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2010年7月28日 (水)

罪と罰第3部(10)

33 ルージンの手紙を渡されたラスコーリニコフ。

「へんだぞ」ふいに新しい考えに打たれたように、彼はゆっくりつぶやいた。「どうして、ぼくはこんなにやきもきしている? なんだって大騒ぎしている? だれとでも、好きに結婚すりゃいいじゃないか!」
それは自分に言いきかせるためのひとりごとのようだったが、声に出してそう言うと、彼はしばらくのあいだ、困りはてたような様子で妹を見つめていた。(亀山訳98ページ)

はて、なんで彼は困りはてているんだろう。何も困ることはないと思うが・・・亀山先生の解釈を聞いてみたい。たしかに、озадаченныйには困っている意味はあるが、この場合は「当惑したように」(江川訳)が普通だんべ。

34 往来でプリヘーリヤがドゥーニャに、何か運んで来たからわきによけよう、という場面。

Ведь это фортепиано пронесли, право... как толкаются

おやごらん、ピアノを運んで来たんだよ、ほんとに・・・・・・なんて人ごみだろう(中村白葉訳169ページ)
まあ、ピアノを運んで来たんだよ、ほんとに・・・・・・なんて混雑だろう(江川訳104ページ)
なにかと思ったら、ピアノじゃないの、そうよ・・・・・・あちこちぶっつけて(亀山訳116ページ)

как толкаютсяについて。толкаться押す、突く、ぶつかる、ですか。中村訳、江川訳はいろんな人がぶつかるようにして歩いてくる意味かな。亀山訳はピアノを運んでる人たちが主語。話の流れからして亀山訳が正解かな。しかし・・・「あちこちぶっつけて」というと、狭いところを通る時に、壁とか何か障害物にぶつかっている、という感じ。むしろピアノが心配。そうではなく人を押しのけるようにしていることを嘆いているとすれば・・・まるでそこのけそこのけだわ、とか・・・

35 приникнутьについて

(前略)あの人(ソーニャのこと)、きっと・・・・・・りっぱな娘さんだと思うわ、あんなのみんな嘘っぱちよ!」(ドゥーニャ)
「だといいんだけど!」(プリヘーリヤ)
「ルージンさんって、ほんと、しょうのないゴシップ屋だわ」ふいにドゥーニャがずばりと言い切った。
Пульхерия Александровна так и приникла. 会話がとまった。(亀山訳)

上のロシア語部分にはいるのが:

Pulcheria Alexandrovna was crushed(Constance Garnett訳)
プリヘーリヤ・アレクサーンドロヴナはうつむいてしまった。(中村訳170ページ)
プリヘーリヤはふっつりと黙りこんだ。(江川訳105ページ)
プリヘーリヤはふっつりと口をつぐんだ。(亀山訳117ページ)

приникнутьという単語を調べてみたが、「しゃべるのをやめる」というような意味はみつからなかった。まあね、実際、黙っちゃったんだからいいけど。が、приникнуть、おもに二つの意味。ひとつには、かがむ、しゃがむ、地に伏す・・・ふたつ、(からだ等を)何かに押しつける。ドストエフスキーの使用例をみると二つ目が多い。カーチャが唇を彼の手に押しつけたとか、マリーが床にうつぶせになったとか、リーザが頭を枕にうずめたとか・・・ひとつ、これらに属さない例を見つけた。『カラマーゾフの兄弟』12編14のミーチャが発言を許されたところ。

В словах его послышалось что-то новое, смирившееся, побежденное и приникшее

In his words there was a new note of humility, defeat and submission(Constance Garnett訳)
その言葉には、何やら新しい調子が響いたが、それは諦めと、敗北と、屈服の調子であった。(米川訳)
その言葉には何か新しい、打ち負かされて屈服し、しょんぼりしたような感じがこもっていた。(原卓也訳)
その言葉からは、何か新しい、おだやかなものが感じられた。(亀山訳)

новоеは新しい、смирившеесяはおだやかな、побежденноеは負かされた、とすると、приникшееは「屈服した」ととらえるのが大勢かな。思うに、体をかがめる、腰を折るということに恭順の意思をみるわけだ。どうやらその線で正しそう。

もうひとつ、似たような例。『罪と罰』の第4部の3。ナウカ版のテキストではカットされているのだが、ザハーロフさんのコンコーダンスをみると最初の版ではприникнетの形で使われていたことがわかる。

