2009年7月 9日 (木)

悪意の報酬 / 地下室の手記を・・・2

Я не только злым, но далее и ничем не сумел сделаться: ни злым, ни добрым, ни подлецом, ни честным, ни героем, ни насекомым

俺は意地悪な人間になれなかっただけじゃない。何者にも──意地悪にも、善良にも、手のつけられないろくでなしにも、正直者にも、英雄にも、虫けらにさえ、なりえなかった。(光文社古典新訳文庫 安岡治子訳 12ページ)

今日は「意地悪」についてちょっと。「意地悪」はとてもいい訳という気もするし、そうでない気もするし・・・злымとдобрымは明白な反意語。悪意の人と善意の人。しかし、善良と意地悪はどうだろう?と思って。

この『地下室の手記』、冒頭からЯ человек больной... Я злой человек(ぼくは病んだ人間だ・・・ぼくは意地の悪い人間だー新潮文庫 江川卓訳5ページ)で始まり、зло、злой、злостьを連発する。これらはみな、悪意(敵意)があるということだ。悪意があるのと意地悪とはちょっと感じが違う。だいたい、悪意は胸のうちにあるが、意地悪は行為で判断されるようだ。

意地悪:わざと人を困らせたりつらくあたったりすること。また、そうするさま、人。とか、わざと人を困らせるような事ばかりする様子だ。とか。

場合によっては悪意なんかなかったりして。現に主人公の「ぼく」がそうだ。役所で何か申請に来た人に、明らかに《意地悪な態度》をとっておきながら、「おれは意地悪どころか、むかっ腹をたてているのでもありはしない、理由もなく小雀どもをおどしつけて、それでいい気になっているだけだと、言うも恥ずかしい意識をひきずっていた」(江川訳7ページ)などと言ってのけているのだ。さらに、自分が意地悪な役人だったと言ったのは自分を中傷したとも言っている。

じつをいえば、請願人とも、例の将校とも、ぼくはただ悪ふざけをしていただけで、本質的にはけっして意地悪になれたためしがないのである。(江川訳7ページ)

悪ふざけだそうだ。どうだ、諸君、こういう役人は「意地悪」じゃないのか?

何を言ってるんだ、君は! 「意地悪」以外に一語でぴったりした表現があるか? それに「意地悪」でもないのに意地悪をするってところがいいじゃないか。肝心なのは、最初にЯ злой человекと言っておきながら、後でそれを否定してみせることだ。そこさえ押さえていれば・・・

そうなんだなあ。それに、「意地悪」という言葉は世界が小さい。それに、自分を意地悪というのはいくらか滑稽だ。冒頭の「ぼくは意地の悪い人間だ」が妙な話に絶妙のバランスを与えているのかもしれない。それを「ぼくは悪意のある人間だ」とすると、どうなるだろう・・・キツい? 重い?・・・だが、実際には、そうなのかもしれない。

それはともかく、第一章の話運びを整理してみると・・・はじめにЯ злой человекと言って、それから、その《悪意》がどのようなものか、説明される。まず、

я не хочу лечиться со злости
ぼくが医者にかからぬのは、憎らしいからなのだ(江川訳6ページ)

である。どうだろう、この「憎らしい」を「意地の悪い」と同質のものと捉えられるか? 捉えられるなら名訳であり、捉えられなければ迷訳だ。どうも怪しい。だいたい、「憎らしいからなのだ」と言われたら、諸君、「誰が?」、「医者がか?」と訊きたくなるのが人情だろ? ところが、上記に続く文章はそんなこちらの気分に頓着せず、

Вот вы этого, наверно, не изволите понимать
といっても、ここのところは、おそらく諸君のご理解をいただけぬ点だろう(江川訳6ページ)

ときたもんだ。ご理解もなにも、まるで身勝手な文章じゃないか。いや、どうせご理解しないんだからいいんだけどさ。それに、この後、なんとなく腑に落ちるようになってもいるから。しかし、僕の考えでは、上のアレは

