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2010年6月25日 (金)

罪と罰第3部(5)

10 亀山先生がわざわざ工夫なさったところにケチをつけるのはどうかと思うんですが・・・第3部の1、2にあるアヴドーチャ・ロマーノヴナの顔に関する表現について。

(下唇が顎とともにほんの少し突きでていることが)この美しい顔のなかでひとつだけバランスを欠くところだったが、それがかえってきわだった個性を、とりわけプライドの高さのようなものを添えていた。(亀山訳31ページ)

そこで彼はアヴドーチャのほうにおそるおそる目をやった。ところがこのとき、あの勝気な顔に浮かんでいたのは感謝と親愛の表情だった。その顔には思いもよらない心からの尊敬の念が(嘲けるようなまなざしや、ついかくしきれない軽蔑のかわりに!)満ちあふれていたのだ。(亀山訳50ページ)

プライドの高さのようなもの:как будто надменность、そして、勝気な:надменный。え、文句のつけようがない? そうなのかもしれませんが・・・

надменныйという単語が普通、どう訳されるかごらんくださいませ。以下、すべて亀山訳。すべてラスコーリニコフに関して。

ひどく貧乏なくせに、なぜか人を見くだすような傲慢なところがあって、何か内に秘めているみたいに、人となかなか打ちとけなかったのだ。(第1部の4)

ロジオーンと知りあって一年半になりますが、彼って男は、気むずかしくて、陰気で、傲慢で、プライドが高いんです。(第3部の2)

「かりに踏み越えたとしてもですよ、むろん、あなたには言いませんよ」挑みかかるような、横柄な、軽蔑のこもる口調でラスコーリニコフは答えた。(第3部の5)

と、そのとき、彼はふと何かにちくりと刺されたような気がした。前と同じ、憎々しい、傲慢とも見えるうす笑いが唇に浮かんだ。(第5部の4)

という具合、すべて傲慢な、横柄なと訳されている。『カラマーゾフの兄弟』を調べても同じ。傲慢と訳しておけばほぼ間違いなし。

ではなぜここでは、アヴドーチャ・ロマーノヴナの顔についてはそうしなかったか? 第一に、たぶん、彼女に悪い印象を付与したくなかったから。それに、翻訳上、この程度の言い換えは珍しくないから。さらに、「バランスを欠くところだったが」とくれば、「が」とくれば、その後には好意的な表現が来ると考えるのも無理からぬところではある。

しかし、その「が」以下の原文をみてみると、

но придававшая ему особенную характерность и, между прочим, как будто надменность

特別な個性のほうはいい。でも、「プライドの高さのようなもの」は、亀山さんは「とりわけ」と訳しておられるが、между прочим──ついでに言っておくなら、という感じで付け加えられている。必ずしも肯定的でなくてもよさそう、

それに、「プライドが高い」は、傲慢と親戚だが、「勝気な」は、横顔に似たところはあっても赤の他人だ。いやいや、「プライドが高い」だって、それを意味するгордыйという立派な言葉がある。珍しくもない言い換えといっても、原文がそれを望んでいないことを単語で示している場合があるじゃろう。

傲慢と勝気の大きな違いは、人を見下すところのあるなしである。問題の文でそれが肝腎であるのは後半を見れば明らか。再掲。

そこで彼はアヴドーチャのほうにおそるおそる目をやった。ところがこのとき、あの勝気な顔に浮かんでいたのは感謝と親愛の表情だった。その顔には思いもよらない心からの尊敬の念が(嘲けるようなまなざしや、ついかくしきれない軽蔑のかわりに!)満ちあふれていたのだ。

ラズミーヒンにとっては嘲りや軽蔑が予期される顔だった。彼女の顔はまた、勝気な顔かもしれない。だが、ここでは傲慢がいいんじゃないかな。何度も言うけど、普通、傲慢と受け取れる単語が使われてるんだもの。

11 またまた亀山先生のわざわざの工夫にケチをつけるのはどうかと思うのですが・・・第3部の2。ゾシーモフとラズミーヒンの会話。

— Кстати, имеешь ты какое-нибудь влияние на тех-то, на мать да сестру? Осторожнее бы с ним сегодня...

— Сговорятся! — неохотно ответил Разумихин

「ところで、きみはあのひとたちに、つまりお母さんと妹さんだが、すごい影響力をもってるらしいね? 今日は病人への対応にもう少し気をつけるんだね・・・・・・」
「わかってるよ!」気のりしない顔でラズミーヒンはこたえた。(亀山訳48ページ)

はっきりした訳ですが、原文はもっとあいまい。というのは、「すごい影響力」じゃなくて、「いくらか影響力はあるの?」それに、「もう少し気をつけてもらえるとなあ・・・」で、・・・に、「いいんだけど」が含まれてるって感じ? 亀山訳なら・・・はいらないでしょ。それから、Сговорятсяの主語は母娘。だから意味は「わかってくれるさ」。ムードから言って、「大丈夫だろうよ」ぐらいかな。

12 ついでにそのすこーし前。

В своем больном не властен, лечи поди!