такое-то существо будет рабски благодарно ему всю жизнь за его подвиг и благоговейно приникнет и уничтожится перед ним, а он-то будет безгранично и всецело владычествовать

しかもこれほどの娘が、一生自分の献身的な行いにたいして奴隷のように感謝をささげ、恭しくへりくだる、そして自分は、際限もなくほしいままに君臨しようというのだ(亀山訳)

亀山さんはблагоговейно приникнет и уничтожится の青字部分のないテキストを「恭しくへりくだる」と訳されている。благоговейноは恭しく。уничтожитсяは自分を捨てるというような意味かな。してみると、 приникнетは、やはり、身を屈するとか、そんな意味のことがふさわしそう・・・そう、この「屈する」というのがいい感じかな。

そこで、問題の場面に戻りますると、もともとは、ソーニャが「一番の原因」にちがいないとお母さんが言うのに対して、ドゥーニャが一蹴した形。お母さんは「それに屈した」んだなあ。というわけで、was crushedも、「うつむいてしまった」も、「ふっつりと黙りこんだ」も「ふっつりと口をつぐんだ」も、おそらく正しくない。「それで引き下がった」なら許す、かな。

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2010年7月22日 (木)

罪と罰第3部(9)

28 ゾシーモフが帰った後の会話から。

— А-а-а! А помните, маменька, я влюблен-то был и жениться хотел, — вдруг сказал он, смотря на мать, пораженную неожиданным оборотом и тоном, с которым он об этом заговорил

「ああ、そう! ねえ、覚えてるかな、母さん、ぼく、すごく好きな人ができて、結婚したいって言ってたこと」母のほうを見ながら、だしぬけに彼が言った。いっぽう、母親は、話題が一変し、話をする口ぶりまでも変化したことですっかり肝をつぶしていた。(亀山訳91ページ)

後半部分ですが。意訳。どこがどこをさしているのかわからん。「話題」はどこにあるんだろう? 想像するに・・・оборот=転換。неожиданным оборотом =思いがけない転換。話題が一変・・・かな。

しかしなあ、неожиданным оборотом и тономと一括りになってるものを話題が一変、話をする口ぶりも変化ってのもなあ。苦心の作ですか。

тонはもちろん、トーンだけど、問題はоборотの方。たとえば、東京外国語大学のオンラインの辞書をみると、оборот:「回転、一周期、流通、言い回し」なんて書いてある。どうです、この場合は「言い回し」でしょう。言葉づかいというか。そういう意味があるとすれば、これを話題の転換と読むのは無理でしょ。それで、と・・・неожиданным оборотом и тоном、「思いがけない言葉と声の調子」・・・しかし、こんな短い文で言い回しに変化が見られるのかなあ。

29 Еще немного, и это общество, эти родные, после трехлетней разлуки, этот родственный тон разговора при полной невозможности хоть об чем-нибудь говорить, — стали бы наконец ему решительно невыносимы

もう少しで限界だった。つまり、この団欒も、じつに三年ぶりの親子の再会でも、何にせよまともに語りあうなどぜったいにできそうになく、それに会話からして、彼が完全に耐えきれなくなるまで、ほんの一歩だった。(亀山訳94ページ)

この訳は解せない。頭でっかちな主語(この集まり、三年ぶりに会ったこの家族、何を話すのも絶対に不可能な中での会話の親密な調子)を上から順にほぐしながら訳した方がわかりやすいというのかな。でも、失ったものを補うほどわかりやすくなっているとも思えない。耐えきれなくなりそうなのは、会話だけでなく頭でっかちな主語全部だし、それに・・・

今更言うまでもないことだが、полной невозможности хоть об чем-нибудь говорить(何を話すのも絶対に不可能)とは、警察署で得た感覚であり、この少し前(亀山訳では88ページ)にも描かれている。すなわち、「ふたたび彼は、期せずして完全にはっきりとさとったのだった。たったいま、自分が怖ろしい嘘をついたことを、今となってはもう、ゆっくり話をする機会などは未来永劫めぐってはこず、そればかりか、なんについても、どこのだれとも、もうこれ以上話をすることはぜったいにできない、ということを。」である。

ラスコーリニコフは絶対に不可能ななkでの会話という分裂した状況に置かれている。それは「まともに語りあうなどぜったいにできそうにない」のとはまったく違う。大事なところだ・・・という気がする。

・・・さて、ちょっと戻って、いくつか、翻訳の問題ともいえないかもしれない些細なことを。

30 なぜこんなに気をつかってくれるのかわからないというラスコーリニコフにゾシーモフ:

предположите, что вы мой первый пациент
あなたがぼくの最初の患者だからです。(亀山訳76ページ)

「最初の患者」ではないだろうから、「最初の患者と思ってください」では?

