それに、われわれのロシア社会で、いちばん立派なマナーの持ち主っていうのは、たいていがカモにされた連中ですよ

いやはや、これだけバラエティに富んでいるとどう考えていいやら。その上、スヴィちゃん、ラスコーリニコフに、そこのところにお気づきかと訊いてはるねえ。はて、ラスコーリニコフはん、ちょいちょいくらいこんだことのある連中とか、海千山千の連中とか、カモにされた連中とか、ご存じやろか。いや、ご存じと思われると、思われる? まあよかよか。

要するに、битыよ。これだけ訳者さんによって違うと、そもそもこのбитыが何なのか、素人は迷路に入っちまうだよ。さりとて、まさかバット(あおだもとかの)とか、ビート(エイトビートとかの)じゃないだろうから、битыйの短語尾形ということになろうかのう。直訳すれば打たれたですか? かくして、ガーネットさんのthrashedは、あまり参考にならない(英語も苦手やけん)。

調べたけど、「カモ」がどこから飛んできたのかわからない。なんと工藤訳も「カモにされる連中」なんだ。ああ、される、と、された、じゃ大違いだけど。いかさま屋さんとしては、カモになる連中の方が望ましい。が、それ以前に「カモ」そのものが・・・ネギも・・・

Everybody's doin' a brand new dance now

といっても、おらの辞書の調べ方が悪いのかもしんね。実を言うと、битыйには、カード、ギャンブルに関わる意味がありやして、Покрытый старшей картой или взятый другим игрокомと書いてある。が、が、これは、高位のカードを切られたとか、相手にとられたとかの意味(すなわちゲームの中のひとこま)で、それが修飾するのはプレイヤーではなく、カードや駒のようです。битая карта, пешкаという具合。カモが潜んでいるとすればここだけど、なんか居そうもない。ラスコーリニコフにカモられた知り合いがなさそう(従ってそんなことには気づかなそう)な事を加えると・・・

しかし、カモの姿も見えないけど、海千山千も海彦山彦も、くらいこんだも暗い艀も見当たらない。といっても、わての辞書の調べ方が悪いのかもしれんけん。実を言うと、いかさま屋さんの専門用語(Шулерская терминология)というのがありんして、それによると、битыйとは、汚いやり方に通じたベテランギャンブラーのことらしい。海千山千あるいは塀の中をご存じということにも通じそう。でも、ラスコーリニコフがそんな専門用語やそうした方々を知ってるだろうとスヴィちゃんが思うかえ?

カモにされる連中は、いずれカモにされて、そうこうするうちに海千山千になり、最後はちょいちょいくらいこむ、と、いうわけで、全部同じことを言っている、メデタシ、ってのもいいけど、それでいいなら誰だって訳せちゃうな。

いや、あちしの辞書の見方が悪いのかもしれないけど、ダーリの辞書に、Битый человек, ломаный, много перенесшийなんて書いてあって、その辺で考えるのが穏当と思うんだがね。穏当というのはつまらないけど。実を言うと、こんなことわざがあってね、

За битого двух небитых дают

言わんとするところは、困難や不幸を知っている人(これがбитыйさん)は、何不自由なく暮らした人より価値がある、とな。ルージン氏のお説みたいじゃが。ってなわけで、битыйとは多くを耐え忍んだ(人)ということのようですが、・・・苦労人というと、既に苦労以上の意味を含んでいてまずいかな。苦労した人とかで・・・

なにゆえスヴィちゃんがそんなことを言ったかについての考察抜きだから、どうかと思うけど、ま、会話の中で普通に使われているのだから、ラスコーリニコフはそのように受け取ったはず。

São loucas! São loucas!

長くなってしまいました。足早に次へ。亀山訳227ページ。

4 あなたになにか、そんなことがきっとあるって思ってたのは、これだったんだ。

Отчего я так и думал, что с вами непременно что-нибудь в этом роде случается!

これはなかなか思い切った訳で、江川さんなんかは「どういうわけかぼくは、お話を聞くまえから、あなたにはきっとそんなことがあるにちがいないと思っていましたよ!」で、こちらが多数派だろうと思うけど、しかし、亀山訳はあとの展開と呼応してるんだな。あとの展開というのは、かいつまむというと、おもにスヴィちゃんのセリフだ。すなわち、「言ったでしょう、われわれの間には共通点がある」に続いて、言ったの言わないの、そして、「部屋にはいってすぐに心のうちでつぶやいた。『これが例の男だ!』」

これが例の男だ!

