2008年8月 5日 (火)

ロシアの修道僧(10)

長いことお世話になりました亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2、どうやら最後のページまでたどりつきそうでやんす。う、う、なにひとつやり通したことのない人間が、よくぞ、よくぞ・・・って、たった一巻じゃないの。それくらいのことで、ケッ・・・とにかく、亀山先生、それから、お付き合いくださった皆様に感謝いたしやす。

さぁてと、後は野となれだぁ、与太話によりをかけて・・・といきたいところではありますが・・・どうもその・・・無理な言いがかりと感じるようでしたら、この項を(9)で終わらせたくなかったんだなとお思いください。

455ページ:まことに、わたしたちはこの地上をさまようかのようであり、かけがえのないキリストの姿が目の前になかったならぱ、わたしたちも大洪水前の人類のようにすっかり道に迷って、滅び去ったことだろう。

На земле же воистину мы как бы блуждаем, и не было бы драгоценного Христова образа пред нами, то погибли бы мы и заблудились совсем, как род человеческий пред потопом.

いや、さもありなん。キリストの姿がない→道に迷う→滅び去る。じつに筋がとおった話でやんす。きっとその通りなんざんしょ。
し、しかしですよ、それってこんなふうに書かれるものざんすか:погибли бы мы(わたしたちも滅び去った) и(そして) заблудились совсем(すっかり道に迷って)。順番がなあ。ふうむ、そういうものだと言われちまったらそれまでだけど。

いや、しかしねえ、大洪水前の人類は道に迷って滅びたのかしら。むしろ、きまりを守らなかったんじゃなかったっけ。創世記6章11~13節を見るとお:

この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。(日本聖書協会新共同訳)

だとさ。そりゃまあ、道に迷うってのもかなり意味は広いから、ねえ。でも、ちょびっとちゃうんとちゃうんじゃないかってね。堕落と不法でしょ。そこでさ、погибатьは堕落する、заблудитьсяは道を踏み外すといきたいなあ。

459-460ぺージ:悪行を犯した者も、もしかするとおまえの光に照らされていれば、それを犯さずにすんだかもしれないのだ。
 そして、かりにおまえが光を与えながら、それでもおまえの光のもとで人々が救われないことに気づいても、心をしっかり保ち、天の光の力を疑ってはいけない。たとえいまは救われなかったにしても、いずれは救われるのだということを信じるがいい。そしてその後も救われなくとも、彼らの息子たちは救われるだろう。なぜなら、おまえの光は、たとえおまえが死んでも消えることはないのだから、正しい人は去っても、彼の光は残るのだから。
 人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。人類は預言者を受け入れようとせず、次から次へと彼らを殺してきたが、人々は自分たちの受難者を愛し、迫害された者たちをも敬う。

Спасаются же и всегда по смерти спасающего:人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。・・・いや、さもありなん。きっとそうなんでしょう。うぅむ、それに、名訳という声もある(こちら<ドストエフ好きーのページ)ところに異を唱えるとは無粋でげすが・・・

しかし、『つねに死後』でなくっても、ねえ。 前の段落から長々引用したのは若干、『つねに死後』は矛盾しやせんかと思って。ね、生きてるうちに救っちゃうこともあるように書かれてなあい?というかね、『つねに死後』なら最初からそう言えっての。

いやさ、『正しい人は去っても、彼の光は残る』。だから、ある救おうとする者が死んでも、光は残って、したがって、救いはいつでも・・・つまりさ、死んだら、じゃなく、死んでも・・・そんなふうなながれではないかと・・・

.あーあ・・・えーえ・・・まあね・・・

なにごとも終りは空虚な大納言

甘納豆なんざ喰ったってなあ、太助、現実はどもならんぜ

おぅよ、大門からこっち、一切の希望を棄てるなんて甘っちょろい言葉は薬にしたくってもねえからなあ

いのちみじかく わたる浮世は あめもつらいぜ ・・・・・

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2008年7月29日 (火)

ロシアの修道僧(9)

暑さのせいでもないけれど、おつむのほうがおやすみで。ま、いまにはじまったこっちゃないけど。そういうわけで、いつにもましてとぼけたことを言ってもご容赦を。

亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2より

420ページ:そうして彼はついに心の底から、自分の罪を告白することでまちがいなく自分の魂を癒し、永遠に心の安らぎを得ることができると信じるようになった。
 しかし、いったんそうは信じられても、心の奥では恐怖の念におびえていた。どうやってそれを実行すればよいか、およそ見当がつかなかったのだ。

Наконец уверовал всем сердцем своим,что, объявив свое преступление, излечит душу свою несомненно и успокоится раз навсегда. Но, уверовав, почувствовал в сердце ужас, ибо: как исполнить?