31 ナスターシャからラスコーリニコフが逃げ出した話を聞いた時のことを話すお母さん。アルコールで頭をやられておんなじように飛び出してって井戸に落ちたポタンチコフ中尉のエピソードを披露して、

А мы, конечно, еще более преувеличили
わたしたち、もっと悪いように考えてしまってね。(亀山訳79ページ)

「もっと悪いように」というと、中尉の場合よりもっと悪いととれるので変。「ますます悪い方に」ならいいかな。преувеличилиは大げさに考えた。

32 服に血がついたわけ。

「ええ、まあ・・・・・・心配しないで。血っていったって、昨日朦朧としてるときにふらふら歩いてたら、馬車にひかれた男とぶつかってしまって(亀山訳80ページ)

読者は知ってるからいいけど・・・聞いている人は、向こうから馬車にひかれた血だらけの男が歩いてきて文字通りぶつかったと思ってしまいそう。すると、そのあとで、「その馬車にひかれた男はどうした」「運ぶのを手伝って血がついた」という会話にならない。「ふらふた」と「ぶつかった」の相乗効果ですね。шататьсяは「ふらふら」じゃなくて、ぶらぶらする、でしょう。ほっつき歩くというか。наткнутьсяも、出くわした、とかしといたほうが無難かも。

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2010年7月14日 (水)

罪と罰第3部(8)

24 eikoさんからのコメントの中にわても疑問に思っていた点があったので取り上げてみます。第3部の終わりのほう。まずeikoさんのコメントからそのまま引用させていただきます。

☆二人が階段を上ってロジオンの部屋にいくところ
「兄さんったら、お母さんに会うのを喜ばなくちゃならないはずだのに、かえってお母さんのほうがそんなに気苦労なさるなんて」(米川訳)
「兄さん、お母さんに会えて幸せなはずなのに、お母さんが自分をそう苦しめていては」(亀山訳)
米川訳は一瞬兄さんをとがめている感じ、亀山訳だと、お母さんが苦しむ様子をみて兄さんがなお苦しむのでは・・という気遣いにもとれますね。
どちらのニュアンスに近いのでしょう。両方含む。あるいはもっとニュートラル?

これはなかなか難しい。米川訳も魅力的。すべて昨夜のラスコーリニコフの態度に問題があるわけだから。それに「幸せなはずだから大丈夫よ」ならともかく、「自分をそう苦しめていては」では、「困ったもんだ」てな感じで、お母さん、少し気の毒。そもそも「いては」のニュアンス、原文にあるのか・・・

ここ、その前後の部分も大事。前後を含め、亀山訳と中村白葉訳(かなり極端なので)引用してみましょう。

— Мамаша, вы даже бледны, успокойтесь, голубчик мой, — сказала Дуня, ласкаясь к ней, — он еще должен быть счастлив, что вас видит, а вы так себя мучаете, — прибавила она, сверкнув глазами.

『お母さん、あなたなんだか大へん顔色がわるいことよ、しっかりして頂戴よ。』とドゥーニャは、母親にまといつくようにして言った。『兄さんにあって幸福にしてあげなくちゃならないのに、お母さんの方がそんなに気に病んだりして。』と彼女は、目を輝かしながら言い足した。(中村訳)
「お母さんたら、顔まで真っ青、ねえ、落ち着いて」母をいたわるようにドゥーニャは言った。「兄さん、お母さんに会えて幸せなはずなのに、お母さんが自分をそう苦しめていては」瞳をうるませながら、彼女は言いそえた。(亀山訳)

中村訳は叱咤激励調。誤訳のうちに入れていいのかなあ。だって、успокойтесьは「しっかりせい」というよりは「心配しないで」、голубчик мойは愛情を込めた呼びかけ、ласкаясьは「まといつく」というより抱擁ぐらいしそうな感じ。「目を輝かして」るのは自分は兄に会えるのが嬉しいという意味かな。