自分の患者が思うようにならないなんて、もうご勝手にだ!(亀山訳46ページ)

前半が「思うようにならない」で、лечи подиは「治療してみろ」ですか? どうやって治療しろというんだぐらいの意味じゃないかな。「ご勝手に」までいっちゃっていいのか・・・それと日本では自分の患者が思うようにならないってな言い方はあまり聞かない。言うことを聞かない患者を治せったってなあ!

13 ラズミーヒンと母娘の会話から。

ах, извините, я еще до сих пор не знаю вашего имени? — торопилась Пульхерия Александровна

まあ、ごめんなさい、まだお名前をお聞きしませんでしたわね?」プリヘーリヤが落ち着きなく言った。(亀山訳52ページ)

うっかりしてたので慌てて聞いたのであって、落ち着きないのとは違うと思うんだけど、これは亀山先生に聞いてみないと真意はわかりまへん。

14 あの子があんなふうとは思わなかったというプリヘーリヤに、当然だというラズミーヒン。

дядя каждый год сюда приезжает и почти каждый раз меня не узнает, даже снаружи, а человек умный

伯父が毎年訪ねてきてくれるんです、だのに、ほとんど毎回、ぼくのことを見まちがえるんですよ、面と向かっていながら、頭のいい人なんですけどね。(亀山訳53ページ)

снаружиは、外からドアを閉める、の、「外から」とか、外で一晩過ごす、の、「外で」とか、要するに外を表してる。ラスコーリニコフの様子にびっくりして、何を考えてるか知りたい(つまり内面のこと)というプリヘーリヤに対して、外見さえあてにならないことがあるという話をしている。「面と向かっていながら」という意味ではなさそう。

15 ラスコーリニコフがはじめからルージンを侮辱するつもりでいたとラズミーヒンが非難するとプリヘーリヤは:

しかし、彼女がひどく驚いたのは、ラズミーヒンがルージンについて、今回はひどく用心深く、敬意さえこめた話しぶりを見せたことだった。これには、アヴドーチャも驚いた。
「それで、ルージンさんのこと、あなたはそういうお考えですの?」もどかしそうにプリヘーリヤがたずねた。(亀山訳60ページ)

・・・ですが、別にもどかしいことはないんじゃないんですかね。ラズミーヒンがなかなか本心を明かさないのがもどかしい? 本当はけなしてもらいたい? そうじゃなくて、не утерпела не спроситьは、(びっくりして)、尋ねずにはいられなかった、というだけのことではないのかな。  

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2010年6月20日 (日)

罪と罰第3部(4)

不要不急のнасущныйの話。

江川さんの『謎解き罪と罰』のнасущныйの話は評判が悪い。人の言うことを鵜呑みにしてはいけないし、江川さんの反論を聞けないんだから、軽々しく判断するわけにいかないが、どうやら江川さん、旗色が悪い。議論の前提が怪しいのである。

насущный(ナスーシチヌイと読むみたい)は、「緊急の、差し迫った、日々の」なる意味らしい。が、Ушаковの辞書をみると、「生きていくのに重要な、なんとしても必要な、欠かすことのできない」といった意味かと思う。「日々の」というのは、後で述べる教会用語の「日々の糧」を意識したもの。Дальの辞書では主にこの意味。露英辞典ではvital、essential、urgentとなっているが、英露辞典でurgentをひくと、насущныйの順位は低い。vitalでは重要な一語。「差し迫った」は、便宜上生まれた訳語(というか、日本語に直したとき「差し迫った」がぴたりとはまるとしても本当にその意味かどうか疑ってかかるべき)という気もする。ま、しかし辞書は辞書だから。ふむ、それから、、Насущный хлеб (хлебはパン)は、成句のよう。「最低限度の生活をするためのもの」。こんだけ知ってりゃ上等だんべ。

насущныйは聖書に出てくる。箴言30-8とかマタイ6-11とかルカ11-3とか。

マタイによる福音書6の11(6章の5節から13節まで、祈るときにはどのようにすべきかが書かれている。11節は、「こう祈りなさい」のなかの一節。)
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
хлеб наш насущный дай нам на сей день

Насущный хлеб という句はこの一節が由来なんでしょうねえ。この句が、さらには単独でнасущныйという言葉が、ロシア人に聖書を連想させるものなのか、そうでないのか、そりゃもうアンケートでもとらなきゃ(それも当時の)わからんこってすから、こちらとしては、ドストエフスキーのこの単語の使い方から考えるよりほかにない(それが何より大事よねえ)。