わかりやすい・・・しかし、信じる一方、恐怖もあるのではなく、確信したために恐怖心が生じた、のではなかろか。確信によって、夢想が実行すべきことに変わったので・・・

440ページ:公爵家に出入りしても、しょせんは性根の腐った百姓にすぎない。

Ездит ко князьям, а всего-то сам мужик порченый

なんと申しましょうか・・・・・ 大統領が他国の首脳に「おたくには××がいますか」とのたまわったとかいう某国でのムカシ(かなあ)のおはなし。××解放に献身するきわめて人道的なお方が、駐車場で自分の車にわるさをする××を見つけて、「この×××め!」とお罵りになった、とか・・・・・ なんだかそれと似たような・・・

442ぺーじ:これは夢ではない、わたしはこれまで、わたしたちの偉大な民衆のうちにひそむ真に卓越した資質に賛嘆の念を覚えてきた。この目で見たのだから証言もできるが、それを見るたびに悪臭に満ちた罪の数々や、ロシアの民衆の乞食のような外見にもかかわらず賛嘆の思いを禁じえないできた

поражало меня всю жизнь в великом народе нашем его достоинство благолепное и истинное, сам видел, сам свидетельствовать могу, видел и удивлялся, видел, несмотря даже на смрад грехов и нищий вид народа нашего.

問題は「にもかかわらず」。つまり、民衆の罪や外見は、その卓越した資質を見たときに賛嘆の念を覚える障害となるのか。それとも、それを見えにくくしているのか・・・という問題。

442ページ:じっさいにこんな言葉は吐かないにしても、(彼らはまだそういう口のきき方を知らないからだ)、彼らはそんなふうに行動し、そんなふうに経験してきたのを、わたし自身この目で見てきた

Воистину, если не говорят сего (ибо не умеют еще сказать сего), то так поступают, сам видел, сам испытывал, (イタリックは原文のまま)

「経験してきた」のも「見た」のも同じ主語のように見えますが・・・ところで、「行動し」は、なぜイタリックになっているのかな。そのように行動で示しているというような意味がこめられているのでしょうか。

451ページ:動物を愛しなさい。神は動物たちに、原初の思考と穏やかな愛を授けたのだから。動物を怒ってはいけない、苦しめてはならない、喜びを奪ってはならない、神の御心に逆らってはならない。

Животных любите: им бог дал начало мысли и радость безмятежную. Не возмущайте же ее, не мучьте их, не отнимайте у них радости, не противьтесь мысли божией

「動物を怒ってはいけない」のところ。疑問一 なぜих(彼ら)でなく、ее(彼女)なのか。つまり、動物、じゃないんじゃないのぉ。疑問二 「怒っては」じゃなく、少なくとも、「怒らせては」じゃないのか。
では、ееはなんざましょ。直前のрадость безмятежнуюかなあ。一方、возмущатьの意味のひとつ、Побуждать к мятежуは、普通、扇動するというようなことらしいけど、ееがрадость безмятежную(безはwithout、мятежныйは形容詞形) とすれば、結局、穏やかな愛をかき乱す、ってな意味ではござらぬか。
радостьがだぶってちょっと妙だけど、「それをかき乱してはいけない、 動物たちを苦しめてはならない、その喜びを奪ってはならない」とすれば、そんなに違和感はないような・・・
ところで、後のほうのрадостьは「喜び」なのに、なぜ前のほうは「愛」になさったのだろう。

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2008年7月18日 (金)

ロシアの修道僧(8)

亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2の436ページから。

自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自由の本質を歪めているのだ。なぜなら彼らはそこに、数多くの無意味でおろかな習慣、このうえなくばかげた思いつきを生み落としているからだ。

Понимая свободу как приумножение и скорое утоление потребностей искажают природу свою, ибо зарождают в себе много бессмысленных и глупых желаний, привычек и нелепейших выдумок.