一方、亀山訳。eikoさんのご指摘通り、会うのを目前にして「・・・苦しめていては」という言い方はよくないことが起こるのを想定してる感じ。でも「瞳をうるませながら」は母親を気遣っていそう。分裂気味。どうして「・・・いては」なのか?・・・ふむ、おそらく「瞳をうるませながら」と訳すのは少々強引gマイウェイで、おそらく無理を承知でそうなさるのには、その前に無理があったということかなあ。

というのも、涙が光る場合にもсверкатьは使うけど、ここは違いそう。辞書でсверкатьを調べると、глазами等とくっついて、目から明るい輝きを放つ、しかもその時に強い感情を表すというんだな。ちょっと使用例。罪と罰から。

「ぼくは健康だからね、悪いところなんかどこにもない!」ラスコーリニコフはいきなりソファの上に起きあがると、目をぎらつかせながら、いらだたしげにそう突っぱねた(2部の4、亀山訳1巻312ページ)
ラスコーリニコフはついこらえきれず、怒りにもえるぎらぎらした黒い目で、じろりと彼をにらみつけた(3部の5、亀山訳2巻141ページ、ポルフィリーのところでラズミーヒンの発言に対し)

ついでだから『カラマーゾフの兄弟』からも抜き出してみましょうか。いくらもないから。

リーズはまったく思いがけなく、ふいに真っ赤になり、目をぎらりと光らせ、その顔がおそろしくまじめになったかと思うと、むきになった恨めしげな訴えをこめて、だしぬけに神経質な早口でまくしたてはじめた。(2編4、原訳上141ページ)
「こっちは一人なのに、相手は六人なんだ・・・・・・僕は一人であいつらをみんなやっつけてやる」目をぎらりと光らせて、だしぬけに少年は言った。(4編3、原訳上438ページ)
いいですか、お医者さん、ひょっとしたらうちのペレズヴォン、本気で咬みつくかもしれませんよ」顔を真っ青にし、目をぎらつかせながら、コーリャは震える声で言いはなった。(10編7、亀山訳4の139ページ)
『それはまったくそうですよ、カラマーゾフさん、僕あなたのおっしゃることがわかります、カラマーゾフさん!』とコーリャは目を輝かして叫んだ。(13編3、米川訳四の404ページ)

要するに、ギラギラかキラキラかは別として、目を強烈に輝かせているわけだ。問題の場面では、瞳をうるませているのでもないし、キラキラの方でもあるまい。その感情は兄に向けられたものとしか考えられない。

「お母さんに会えて幸せなはずなのに」、昨夜の様子ではそう見えないし、それでお母さんも気に病んでいる。病気とかこちらの知らない事情とかあるにしても、一番の原因は自分とルージンの問題らしい。あれは兄さんが理不尽だ・・・というような思いがあるとすれば・・・

25 «А ведь точно они боятся меня», — думал сам про себя Раскольников, исподлобья глядя на мать и сестру

《たしかにふたりとも、おれを怖がっているみたいだ》上目づかいに母と妹をうかがいながら、ラスコーリニコフはそうひとりごちた。(亀山訳84ページ)

上目づかいとは :  顔をうつむき加減にしたまま、目だけ上へ向けて見ること。相手の顔色をうかがうときなんかの視線。まさしく、「母と妹をうかがう」のにふさわしい・・・が

исподлобьяはひそめた眉の下から見る、で、上目づかいより少し悪感情がありそう。疑い、不満?・・・それを踏まえると、後に続く《離れてるときには、あんなにいとおしく思えたのに》が唐突でなくなる。

26 ドゥーニャのスヴィドリガイロフ評。

Во многих случаях даже слишком был снисходителен к ее характеру, целые семь лет

たいていは、あの奥さんの性格に対して度がすぎるくらいに低姿勢だったの、まる七年も(亀山訳85ページ)

「あの奥さんの性格に対して度がすぎるくらい低姿勢」というのは、低姿勢ではいけない性格という意味だろうか? というか性格に対して低姿勢というのが変かな。あの性格の奥さんに対して、なら普通。それでいいんじゃない。

снисходительныйは「下へ行く」というところからできた言葉だろうから、低姿勢でいいんでしょうが、辞書的には弱点、欠点に対して厳しくしない、我慢するといったところ。江川さんは「奥さんのむら気を大目に見すぎる」と訳してる。「大目に見る」だけで性格に問題があるのはわかるから、「むら気」は下品。それに「大目に見る」だとなんとなくスヴィドリガイロフが上位にいるような・・・そういう意味で亀山さんは「低姿勢」なのかな・・・

ついでにちょっとその後ろのラスコーリニコフのセリフ:

Стало быть, он вовсе не так ужасен, коли семь лет крепился?