たとえば、『白痴』に次のような場面がある。第1部の3。エパンチン将軍が公爵に尋ねる。当面どうするつもりだったか? 公爵:何かして働くつもりでした。将軍:哲学者やのう。して、あーた、何か才能は? つまりその、日々の糧を与えてくれる(насущный хлеб дают)。・・・こないな場面なら、聖書の文句を連想してもよかですか? え、だからどうってこともないだろう? そうね、それが何か意味があるのでなければ・・・

さて、江川さんですがね(やっと江川さんの話になりましたで)、ええ、江川さんは『罪と罰』の冒頭の場面を取り上げていらはる。第一部の一。

だが近ごろでは、そのぎりぎりの貧乏暮らしさえ、いっこう苦にならなくなった。身すぎ世すぎの仕事もすべてやめてしまい、どだいその気がなかった。(江川訳、岩波文庫12ページ)

この「身すぎ世すぎの仕事」がНасущными делами である。まさしく、最低限の生活を支えるための仕事であり、その意味を表すのにнасущныйが最適であるから選択されたと考えられる。(ついでながら、この場合、「身すぎ世すぎ」は耳慣れないけど、「差し迫った」よりよい。) しかし、江川さんはそう考えない。

江川説では、насущныйは文語であり、文体的に不釣合いな、違和感のある形容詞である。となると、そないな形容詞をここに滑り込ませたにはわけがある、ということになる。ラスコーリニコフは幼い頃、お祈りを唱えるときこの言葉を耳にしたのではないか。だから、Насущными делами をやめてしまうということは、「自分の幼児体験、無意識のお祈りの世界をも振り捨てようとしていることを意味していないだろうか」、どうじゃ、とな。

ロシア語のわからない素人としては、なるほどなあという思いと、だからどうなんだという思いが交錯するところではあります。が、このようにして江川さんは謎を解いていく、ということ。一つの単語に拘るといろいろなものが見えてくるというのは実際あることだ。結構、結構。

しかしですよ、某先生によると、насущныйなんざ珍しくもなんともないんだとさ。そういわれると江川先生も困っちゃうよなあ。文語か、口語か、それがнасущный вопросだ、なんて言い回しは、どうやら、ドストエフスキーにとっては、ことさら何かを意識したものではないらしい。興味ある人は(『悪霊』を調べる、よろし。

つまりなんですよ、ここぞとばかりに持ち出す単語にしては、ドストエフスキーは多用しているようなんだなあ。もっとも『カラマーゾフの兄弟』にはあんまし出てこない。第五編の7、イワン・フョードロヴィチがモスクワに経つという話を聞いたお父さんのくだり。

老人は少しもおどろかず、失敬にも息子の出発を悲しむことさえ忘れて、この知らせをきいた。その代わり、ちょうどおりよく自分の急な用事を思いだして、ふいにひどく気をもみはじめた。(原卓也訳)

「自分の急な用事」がнасущное собственное дело。さあさあ、するとどうなる? フョードルさんは手形の買占めや森の売買をするたびに、昔の貧しかった頃を、日々の糧を得るのに苦労した頃を思い出し、その頃に帰った気分で、「日々の糧を今日与えてください」とお祈りをするということを意味しているのではないだろうか、なんてね。我ながらいやらしか、ばかげた想像ではある。

ところで、ここでも「急な」という訳語はぴったりだ(厳密に言えば急な用というと突然ふってわいた意味があるけど)。この後老人自らがイワンに向かって「急を要する(спешная)仕事」と言っている。しかし、「急な、差し迫った」に疑義を呈しておきたい。老人にとっては、急ぐ以前に、大事な、ぜひとも何とかしたい仕事ではないか? それに緊急性はイワンが急に発つというから生じたのだ・・・ま、いっか。

・・・・・・・・・・

NHKの時代劇で「まっつぐ」というのをやっている。今では東京の下町でも「まっつぐ」なんて言う人は少なくなった。そんな人を小説に描くとして・・・「渡はまっすぐに六区のほうへ歩いていった」というのは語り手の第三者的な叙述。「渡はまっつぐ、六区のほうへ歩いていった」は、渡の行動を渡自身の言葉遣いで語ったもの。同時に、渡が東京下町出身の老人と推定される・・・

ドストエフスキーが当該場面をその手法で描いているとしたら、すなわち、Насущными деламиをやめてしまうというのがラスコーリニコフ自身の言葉遣いだとしたら、もはや彼はнасущный хлебを求めない、従って、福音書の祈りの言葉から離れ、自力で何かをつかむことを志向する、そうとるべきである。「幼児体験」がどうのなんてまだるっこしいことを言う必要はない。

