« 亀山訳の検証について(18) | トップページ | 豚にまたがり?のけいこ »

2008年5月25日 (日)

亀山訳の検証について(19)

えへへ、笑ってごまかすな、ではありますが、亀山さんのほうがほかの翻訳者より考えているかもしれない、なんて言っちゃったてまえ、次がやりにくくなっちゃいましたわ。言ったことはすぐに自分に返ってくるでねえ。それで、また寄り道。『カラマーゾフの兄弟』亀山訳4の260ページに関して、ドストエーフスキイの会の「点検」その後の付録から亀山訳、原訳、木下さんの論評を引用させていたたきましょう。

亀山訳:「兄さん」声を震わせながら、アリョーシャはまた切り出した。「ぼくが兄さんにこのことを言ったのは、兄さんは、ぼくの言葉を信じてくれるからです。そのことがわかっているからです。《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!いいですか、死ぬまで、ですよ。

原訳:「兄さん」アリョ-シャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことを言ったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。

原文:— Брат,— дрожащим голосом начал опять Алеша, — я сказал тебе это потому, что ты моему слову поверишь, я знаю это. Я тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты! Слышишь, на всю жизнь.

木下さんのコメント:「あなたじゃない!」の個所ですが、これは亀山氏のとんでもない誤訳です。
原訳の「一生をかけて」はна всю жизнь (ナ・フシュ・ジーズニ)で、「永久に」という意味で、自分の発言への確信と責任を表明したものです。米川訳では「ぼくは命をかけて言ったのです!」となっています。「自分が死ぬまで信じています」ならともかく、「あなたが死ぬまで信じてます」とは、ありえない訳です。

さて、さて、皆さんはいかがお考えかな。門前払いみたいなコメントで満足でっか?少し丁寧に考えましょうよ。

Я тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты! のところ、直訳すると、ぼくはあなたに永久にこの言葉を言ったのです、あなたじゃない、と。

「永久に」、普通はこんなふうに使わないな。例えば、この部分のすぐ後にあるように、хотя бы ты с сего часа навсегда возненавидел меня(直訳:あなたがこの時から永久にぼくを憎むことになろうとも)が普通。

つまり、永久に言い続ける、とか・・・だんべえ。「一生をかけて」も「永久に」の意味をもつけど、これも一生をかけて償う、とか・・・原訳の「一生をかけて」は全然違う意味で、これでは日本語に直してからの意味のすり替えでしょ。

「言った」という一回こっきりの行為のありようを表す副詞句として「永久に」は成立しえない。

だいたいねえ、「一生をかけて」とか「命をかけて」ってなんじゃい。それでイワンに殺されるとでも言うんか。覚悟、責任はご立派だが、何を、どう、責任取るんじゃい。

それよりその後ろを見たまえ。Слышишь, на всю жизнь. И это бог положил мне на душу тебе это сказать(直訳;いいですか、на всю жизньですよ。これも、神様があなたにそう言うようにぼくの魂に課したのです)。「あなたじゃない」とともに、神様がアリョーシャにそのままの言葉を言わせたという意味だな。冷静に考えてちょうだい。ねえ、命をかけるのは結構。神様が命をかけて言いなさいと言うのもよかですよ。しかし、神様が、命をかけると言いなさい、ってのは、ちょっと失笑ものでしょ。

もう一度、「あなた(イワン)がこれから先、永久にぼく(アリョーシャ)を憎むことになっても」という一文を見てみましょ。なぜ憎む・・・ム、難しい・・・誰か教えて・・・良心に立ち入ることになるからかな。いや、それだけじゃないぞ。なぜ永久に、か。イワンは永久に(一生)この問題で苦しむからだ。アリョーシャはそれを預言してもいるのだ(このあとのイワンの言葉 『я пророков и эпилептиков не терплю-おれは預言者や癲癇持ちはがまんできない』のあたりを参照のこと)。たとえ、憎しみとともにであってもアリョーシャとその言葉、「あなたじゃない!」を思い出してもらいたい・・・永久に・・・

на всю жизнь-永久に、という言葉がその意味で言われたのは明らかだろう。決してアリョーシャの一生をかけたものなんかじゃない。一生涯意味を持つ言葉として言われたのだ。そしてна всю жизньが『預言』であるなら、もちろん、イワンの一生である。

神の言わせた言葉、それはアリョーシャにとって絶対のものであり、「信じつづける」を超えたものという気もしますが・・・・・ま、亀山訳と原訳のどっちがいいのか、皆さんで判断してちょうよ。

 

|

« 亀山訳の検証について(18) | トップページ | 豚にまたがり?のけいこ »

コメント

こちらでは初めまして。

件の箇所、望月哲男/鈴木淳一訳の『ドストエフスキーの詩学』では、次のように訳されていました。

「兄さん」震える声で、アリョーシャはまた話し始めた。「僕があなたにこんなことを言ったのは、あなたが僕の言葉を信じてくれると思ったからなんです。僕にはそれが分かるんです。僕はあなたにあの言葉を全生涯かけて言ったんです。『あなたじゃない!』ってね。いいですか、全生涯かけてですよ。これは神様が僕の心をあなたにそう言うようにお仕向けになったんです、たとえこの瞬間からあなたが僕のことを永久に憎むようになるとしてもです……」

ご参考までに。

投稿: ミエハリ・バカーチン | 2008年5月25日 (日) 21時11分

ようこそミエハリさん。コメントありがとうございます。

例の「騒動」で、まだやってるのかな、と思い出してくださったのでしょうか。

それにしても、いつもながら適切な文献をたちどころに指摘なさる手際には驚嘆します。
そこで、さっそくネット上で『ドストエフスキーの詩学』を探し、それらしきものがあったので当該箇所を読んでみましたが、直接どう訳すべきかのヒントとなるものは読み取れませんでした。