えー、わたくし、ルールを知らないので困っちゃうんですがね、こういう場合свойは『彼らの』だと思っていたのですが・・・
『自由の本質』と訳されてますねえ。それに伴ってв себе は『そこに』。『そこ』とはどこだ?自由?
しかし、アホな習慣も、ばかばかしい思いつきも自らのうちに生じると考えるほうが普通・・・いや、普通がいいってんじゃないけど、普通でよさそうな時は普通にするのが普通・・・
そこで、やっぱり、自由の本質じゃなく、自らの本質・・・だか性質だか人間性だか、そんなふうに訳すのが普通・・・じゃないかなあ・・・

フン、普通がいいなんて言ってるんじゃ、あーた、えらくなれませんことよ。むふふ。

ところで、某週刊誌の影響で増えていたアクセスももとに戻ったようでげす。それで、積み残してきた疑問を片付けちゃおうかと。フム。いや、そのへんの理屈は自分でも意味不明ですが・・・ま、どうとでも。

367ページ:すると彼はつと立ち上がり、鳥たちの姿にじっと見とれながら、小鳥たちにまで許しを請うた。

И стал он вдруг, глядя на них и любуясь, просить и у них прощения:

思い切った訳ではあり、感動的情景ではあるのですがぁ、そのお、なんです、ふと疑問がわいてきましてね、この時、マルケルにつと立ち上がる体力があったかどうか。このさい、「小鳥たちにまで許しを請い始めた」という解釈もある、とだけ言っときますかねえ。

372ページ:本はあまりに大きすぎて、当時のわたしには運ぶのさえたいへんそうに見えたが、少年はそれを経机にのせると、・・・

такою большою, что, показалось мне тогда, с трудом даже и нес ее, и возложил на налой

実につまらんことで難癖をつけるようで・・・あのお、「当時のわたしには」とやると、自分が運ぶことを想像していることになるけど、それがいいのかどうか・・・たとえば:

もって行くのもたいへんだなあとその時思ったほど大きな本だったが、・・・

392ページ:そしてそのとき、わたしはふと兄のマルケルが死にぎわに召使たちに放った言葉を思いだした。

И вспомнил я тут моего брата Маркела и слова его пред смертью слугам

兄マルケルと兄が死にぎわに召使に放った言葉・・・ですね。

412ページ:また時によると、長いこと刺しつらぬくようjなまなざしでこちらをみつめることもあった。「いよいよ何かしゃべりだすぞ」と思っていると、彼はいきなり話の腰を折って、ごくありきたりな世間話をはじめるのである。

Иногда же долго и как бы пронзительно смотрит на меня — думаю: «Что-нибудь сейчас да и скажет», а он вдруг перебьет и заговорит о чем-нибудь известном и обыкновенном

どうも「腰を折る」べき話を「わたし」がしているように思えない。перебьет、まあ腰を折ったにはちがいないんでしょうが。「わたし」の思いをさえぎったか、自分の思いを断ち切ったか、そんな意味じゃないでしょうか。

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2008年7月11日 (金)

ロシアの修道僧(7)

たとえば、こないな文があるとするだよ。

There was a pause again. Mr. Power turned to Mrs. Kernan and said with abrupt joviality:

前置詞+形容詞+名詞というのは、やっかいなことがあるだな。
何も考えずに「突然陽気に言った」でいいこともあるんだろうけど。どうしても「陽気」を修飾したいと思うと意外に難しい。突然陽気になったわけじゃなし・・・
某先生は、いや、まったく不確かな記憶でスマンことじゃがの、「とってつけたように陽気に」だったかな。うまい、名訳!・・・か。
なるほど、パワー氏とカーナン夫人はひと芝居打っているわけだし、読者もそれがわかっている(ということにしといてちょうだいよ)。いかにも、この一句は、不自然さ、わざとらしさをかもし出すものかもしれないな。
だが、しかし、一座の中でカーナン氏だけは(少なくとも表面上)だまされていなければならない(ということにしといてちょうだいよ)。とすると、わざとらしさは表面に出てはならんのだよ、だんなさん。
つまり、それが「とってつけた」ようなものであるにもせよ(それにはそれなりの解釈が必要なわけで、必ずしも賛成するわけではなーい)、それは隠されているべきであり、いかに正しい解釈であっても、そういうのは訳者の越権行為ではないのくわわーんだべ。ましてやこのabruptが選び抜かれた言葉だとすれば・・・

ドストエフスキーはそんなうるさかことを言わんかもしれんけんど。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』435ページを見てみませう。

彼らはいまは孤独のなかで、過去の神父、使徒、殉教者から受けついだキリストの御姿を、みごとに、そのままの姿で、神の真理の清らかさのなかで保持しており、時がくれば、揺らぎだした世界の真理の前にその姿を現そうとしている。

Образ Христов хранят пока в уединении своем благолепно и неискаженно, в чистоте правды божией, от древнейших отцов, апостолов и мучеников, и, когда надо будет, явят его поколебавшейся правде мира.