しかし、残念ながら、ラスコーリニコフ自身の言葉遣いと考えるべき根拠はなさそうだ。逆に、語り手の叙述の言葉であるならば、ラスコーリニコフの祈りにまで関係すると考えるべきではない。「最低限生きていくのに必要な仕事」を表す最適な単語が選ばれただけである。

『罪と罰』にはнасущныйが四度登場する(ザハーロフさんのコンコーダンスには時々抜けがあるのでそれ以上かも)。違和感のある形容詞にしちゃ少し多くないか? ラズミーヒンに関わるところにも出てくるし、ルージンまで使ってる。しかし、江川さんはちゃんと答を用意してるんだなあ。当時神学校生を中心に流行していた一種の学生隠語ではなかったか、ときたもんだ。でもこれは両刃の剣やなあ。流行語では、意味もずっと希薄にならあ。

ま、どんなもんか、第三部の二を見てみましょう。最初の段落の終わり。目を覚ましたラズミーヒン。

そこで彼は、『呪うべき昨日』から持ちこしになっている、べつの、もっと切実な心配や疑惑に、急いで考えを移した。(江川訳中巻39ページ)

「もっと切実な心配や疑惑」がболее насущным заботам и недоумениям。「切実な」という訳はうまそう。「急を要する」という亀山訳よりいいような気がする。だって、その「心配や疑惑」とはその後に書かれていることだと思うが、別に「急を要する」類のものでもなさそうだ。ついでだが、「持ちこしになっている」はどうかな。亀山訳の「(昨日の)置きみやげ」のほうがいい。だって、どう考えたって、その「心配や疑惑」、昨日は感じていなかったものだ。

それはそれとして、さてさて、江川さん、ここはнасущныйに違和感を感じないのかな。それとも、ラズミーヒン、祈りの気分になり、マタイの6章を思い出してるのか:

6章17節: あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。

そこでラズミーヒン、入念に顔を洗い、ポマードまでつけたのであーる。へへ、こじつけもここまでくると、高本方式(ご存じ?)という感じです。ともかく、ドストエフスキーがнасущныйを、違和感を感じる文語として扱っているとは思えない。(なにしろ第6部の1にも「すみやかに解決しなければならない、いくつかの差しせまった事実(亀山訳3巻198ページ)」という、祈りと何の関係もなさそうなところにもнасущныйは使われているしね)。江川さん、お説を主張なさるなら、もう少し根拠がほしかね。

さて、江川さんの話をしたいんだか、насущныйの話をしたいんだか、さっぱりわからなくなってきた、要するにおいらとしてもデータ不足なのね。上に挙げた第6部の1を読む頃にはもう少しものがわかっているかも・・・と、徒な期待をしつつ今日はこのへんで・・・

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2010年6月15日 (火)

罪と罰第3部(3)

6 プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはラズミーヒンが酔っているので心配。

хоть и расторопный, и добрый, да в состоянии ли исполнить, что обещает? В таком ведь он виде!..

気がつくし、親切だけど、こんな状態で約束が守れるもんかしら? だってこんなに酔っていて・・・・・・(亀山訳20ページ)

в состоянии ли ~ で、~できるかしら? 後ろにВ таком ведь он виде: 「だってこんな様子で」(酔っていてでもいいです)があるので、「こんな状態で」は不要では?

7 バカレーエフの家へ着く。ラズミーヒン、ルージン氏をこき下ろしにかかる。あなたの花婿さんは恥知らず! と、

— Послушайте, господин Разумихин, вы забылись... — начала было Пульхерия Александровна.

— Да, да, вы правы, я забылся, стыжусь! — спохватился Разумихин,

「あの、すみませんが、ラズミーヒンさん、あなた、お忘れじゃ・・・・・・」プリヘーリヤがそう言いかけた。
「ええ、ええ、ごもっとも、つい夢中になってしまって、恥ずかしい!」ラズミーヒンはわれにかえった。(亀山訳26ページ)

начала было を「そう言いかけた」と訳されたところがほかにもあったが、「そう」がつくと、ここに書かれている言葉が言いかけで、「お忘れじゃ」あたりは聞こえてないかもという気がして気になる。余談。спохватилсяは「われにかえった」。江川さんはなぜか「言いよどんだ」と訳しておられる。江川訳をお持ちの方はご注意を。これも余談。

本題。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが「あなた、お忘れじゃ(забылись)」と言ってるけど、いったい何をお忘れ? え、皆さんそういう疑問、持たない? わてはつい、はてなんだろうと考えちゃう。原文を見ると、ラズミーヒンがちゃんと答えてる。はい、はい、お忘れです(забылся)。え、何を? われを。江川訳:「ぼくはわれを忘れています」。ま、亀山訳、「夢中になってしまって」も同義かな。しかし・・・