ねえ、最初のセリフと相似。ということで、なかなかよろしいんじゃないでしょうか。

ところが・・・その後の「その例の男とはなんです」、なんだかんだの明神下に続いてラスコーリニコフ、

「そんなの、ばかげてますよ!」

Всё это вздор!

と、おっしゃるんですがね、つまり、スヴィちゃんの言い草だけばかげてると言ってるけど、せっかくさ、呼応させたんだからさ、自分の言ったことも全部ひっくるめて馬鹿げてると言った方が、よかったんじゃないかなあ。

ついでに、

Про что? А право, не знаю про что

「なんのこと、ですか? たしかになんのことか、わたしにもわかりませんよ・・・」

たしかにправоは確かですと請け合うこともあろうけど、この場合は「実のところ」じゃないのかなあ。上のだと「あなたも知らないんでしょ?」に対する答になっていて、確かが転じちゃってるんじゃないでしょうか?

あのー、第1部のころは、おとなしいかなと思った亀山訳ですが、第4部あたりでは大胆になってきたなと感じるのですが。気のせいかな。ちょっときわどい表現もあってなかなか悩ましい。ま、しかし、せっかく新しく訳すんだから、評価が分かれるぐらいのことをしなきゃね。どうせ、うるさい人は、何したってうるさいんだから・・・

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2010年10月23日 (土)

罪と罰第4部(1.5)

1 まずは小手調べ

«Видите, как я вам доверяю, Аркадий Иванович», — право, так и выразилась. Вы не верите, что так выразилась?

《そらね、わたしこんなにあなたを信用してるんですよ、アルカージイ・イワーノヴィチ》──ほんとにこう言ったんですよ。あれがこう言ったなんて、あなたには信じられんでしょうな?(工藤訳)

そして「これでわかったでしょう、わたしがどんなにあなたを信じているかということが、ねえ、アルカーヂイ・イワーノヴィッチ。」なんて──いや正直、あれはこの通りの言葉で言ったものですよ! あなたにはちょっと信じられますまいな。あれがこんなあんばい式に言ったなんてことは?(中村訳)

「わたし、こんなにあなたを信頼していますのよ、アルカージイ・イワーノヴィチ」いえ、たしかにこのとおりの言い方でした。そんな言い方をしたなんて、本気にされんでしょうな?(江川訳)

『あなたをどれぐらい信頼しているか、おわかりでしょう、アルカージイさん』そう、そんなふうな言い方でしたよ。そんなような口のきき方してたなんて、信じられないでしょう?(亀山訳)

いや、はたして、「こう言った」のか、「この通りの言い方」か、「そんなふうな言い方」か、ねえ? つまり、問題は、内容なのか言葉遣いなのか、あるいは特殊な内容を持つ言葉なのか? その結果「信じられない」ものとは何なのか。

多数決なら、「言い方」の勝ち。выразитьсяは何らかの言葉を使って考えをあらわす。правоは「実際に」「とか「本当に」、あるいは、請合う感じ。つまり、言葉遣いに間違いはないと言いたいんでしょう。

さてそうするとだ、「この通りの言い方」だったとして、その割には訳者さんによって若干違いがあるんだけど、それでは、絶対に動かせないもの、「この通り」の本質とは何ぞや。そしてこの口の利き方のどこが信じがたいのか。

いやもう、ここに何か信じられないような要素があるとしたら、それは「信頼」という言葉しかない。え、自明? そうだよねえ、「わかったでしょう」なんて「言い方」が珍しいとは思えないもの。だったら、だったらさ、「信用」とか「信じる」は、どう? 同じじゃないでしょ。

つまり、「信頼」なら額面どおり受け取れるけど、「信用」だと元値の安さをみんなが思い出してしまう。ひょっとして嫌み?・・・と。しかし、ラスコーリニコフが信じられないのが、スヴィドリガイロフを信じる人がいること、と、スヴィドリガイロフは考えるだろう。それを確かにするためには、ぜひとも、頼りにするところまで行ってもらいたい。「この通りの言葉」は「信頼」であるべきだと思う。