たしかに、主語は彼らだし、ロシアの修道僧とはどういうものかを述べた箇所だし・・・するけんど、文頭にキリストの姿がある原文とはおそらく印象が違うんじゃなかろか、ねえ。特に、『彼らはいまは孤独のなかで』の節で、『彼ら』にぐーんと重みがかかっとる。
また、『姿』を三度も繰り返すことで、間違いのないように工夫されちょるが、やはり、『彼らは・・・・・その姿を現そうとしている』という文は誤解の余地あり、かな。というより、こういう『姿を現す』の使い方はあまりわたくしめにはなじみがないのでございます。ま、おらの無教養のせいかしらんでな。

ともかく、『いまは』と『時がくれば』は『キリストの御姿』においてくっきり対比されるとよかよねえ。

キリストの御姿を、過去の神父、使徒、殉教者から受けついだ彼らは、いまは孤独のうちに・・・・・保持しているが、・・・・・

はあ、いまやっつ、ですかあ。
それはそれ、はなしかわって、『神の真理の清らかさのなかで』というのも、わかったようでなかなかでござる。これも、『彼ら』がそのなかにいるってことかな・・・
в чистоте というと、よく例として、содержать в чистотеなんてのがのっとります。部屋を「きれいにしている」とか?
だから、『神の真理』がくっついてなけりゃ、たとえば、『清らかに』保持するで、なあんでもなかあ・・・にちがいない。ところで、このさい、『清らか』がいいかどうかは、読み手によって意見の分かれるところかな。
さてさて、神の真理の清らかさ、てのは、つまり、神の真理とは清らかなものだという意味かな。ウーィ、こんだらふうによくわからん時は(わからんのはおらひとりかしれんがの)・・・
あっちこっちを見比べる。最後の一文。『キリストの姿』が『世界の真理』と対峙するだな。っつうことは、とうじぇーん、『キリストの姿』は『神の真理』と等価なものとなある。ウィ、したがって、清らかな神の真理として、でよろしい、かな・・・というような・・・気も・・・えーい、はなしかわって。

благолепно и неискаженноだがね。неискаженноは、歪めることなく、だから、『そのままの姿で』なんだな。するとだねえ、ちみい、благолепноもキリストの姿を形容するものじゃないのかねえ、保持ぶりを示すのではなく。благолепныйは壮麗とか、厳粛にして美しいとか、そんな意味らしいけど・・・え、『みごとに』で」いい?そうかなあ。

まあいいか。しかし、べつにどうということもないのに、こう長々書いているというのは、ふーう、暑さのせいですか。みなさん、おからだ大切に・・・

そうだ、この一文の直後、 Сия мысль великая(なんという偉大な思想だろうか!:亀山訳)と続くのだが、どの辺が『偉大な思想』なんざましょ。

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2008年7月 4日 (金)

ロシアの修道僧(6)

どうしましょうねえ。もうすぐ2巻も終わるけど。3巻・・・

どしろうとが、よくわかりもしないで出まかせを無責任に垂れ流している。
そもそもこういう場でやるべきことではない。
まして匿名ときちゃなおさらだ。
ふざけた態度がケシカラーン。
だいたい本質と関係ないつまらん話が多い。

ってな声のある一方、・・・まあ、もう一方はいいや。

要するに、こういう体裁が遠慮せずに言いやすいからそうしてるわけ。さいわいにして面倒な方々と関係なくやれるし・・・どうしようかなあ。

ま、とりあえず、いますこしがんばりましょうか。

亀山訳2の380ページ:神父さま、先生方、みなさんがとっくの昔からご存じの話で、わたしなどより百倍も上手にみごとに説いておられることを、まるで幼い子どもに話しかけるみたいにお話ししているのを、どうか怒らずお許しいただきたい。

Отцы и учители, простите и не сердитесь, что как малый младенец толкую о том, что давно уже знаете и о чем меня же научите, стократ искуснее и благолепнее.

なるほど、「まるで幼い子どもに話しかけるみたいに」のかわりに「幼い子どものように」を入れると しっくりこない(どうしてかはよくわからないけど、目的語が頭でっかちなので、そんなふうに話をするのが幼い子どもらしいと錯覚させてしまうからかな)けれども、как малый младенецは、やはり「幼い子どもみたいに」のように見えるのだが・・・だとすると、「幼い子どものようにお話ししている、それもみなさんが・・・」式がよろしいんじゃないのかなあ。 

381ページ:仕事の中身があまりに愚直すぎて、下手をすると人に笑われるのではないかと恐れ、言い出すのもはばかられるが、その実、これはきわめてたしかなやり方なのだ!