我を忘れた人に、あなたお忘れじゃ、と、たしなめる人が果たしているかなあ。そんなことを言われたらやっぱり何を忘れたかしらと考えちゃうし、ラズミーヒンだって「はい、我を忘れやした」とはならんでがしょ。забытьсяはたしかに我を忘れるたけども、自分をコントロールできないとか、常識の範囲を越えちゃうとかと考えれば、この場合は、「あなた、お言葉が過ぎるのじゃ・・・」あたりが落としどころ。

8 続いて、ラズミーヒン、口が過ぎた言い訳。ザメートフに言及。

ザメートフのことだって、尊敬はしちゃいませんが、でも大好きですよ、愛すべきペットです。(亀山訳27ページ)

愛すべきペットと訳されたщенок。若く、未経験な人の意。第2部の4でラズミーヒンがゾシーモフに話しているところを思い出していただきたい。

ザメートフはまだガキだから、このおれがいまもやつを引きまわしてるんだ。何せ、やつを引きつけとかなくちゃだめなんだ。突きはなさずに、ね。そもそも突きはなしたら、矯正なんてできやしない。まして相手がガキならね。(亀山訳1巻317ページ)

ラズミーヒンのこういう考え方の延長線上にあるのがщенокだろう。従って、「愛すべきペット」はちょっと違うんじゃないかな。「ガキ」ならいいかな。江川訳「ひよっ子」はいい。中村訳「いぬころ」はダメ。

9 ラズミーヒンがゾシーモフに

ты малый славный, но ты, кроме всех твоих скверных качеств, еще и потаскун, это я знаю, да еще из грязных. Ты нервная, слабая дрянь, ты блажной, ты зажирел и ни в чем себе отказать не можешь, — а это уж я называю грязью, потому что прямо доводит до грязи.

きみはすごくいいやつだ。だがな、いろいろいやなところがあるし、そう、それに女好きときた。おれは知ってるぞ、きたないところもある。気がちいさくて、いくじなしで、気まぐれで、脂肪太りで、それになんにつけ節操知らずだ。そういうのをクズって呼ぶんだ。だって、そんなやつはクズ箱に直行だからな。(亀山訳37ページ)

грязный、грязьをどう訳すかという問題。え、どう訳したってかまわない?そう、その通りでがんす。こんなところはだいたいの雰囲気が伝われば問題ない。でもここには亀山流の独特なところが現れているようなので触れておくことにした。

грязный、грязьを中村さんは「醜悪」、江川さんは「不潔」で統一している。ちなみにガーネットさんは順にdirty、dirty、dirt。これは最初のгрязныйに続く言葉は、その意味を説明しようとしているという考え方。

ところが、亀山さんは順に、きたないところがある、クズ、クズ箱。なんと言ったらいいんだろう。こだわりのない訳、かな。それがスピード感につながるんだろう。「そういうのをクズって呼ぶんだ」で締めてあとは軽く流す。

え、どこが軽いかって? 考えてみてちょうだい。「クズ」には明確な意味があって、きつい表現になっているけれども、「だって、そんなやつはクズ箱に直行だからな」の方は、比喩としては何も意味していない。「クズ箱」はクズ箱の意味しかない。この瞬間に、人間のことを言ったはずの「クズ」がほんもののクズになってしまっている。つまり、文章として筋は通っているがほとんど意味を持たせていないのだ。ドストエフスキーのくどい、訳すと同義反復のようになってしまう文章に速度を与える一種の技術ではある。

さて、それはそれ、実際にはどんな意味かな。грязныйってのは、不道徳なとか、恥ずべきとか、下劣なとか、そんな意味がありそう。醜悪でも、不潔でも、きたないでも、クズでも、好きずきですか。たぶん、優劣はあるんだろうけど、おいらの趣味を語ってもしゃあないので、いいことにしましょう。汚らわしいと訳してもよさそう。たとえば、

そのうえ、汚らわしいやつだ。気がちいさくて、いくじなしで、なんのかんの・・・そういうのをなあ、俺は汚らわしいって言うんだ。かならず汚らわしいところに行き着くからな。

てな具合。もう一度繰り返すと、汚らわしいやつだ(из грязных)と言った意味を、続く文章が説明している。とすると、おれは知ってるぞ(это я знаю)は、女好き(потаскун)であることを知っている、ということになる。一方、亀山訳では、「きたないところがあるのを、知ってるぞ」だ。ここで意味を切っている。独特。

もう一つ。ни в чем себе отказать не можешьは欲望を抑えられない、自制がきかないというような意味で、節操がないのとは少し違うような・・・  

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2010年6月10日 (木)

罪と罰第3部(2)

新たに2巻に入るということで、わても気合を入れなおしておりますが、ま、多分に空回り、暴走の可能性大としたもので、あしからず、あしからずでございます。亀山先生も気合を入れなおしたのか、ちょっと上滑りしてるところもあるかな。旧訳では固かった親子、兄妹の会話をほぐしたのは工夫。ラスコーリニコフがゾシーモフのことを「こいつ」と言ったりするのはちょっとびっくり。いろんな考え方があるもんですねえ。