すると、「そんなふうな言い方」とか「そんなような口のきき方」はピンぼけかな。

2 図星

「図星を指す」とは、「物事を推察してぴたりと言い当てる」ことだそうな。わっちもそのように理解していたのだが・・亀山訳213ページから読んでいきますというと、

「いや、そんなのは、ほんとうにどうでもいいことなんです」ラスコーリニコフは、吐きすてるような口調で相手の話をさえぎった。「なんといっても、あなたがいやなんです。あなたが正しかろうが、正しくなかろうが、とにかくあなたとは知りあいたくもない、うんざりなんです、ですから、さっさと出てってください!・・・・・・」
スヴィドリガイロフはふいに大声で笑いだした。
「それにしても、あなたって人は・・・・・・いやはや、ずいぶん手ごわい方だ!」おそろしくあけっぴろげな調子で笑いながら、彼は言った。「うまくごまかせるかとも思ったんですがね、いや、どうして、あなたからこうも図星をさされてしまっては!」

iいったいラスコーリニコフの言葉のどこが図星だ? 遡って、何か推察して言い当ててる箇所を探したが、ない。当該個所:

вы как раз на самую настоящую точку стали!

工藤訳 : あなたはするリとかわして本筋に立っておられる!
中村訳 : あなたは一番の急所に立っておしまいなすった!

「するりとかわして」は原文のどこにもない創訳の上、適切と思えないし、また、「急所に立つ」という表現もどうかと思うが、しかし、どうやら、ごまかしなどには動じない立ち位置を得たという意味で二つの訳はよさそうな感じ。

сталиは立った。точкуはポイントかな。見地、観点に立つ(статьна какую-л. точку зрения)、というような使い方に準ずる、としておきましょう。настоящую、「純金」の純とか、「真の友」の真のとか、要するに、「紛うかたなき」という意味にとるなら、動詞の方向によっては「図星をさす」になるんだろうけど、この場合はなあ。本当の、あるいは、適切な、かな。やはり、本筋に立つがいいんじゃないかな。

ついでであんすが、「とにかくあなたとは知りあいたくもない、うんざりなんです」のところ、「知りあいたくもない」というのもなんとなく変。相手が既に来ちゃってるからというより、言い慣れないからかなあ。

ну вот с вами и не хотят знаться, и гонят вас

中村訳 : あなたとお知りあいになるのもいやなのです。さ、あなたは追ったてられてるんです
工藤訳 : とにかくあなたとは近づきになりたくないのです。顔も見たくありません

知り合いになるのもいや、なら変じゃなさそう。ただし、знаться::поддерживать знакомство, водитьсяだから、「友好関係を保つ」ですか。どっちかっつうと、「おつきあいはごめんこうむりたい」ではないかな。

それから、гонят вас、直訳すれば、中村式、「あなたは追ったてられてるんです」となる。これまた相当妙な訳だけど、まあいい。「うんざりなんです」、「顔も見たくない」は、訳者さんの想像でしょう。ラスコーリニコフとしては最初っから厭だろうから、うんざりはまずそう。しかし、最後に「出てってください」があって、意味がダブるので訳しにくい。「顔も見たくない」はセーフかなあ。うーむ。「お帰りねがいます」ぐらいなら無難?

パソコン戻ってきただ。故障の原因はわからんそうだで。今度は大丈夫かなあ。なんせ機械に弱いのでね。これで理系だってんだから笑っちゃうだな。 

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2010年10月16日 (土)

罪と罰第4部へ・つづき

”against the green wall”が「お札真っ暗」ねえ。柳瀬さんは大層ご自慢のようだが。ほんとかなあ。だって、前者はありうる表現だけど、「お札真っ暗」は、ねえ。でも、なんか、センスないとはいえ(お、お、なんか偉そう)、場合によっては、最善かもしれないとは思う(ますます偉そう)。

