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2006年9月 1日 (金)

花婿失踪事件外伝

シャーロック・ホームズの冒険の第三話は一般に『花婿失踪事件』、もしくはそれに似た邦題になっているようです。お読みになったことがある方はおわかりでしょうが、ホームズが読者とワトソンのためには真相説明の労を取っているのに、依頼人のミス・サザーランドを、「話したところで彼女は僕を信じやしないよ。昔のペルシャ人の言った言葉を君は覚えてるかな、『虎の子供を捕らえるのは危険だが、女性の幻想を奪うのもまた危険である。』」と突き放してしまいます。あまりにもミス・サザーランドが気の毒で調べてみましたところ、実は実は、その後彼女に同情して何かと世話をしたワトソン博士が奥さんのあらぬ誤解を恐れて話を刈り込んだという噂があり、事実は以下に述べるようなものであったのかもしれません。なお、失礼に当たるといけませんので、登場人物の名はいくぶん変えてあります。物語を知らない方のため、以下に先立つ前段(といっても七分目ぐらいですか)をここに用意しました。いや、そんな外伝などでなく正式なものを訳したものを先に読みたいという方には、『該当者』という暫定的タイトルでこちらにあります。では、どうぞ。

翌日は仕事に忙殺され、六時近くなってやっと手のすいた私は馬車に飛び乗り、ベーカー街へ急いだ。だが行ってみるとホームズは一人で、そのやせた長身を肘掛け椅子に深々と丸めていた。恐ろしく並んだ瓶や試験管と純然たる塩酸の刺激臭により、彼が一日、化学の実験をしていたことがわかった。
「それで解けたかい?」私は部屋に入るなり尋ねた。
「あの問題に謎なんかないんだがね。ただ悪党を縛る法律がないんだ。」
私はホームズの悩ましげな表情に驚いた。こんな時、私の質問を誤解したふりをして、『うん、バリウム化合物の重硫酸塩だったよ』などと答えるのが彼の流儀なのだが。
「どういうことなんだ?」と私は尋ねた。
「うん、真相は明らかなんだが、誰も処罰されない、となると、ミス・サランドにとってはどうすればいちばんいいのかねえ?美しい幻想を抱いたまま、時の助けを借りるか、それとも彼女の面前で悪党の面の皮をはぐべきか?君はどう思う?」
「そりゃ彼女だって真実を知りたいだろう。あの様子じゃ一生、誓いを守りそうじゃないか。そんなことになったら気の毒だよ。だって相手は悪党なんだろう?」
「ああ、実に冷酷なやつだ。しかしただ真実を教えただけでは彼女は信じまい。とすると、どうしてもホズマー・アンドール氏に再登場してもらわなければならないが、それでは彼女にとってあまりにもショックが大きすぎると思われるんでねえ。」
「ではホズマー・アンドールを呼んでこられるんだね?」
私がその質問を発し、ホームズがまだ答えないうちに廊下に足音がして、続いてドアのノックが聞こえた。
「あの娘の義父、ジェイムズ・ウェンディ氏だ」とホームズは言い、私を目立たぬ隅の椅子へ押しやった。「六時にここへ来ると手紙で言ってきてたんだ。どうぞ!」
入ってきたのはたくましい中背の男で、三十歳ぐらい、ひげをきれいにそり、黄ばんだ肌、人当たりのよい、こびるような物腰で、驚くほど鋭い、見通すような灰色の目をしていた。
「こんばんは、ジェイムズ・ウェンディさん」とホームズが言った。「六時に僕と約束をしたこのタイプで打たれた手紙はあなたからですね?」
「そうです。残念ながら少し遅くなりましたが、そう自分の思い通りになる身ではないですからね。今回はミス・サランドがつまらないことで厄介をおかけしてすみません。私はこういうことは世間にさらけ出さない方がずっといいと思ってますんで。全く私の希望に反して彼女は来たわけですが、お気づきでもありましょうが、彼女は興奮しやすく、衝動的な娘でして、何か心に決めたときには容易に抑えられません。もちろん、あなたは警察と関係ないから、私はあなたのことをさほど気にしはしませんが、家族の不幸をこんなふうに言いふらされるのは愉快じゃありません。そのうえ、無駄な出費ですよ、だってどうしてあなたにそのホズマー・アンドールが見つけられますか?」
「ほう、するとあなたはもうホズマー・アンドール氏が姿を現すことはないとお考えなんですね。では娘さんには早く彼のことを忘れるようにさせなければいけませんね。」
「いや、」ウェンディ氏は少しあわてて言った、「そうじゃなくてどこにいるかはわからんが、そのうちひょっこり顔を見せると思うんですよ。」
「なるほど。」
全体として、私にはホームズがこの男をここへ呼んだ理由がわからなかった。鋭い質問を発するでもなく、何か役立つ情報を得るでもなく、ホームズは愛想よく会話を続け、男にフランスの旅の話などさせているのだった。男は私の方をほとんど見なかったが、私は彼をじっくりと観察し、何の実りもない訪問に男の顔に冷笑が浮かぶのにも気づいたが、ホームズは気にも留めなかった。
「何か得るところはあったのかね?」男が帰った後私はホームズに尋ねた。
「いや、予定変更でね。今日何もかも決着させるつもりだったんだが・・・君もミス・サランドが気の毒だと言うし、ねえワトソン、これは長くかかるよ。」
そう言ったきり、ホームズは何も説明してくれなかった。