さて、今回から項目ごとに番号をふることにした。話の切れ目を明確にするために。まあ、試しにね。

2 意識を取り戻したラスコーリニコフは母娘の手をとる。母は彼の目つきに肝をつぶす。いや、この肝をつぶすというのは亀山先生独特の表現。何となく喜劇的ムードが漂う。それもよしかな。と、これは余談。

В этом взгляде просвечивалось сильное до страдания чувство, но в то же время было что-то неподвижное, даже как будто безумное

そのまなざしには、何か苦しみにも似たつよい感情がほの見えたが、同時に、何かしらじっとすわったまま動かない、どこか狂気じみた色さえ浮かんでいたからだ。(亀山訳9ページ)

さてさてさて、「何か苦しみにも似たつよい感情」とはどんな感情? よくわからないところがいいのかな。ふむ、ラスコーリニコフの苦悩が刷り込まれた観念的な訳という気も。до страданияというのは、苦しみに至ったか、その直前ということで、その感情が苦しみに似ているというのとは違うんじゃないか。 なにせ久しぶりのご対面だからね。そこに特殊な状況がどう作用するかということだけど。いろいろあるんじゃないの。思うに、「苦しいまでに強い思い」ではなかろうか。
それから、просвечивалосьは「はっきりした、明確になった」で、「ほの見えた」てなお上品なものではなそそう。→苦しいまでに強い思いが表れていたが。

3 二人に出てってくれと言ったラスコーリニコフ、言うべきことがあるのを思い出し、

-Постойте! — остановил он их снова, — вы всё перебиваете, а у меня мысли мешаются... Видели Лужина?

「待ってくれ!ラスコーリニコフが、あらためてふたりを呼びとめた。「みんなが好き勝手を言うもんだから、すっかり頭が混乱しちまって・・・・・・で、ルージンには合ったの?」(亀山訳11ページ)

「好き勝手を言う」は意訳だよね。перебиватьは、最後まで言わせてくれないとか、邪魔をするとかそんな意味でしょ。もしかすると「好き勝手を言う」のほうが状況をよく表しているかもしれないけれど、だからといってそう訳していいのかどうか。そういうのの線て、どこで引けばいいんですかねえ。

4 ラスコーリニコフがルージンを追い出した話を始めたもんだから二人は:

Обе уже были предуведомлены о ссоре Настасьей, насколько та могла понять и передать, и исстрадались в недоумении и ожидании

例の口論については、ふたりはもうナスターシャの口から、彼女が理解でき、伝えることができる範囲では聞かされていて、疑惑と期待の入りまじった気持ちに苦しんでいたところだった。(江川訳11ページ)

例の諍いについて、ふたりはすでにナスターシャの口から、彼女なりに理解し口にできる範囲の話をあらいざらい聞かされていたので、とまどいと焦りで身も細る思いだった。(亀山訳11ページ)

二つの訳文は二箇所で違っている。一つは「伝えることができる」と「口にできる」。口にできる範囲で話をしたというと、ナスターシャが自身の判断で差しさわりのある部分は話さずにおいたと想像される。はたしてそうだったのか? 原文のта могла понять и передатьは二つの動詞が並列で、ナスターシャの理解、伝達能力だけを問題にしているように見える。よって「口にできる」は却下。

もう一個所は、「疑惑と期待」と「とまどいと焦り」。疑惑、とまどい・・・あるでしょうねえ。どっちがどうとも言えないかな。が、期待と焦りはどうか。喧嘩の話を聞いて期待はなかろうという亀山先生に一票かな? しかし、焦りというのはだいたい自分が何かする場合なんだなあ。

в ожиданииは待っているということ。一方、в недоуменииは事がはっきりしないので、疑念もあるし、心も揺れ動いているという状態。だから、問題の部分は、「思い悩みながら待つ苦しさに身も細る思いだった」てな感じかな。

5 母娘を説得しようとするラズミーヒンは、「万力で締めつけるみたいに痛いほど固くつよくふたりの手をにぎりしめた。」そして、

あまりの痛さに、ふたりはときどき、その大きくてごつい手のひらから自分たちの手をもぎ離そうとしたが、彼のほうはとんとおかまいなしに、さらに強い力でふたりを手元に引きよせるのだった。(亀山訳17ページ)

ますます強く(еще крепче)自分の方へ引き寄せようとする(притягивал их к себе)のは「二人」ではなく、もぎ離そうとする「二人の手」ではないかと思うんだけど、中村訳も江川訳も「二人」ですけんねえ、三対一で専門家チームの勝ちい、ですか・・・

