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2010年9月29日 (水)

罪と罰第3部(21)

さて、前回は意図する方向へ話が進まず・・・頭の中にあることを表現できないということを表現してしまうというお粗末・・・とどまつ、からまつ、じゅうしまつ・・・今回もどうなることやら。

во-вторых, что целый месяц всеблагое провидение беспокоил, призывая в свидетели, что не для своей, дескать, плоти и похоти предпринимаю, а имею в виду великолепную и приятную цель, — ха-ха!

第二に、まる一月もの間、全能の神さま証人に呼びだして、こいつは自分の肉と欲のためにすることじゃない、べつの立派な、よき目的のためにすることだなどと、さんざごねてみせたからだ、ははは!(江川訳176ページ)

ふたつめ、まるひと月のあいだ、ありがたい神様を証人にひっぱりだし、さんざ心配をかけた。よく言うぜ、おれがこれを実行するのは、自分の、みだらで、いやらしい欲望のためじゃない、おれの頭んなかにあるのは、壮大な、よろこばしい目的だ、だってさ――は、は!(亀山訳199ページ)

はたして「肉と欲のため」と「みだらで、いやらしい欲望のため」は同じことを言ってるのだろうか。固い表現、柔かい表現の違いだけでおんなじこと? 江川訳、肉欲ではなく、肉体と欲望でもなく、「肉と欲」としたところに説明されていない何かがあるような気がする。

ちなみに中村白葉訳は「欲望や気まぐれ」、ガーネット訳は「flesshly lusts」。なかなかおもしろい。どうやら肉欲(みだらな欲望でもよろし)を示しているのは間違いなさそうだが、そのように訳すことに疑問を感じる人もいるということだ。なぜ疑問を感じるのか? ラスコーリニコフがそれと無縁でないにしても、ここまでそれを動機とする行動を見せていないからだ。なにもそないなことならわてが証人にならんでもよろしいやろと神さま。

なるほど、辞書では、похотьは性欲。плотьは肉(肉体)。だが・・・ここからは「江川氏のナスーシチヌイ」みたいな話になる・・・あらかじめお断りしておこう。ロシア文学に関してもしろうとだが、聖書についても音痴。だから、眉と唾をご用意いただかなくては・・・плоть、ダーリの辞書には、ルカの福音書が引用されている。ウシャコフの辞書には、(церк.). と書いてある。つまり、聖書、教会用語として重要ということ。『カラマーゾフの兄弟』では、たとえば、どのように使われているだろうか・・・

第2編の6。

「神のごとく神聖このうえない長老さま!」と、フョードルがイワンを手で指しながら叫んだ。「これは、わたしの息子です、わたしの血と肉を分けた息子です、わたしの最愛の肉でございます(亀山訳1の185ページ)

「わたしの血と肉を分けた息子」の部分がплоть от плоти моея。わたしの肉から出た肉って感じかな。これは創世記にある表現。

創世記2章23節 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(日本聖書協会新共同訳)

だからどうだって言われても困るけどね・・・つづいては、『カラマーゾフの兄弟』第5編の5。

つまり、おれのいう老審問官のような人物が、たとえ一人でも出てきたとするのさ。自分も荒野で草の根を食べ、自分を自由に、完全なものにするため、肉欲にうち克とうと狂ったように励んできた。(亀山訳2の292ページ)

「肉欲」がплоть。米川訳は「肉を征服しようとして」。「肉欲」と訳すのは適当なのかなあ・・・

さて、そこで、 плоти и похоти だけど、残念ながらこの形で関係のありそうなものは見つからなかった。この組み合わせではпохоть плоти(肉の欲)という使い方が多いみたい。ちょっとヨハネの手紙の2章15から17節をみてみましょう(新共同訳で)。

15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

肉の欲、目の欲のところがпохоть плоти, похоть очей。まともな聖書の知識もないラスコーリニコフ(亀山さんの読書ガイド)とはいえ、子供のころには聖書を読んでいたのだし、世俗の象徴として「肉と欲」という言葉を用いたんじゃないかなあ。従って、「みだらな欲望」とやってしまうのはどうかな? もっとも、「肉と欲」でも多くの読者にその意図がわからないのは確か・・・

