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2007年1月21日 (日)

罪と罰・不信

『もしも誰かが私にキリストは真理の外にあると証明したとしても、そして実際に真理がキリストの外にあるとしても、真理より、キリストとともに私はとどまりたいと思います。』強い信仰、同時に、同じだけ強い不信と懐疑の告白-1854年、ドストエフスキー32歳の時の言葉である。その後の大作の登場人物たちが語った『肯定と否定』を、ドストエフスキーは既に若い頃から死ぬ時まで(彼自身の言葉)心のうちで戦わせていた。そしてその行き着いた先は--『神がなければ何をしても許される』?--いや、このような下劣な言葉が究極の思想の名に値しないことは前にどこかで述べたが、これとか、『神は認めるが、その栄光の実現の日の入場券は辞退する』とか、『神の死から、人間自身が神になるまで』とかいう言葉は、地下室の人間の言う例の壁から目をそむけるための欺瞞であり、それで自らをだますことができなくなると、精神に異常をきたすか、縄に石鹸をたっぷりと塗りつけることになる。もちろんこれは高いレベルで苦悩する人間の話で、神がなければ・・・あたりで行きつ戻りつできる人は決して不幸にはなるまい。いや、これは余談だ。

ところで、ラスコーリニコフは、イワン・カラマーゾフとかニコライ・スタヴローギンとか、スヴィドリガイロフを加えてもいいが、こういう人たちと比べるとかなり前の段階にいる。不信の入り口と言ってもいい。なぜだろう、知力では劣らないはずなのに。そういう設定だから、とか、ドストエフスキーが順序を踏んでいるから、とか言ってしまうと身もふたもないが、いくぶん若く、ましな環境で育ったせい、としておこう。

マルメラードフは病身の妻と幼い子供たちを抱えながら仕事を放擲して酔っ払い、一家は娼婦である長女ソーニャを当てにして生活している。マルメラードフを家に送って帰るラスコーリニコフはどんなことも平気になってしまう人間の卑劣さについて考えるうちに思い当たる。(以下、罪と罰第一部二の最後の部分。)

「ああでも俺が間違っていたら、」彼は突然思わず声を上げた、「実は人間が、あまねく全体が、つまり人類全体が卑劣な存在ではないとしたら、それ以外のことはすべて単に恐怖を擬装しているだけで、障壁などないってことになる、そういうことにならざるをえない!・・・」

この意味を説明しておくと、人類全体が卑劣ではない-より高尚なものは存在しない、恐怖を擬装-天罰、地獄は幻影である、障壁はない-禁じられていることなどない、で、何のことはない、『神がなければすべてが許される』と同義である。しかし、思わず実は、から、これは確信した否定ではなく、突発的によぎる疑念である。ということは、犯罪理論を考えていた時、あの凡人・非凡人の思想を考えていた時、老婆殺しを計画していた時、ラスコーリニコフは必ずしも神を否定していなかったことになる。私が『ラスコーリニコフ』という名を異端と結びつけたのはそれを考慮したからだ。

それにしてもラスコーリニコフはあまりにも老婆の命を軽視しているように見えるが・・・

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コメント

はじめまして。
「フョードルさんは頭が悪い」のところに投稿したかったのですが、できませんのでこちらに。ずれますがごめんなさい。
ドストエフスキーの一読者(59歳)ですが、お書きになっていることにとても興味を惹かれました。
「бестолковыйではあるがглупыйではない」・・この「A」ではあるが「B」ではないというところを私がどんなふうに読んだのかと思い巡らすようでした。(私は主に米川さんの訳で読んでいます。)
最初に読んだのは18歳のときでしたが、この最初にフョードルについて語られるところで
「A」ではあるが「B」ではない・・というのを「?」というひっかかりとして読んだようです。そして、読み進むにつれて「A」についても「B」についても自分の最初の疑問符つきの読みをそのつど再定義していくようでした。何年かのブランクをおいて再読したときにもやはりそんな感じがあって・・(18歳の頃には笑わなかったところに大笑いするようなこともあって。)
「A」と「B」には意味の重なりがあるのですね。そして、フョードルさんにはまた私の定義する「A」や「B」からはずんずんはみ出すようなところがあります。
さて日本語にするとしたら・・と考えても私などには及びもつきませんが。
これは奇妙なことですが、訳にかかわらず、おおまかには(そうたいして誤解しない程度には?)何かが確かに伝わってきているようにも思います。
(カルガーノフ君が「ミーチャの無実を完全に信じていた」は、断然「やめてよね」と思いますけども。)

何が書きたかったのかよくわからないようなことになりましたね。(笑)

あなたがお書きになっていること(まだ全てを読ませていただいてはおりませんが、また私は頭が悪いので(笑)全てを理解はできないのですが)の底に流れている気分のようなものに共鳴する気持ちが私にあります。
今、真摯な若い友人に触発されるようにして「罪と罰」を読み返しています。あなたの「罪と罰・不信」はとても示唆に富んでいると思いました。そして、これもその友人に触発されて・・ということなのですが、「罪と罰」の
「ひもじけりゃ犬でも殺せ」という諺の引用と、それに続くドゥーニャとの対話の場面に立ちどまるようにして考えさせられているところです。
心から言うのですが、どうぞお続けになってくださいね。上記の場面についてあなたが書かれることを読むのを心待ちにしております。

投稿: eiko | 2010年6月 1日 (火) 10時07分

eikoさんへ。
コメント有難うございます。とてもうれしいコメントです。
また、訳にかかわらず、おおまかには伝わっている、というのは、その通りだと思います。どの訳でも大丈夫ですよね。多くの読者は重箱の隅のようなことを求めるはずがありません。
「フョードルさんは頭が悪い」の部分は訳すのが難しいところです。わけのわからない、ばかげたことをしでかす人物だけれども、ばかではない、というような意味かと思います。なるべくぼんやりとさせておくほうがいいかもしれません。
読者としても、そこだけ考えると意味がとりにくいですが、おっしゃるように次第に意味は明らかになっていくのですから、あまりこだわることもないでしょう。
今は翻訳上の問題に多くの時間をとられています(そうは言っても、やはり誤訳はないほうがいいので)が、できれば、難解な箇所をじっくり考える時間も持ちたいと思っています。

投稿: coderati | 2010年6月 1日 (火) 11時18分

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