Дело столь простодушное, что иной раз боимся даже и высказать, ибо над тобою же засмеются, а между тем сколь оно верное!

仕事の中身:民衆の心を目覚めさせる素朴な話を読んできかせること(381ページ)。愚直:愚かなライナー、ではなくて、そういうことをばか正直に続けること・・・しかし、これはあたりまえのことをしているわけで愚直かどうか、きわめてムズ。
そもそも、長老はんは、「収入が少なくて民衆に聖書を教えることもままならない」とこぼす司祭たち(377ページ)に対して、せめて一週間に一時間さいて、その仕事をやっていただきたいとおっしゃってはるのよ。そうしたところで、とてもとても愚直な仕事ぶりとは・・・
だから「中身」なんでしょ。そうかあ。そうねえ。でも、やはり、司祭が民衆に聖書を読んで聞かせることが言い出すのもはばかられるほど愚直なのか・・・
「一粒の種を彼らの魂に投げ入れる」(380ページ)ことの意義や、「わたしたちの国の民衆がどれほど慈悲深く、感激の思いに満たされ、いずれ百倍もの恩返しをしてくれる」(381ページ)ことを信じるのが、あまりにもпростодушноеなのではないか?

素朴な信頼がロシアを救う!

いや、しかし、それがね、それと関連してこの後ろのところ(382ページ、『神を信じない者は、神の僕である民衆を信じない』以下が難しいんだなあ。宿題。

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2008年6月27日 (金)

ロシアの修道僧(5)

すっかり亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読むブログになってしまいましたが。

だーれのせーでもありゃしない みんなおいらが・・・・・

あの日あの時、あんなことを書こうと思わなければ、今頃は気楽に悪魔の足かなんか訳して、なんだこりゃと笑われて・・・ま、大差なしですか。

2巻もあと少し。気合をいれずにいきましょうかねえ。

383-4ページ:馬や牛の顔をよくごらんよなんて優しい表情だろう。自分に無慈悲な鞭をくれる人間に対して、あんなに愛着を示している。顔にはほら、なんという信頼、なんという美しさがあるんだろうね。

テキスト:посмотри на лики их: какая кротость, какая привязанность к человеку, часто бьющему его безжалостно, какая незлобивость, какая доверчивость и какая красота в его лике.

「顔をよくごらんよ」・・・「顔にはほら」--ちょいと妙な言い方でございますよ。たしかに、テキストでも「顔」(лик)が繰り返されてますが。後のほうを「なんて美しい顔だろう」とかなんとか処理したらどうでっしゃろ。あー、よけいなお世話だこと。それに、そうすっと、せっかくの「なんて優しい表情だろう」が・・・だんなさん、そこですがな。その、なんだ、какая незлобивостьがね、訳されてないんですわ。какая кротостьと意味が近いからですかね。しかし、кротостьのほうはここでは「従順さ」ではないですかな。後ろの、鞭をくれる人間に対して愛着を示す、の前段として。

404ページ:椅子に腰をおろし、「あなたが」と彼は言葉をつづけた。「たいへん偉大な精神力の持ち主でおられることが、わたしにはわかります。ご自分の命をかけたあの事件で、あなたはご自分の名誉のために、恐れることなく真理に仕え、一同の軽蔑をも立派に耐え抜かれたのですから」

テキスト:Сел он. «Великую, — продолжает он, — вижу в вас силу характера, ибо не побоялись истине послужить в таком деле, в каком рисковали, за свою правду, общее презрение от всех понести ».