たとえば、(歌舞伎のセリフを借りた)「とんだところへ北村大膳」なんてのは、訳しようがないよねえ。「えらいところへきたな、北村大膳よ」とやってしまったら(ほかの国の言葉でよ)、笑撃の新訳になってしまうが(いや、実のところ、そのような例が時に見られるのだが)、単に「えらいところへきたな」では、意味は伝えていても言葉遊びは伝えていない。それではいかんと、「びっくり下谷の広徳寺」と訳したらどうだろう(もちろん、これまた、外国語にそういう表現があったらという仮想の話)。全然言ってることが違うやおまへんかと怒る人もありそう。亀山先生の遊び心の言い替えに目くじらたてて大真面目に議論している奇特な方もいらっしゃいましたからなあ。なかなか難しい。

一方で「お札真っ暗」は名訳。一方にはお堅い文学者。どちらも存在意義がある。永遠の戦い万歳!・・・えーい、そういう話じゃない! つまり・・・つまり、翻訳には自由な発想が必要だが、その自由はどこまで認めtられるのか? その自由度は、場合によって伸び縮みするのか? 具体例に入りましょうかねえ。第4部の1。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの会話。中村訳、工藤訳、亀山訳を較べてみませう。前後を知るために、中村訳だけちょっと余計に引用します。

『あなたはきっとなんですね、この数日間ひき続いて誰と口を利かずにいたんですね?』と、彼は訊いた。
『まずそうですね。それでどうなんですーーあなたはてっきり、わたしがこんなに調子のいい人間なので、驚いてらっしゃるんでしょう?』
『いや、僕は、あなたがあんまり調子がよすぎるのに、驚いているんです。』
『つまり、あなたのぶしつけな質問に腹を立てなかったからという意味ですね?(中村白葉訳)

「まあそうです。それがどうかしましたか、どうやら、わたしがよくしゃべるんでおどろいたらしいですな?」
「いいえ、ぼくがおどろいたのは、あなたがあまりに人間ができすぎているからです」(工藤精一郎訳)

「まあ、そんなところです。で、どうなんです、わたしがこんなに人あたりのいい人間なので、きっと驚かれているんでしょう?」
「いえ、ぼくが驚いているのは、その人あたりがあんまりよすぎるからですよ」(亀山郁夫訳)

— Почти так. А что: верно, дивитесь, что я такой складной человек?
— Нет, я тому дивлюсь, что уж слишком вы складной человек

二つのскладной человекを如何に訳すかという問題。「人あたりのいい人間」(亀山訳)という意味はありそう。「調子のいい」(中村訳)はどうかな? ないかも。けれど、レミファ、けれど、レミファ、問題は工藤訳。二つのскладнойをまったく別の、しかもскладнойとは縁のなさそうな語句に訳しわけてらっしゃる。大胆不敵。さすがにあんまりだと思うけど。本当にあんまりだろうか・・・ 1 連結した二つのскладнойだからひどいと思うけど、単発ならこの程度の意訳はよくありそう。 2 他の訳より筋は通ってる。口を利かずにいたからよくしゃべる。腹を立てないから人間ができてる。「人あたりがいい」よりぴったり。でしょう? 誤訳がどうのなんてことに縁のない普通の読者からすると、工藤訳がわかりやすくていいじゃん、てことになるかも。

さて、どう考えましょう。同じであるべきものに別の訳を当てるのは絶対的にダメと考えるのか。それともどのようなケースもその場限りのものとして相対的に判断するのか。すなわち、大した問題じゃないからどうでもいいとか、「人あたりのいい」で充分だから、そこまですることはないとか・・・

考えてみると、こっから先はダメという境目を決めるのはとても難しい。結局、常識的な判断という、なんともあいまいな基準に頼るしかないのかなあ。工藤訳、禁じ手ではないかという疑いがかなり強いけど、他に完璧な訳がなければ文句も言えないのかもしれない。

但し、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフの「人間ができすぎている」と言うだろうか。これはかなり疑問。腹を立てないのは人間ができてるからではなく、弱腰だからかもしれない。あるいは、近頃、しなやかでしたたかな柳腰というのがあるそうだけど、まさしくそれかな。

складнойという言葉はскладной нож(折りたたみナイフ)とか、.складной стул(折りたたみ椅子のように使う。これが人間の 性格のようなものをあらわす場合にどんな意味になるか,それは想像したってしょうがないやねえ。実際の使用例もみつからないし。というわけで、「人あたりのいい」はあるけど、「調子のいい」はなさそうと書いたけど、根拠なし。

