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2010年8月25日 (水)

罪と罰第3部(15)

46 第3部の5。依然、ポルフィーリーがお茶をいいつけに行っている間のラスコーリニコフの考えていること。

Он меня ощупывает. Сбивать будет.

奴はおれをさぐってやがる。おれをまごつかせやがるだろう。(中村白葉訳)
さかんに探りを入れてきやがる。しどろもどろにさせようというんだ。(江川訳)
こいつ、さぐりを入れてるぞ。撹乱作戦ってわけか(亀山訳)

中村訳では前半と後半が独立している(考えようによっては支離滅裂だ)が、江川訳(・・・というんだ)、亀山訳(・・・ってわけか)では、前半のポルフィーリーの行為は、後半のことを目的としている。

しかし、江川訳、亀山訳には納得がいかない、たこない、くらげない・・・というのは、будет。未来でござんしょ。現在のことである撹乱作戦はもちろん、「しどろもどろにさせよう」だって、今やってることが原因なら先のことじゃあるまいよ。違ってそう。

では、前半と後半は関係ないのか? そんなこたあない。今は探りを入れている。そのうち、Сбивать なのだ。そこで、Сбиватьだが・・・まごつかせる(撹乱するでもいいや)の意味はたしかにある。しかし、主な意味は「打ち倒す」だろう。あるいは、まごつかせる、撹乱するに近い意味としては、「困った立場に追い込む」。そういうことを考えると、そのうちびしびしとやってくるぞ・・・ではがつんとこないので・・・

探りを入れてきてるな。そのうちがつんとくるぞ。

47 ラズミーヒンの『社会主義者の見解』から。

Натура не берется в расчет, натура изгоняется, натуры не полагается!

そこでは、人間の本性ってのがカウントされてない、本性はそっちのけだ、本性は無視されてるんだ!(亀山訳153ページ)

изгоняетсяは「追い払われる」。一方、「そっちのけ」は「かまわずにほうっておくこと。また、そのさま」だそうな。また、не полагаетсяは「認められない、禁止されている」。「無視」と違いまっさあ。もしかすると、これは本質にかかわる問題でございます。「本性ってのがカウントされてない」も、無視的態度でげすね。

48 引き続き、ラズミーヒン

И выходит в результате, что всё на одну только кладку кирпичиков да на расположение коридоров и комнат в фаланстере свели!

で、けっきょくは、フーリエが言いだした共同宿舎のレンガ積みやら、廊下作り、部屋作りにこき使われるだけってわけ!(亀山訳154ページ)

部屋作りはともかく、廊下作りって言葉はあまり聞かないやねえ。расположениеは、「家の中の部屋のрасположение」とか、「室内の家具のрасположениеを変える」とかいうふうに使われる。「配置」ですね。

些細なことを言って、と思われるかもしれないけどさ、部屋作りならいいけど、廊下の配置にこき使われるってことはないでしょ。と思ってみると、「こき使われる」は亀山先生の意訳。

動詞はсвести。意味は「何かを何かに縮める、単純化する」。過去形・・・выходитと絡めるとなかなか難しい。

結局、フーリエの言う共同宿舎のレンガ積みや廊下と部屋の配分のほかに何もなかったということになる。

ま、ちょおっとニュアンス違うけど、うーむ、思いつかないのでねえ・・・「こき使われる」も、まったく違う話だけど、わかりやすいからなあ。ただ、立場の揺れが論理の展開の邪魔にならなければ・・・というのは・・・

ラズミーヒンが「・・・ってわけ」を連発してるんだけど、これ、説明してますですよう、って意味だべ。最初のうちは社会主義者の見解を説明して、「ってわけ」って言ってたのが、反対の立場になっても、「ってわけ」なんだな、ま、いいけど、読者として注意が必要なのが、今取り上げた個所の直後、