それで、と。ここまで正しいとすると、「肉」に比してплотьが特殊な語であるところに問題がある。それはどうしようもない(翻訳というのはこうしたどうしようもなさの連続ではあるが)。このような考察の上で、訳者さんは判断を迫られる。わかる人にはわかるのかもしれない江川訳の「肉と欲」はひとつの行き方。特殊性を排除して「肉体と欲望」とやってもむしろ文意は通るかも。あるいはまったく別のアプローチも・・・

ところで、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」を荒野での悪魔の三つの試みに対応するものと考えれば、肉の欲とは何をさすだろうか? マタイ福音書4章をみてみよう。(新共同訳)

1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

第一の試みである。この誘惑を斥けることが肉を克服することと考えれば、「草の根を食べ」て励んだという大審問官の「肉」もおのずと・・・

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2010年9月23日 (木)

罪と罰第3部(20)

言語明瞭、意味不明瞭って人がいたけど・・・読みやすい翻訳ってのも難しいよね。難解な言葉の方が雰囲気出てるってこともあるわけで・・・著名なお方が「よくぞここまでかみくだいて訳された」とか言って亀山訳を激賞したなんてエピソードを聞くと・・・はて、はたして米川訳でも読みこなせちゃう人に「よく」かみくだかれているかどうか判断できるのかしらんなんて、ふと、疑問が・・・そもそも亀山先生にしてからが、対象と想定する読者層の国語力をはかりかねているかもしれないし・・・これは、読むということの本質にかかわる問題なんだけど・・・もっとも、大半の読者にしてみれば最後まで面白く読めればいいだけの話だが・・・あ、それが難しいんだよね。が、まあ、ここんとこはこうじゃなくちゃいけないとか、うるさいことをゆう輩は普通の読者からすると、奇人変人暇人の類で、どっかで勝手にやってなさいってなもんだわね。それにひとにケチをつけるくせに自分だってちっともわかってないってのはよくあるこってね。わてなんかも肝心なところほど理解できてないようで・・・いや、ドシロートのわてにかぎりまへんで。ドストエーフスキイの研究者を名乗る方々だって怪しいもんや・・・ウフ、話、それたかな・・・結局・・・百万部も売れたという結果こそ最も大きな判断材料とすべきかも。まあ、タイミングの問題とか売り出し方とかあるにしても・・・さて、何が言いたいのかまるでわからなくなってきやしたが、要するに、亀山訳の読みやすさについては素直に評価しなければならない。平易な言葉のほかにも読者を飽きさせないためのサービスがあるとすれば、そこに文句を言ってもしょうがない・・・とはいえ、ドアはホーム、難解な言葉を捨てていくと、最適な言葉選びができるとは限らないわけで・・・でも、それは本質的問題じゃないかも・・・えーいほんとに、キミはいったい何を言いたいんですか? おっと、それがわかるくらいなら苦労しないやね。 

— А коль так-с, то неужели вы бы сами решились — ну там ввиду житейских каких-нибудь неудач и стеснений или для споспешествования как-нибудь всему человечеству— перешагнуть через препятствие-то?.. Ну, например, убить и ограбить?..

では、もしそうだとするとですな、あなた自身も決意されたのとちがいますか――まあ、生活上の不如意とか、窮迫とか、ないしは全人類への何かの貢献とかを頭におかれて、障害をふみ越えることをですよ。たとえば、人を殺して強奪するとか?」(江川訳156ページ)

だとすると、あなたも決心したかもしれないわけだ――たとえば、生活上でなんらかのトラブルが起きたり、困ったことがあったりした場合とか、人類全体のためになると思ったときに、障害を踏み越えることをです・・・・・・まあ、たとえば、殺して、盗むといった?・・・・・・(亀山訳176ページ)

たしかに、不如意だの窮迫だの、そうそう使う言葉ではないけど、この場合、犯行前のラスコーリニコフの状態に当てつけて言うには、トラブルが起きたり云々よりぴったりなのは明らか・・・。

――ふうん。キミ、まるで読めてませんねえ。だいたい стеснений の窮迫はいいとして、неудачはうまくいかないってことですよ。不如意はちょっと、ええ。いや、そんなことより問題は、決意なり決心なりがいつされたか、ですよ。失敗なり、窮迫ゆえに決意したというのでは、ほとんど現実に何らかの犯行を決意したことになってしまう。ちがうでしょう、これは表面上、あくまで「文学的観点から」(ポルフィーリー談)の決意を問うてるので、従って、論文執筆時、自らを非凡人と考えたときに、なされた決意なんだなあ。だから、ナニナニな場合に踏み越える決心をした、という言い方になるのですよ。