結局、前後関係(中でも重要なのが腹を立てなかったということ)と、折ってたためるという本来の意味から推測するよりないのかな。(もちろん、先生方のうち、お一方はあてずっぽうではなく根拠があって訳しているのかもしれないが)。やはり、「人あたりのいい」が無難ですか・・・「人間が丸い」とか「角が取れた人間」ってのはどうですか。

パソコンが修理から戻ってきたら少しペースを上げようかと・・・

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2010年10月10日 (日)

罪と罰第4部へ

しかし、そのお、なんというか、ラスコーリニコフに「むかつく」なんて言葉を使われるとと嬉しくないし、ましてやお母さんに向かって昨夜の騒動のことで「たしかにむかついたでしょうよ」なんて言ってるのをみると、非凡人とはバカのことかと思ってしまうだなあ。(まあ、そういう一面はあるかもしれんけんど、それを意図したものではなさそう、だなあ。)たぶん誤訳。お母さん、むかついたろうと思うやからなら、なんの事件も、♪あるうまあいいに、だなあ。
そこへまた、今度はスヴィドリガイロフまで「むかつく」って言うんだなあ。さてはて、このおじさんは、どの意味で「むかつく」と言ってるのか、考えてしまうだなあ。
だいたい、あっちはдосадноで、こっちはтошно。そりゃあ、いつも訳しわけなきゃいけんとは言わんけんど、「むかつく」はなあ、あまり使い勝手がよくない、だなあ。

しかし、まあ、翻訳なんてもんは、こんなふうにああだこうだ言われることを想定しながらやってられるもんじゃないでねえ。信用してさあ、こっちにまかせてさあ、自由にやらせてちょうだいよ、と、こうくるだろうなあ。さて、そこで、どこまで自由かってことだなあ。正確で必要十分、という枠があるから、本来、あまり自由はないはずなんだけど、しかし、そんな条件を満たす語句は、いつも見つかるとは限らないどころか、しょっちゅう見つからないことがあるんだなあ。仕方がないさ、言葉の作りが違うんだもの。必要十分の枠は大いにあいまいになる。これが逸脱へのお誘い。「仕方ない」が呼び水になってたががはずれる。自由闊達な言葉遣いが名人芸に見えてくる。枠を決めるのはわたしです。素直に訳すのは大家に似合わないとさ。どうだろうなあ、たとえ正しくても、余計な解釈は書き込むべきでないと思うんだがなあ。たとえば、細かいところで言うと、「見る」とか「笑う」とか、訳者さんの解釈で表情が付けられることが結構多い。結構毛だらけだなあ。いや、いや、もちろん、もちろん、おおむね、おおむね原文に忠実なんだけど。それはまあ、時間の制約もあってそうはひねくりまわしてらんないこともある。前置詞プラス形容詞プラス名詞の難しい奴なんてどうにもならんで、カターイ訳にあることがよくある。形容詞を省いちゃうなんて「技」を繰り出す場合もある。要するに、自由と不自由が混在することになるだなあ。

いや、しかし、そのお、自由が悪いってんじゃないんだ・・・あ、あ、あ・・・パソコン不調。修理に出せって。えーい、これからおもしろいところだったのにい。せっかくご覧いただいたのに、すんません。しばらくお休みになるだなあ。ぐすん・・・戻ってきたときには気合いを入れて・・・では、では・・・

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2010年10月 4日 (月)

罪と罰第3部(22)

さっき、おれは近寄って、母さんに接吻した、忘れもしない・・・・・・でも、抱擁しながら、もしこの人に知られたらなんて考えるのは・・・・・・それならいっそ言ってしまうか? これはおれしだいということだな・・・・・・ふむ! そのひとは、おれと同じような女性でなくちゃいけないのさ(江川訳。「そのひと」に傍点)

さっき、母さんに近づいてキスしたな、覚えてるぞ・・・・・・抱きしめて、あのことを母さんが知ったらなんて考えるのは・・・・・・なら、いっそのこと言ってしまおうか? おれならやりかねんぞ・・・・・・ふむ! あの人はおれとそっくりでなくちゃならない(亀山訳。「あの人」に傍点)