「ご自分の命」以下ですが、この際恐れたことは死ぬことではないわけで、というか、命をかけて真理に仕えたのではないわけで、というか、命をかけるのはまったく別の事情で最初から決まっていたことで、えーい、要するに、命の危険はとりあえず他所においといてもらいたいわけです。話をぼかさないために。
一同の軽蔑こそ恐れるべきことだから。というか、побоялись  послужить(恐れず仕える)、рисковали  понести(あえて耐える)という構造ではないかと思ったので。
それから、за свою правду「ご自分の名誉のために」ですが、これをして名誉のためと呼ぶのはあまりにも高級な感覚、というか、わかりにくいんじゃないかな。というか、自分の正しいと思うことをするために、のような意味ではないでしょうかねえ。

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2008年6月20日 (金)

ロシアの修道僧(4)

赤く咲くのはケチの花 黒く咲くのはボリの花

丘ははなざかり・・・・・新訳はスタンダールタリラリラ~ン

そんなこんなで、ボードレールの『悪の華』の翻訳をなさった平岡公彦さんのブログ、それから内田樹さんのブログ(のうち[『忙しい週末と翻訳のこと』)を拝見しやした。それぞれおもしろぉあんしたが、内田さんのほうはアクセスが多いせいか、お上品なコメントがいっぱいで恥ずかしくなっちまいやした・・・ひとのふりみてスイングスイング・・・

そういや、「微に入り細に入り」(野崎訳でっせ)で笑ってしまったと(また別の)ブログに書いてらっしゃる方があったけど、辞書にのってまっせ。そんなことで笑ってみせるなんて・・・なんか恥ずかしいなあ・・・ひとのふりみてかさにかかるは・・・・・かさがないのよ 都会では・・・

おついでであんすが、やみぃの屋根裏部屋というHP、カニグズバーグをめぐる冒険。原作者にお手紙したり、岩波書店にお手紙したり、改訂版を出させるまでもっていった、熱意、原作に対する愛情、羨ましいかぎりであんす。

えー、まくらくらくら らくらくまくら・・・えー、なくしたきっかけときじろう・・・えー、むにゃむにゃ、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2の381ページ:

さらに『使徒言行録』では、サウロの呼びかけ(これはもう、ぜひ読んでいただかなくては!)の話、終わりに『殉教者列伝』では、・・・・・

а потом из Деяний апостольских обращение Савла (это непременно, непременно!), а наконец, и из Четьи-Миней

サウロの呼びかけ、とはなんであんすか?お世話になっているテキストには註がついとる。『使徒言行録』9の4を見よ、だっか:

サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 (日本聖書協会新共同訳)

ははあ、なある。これがキリストの声なんであんすね・・・ち、ちいと待ってくらんせえ。この註は変だで。だってまさむね、これではサウロの呼びかけ、じゃなくて、サウロへの呼びかけじゃあないすか
обращениеの主体はサウロであんしょ。ちゃいまっか?ロシアではそういうんだ、と言われちまったらそれまでだけど。

えーと、サウロはキリストの弟子たちの迫害者だった。ほんで、弟子たちを捕らえようとダマスコへ向かう途中、

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 (使徒言行録9章3-9)

ほんでもって、ダマスコにいるアナニアという弟子に 主が呼びかける・・・

しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 食事をして元気を取り戻した。(同9章13-19)

長々引用しちゃいましたが、これを称して、『サウロの回心』。
というわけでобращениеは回心。 

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2008年6月15日 (日)

ロシアの修道僧(3)

ゾシマ長老が兄マルケルの思い出を語っている時・・・

ほかにもまだいろんなことがあったが、それらを思い出して、いちいちここに書き込むわけにもいかない。そう、兄の部屋に一人で入っていったときのことだ。(亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2の368ページ)

И много еще было, чего и не припомнить и не вписать

はて、書き込むって・・・アリョーシャが突然割って入ったかや・・・いや、ゾシマ長老が話し続けているようだ・・・ねえ。ちょっと解せないのですがぁ・・・たしかに、вписатьは書き込む、のようだけど・・・別の意味はないのかなあ。вписывать:辞書にЗапечатлеваться в памяти людей, общества (о значительных событиях, героических делах кого-л. и т.п.)(人の記憶に焼きつくとか?)というのもあるけど、その線ではだめかねえ。

次は、幼い日のゾシマ長老に初めて精神的な啓示のようなものが訪れた時のこと、

当時のわたしの想像をいっぱいに占めていたのは、ラクダたちであり、神とあのようにして話をする悪魔であり、自分の僕をあのように破滅させてしまうかみであり、「たとえわたしを罰しようと、主よ、あなたの御名が讃えられますように」と叫ぶ神の僕であり、さらには、堂内に静かにひびきわたる「わたしの祈りが聞きとどけられますように!」の甘い歌声、司祭がたずさえる香炉から立ちのぼる煙、膝を折って祈りを捧げる人々の姿だった!(374ページ)

これを普通に読むと、ラクダから始まって祈りを捧げる人々までが、わたしの想像をいっぱいに占めていた、ですよね。しかし、普通に考えると、少年が想像をかきたてられたのはヨブ記に関してであり、歌声やらなんやらは実際に見聞きしたこと。