だとしたら、あの男、ぜんぜんひどくないじゃないか、だって七年もがまんしてきたんだろう?

「がまんする」と訳されたкрепитьсяですが、我慢するというより、自制するという感じ。人物を評価する上でこの違いは問題になるんじゃないかなあ・・・

27 マルファ・ペトローヴナが馬車のしたくをいいつけておいて食事をたくさん召しあがったと聞いたラスコーリニコフとお母さんの会話:

「そんなにぶたれたあとで?」
「・・・・・・いえね、それがいつものことで・・・・・・もう慣れっこだったのよ、で、食事がすんだら、外出に遅れないようすぐに水浴場に行ったんだって(亀山訳86ページ)

( ...У ней, впрочем, и всегда была эта... привычка)「もう慣れっこだった」といわれると、いつもぶたれていたかのようで、あれ、さっき、ドゥーニャがいつもはそうじゃないって言ってたじゃん、と、前のページに戻ってまうで。なにかあると町に出かけることをさすなら、「習慣だった」がよさそう。

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2010年7月 9日 (金)

罪と罰第3部(7)

19 母と妹を迎えたラスコーリニコフの反応。第3部の3。

Впрочем, и это бледное и угрюмое лицо озарилось на мгновение как бы светом, когда вошли мать и сестра, но это прибавило только к выражению его, вместо прежней тоскливой рассеянности, как бы более сосредоточенной муки

とはいえ、このなま白い陰気な顔にも、母と妹が入ってきたときには、ほんの一瞬、光がさしたかのように見えた。しかしそれも、憂鬱そうでぼんやりしたそれまでの様子のかわりに、よりいっそう色濃い苦しみの色を添えたにすぎなかった。(亀山訳72ページ)

ケチをつけるべきではない、上手な、文学的な翻訳なのかもしれませんが・・・が・・・「よりいっそう色濃い」というのは、おそらく「ぼんやり」と対比すべきものと考えられる。しかし、「ぼんやり」はラスコーリニコフの様子だ。従って、「ぼんやり」の「かわりに」くるものは「色濃い」とか「はっきり」ではなく、ラスコーリニコフの様子を示すものでなければならない・・・へへ、自分でも何を言ってるかわからない。しかも後付けの理屈だ。というのは・・・

рассеянныйとсосредоточенныйは反意語だ。前者はぼんやりしている、放心状態の。後者は集中している。いろいろと憂鬱なことを考えてぼんやりしていたのが、目の前に苦悩の種が現れて神経が集中したということ。その対比が明確なテキストであんす。そこで・・・

しかしそれはその表情に、ブルーな放心のかわりにぐっと張り詰めた苦悩のようなものを添えただけだった。

ま、あまりよくなったとも思えないけど・・・

20 金を葬儀の費用にとやってしまったことについて、ラスコーリニコフ:

... Я, впрочем, права не имел никакого, сознаюсь, особенно зная, как вам самим эти деньги достались

・・・でも、そんなことする権利なんかぼくにはぜんぜんなかったんです、正直に言いますけど、ほんとうによくわかっていたんですから、あのお金、母さんがどんなに苦労して工面してくれたかってことをね。(亀山訳83ページ)

挿入句としてのсознаюсьは「認めざるをえない」という意味(たとえばウシャコフの辞書:должен, вынужден признать)。当然、「そんな権利などなかったことを認める」ということ。そうなると、その後ろ、особенно знаяはそのことを強化する条件として、直訳:とりわけ知りながら→ましてやよくわかっていたんですから、となるのかな。