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2010年6月 6日 (日)

罪と罰第3部(1)

翻訳に特別なルールはないらしい。すべて訳者さんの裁量。原文にないフレーズを付け足したたっていいし、逆に、日本語の和を乱す単語は訳さなくってもかまわないようだ。いや、こんなことを書いたからといって、決して訳者」さんが好き勝手をしてると非難するつもりはない。むしろ、ドストエフスキーの翻訳は概ね原文に忠実である、ぎこちないほど忠実であると思う。驚くほどである。しかしそれは、これといって翻訳上、問題のない箇所が大半をしめているからだ。意味の明白なところはどう訳したって伝わる。問題は難しい箇所に出くわしたときだ。方法は二つ。一つは意味不明瞭のまま逐語訳しておく。これは危険だ。ロシア語と日本語で単語が一対一で対応してないから。読者は、既に理解の手がかりを失っているかもしれない。ではどうするか? 意訳という都合のいい言葉がある。これも程が難しい。意訳しようとすると、たいがいの訳者さんは翻訳ならぬ解説をやってのけることになる。読者に対する親切心からだろうが、意外に余計なお世話になるケースが多い。解説訳は、実は、読者より、訳者さん自身の気休めの意味が大だからである。難しいからって飛ばすわけにはいかない。さりとて、一個所にぐずぐずしていられない。なんとか彼なりに理解して納得した証拠をそこに残さなければ先に進めないし、推敲の段階でまた立ちどまらなければならないのだ。その結果、訳者さんとしては、原文と、お考えになったことと、訳文とが一緒くたになってわかった気になってらっしゃるにしても、読者からするとさっぱりということがある。それでも、正解のあたりをうろついている訳ならいいけど、とんでもないところまで遠出してしまう場合もある。これは困るのである。ドストエフスキーの翻訳にはところどころ、そうした箇所が存在するように思う(つまり多くの訳者さんがそろって妙な訳をしているということ)。なんとかしてもらいたいのだが、どうやら専門家をあてにしてはいけないということがわかってきた今日この頃である。

さて、今日から第3部。やっぱり先日のクイズからはじめましょうか。誰も教えてくれそうもないのでね、とりあえず自分で何かやっつけ仕事を・・・ラズミーヒンのデタラメ賛歌。でたらめを言うから人間。十四回なり、百十四回なり、でたらめを言った後でなければ真裡は得られない。ところがぼくたちはでたらめひとつ自分の頭じゃじゃ考えつけない・・・でたらめにしろ自分で考えることが真理に到達する道であるってことね。そこで、問題の部分、再掲。

Правда не уйдет, а жизнь-то заколотить можно; примеры были

真理は逃げやしないが、生命はうち殺すこともできる。そんな例はたくさんあります。(中村白葉訳)

真理は逃げて行かないが、生命を骨ぬきにすることはできる。その例もあるんです。(江川卓訳)

真実は逃げていきませんが、人生のほうは釘で留めちゃえばいい。そんな実例がありましたよ。(亀山郁夫訳)

もともとこの一文はラズミーヒンの「演説」の中で浮いているようにも見える。しかし、それだけに重要な意味があるかもしれない。前後の文章から考えて、真理を人まねで語ることを糾弾しているはずである。ではどういう意味か?

「真理は逃げていかない」というのはいいことだ。それに対して後半部分は、人まねの罪、自分で考えないことの罪が語られているはずだ。自分で考えない人が何かをすることによって、真実が逃げてしまったも同然の結果になりうるということだ。

何かをするとはどういうことか? 生命をうち殺す? 生命を骨ぬきにする? 人生を釘で留めちゃう? それらはいったい真理とどういう関係があるのだろう? 過去の例とはどんな例?

заколотитьという単語から考えてみましょう。そうそう頻出する単語ではないのだから、それなりのわけがあってこの単語が選ばれたにちがいない。辞書には三つほどの意味が載っている。1 釘を打ってふさいでしまう、隠してしまう。例えば、板を打ち付けて窓をふさぐとか、棺を閉じてしまうとか。2 (釘、杭、パイルなどを)打ち込む。3 死ぬほど打つ。

2の打ち込む、は、関係なさそう。3から、生命をうち殺す、そしてその延長線上に生命を骨抜きにするという訳が出てくるのかな。では、生命とは何ぞや? 真理の生命、あるいは真理を宿した生命ということか? なるほど、社会の常識から離れた真理を唱えたものを、でたらめを言うものとしてうち殺した例があるかもしれない。それはそれで一つの解釈か・・・しかし、「真理は逃げやしないが」という表現としっくりくるとは言えない。それにわざわざзаколотитьという単語を選ぶ必要はなかったろう。やはり、第一の意味の周辺で考えるべき。

