亀山訳の検証について(18)
翻訳とは、自分が理解したとおりに読者に伝えるべく日本語の文章を創ることだ・・・よね。だから、まず解釈ありき。
訳者さんによって解釈が違うことはよくある。どちらかが間違っていたり、両方間違っていたり・・・ご親切によけいなお世話の解説をつけてくれたり、あるいは逆に読者に敬意を表して解釈を放棄していたり・・・雄弁な翻訳、寡黙な翻訳、好みでございましょう。
まあ、でも、たいがい翻訳のほうが原文より詳しくてわかりやすいよね。いいことだということに、しときますかあ。
亀山さんの翻訳は、たしかにどこか今までの翻訳と違うところがあるようだ。評価は分かれるようだが、実際、評価してる人がいるんだから、ねえ。
例の「検証」をみても、誰もが考えつく普通の訳をしておけば文句をつけられないですむのに、あえて工夫した訳をして(反感を買って)いることに気がつく。実は、亀山さんはほかの人たちより考えているかもしれない。良い悪いの判断はひとまずおいておくとして、なんでもかんでも十把一絡げにして誤訳誤訳と騒いではいけない・・・よねえ。
亀山さんの解釈はどんなものであれ間違いと考えることを自らの義務とする人を無批判に信用して亀山訳はだめだと思い込んだら損をするかもよ・・・ってなことは全然言う必要がないな。まだまだ売れてるらしいもん。80万部突破でっか。
まあ、亀山さんもせっかくの工夫にけちをつけられて腹が立つかもしれないが、読者に伝わりにくいところがあるとすれば、それはご本人の責任ってこともあるからなあ。
しかし、最初からあら捜しをするつもりじゃ、目も曇るし、気も狭くなるよ。それはおまえのやってることじゃ?ってか。うひょー、面目ない。ほんと、何をやってるんだか・・・そこに山があるから登るんだ、か・・・ばーか。いや、ほんと、ばかだわ。えーえ・・・
皆さんは、ドストエーフスキイの会の「検証」をみて、ああそうだ、そうだ、って思うかや?亀山さんはどうしてそういう訳をしたんだろうって考えない?ちょっと「点検」その後からひとつ取り上げてみましょうよ。「カラマーゾフの兄弟」亀山訳一巻の92ページから。修正前は:
「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。
「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっております」と修道僧は答えた。
原文:— <…> Так к обеду будем, поблагодарите отца игумена, — обратился он к монашку.
— Нет, уж я вас обязан руководить к самому старцу, — ответил монах.
原訳:「(…)とにかく、お食事までには伺います、院長さまにお礼を申しあげておいてください」彼は修道僧をかえりみて言った。
「いいえ、わたくしはあなた方を長老さまのところへご案内いたさねばなりませんので」修道僧が答えた。
江川訳:「(…)では、食事にはうかがいます、僧院長によろしくお伝えください」修道僧のほうを向いて彼はこういった。
「いえ、わたくしは長老さまのところまでみなさまをご案内しなければなりませんので」修道僧が答えた。
亀山訳22刷:「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。
「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので」と、修道僧は答えた。
要するに亀山さんの修正は「ので」をつけただけだ。ま、それでいいんでしょ。してみると、森井さんの分析は興味深い(よろしく「点検」のほうをごらんくださいませませ)けれど、関係なかったわけだ。あ、こんなこと言うといやなこと蒸し返しちゃうかな。
しかしまあ、「一読して会話が成立していない」(森井さんの厳しいお言葉)なんて冷たいこと言わないで、どうしてこんな会話なんだろう、って想像すれば、別の意味も見えてくるんじゃないかな。読者も協力的態度でなければ本なんか読んだってしょうがないんだから。
もともと間接的な意味を含んだ受け答えなんだしねえ。だいたい、原訳や江川訳のようにするほうが楽だで。そのまんまだもん。どうしてそうしなかったかぐらいは考えてあげなくちゃ。なぜか・・・答は風のなかに・・・じゃなくて・・・
亀山さんには修道僧がそう言っているように聞こえたからだ。翻訳とは、自分が理解したとおりを読者に伝えることだ。誰もがする訳をしときゃあいいってもんじゃない。
なぜそう聞こえたか。亀山さんの目に、好奇心まるだしでみんなを長老のもとへ案内したがっているマクシーモフの姿が鮮やかに映しだされたからだ。
もちろん、修道僧もマクシーモフを横目で見ている。彼がマクシーモフをどんなふうに思っているかはすぐ後のセリフでわかる。「案内はありがたいが一緒に入っていただくわけにはいかない」というミウーソフ心配も思いだしていただきたい。マクシーモフには遠慮してもらいたいのだ。だから「私が」と力が入っちゃったんだ。
なんとなれば、それに応えてしゃべっているのはマクシーモフではないか。↓
「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので」と、修道僧は答えた。
「そういうことでしたら、わたしはそのあいだに院長さまのところへ、まっすぐうかがっているようにします」地主のマクシーモフが舌たらずな調子で言った。
「院長さまは、いまたいへん忙しくしていらっしゃいます。しかし、まあ、あなたのご随意に・・・」修道僧は煮えきらない様子で答えた。
いや、そういうわけだから、僧は「ので」なんて言いたくなかったかもしれないよ。自分ではそんなつもりじゃなかったのに、「会話が成立してない」なんて言われると、わたしの言葉遣い、変なのかしら、なんてんで、他人様が「ので」をつけてるからつけとこうかなあ、なんて。
とにかく、ここのところ、マクシーモフがちょこちょこしてる姿が髣髴とするようでなければならーん・・・・・へ、へ、勝手な推測をしてもうた。そんなふうに亀山さんが考えたのかどうか、全然わかりません。そして、はたしていい訳なのかどうか、判断はできかねますが。しかし、ちょっと想像力を働かせると、亀山訳のほうがいきいきとした情景が浮かぶような気がしませんか・・・
ところで、「申しあげてください」って言い方はちょっと気になる。原訳のお食事「までには」もちょっと気になる。それと、「振りかえった」時点で気持ちを切り替えてもらいたい気もする。慇懃にね・・・つ、つ、つまらんことを・・・
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