さて、その続きを少し長く引用します。いくつか難しいところがあるので・・・

人助けをするのはいいけど、それにはまず、自分がその権利を持たなくちゃいけないってことです。でなきゃ、 «Crevez chiens, si vous n’êtes pas contents!» (犬さん、腹がへってるなら、かってにくたばれ)ってことになりかねませんから」そう言って彼は笑った。「そうだろ、ドゥーニャ?」
「いいえ、ちがうわ」きっぱりとドゥーニャは答えた。
「へ! おまえも・・・・・・そういうつもりか!」その目にほとんど憎しみすら浮かべ、嘲るようにほほ笑んで彼はつぶやいた。「そいつを考えてみるべきっだったよ・・・・・・りっぱなもんさ、おまえにはそっちのほうがいいのさ・・・・・・けどな、ある一線ってもんがあってだ、そこまで行き着いたときにそいつを踏み越えなけりゃ・・・・・・不幸になる、ところが踏み越えれば越えたで・・・・・もっと不幸になるかもしれない・・・・・・でも、こんなのはみんなくだらんことさ!」いらいらしながら彼はそうつけたした。われにもなくかっかしたことに腹が立ったのだ。(亀山訳83ページ)

21 Я бы должен был это сообразить

そのことは考えてみなくちゃな(江川訳)
そいつを考えてみるべきだったよ(亀山訳)

どっち? ロシア語の条件法では時制はひとつしかなくてどっちも考えられるんだそうな。さあ、どっち? 

たしかに、сообразитьには考えるという意味がある。しかし、考えるといってもいろいろあって、典型的なのはこんなの(第1部の7の終わりのほう):

むろん、彼にはもう、斧を元の場所に戻すより、たとえ後からでもいい、どこかよそのアパートの中庭に放りだしてきたほうがはるかに安全かもしれない、などと考える余裕はなかった。(亀山訳1巻205ページ)

ここの「考える」がсообразить。つまり、状況判断をするような、考え合わせるとか、考えをめぐらすとか、そんな意味で使うようだ・・・だとすると、驚きの叫び「へ!( Ба! )」とセットで考えるべき「考えてみるべきだった」はこの際、不適。びっくりするというのは、そもそも念頭にないのだから・・・なんか、根拠薄弱かなあ・・・

22 Что ж, и похвально; тебе же лучше

いや、ご立派な話さ。それに、きみのほうがいいんだ(江川訳)
りっぱなもんさ、おまえにはそっちのほうがいいのさ(亀山訳)

よくわからないんですが、やはりこれを「きみのほうがいい」と読むのは無理じゃないんですかねえ。江川さんもそう訳したほうがいいって文を江川さんのほうがいいって読むようなもんで。あ、ちと違うか・・・ま、いずれにせよ、亀山訳のように解釈したほうがいいような・・・そっちのほうがいいってのが、何が何よりいいのかなかなか難しいけど。

23  досадуя на свое невольное увлечение

われにもなく夢中になったのに腹をたてて(江川訳)
われにもなくかっかしたことに腹が立ったのだ(亀山訳)

ここは江川訳のほうがいいかな。踏み越えるとか踏み越えないとか、ラスコーリニコフさん、すっかり自分の世界に入っちゃって。かっかするというよりは夢中になる、でしょう。同じ意味で、「けどな、ある一線があって・・・」のところ、(相手に注意するような)「けどな」というムードじゃないような気がする。

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2010年7月 2日 (金)

罪と罰第3部(6)

16 ルージンの手紙。

ルージンの手紙を読んだラスコーリニコフは「(話だってまあまあできるのに)書くほうになるともう、むちゃくちゃなんだな」(亀山訳99ページ)と評する。この「むちゃくちゃ」に相当するбезграмотныйは、文法的に間違いだらけの、あるいは、読み書きができないという意味。それに対し、ラズミーヒンは「これが裁判所の言葉遣いだ」と言う。ラスコーリニコフもそれを認める。「裁判所的、事務的・・・」。

さてそうなると、もともとルージンがおかしな書き方をしてるという前提で訳されているわけで、これからわての書くことは見当違いかもしれない。いつもと同じ論法だから。(本当はどこがおかしくてどこが裁判所風か論じればいいんだけど力不足)。次のような箇所:

кроме того, имея лично к вам необходимое и обстоятельное объяснение по известному пункту, насчет коего желаю узнать ваше собственное истолкование