しばらくこの事件のことを私たちは話題にしなかったが、二月ほどしたある日、ホームズの所を訪ねた。
「いいところへ来てくれたね、ワトソン。例の花婿失踪事件を覚えているね。あの娘さん、」と言いながらホームズはテーブルの上をかき回した、「ミス・サランドから先週来た手紙だ。読んでみたまえ。」
「あなたのおっしゃる通り、ホームズさん、」私は声に出して読んだ、「ホズマーから手紙がきましたわ。少し時間はかかりましたが、彼に会えるなら私、いくらでも待ちます。思いがけない結果も覚悟するようにあなたはおっしゃいますが、私はホズマーを信じています。確かに、彼の手紙の調子は少し変です。私を責めるでもないんですが、あの聖書にかけての誓いのことを忘れてはいけないなんて、そんなことばかり。どうしてなんでしょう、私、お付き合いしている人がいるって母に言っただけですし、それも嘘なんですもの。とにかくあなたのお言いつけ通りしてみます。母に父がフランスに行く日を訊いて、その間に結婚すると言いますわ。日取りが決まりましたらお知らせします。メアリー・サランド。
これは、どういうことなんだね、ホームズ?」
「なに、読んでの通りさ。あの娘さんは架空の相手と結婚するふりをするんだ。今日、彼女がここへ来てね、金曜日に結婚するということで打ち合わせをした。そこで君に一役買ってもらいたいんだ。実はね・・・」
私は事件の驚くべき真相を聞かされ、それから金曜日に私が果たすべき役割を細かく指示された。私が、彼女にとってはずいぶんなショック療法になる、と言うと、ホームズはだからあの時そういったじゃないか、となじるように私を見、彼女には充分覚悟させたし、独立する準備もさせていると言った。

金曜日、私は立ち会い人の資格でミス・サランドを迎えに彼女の家へ向かった。ただし、玄関のベルを鳴らす予定の時刻の二時間前に近くに馬車を止め、ホームズの予告した事件が起きるのを待った。三十分が過ぎ、一時間、一時間半が過ぎ、これであてが外れたらどうなるのだろう、と思い始めた時、一台の馬車が横を通り過ぎ、彼女の家へ近づいた。馬車から男が降り、玄関のベルを鳴らした。私もその玄関へと急いだ。男が近づく私の方へ振り向くのと戸口にミス・サランドが姿を現すのも同時なら、彼女と私が声を上げるのも同時だった。
「ホズマー!」「ウェンディさん!」
驚きに棒立ちになったアンドール氏、すなわちウェンディが立ち直って逃げ出さないように、私は彼の腕をつかみ、以前にホームズの家で会ったことがある、云々とまくし立てた。そこへ、やはり棒立ちになっているミス・サランドの横をするりと抜けてホームズが現れ、アンドール氏の顔からサングラスと付けひげを取り去り、間違いなくウェンディであることをミス・サランドの目にも明らかにした。やっと我に返ったミス・サランドは、「ああ、なんてこと!」と叫び、顔を覆って家の中へ走りこんだ。
「くそ、してやられた!なぜ、わかったんです?」しばらくして男は苦い声を絞り出した。
「タイプライターさ。タイプライターには個性があってね、新品でない限り、二つのものが寸分違わぬ印字ということはない。ところで、君が僕にくれた手紙ね、あれはホズマー・アンドール氏がミス・サランドに出した手紙と同じタイプで打たれていたんだ。彼女が結婚すると聞けば、すなわち奥さんにそう吹き込めば、必ずアンドール氏が登場すると思ったよ。」
ウェンディはその場にがっくりとくずおれた。

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