原文では、「この人」(亀山訳「母さん」)も、言ってしまう相手も、「そのひと」(亀山訳「あの人」)も、すべて「彼女」。だから、普通なら、すべて母親をさしているはずなのだが、最後の「彼女」だけイタリックになっている。そこが考えどころ。そのあたり、たしか、江川さんの解釈は『謎解き罪と罰』に書いてあったと思うのだが・・・えーと、「いっそ(彼女に)言ってしまうか」と言った時には彼女は母親をさしていたのだが、そこから母親の意味の抜け落ちた彼女という言葉だけを取り出し、その彼女なるものは、つまり言ってしまうべき相手は自分と同じ、踏み越えた人間でなくちゃならない、と言っている、ということだったかな。納得、納得。筋が通ってるし、「彼女」がイタリックになってる理由も説明できてるし。だから、他にどんな解釈が可能なのかちょっとわからない。亀山訳の意図もちょっとわからない。

『謎解き罪と罰』を悪く言う人がいるけど、ここの解釈ひとつだけでも価値がある。(もちろん、他にも読むべきところはあるけど)。それまでわけのわからない解釈のもとに訳されてきた(たとえば、「おふくろ」に傍点を打ってもしょうがなかんべえ)ことに知らん顔をしてた先生方に(もちろん、自分もわかってなかったんだろうけどさ)何か言う資格があるのかね。そりゃ「ナスーシチヌイ」は勇み足だったかもしれないけどさ、江川さんとしてはその勇み足をしたのと同じような姿勢で問題に臨んだんだろうからねえ、悪いところだけ取り上げて糾弾していたらこの世の中には何もなくなってまうで・・・

ついでだから、江川さんの翻訳についても言っとくか。フム、うまいと思いますよ。うますぎるくらいだ。評価も高いらしい。某先生も言ってたような。謎解きはいただけないが翻訳は誠実だと・・・おいらはそういうことはないと思うけど。どちらも同じ姿勢だと思うけど。だって、翻訳の現場でナスーシチヌイ的なものに出会ったらどうするよ。この単語はわての考えではこうこうなのだが、そんなことを言うと詐欺と言われるから、おとなしく辞書に載ってる通りに訳させてもらいやす。これが誠実でっか、え? ちゃうでしょ。その場その場で自分の頭で考え、調べること、それが誠実・・・ま、ともかく、江川さんはうまい。うますぎるくらいだ。日本語がね。しかし、その、うまいところに落とし穴がある。自分の解釈に沿って無理を通しかねないから。前から言ってるけど(ま、誰も賛成してくれないけど)江川訳『地下室の手記』は「『地下室の手記』にあらず。(だから、正直、安岡先生にはもうひとがんばり、いや、ふたがんばり・・・とおがんばりくらいかな、してほしかったけど)。もっとも、それは特殊な事例で、『罪と罰』はよろしいんじゃないでしょうか。と、わてが言ってもしょうがないが。ま、ともかく、江川さんはうまい。だけど、間違いもある。誤訳もある。誤訳はだれにもある。誰かが突出してってことは、ないと思うよお。

えーと、本題は亀山訳。亀山訳について言えば、新たな解釈、新たな言葉遣いを持ち込もうとするところが、出来上がってる人の癇に障っちゃったんだな。亀山訳が出る前からカッカきてて、誤訳問題でそれ見たことか、キーキーキーじゃあねえ、ろくな議論になるはずもない。日本ロシア文学会は未熟でござる。そのうち亀山さんがトップに立つならさ、いい方向へお願いしますよ。

なんか、無駄話でござったかの。では、第3部の締めくくりとして、かるーい話題をひとつ。夢の中で再び老婆を斧で打つラスコーリニコフ。

с каждым ударом топора смех и шепот из спальни раздавались все сильнее и слышнее, а старушонка так вся и колыхалась от хохота

その斧の一撃ごとに、寝室の笑い声と囁き声とは、ますます高く、明瞭になり、眼の前の老婆も、遮二無二全身をゆすぶって笑うのだった。(中村訳)

そのたびごとに、寝室から聞こえてくる笑いさざめく声はますます大きく響きわたり、老女も高笑いに身をよじらせんばかりだった。(亀山訳)

колыхалась от хохотаは体をゆすって笑うのだと思う。身をよじらせるのとはなんとなく浮かぶイメージが違う。つまり、ゆする方がより機械的というか、ゾンビ的というか・・・

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