真理は逃げないということは、そこにあるということ。そこにあるけれども・・・すると、заколотитьの第一の意味から、誰でも、真理を力で封じ込めることを連想するのではないか、どう? そこで、

真理はどこへも行きやしないが、その生命を封じ込めてしまうことはできる。例のあることです。

というふうにしたらどうかと思うんだけど・・・そもそも、「逃げやしない」という訳からして少しずれてるような気がするんだなあ。

♪三人そろって ・・・

ま、ぼちぼちやっていきましょうよ。

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2010年6月 2日 (水)

第3部をはじめる前に

はじめる前にも何もないんですがね、ええ、ちょっと体調不良で頓挫してまして、ええ、まだ生きているという証拠にご挨拶でもしておこうかと思いまして。みなさーん、お元気ですかー・・・

ところで、みなさん、柳瀬さんの「お札真っ暗」、ご存じ? 紀伊国屋書店のi-feel特集というので読めますが、まあ、翻訳に関してもなかなか興味深い対談(そう、柳瀬尚紀さんと桐谷エリザベスさんの対談)ですがね、一部引用させていただくと、

もう三十年前に訳したものなんですが、アメリカの小説に「お金に困っちゃう」という意味で、“against the green wall”という言い方が出てきた。“green”はお札を表す“green”ですよね。だから、「壁に突き当たっちゃった」という意味と、「お金がなくなっちゃった」という意味が、英語ではシャレとして成立しています。僕はそれを「お札真っ暗」と訳したんです。「お先真っ暗」というのは、“hopelessという意味です。ですから、「お札真っ暗」と言えば、「お先真っ暗」と重なるわけですよ。そういうことが日本語ではできるんです。(柳瀬さん談)

だそうです。この話はちょっと前にラジオでもなさってた。よほどご自慢。お札真っ暗ねえ。こういうのをうまい!と言えないと名翻訳家になれないんですねえ、きっと。

目の前が 暗くなる サントワマミー

なんか亀山先生にはそういう才能あるかも。いや、もちろん、けなしてるんじゃありませんよ。

ああ、亀山先生といえば、『罪と罰』の第2巻。1巻はおとなしめかと思ったけど、2巻に入って亀山節を炸裂させているかも。亀山節というのは、すなわち、慣用表現に読者を乗せて超特急で運んでゆくこと。これは両刃の剣でしてね。スピードは増すが微妙なコントロールが難しい。しかし、その辺はこの先あまり触れないことにしましょう。

えー、わたくしが迷分析を始める前に、みなさんに、ひとつ、クイズを。ラズミーヒンがラスコーリニコワ母娘に語っている。新しい言葉を発することに関した重要な場面。でたらめは真理の母というような警句をおりまぜ、熱弁をふるっています。中村白葉訳から長めに引用します。

ところがわれわれは、このでたらめを並べることだって、なかなか自分の知恵ではできやしません! まあ一つおれにでたらめを並べてみるがいい、自分の力ででたらめを並べてみるがいい。そしたらおれは貴様を接吻してやる。自分の力ででたらめを並べるのは、人まねで真理を語るよりも、却ってましなくらいです。第一の場合には人間だが、第二の場合には小鳥にすぎないことになるんですからね! 真理は逃げやしないが、生命はうち殺すこともできる。そんな例はたくさんあります。

問題は、「真理は逃げやしないが」からの終わりの部分。なんか、唐突と言うか、浮いていると言うか、意味が良くわかりません。原文と、江川訳、亀山訳も並べてみましょう。(並べるったって、当てつけで、上の文章からの連想で、でたらめだと申しているのではありませんが、先生方、みんな言うことが違うんだもんなあ)。

Правда не уйдет, а жизнь-то заколотить можно; примеры были

真理は逃げやしないが、生命はうち殺すこともできる。そんな例はたくさんあります。(中村白葉訳)

真理は逃げて行かないが、生命を骨ぬきにすることはできる。その例もあるんです。(江川卓訳)

真実は逃げていきませんが、人生のほうは釘で留めちゃえばいい。そんな実例がありましたよ。(亀山郁夫訳)

いやあ、難解難解。どの訳も、その真意がどのあたりにあるのか、解説つきじゃなくちゃ私にはわからない。たとえば、「真実は逃げていかない」というのは結構なことでしょう? それと「が」でつないで、「ナニナニすればいい」というだけでも難しい。その上、「人生を釘で留めちゃう」とは? また「骨ぬき」というのもどこからくるんだか・・・

そこで、皆さんも考えてみてくださいな。お解りの方はぜひ教えて!

それにしても、オウムというのは、やっぱり「小鳥」なんですか?

付録。ドタマのリハビリに罪と罰の地図をgoogleのマイマップで創ってみました→こちら

ソーニャの家が今ひとつ納得行かないんですがねえ。ま、変えられますから・・・

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