ご紹介くださった訳は米川、原派でしょうか。というより、おそらく亀山式の訳は今までないのじゃないかと想像します。
でもここは亀山さんのほうが正しいのじゃないかと思います。

「これは神様が僕の心をあなたにそう言うようにお仕向けになったんです」は違和感のないよううまく訳されていて、それはそれでいいと思います。
しかし、原文ではИ это 「これも」と、「これ」が(少し前のアリョーシャのセリフの中での「あなたじゃないを言うために神が遣わした」に対応して)на всю жизньに限定されており、またположилは、(僕の心に)「置いた」という意味です。
したがって、на всю жизньは神様が与えた(とアリョーシャが思っている)言葉なのです。
「・・・をかけて」のような言葉ではないと考えます。

投稿: coderati | 2008年5月26日 (月) 18時43分

こんにちは。またおじゃまします。毎回、更新を楽しみにしています。前回のミウーソフと修道僧の会話についてのご指摘、なるほどと、おもしろく拝読しました。

さて、今回のИ это бог положил мне на душу тебе это сказать…の箇所ですが、coderatiさんは最初のэтоを前文に登場するна всю жизньを受けたものと取られていますよね。しかし、このэтоはそれ以前に語られたことを大きく受けているものであり、2つ目のэтоのみが具体的なсказатьの補語、すなわちне ты!を指しているのではないでしょうか(тебе это сказатьが、前の二文、я сказал тебе это потому…とЯ тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты!をたたみかけるように反復させているものであることは明らかです)。そして、文頭のИは強調ではなく、単に文を展開させている接続詞です。


ちなみに、江川訳では以下のようになっています。

「兄さん」アリョ-シャはまた震える声で言った。「ぼくがあんなことを言ったのは、兄さんがぼくの言うことを本気にしてくれると思ったからなんです。ぼくにはそれがわかるんですよ。あなたじゃない〔注:この箇所傍点強調〕、といういまの言葉を、ぼくは全生涯をかけて言ったつもりなんです。いいですか、全生涯をかけて言ったんです。神さまがこの言葉をぼくの魂に吹き込んで、言わせてくださったんですよ。

原訳とほぼ同じです。私には、на всю жизньの箇所は、ストレートな原訳・江川訳の方が通りがよいように思われます。確かに、на всю жизнь とсказатьの語結合は奇異に見えますが、完了体動詞がもたらす結果の残存が「一生涯」続くという意味でしょう。「自分の言ったことは生涯消えないものである」、「自分の発言に一生責任を持つ」というニュアンスを持つとして、「一生をかけて」という訳でよいと思うのです。いかがでしょうか?


ところで、私のパソコンでは、「点検その後の付録」のページを開けると、Internet Explorerが強制終了されてしまい、ここだけどうしても見られません。設定が悪いのでしょうかね??

投稿: кровельщик | 2008年5月28日 (水) 19時11分

よくみたら、細かい部分でずいぶん解釈が違ってくることがわかりました。
米川訳の当該箇所:ねえ、兄さん、命にかけてですよ。神様がこの言葉を僕の魂へ吹き込んで、それをあなたにいわせて下すったのです。(私の持ってる版では『命「に」かけて』でした。)

これは、этоの解釈がミエハリさんご紹介の望月哲男/鈴木淳一訳と違うかもしれないんですね。そちらでは『あなたじゃない』は『あの言葉』ですから。(せっかくご紹介くださったのにその辺、理解できなくてすみませんでした、ミエハリさん)。
そしてまた、кровельщикさんの解釈はまた、そのどちらとも違うということでしょうか。

私の解釈は単純です。
すこし前のところのслышишь меня, не ты! Меня бог послал тебе это сказать、
そして問題の箇所、Слышишь, на всю жизнь. И это бог положил мне на душу тебе это сказать、
この二つの文を対のようなものと考えたのです。それで「これも」と考えたのであり、また、ここではна всю жизньが重要と考えました。

それと、「全生涯をかけて」ならほかの言い方はないのでしょうか。私は「全生涯に託して」という意味じゃないかと思うのですが。まさに言葉は一生残る、ですが、「一生をかけて」にそのニュアンスがあるとは思えません。

「点検その後」の強制終了、ほかでもそんな話を目にしましたが、私のパソコンでは問題ないので・・・すみません、あまり詳しくないんで。

投稿: coderati | 2008年5月29日 (木) 15時21分

初めまして。
遅ればせながら、亀山氏の誤訳問題なるものを知り、ネットを見ていたところ、あなたのコメントを拝見しました。

-----
掲載された翻訳部分の問題とは、対象となった「人生」がアリョーシャのものか、イワンのものかということだと思います。
亀山氏とあなたが言われるように、どうしてイワンの「人生」が正しいのでしょうか?
アリョーシャが、イワンの「人生」を賭けて発言するのは不可解ではありませんか?
自分の発言に、他人の「人生」を賭けるなどというのはありえないことです。
しかも、それがアリョーシャの発言とは...

亀山氏の誤訳問題については、かなり言いがかりが多いような気がしますが、少なくともこの部分の訳には賛同できません。

失礼しました。

投稿: KAZ | 2015年2月 3日 (火) 07時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/130904/21157990

この記事へのトラックバック一覧です: 亀山訳の検証について(19):

« 亀山訳の検証について(18) | トップページ | 豚にまたがり?のけいこ »