49 共同宿舎はできました、だけど、宿舎にはいるきみらの本性は準備中です、生活はしたい、でも生活のプロセスはまだ未完成なので、お墓に入るにはまだ早いです、ってわけでね!(亀山訳154ページ)

この亀山訳、誰が誰に「きみら」と言ってるのか、おいらにはさっぱりわからない。「生活はしたい、でも生活のプロセスはまだ未完成」ということは、プロセスが完成したら、生活できる、「準備中」という言葉と相まって、共同宿舎での生活ができる、と、考えられる。その一方で「お墓」と言っている。わからん。

「お墓」と呼ぶからには、ラズミーヒンが「彼ら」に対して「きみら」と言う形をとってるんじゃないの? 彼らの「見解」と「本性」の分離をついているってわけ。それで、この文に続くのが、「論理だけつかって、本性を飛びこしていくわけにはいかないよ!」となるってわけ。そういう目で見ると、「準備中」というのは、いつか準備できるようで好ましくない。「生活はしたい」以下はすべて「本性」の求めること。従って、「でも」はだめ。そして、「・・・ってわけでね」じゃあない! ラズミーヒンが直言する形をとってるんだから。 

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コメント

いつも細かな読みを教えていただき、勉強になります。

#46
3つの日本語だけ比較すると、中村訳、江川訳、亀山訳の順で、読みやすく感じます。というか、「撹乱作戦」って名訳じゃないかと思います。「卵の撹拌」にも使う語ですよね。振り回されて混乱するイメージがよく出ているのではないでしょうか。

確かに未来形なのですが、ここは不完了体未来です。ここの用法は、企図(~するつもり)の不完了体未来ではないでしょうか。これはラスコーリニコフの台詞で、彼自身としては、今のところは大丈夫だがという前提の元で言っているのでは。

「そのうちがつんとくるぞ」はインパクトがありますが、完了体未来のニュアンスが感じられます。もうちょっと、ネチネチ系のいたぶりなのではないでしょうか。

#48
この文、всёなのでしょうか、それともвсеなのでしょうか。亀山訳はвсеととったので、「こき使われる」なのでしょう。「〈人を〉連れて集める」の語義での補語です。人を集めたら、させるのは「こき使う」ことです。

この亀山訳の解釈は、工藤訳の系列(というより、ほとんど踏襲)ですね。

工藤訳:
そして結局は、フーリエの言う共同宿舎の煉瓦積みや、廊下や部屋の間取りを決めるのに、こきつかわれるってわけだ!
(新潮文庫、449ページ)

江川訳も「廊下づくり」ですが、всёでとってますね。

江川訳:
そこでけっきょくはさ、いっさいが例の共同宿舎の煉瓦積みや、廊下づくり、部屋づくりに帰着させられちまうんだな!
(岩波文庫、137ページ 但し、原文では「煉」は別漢字が充てられています)

投稿: Кровельщик | 2010年8月26日 (木) 01時33分

#48
ああ、всехじゃなかったですね。間違えました。всеは取り消しです。出直してきます。

投稿: Кровельщик | 2010年8月26日 (木) 01時44分

Кровельщикさん、いつも的確なコメントありがとうございます。
おっしゃる通り、「がつん」は完了体の訳でまずいと思いつつ、雰囲気を重視したものです。
一つには、ポルフィーリーと会ってまもないということです。我々はもう、ポルフィーリーがねちねちやってくることを知っていますが、ラスコーリニコフにはまだどんな相手かわからないわけです。いわゆる「さぐり」は「さぐり」であって、それでどうとかしようとしていると考えるだろうか、と思ったわけです。しかしまあ、論拠としては弱いですか・・・
「撹乱作戦」は名訳という評(亀山先生喜びますよ)にも一票入れておきましょうか。確かにわかりやすい。

「こき使われる」のほうは、前の文とのつながりはいいけど、後ろと相性が悪そうです。

投稿: coderati | 2010年8月26日 (木) 10時11分

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