тогда:当時の(「その時」より時間的範囲が広い)、затем:さらには(「その後で」のような時間的経過がない)をみると、あえてそう訳されたのかな。

しかし、ここは、啓示を受けたその日のことが「まざまざと目の前によみがえって」(373ページ)きているのでしょう。司祭がたずさえる香炉から立ちのぼる煙:и снова фимиам от кадила священника にはснова(再び)がついている(神の光と香の煙が溶けあうのを感動の思いで眺める、と372ページに)。したがって、затемの前(原文にはダッシュがある)で想像は終わり。そこで再び教会内の情景。「堂内に静かに・・・」以下で想像力を働かせるのは幼き日のゾシマ長老ではなくて読者。ゾシマ長老の感動ぶりを・・・

なんだか我ながらピントはずれなことを書いているような・・・

次は376ページ

そうしたもろもろのうえに、人々を感動にみちびき、和解させ、すべてを許してくれる神の真理が宿るからだ!
 命が尽きようとするいま、わたしにはこのことがわかるし、耳にも聞こえてくるが、残り少なくなった日々の訪れごとに、わたしは自分のこの地上での人生が、新しい、無限の、知られていない、しかし間近に迫った来世での人生のひとつに触れ合おうとしているのを感じ、・・・・・

Кончается жизнь моя, знаю и слышу это,

このэтоはКончается жизнь моя(命が尽きようとしている)を指すと思うんだが・・・つまり、それはわかっているけれども、という話の流れ・・・亀山訳の「このこと」は前の部分を指しているのだろうか?それもよくわからん・・・それとслышу。これも「わかる」を強調したものか、「感じる」という意味で使われているのではなかろうか。すぐ後ろにчувствую(感じる)があるので、重複を避けるために・・・

どうも釈然としない話ばかりですまんこってす・・・

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2008年6月11日 (水)

ロシアの修道僧(2)

うわぁ、野崎歓訳のスタンダール『赤と黒]』(光文社)も大変なことになってまんがな。日本スタンダール研究会会報バックナンバーのNo.18をごらんあれ。

野崎訳は、読んだ人に聞いたら、カラキョーと一緒で弾むようにして読めるとか。ピアノの演奏の良し悪しだってミスタッチのあるなしで決まるんじゃないがな、と説教されてしまいましたわ。なんの関係があるんだ?

それはそれ、批判をなさっているのは立命館大学教授の下川茂さん(参照)。内容はわてにはわからんけどな、しかし、「前代未聞の欠陥翻訳」という表現はともかく(なんせ、過去にそーゆーものが存在しない、については氏を信用するよりないでな。いや、どこやらには、A氏の翻訳に誤訳を見つけ、B氏の翻訳の当該箇所は正しい、ゆえにB氏の翻訳に誤訳はない、てな、あまりにロシア文学的?な論理を駆使する人がいるでよ、・・・うわぁい、かっこの中が長すぎるぜ、バッカモン・・・フム、どあほとは言うが、どばかとはイワンのばか)、少なくとも下川さんはご自分で丹念に検証なさっているようでっせ。ピ、ピ、ピーのみーととと。まあいいや、やじうまとしてははやいとこアカクロつけてもらいてえな。

しかし、光文社の編集長に「瑣末な誤訳論争」と言われると、可哀想なくらい苦労してる身としては哀しいものが・・・へ、へ、ありまへん。どうせ、ねじれにねじれとりますで・・・・・さて、黒魔族に戻りましょっか。

親の家からわたしが持ち出せたものは、かけがえのない思い出だけだった。なぜなら人間にとって、父母の家ですごしたごく幼い時代の思い出にまさる尊いものはほかにないからで、愛と信頼がかろうじてあるだけの貧しい家族でも、ほとんどの場合がつねにそうなのである。
たしかに、どんなにひどい家族にも、かけがえのない思い出が保たれることがある。(亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2の371ページ)

если даже в семействе хоть только чуть-чуть любовь да союз.

原文に「貧しい」とは書いてないがな。愛と信頼がかろうじてあるだけ→ほかになにもない→貧しい、でっか。

貧しいから あなたにあげるものは 五月のやわらかな若葉と・・・樋口一葉ですって?