・・・は、はあ。なあるほど。フム、困ったから踏み越える決意をしたってのはたしかに・・・でもお、殺して盗むなんて当てつけがすぎるくらい。殺して盗む決意をしたかもしれないわけだ、か・・・それに、ввидуは原因を示すものでしょ。「あったりした場合に」なんてなるのかなあ。それに、ニュートンとかナポレオンとかを念頭においていて、自らも非凡人のほうに加えようというのに、困った時には踏み越えようなんて、ケチな決意だよねえ。あのうですねえ・・・決心したという過去形じゃなくて、踏み越える決意をしたりしませんかね?と訳せませんかねえ。それならいろいろとしっくりくるんだけど・・・

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2010年9月17日 (金)

罪と罰第3部(19)

59 用があるというラスコーリニコフに、おれもついていくとラズミーヒン。

「なにを言う、きみまでおれを苦しめる気か!」彼は叫んだ。その声があまりにも苦しげにいらだち、その目にあまりに深い絶望の色が浮かんでいるのを見て、ラズミーヒンは思わず両手を垂らした。(亀山訳189ページ)

у Разумихина руки опустились:思わず両手を垂らした――力を抜いたという意味にとれというのかな。まあ、なんとなく雰囲気出てるからいいのかもしれないけど・・・翻訳物でなければこういう表現はしないでしょう。ちなみに、

中村訳 : ラズーミヒンもつい気がなえてしまった。
江川訳 : ラズミーヒンは思わず手をおろした。

Руки опустились у кого-л.は慣用句で (также:пропало желание действовать, делать что-л.)、つまり、何かする気がなくなったってこと。中村訳がいいんじゃないでしょうか。

60 町人に「人殺し」と言われたラスコーリニコフ、

力のぬけたふらふらした足どりで、膝をがくがくいわせながら、がちがちに凍えたようになってラスコーリニコフは来た道をひき返し、自分の部屋まで上がっていった。(亀山訳194ページ)

Тихим, ослабевшим шагом

弱りはてた静かな足どりで(中村訳)
力のぬけた、ひっそりした足どりで(江川訳)
力のぬけたふらふらした足どりで(亀山訳)

「静かな」、「ひっそりした」はТихимの直訳(しかし、足取りをひっそりと言うかなあ?)。「ふらふらした」はどこから来たんだろう。ослабевшимの方だろうなあ・・・なんて想像したってしょうがない。

この際、тихийは、медленный, не быстрыйすなわち、「ゆっくりした」ではないですかねえ。ゆっくりとした力ない足どりで・・・力の抜けた足どりでのろのろと・・・

61 Стотысячную черточку просмотришь — вот и улика в пирамиду египетскую!

十万分の一ほどのちっぽけなものを見落としても、たちまちピラミッドほどの証拠になっちまう。(江川訳173ページ)
チリも積もればなんとやらで、ちっぽけな証拠も積もりつもれば、ピラミッドになる。(亀山訳196ページ)

Стотысячнуюをきわめて小さいと解釈すれば江川訳、無数のと解釈すれば亀山訳。フム、やはり、無数の見落としはまずそう。小さな見落としでも大きな証拠の江川訳にとりあえず軍配。

62 Старушонка вздор! — думал он горячо и порывисто, — старуха, пожалуй что, и ошибка, не в ней и дело!

《ばあさんか、くだらない!》彼はかっかし、発作的に思った。《ばあさんか、ひょっとしたら、あれはフロックで、あんなのが問題じゃないんだ!(亀山訳197ページ)

ошибкаは「間違い」。一方、「フロック」は辞書によると、「思わぬ幸運、まぐれ」。ちょっと亀山先生の意図がわからない。

おまけ

理由はかんたんだ。まずひとつめ、おれは自分がシラミだってことを、こうやってあれこれ考えてるのがその証拠だ。ふたつめ、まるひと月のあいだ、ありがたい神様を証人にひっぱりだし、さんざ心配をかけた。(亀山訳199ページ)