それに、例の件に関しましては、ぜひともあなたとじかにお目にかかってお話をし、これをあなたご自身どうお考えか、おうかがいしたく存じます。(亀山訳63ページ)

「例の件」とは、もちろん、例の件。第4部の2、皆が集まったところで、ルージンは、重大な問題について説明したいと切り出す。その問題とは、例の、「すでに人生の苦しみを嘗めつくした貧しい娘さんと結婚するほうが、なに不自由なく育った娘さんと結婚するより、夫婦関係においては有利である(亀山訳266ページ)」という話。いや、そりゃもう、翻訳者、読者にとって自明のことだべ。お互いツーカー、例の件でピンときちゃう。だが、いや、しかし、でも、でも、ちょっと、お待ちになって、おくんなせえまし。ちょーん。

ま、大した話じゃないんだけど、、ルージンがプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナに向かってこの件を「例の件」と言うかどうかの問題。言わないでしょ? その話をした時、お互い、まずいな、いやだな、とは思ったけど、例の件と呼ぶまでにはしていないでしょ、しちゃまずいでしょ。というわけで、известному пунктуを「ある件」と)訳したい。ガーネットさんもa certain pointと訳してるから当時もその意味、あったんでしょう。

それでね、ルージンがどう話を進めたかというと・・・大事な問題について話したい、と。それは貧しい娘云々、と。その考えをラスコーリニコフがねじまげおった、と。それはあなたの手紙が原因にちがいない、と。いったいどんなふうに手紙に書いたのか、と。つまり、変なことを書くからあんなことになったんじゃないか、説明を要求しますって感じ。

ルージンの手紙もね、具体的なことは書いてないけど同じ調子なんだな。だから、お考えをうかがいたいんじゃないんだ。あなたご自身の説明をうかがいたいんだ(もちろん、истолкованиеは「説明」)。変な伝え方してたら許さんぞーって。

それから、ここの部分は、ラスコーリニコフの同席を拒む理由でもあるわけだから、личноは「じかに」とするより「個人的に」とするほうがよさそう。

このルージンの文章の変なところはистолкованиも「説明」なら、объяснениеも「説明」で、厄介。後者は「お話」にしとくのが無難なのかなあ。

17 名目は葬儀代、ルージンがそう手紙に書いているのですが、お母さんは・・・

―Да и ничего я не понимаю, какой там пьяница умер, и какая там дочь, и каким образом мог он отдать этой дочери все последние деньги... которые...
― Которые так дорого вам достались, маменька, — прибавила Авдотья Романовна

それに、わたしにはさっぱりわかりませんけど、どこの酔っぱらいが死んだのかとか、そこの娘さんがどんななのかとか、どんな名目でその娘になけなしの金をくれてやったのか・・・・・・だって、そのお金・・・・・・」
「やっとのことで工面したものですものね、お母さん」アヴドーチャが言い添えた。(亀山訳65ページ)

名目とは : 表向きの理由。ルージンは、名目は葬儀代と、いかにもそれが疑わしそうに書いている。とはいえ、名目は葬儀代。お母さん、それをお疑いなら、「本当はどんな理由で」というべきで、「どんな名目で」とは言わんしょう。その部分:

каким образом мог он отдать этой дочери все последние деньги

どうしてкаким образомという言い方をしたかといえば、その前がкакой там ・・・, какая тамときているので、調子かな。 そこでここは、「(やっとのことで工面した)お金をどうしてその娘にくれてやったりできたのか」という意味かな。

18 ドゥーニャの時計について。

彼女の首にかかったその時計には、細いヴェネツィア製の鎖がついていたが、ほかの装身具とくらべてひどく不釣合いだった。(亀山訳66ページ)

ほかの装身具 : остальным нарядомですがね、нарядはアクセアリーではなく、衣服のことらしい。しかも美しく着飾る場合をさしたりする。普通に衣服なら одеждаでよかろう? つまり、ほかの部分の(貧しい)着飾りっぷりと比べると不釣り合いということではないかと思う。江川さんは「ほかの衣装」と訳しておられる。しかし、それでニュアンスを感じ取れったってほぼ無理だよねえ。それによく考えると「ほかの衣装」という表現は変。間違ってるかもしれないけど、「ほかの装身具」のほうがいいかも。しかし、ドゥーニャがほかに装身具をつけているかなあ? 「それ以外の身につけているもの」でどう? 

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