貧しいから、ひどい家族だなんて、ひどーい・・・こ、こら、は、話をそらすな。ふむ、愛と信頼がかろうじてある(чуть-чуть любовь да союз)ってのは、愛と信頼が乏しいってことで、それでもほんの少しだけでもあればってことでしょ。うしろに「貧しい」をつけると違う意味になってまうで。このさい、貧しいとどうなんて話はしとらん。

・・・「いいかい、リーザ、ひとつ自分のことを話してみなよ!もし子供の時分から、ぼくに家族があったら、ぼくは、いまみたいな人間にはならなかったと思うのさ。これはよく考えることなんだ。だって、家庭のなかがどんなにうまくいっていなくても、やはり父母となれば、他人とはちがって、仇敵(かたき)じゃない。せめて一年に一度くらいでも、愛情を示してくれるだろうさ。なんといったって、自分の家にいるんだ、という自覚がある。(江川卓訳『地下室の手記』より)

え、参考にならん?そうけえそうけえ・・・それにしても、こんな短い小説で、こんな突飛な誤植?(я про себя скажу:自分のことを話してみるよ)が残ってるんだから(新潮文庫3刷)、チェックってそんなに簡単じゃないんだよ、きっと。

ところで、союзですがね、ひとつになることって意味ですかねえ、「信頼」はかなりサービス。わてなら・・・うーん・・・・・(スタッカートをつけて):

なぜか かぜに きえたぁの ぁあなた をせめないわ

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2008年6月 8日 (日)

ロシアの修道僧

ゾシマ長老の前に、別の坊さんの話を。なんだか気になって。

フョードルがイワンにチェルマシニャーへ行ってちょと頼んでるところ。森の伐採に一万一千出すというゴルストキンという男が着いたとイリインスキー神父が手紙で知らせてきた。イワンが行ってみて、ゴルストキンが本気ならフョードルが出かけていくんだけんど・・・

だがあれが、もしぜんぶ坊主の作り話だとしたら、いますぐそこへ駆けつける理由もなかろう?(亀山訳338ページ)

まったくじつにずうずうしい頼みかただ、てめえで行けっての・・・って話じゃなくて、問題は「坊主の作り話」でげす。イリインスキーさんは作り話をする坊さんじゃなさそうなんじゃがのお。ただ話を伝えてるだけでがしょ、ねえ。だとすると、「坊主」か「作り話」かどっちかがおかしい、でしょ。

А теперь чего я туда поскачу, если всё это батька выдумал?

батькаは坊主、 выдумалは作り話をする、でっか。しかし、あとは一貫してбатюшка(神父)と呼んでいるんだがね。どうでしょ、ゴルストキンのことをбатькаと呼ぶわけにはいかんのじゃろか・・・

さて、いよいよ第6編、ロシアの修道僧というタイトルなんですねえ・・・・・

いきなりつまらんこってすが、360ページ:

いまは、この談話のこまかい中身にいちいち立ち入らず、アレクセイ・カラマーゾフの原稿にしたがい、長老の話だけに限るということをあらかじめお断りしておきたい。

не излагая всех подробностей беседыは、こまかい中身がどうのなんていうこまかいことを言ってるんじゃなくて、細大漏らさず語ることはせず、と言いたいんじゃないかなんていうこまかいことはどうでもよかったですかね。

363ページ:「こうしてあなたたちといっしょにいても、ぼくは別世界の住人なんだ。もしかしたら一年とは生きられないかもしれない」

Не жилец я на свете меж вами, может, и года не проживу

Не жилец я на свете -この世の住人ではない。辞書にはНе жилецは長生きできない人とか、死期の近い病人とか書いてある。と、いつまでもあなたがたとともにこの世にいられる人間ではない、という意味か。「いっしょにいても別世界の住人」とはずいぶん意味が違う。まだ、「感動的」な言葉で別世界の住人ぶりを発揮するマルケルではなかったし・・・・・では、367ページはどうか。

あなたのお子さんはもう俗世の人ではないですね」母が玄関の階段まで医師を見送ると、相手はこう言った。「病気のせいで精神錯乱におちいっています」。

Не жилец он на свете, ваш сын

なるほどマルケルは俗世の人とは思えぬ言葉を発している。しかし、医師はそれを精神錯乱と言っている。そうした(彼にとっての)「医学的事実」を前に、医者が「俗世の人」というようなことを言うだろうか・・・

最初に往診に来た医師が「春いっぱいはもたない」と言っている(362ページ)からして、ここは、覚悟を、じゃないかしら。ところで、エイゼンシュミットさんは最初に往診に来た医者じゃない?(367ページ、まもなく医者が往診にくるようになった)

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