ひとつめ、「おれは・・・その証拠だ」の文、なんか、てにをは、変じゃない。ふたつめ、「ありがたい」と訳されたвсеблагий、中村訳は 「至仁なる」、江川訳は「全能の」だが、辞書によると、Преисполненный благости (きわめて慈悲深いとか)だから、ま、「ありがたい」でもいいのかな。みっつめ、「心配をかけた」のбеспокоил、どっちかというと、「面倒をかけた、わずらわした」じゃないかなあ。前の章、179ページにも「ミトレイにいまで心配かけることになりました」(こっちはобеспокоитьだけど)というところがあるけど、第2部4に「ドゥーシキンは勾留され、家宅捜索も行われた。ミトレイもそうだ」とあるから、心配かけたじゃすまないんじゃないかなあ。

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2010年9月13日 (月)

罪と罰第3部(18)

ちょっとした疑問。非凡人について。人が生まれるには秩序があって、『階層』ごとに、なんらかの自然の法則により正確に決められているらしい、とラスコーリニコフ。そして『材料』が何のために存在するかと言えば:

つまり、何らかの努力をへて、いまはまだ神秘のベールに包まれた何らかのプロセスをへて、さまざまな種族を何らかのかたちで交配させることで、最終的に千人にひとりでもいいから、ほんの少しでも自立した人間をこの世に、力をふりしぼって生みだすためです。(亀山訳170ページ)

気になるのは「交配させる」。交配させる意志を持つのは誰かということ。そしてこの個所がそれを考えるべき場であるのかということ。あるいは、それも自然の法則にしたがっているとした場合、「交配させる」という表現は妥当なのか・・・で、頭がこんぐらがってしまいました。もっとも、「交配」からしてすでに人為的なんだな。だから「交配する」が正しいんじゃないかな。いや、正しいったってその意味で正しいんで・・・気になるなあ。その上、亀山訳は明らかに意図的なわけで、ますます気になる・・・まあ、それはそれとして、自然の法則で正確に決まっているとすると、「千人にひとりでもいいから」という言い方はなさそう。

さて、第3部6へ。ラズミーヒン談。

57 — Но напротив же, напротив! Если б у них была эта безмозглая мысль, так они бы всеми силами постарались ее припрятать и скрыть свои карты, чтобы потом поймать...А теперь — это нагло и неосторожно!

「いや、ちがう、その逆だ! もし、やつらがこんなばかげたことを考えてるとしたら、なんとしたってそれを隠そうとするよ、切り札は見せないものさ、ここぞというときまではな・・・・・・だけどさっきは―ほんとうにあけすけで、うかつすぎたぞ!」(亀山訳183ページ)

карты(カード)を「切り札」と訳されてますが、「切り札」はкозырь。それに「隠そうとする」「それ」は「こんなばかげたこと」。とても切り札とは言えない。ここは手の内を見せないという意味で、カードを伏せて置くということ。

それから、наглоは「あけすけ」というより「厚かましい」。似たとこはあっても違う。それに、えーと・・・ラスコーリニコフに何にも気がつかないやつだとか言われて、ポルフィーリーがかなり変だったと認めるラズミーヒンが、「さっきはほんとうにあけすけでううかつすぎたぞ」と言うはずがない・・・よねえ。それで、と、素人考えだけど、теперь ダッシュ этоという並びの意味するところは、теперьは「ここぞというとき」との対比、で、今、это(そんなばかげた考えを明らかにすること)は厚かましいし不注意だってこと。つまり、「その逆だ!」の論理を最後まで述べたのでした。 

このラズミーヒンに対してラスコーリニコフ:

58 「もしもやつらが何か証拠を、つまり動かぬ証拠をつかんでたり、ほんの少しでも容疑に自信があったら、そのときはほんとうに必死で隠しただろうね、もっと大きく勝つためにさ(それに、とっくに家宅捜索もしてるはずだ!)。だけど彼らには証拠がない、ひとつもね―ぜんぶ空想だよ、ぜんぶ、どっちともとれる話だ、ひらひら考えが飛んでるだけだ(亀山訳183ページ)

「それに、とっくに家宅捜索もしてるはずだ!」のところ、江川訳は「もっとも、とっくに家宅捜索をしているはずだがな!」。文脈としてはどちらもそれなりに根拠があるけど、もとはа впрочемだから「もっとも、」の方かな。それより、次の個所。

всё мираж, всё о двух концах, одна идея летучая

すべてが蜃気楼だ。すべてが両方に尻尾のあることばかりだ。吹けば飛ぶような観念ばかりだ。(中村訳)
何もかも蜃気楼で、どちらにも取れる曖昧な思惑ばかりだ。(江川訳)
ぜんぶ空想だよ、ぜんぶ、どっちともとれる話だ、ひらひら考えが飛んでるだけだ(亀山訳)

летучаяをどう訳すか? 中村訳は「吹けば飛ぶような」、江川訳は「曖昧な」、亀山訳は「ひらひら飛んでる」。辞書をみると、「飛ぶ」はあるけど(実際に飛ぶ、飛ぶように早く動く、時間が飛ぶよう、などなど)、「曖昧な」はなさそう。でも、考えがひらひら飛ぶという感じでもなさそう。ここは、легко улетучивающийся(蒸発しやすい)の意でもいいんじゃないでしょうか。と、「吹けば飛ぶよな」は悪くないかな。

ちょっと気になること。

あの件について、ふたりがはじめてはっきり話しあったというそのことだけで、彼の頭は混乱しきり、興奮していたのだ。(亀山訳182ページ)

今話しあってるのに、過去形にする理由がわからない。もとの動詞はзаговорили。話し始めた。184ページにもある。「いまはもう。大っぴらに話しあったから」。

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2010年9月 5日 (日)

罪と罰第3部(17)

53 ... то есть не официальное право, а сам имеет право разрешить своей совести перешагнуть...

・・・つまり、公的な権利じゃありませんが、本人は権利をもっている、自分の良心に許可をあたえる権利を、ね・・・(亀山訳161ページ)

誤訳じゃないんだろうし、誤解のもとでもないんだろうけど、なんか変じゃない? 「本人は権利をもっている」って。「自分の良心に許可を与える権利」だから公を含めてよそさまがその権利を持つはずがない。従って、それと対比されるべき「本人」という言葉は浮いてしまう。翻訳じゃなかったら亀山さんもこういう表現はしないだろう。самはなるほど「本人」だが、ここではあくまでсвоей совести (自分の良心)に対して本人だ。従って、自分で自分の良心に許可を与える権利を持っている、となるはず。

54 ぼくの論文があいまいだとおっしゃいますけど、いつだって説明してあげますよ、できるかぎりね。ぼくの勘ちがいでなければ、あなただってたぶん、それを望んでらっしゃると思うんですが、どうです?(亀山訳161-2ページ)

後半: Я, может быть, не ошибусь, предполагая, что вам, кажется, того и хочется; извольте-с

извольтеは「どうです」ではなく、「よろしい、いいですとも」だと思うんですが、どうです-с? それに従ってその前の部分は「どうやらあなたはそれをお望みらしい」がよろし。

55 извините во мне естественное беспокойство практического и благонамеренного человека

いえね、実地を重んじ、過激なのを好まないのがわたしの性分でして、どうしてもこういうことが気にかかるんです。(亀山訳167ページ)

благонамеренный : Придерживающийся официального образа мыслей あるいは、В России до 1917 г хранящий верность государственной власти, существующему порядку。

してみると、制度に忠実な、というような意味らしい。「過激なのを好まない」というのはどこからくるのか・・・практическогоも、「実地を重んじる」よりは「実際的な」のほうがいいと思うけど・・・

56 если произойдет путаница и один из одного разряда вообразит, что он принадлежит к другому разряду, и начнет «устранять все препятствия», как вы весьма счастливо выразились, так ведь тут...

万が一もめごとが起きて、どっちかの階層の人間が、自分はもうこっちの階層に属しているなんて思いこんで、あなたがさっきいみじくもおっしゃったように、『いっさいの障害を排除する』なんてことをおっぱじめたら、それこそ目もあてられないでしょう・・・(亀山訳167-8ページ)

путаница は「混乱」(ここでは「混同」かな)、こんがらがっちゃってることで、「もめごと」とはご縁続きではあっても一緒ではない。それに、「もめごと」は勘違いの必要条件でも十分条件でもなく、むしろほとんど関係ないくらいで、こんなところに登場するのは変。だいたい「もめごと」なんて「万が一」起こるもんでもなし。もっとも原文に万が一はないけど・・・ってなことで納得していただけるといいんだけど・・・これ以上詮索すると話が面倒なので・・・

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