ぼくが医者にかからぬのは、意地が悪いからなのだ

としたほうが、論理的であり、ご理解できぬ点もはっきりする。定義に基づいているので、理由として挙げる根拠があるし、また対象を必要としない。そうあるべきだ。従って、当該の一文だけを読みやすくする「憎らしい」を僕は、断然、断然、却下する・・・なあんて、りきんだって、なんにもなりゃしないがね。ま、とにかく、そういうこと。えーと、それからだけど、

Я был злой чиновник
ぼくは意地悪な役人だった(江川訳6ページ)

と続く。これはもう読んだそのまま。それから、本当は意地悪でもなんでもないなんて話が展開され、結論は、一番上の一文である。再掲、

俺は意地悪な人間になれなかっただけじゃない。何者にも──意地悪にも、善良にも、手のつけられないろくでなしにも、正直者にも、英雄にも、虫けらにさえ、なりえなかった。(光文社古典新訳文庫 安岡治子訳 12ページ)

そして、これが第二章の糸口となる。なんとも、なあんとも、論理的な文章ではないか。「意地悪な人間」の意地悪と、役人時代の行為の意地悪を区別して読めば完璧、「意地悪」をよしとしましょうか・・・

ところで、安岡治子先生のお訳ですが・・・いまさらなんか言ってもしょうがないかなあ。前にばかな悪口かいちゃったし・・・アレをごらんになったらもう二度と、だろうし・・・ごらんになってなかったら、いまさら、だろうし・・・えーい、ぐちゃぐちゃ言ってるんじゃない! 言いたいことがあったらさっさと言わんかい。・・・そう言われてもなあ。これは翻訳の方針の問題かもしれないし、結局、気に入らないというだけのことになっちゃうとすると・・・コラー!・・・ほんでは、その、冒頭のЯ злой человекなんだけど、安岡訳だと

ねじけた根性の男だ(9ページ)

なのよねえ・・・これだと、意味も違うし、上に示した論理構成もめちゃくちゃ。だって、「俺はねじけた根性の男にもなれなかった」ってな展開になるはずがないもの。そこは「意地悪」って訳してらっしゃるんでしょ。なんだかなあ・・・そもそもこの「ねじけた根性」、訳語というより、安岡先生の感想でしょ。

そして何より。特に難解な哲学的考察の第Ⅰ部を過ぎて、第Ⅱ部の小説部分に入ってからは、主人公の性格のあまりのねじけ方に、思わず苦笑を誘う場面もあり、訳しているうちに少しずつシンパシーを覚えるようになったのが幸いだった。(訳者あとがきより283ページ)

してみると、始まる早々、タネを見せちゃった手品みたいな構成になってるのよね、この翻訳。どういうおつもりなんだか僕なんかには難解・・・さらに、ねじけた根性で始めちゃったからかな、я не хочу лечиться со злостиも

金輪際、医者なんぞに見てもらうものか。意地でも嫌だ。(9ページ)

となっちゃうのかもしれないけど、「意地でも嫌だ」なんてどこにも書いてないでしょ。それにその後

もちろんいったい誰に嫌がらせをするつもりでこんな意地を張っているのか、そんなことは俺にも説明できやしない。(9ページ)

あのお、お言葉ですがね、ここで急に「誰かに嫌がらせをする」だなんて、読者にとって唐突なんですけど。だって、「意地悪」とか「悪意がある」とか、前言があれば、そりゃわかるけど、そうでなけりゃ、え、医者にかからないの、嫌がらせだったの、って、読者はここで思うわけよ。すんごい非論理的な文章になっちゃってるのよね。ドストエフスキーもあまりのねじけ方に苦笑するかも・・・それでいて、論理が破綻してしまうこともしばしばで、大いに振り回されたが、注意深く読んでみると実に込み入ってはいるものの、それなりに辻褄が合っているのだと納得させられたところもある(訳者あとがきより283ページ)なんて言われてしまうと・・・

しかし、僕がこんなことを書いてるのも、ただの嫌がらせ? 大丈夫。誰も相手にしやしないから。

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2009年7月 2日 (木)

虫けらと蛆虫 / 地下室の手記を・・・

虫けらのけらってのは螻蛄からきてるんですかね。辞書をみると、虫けらってのは、小さくて取るに足りない虫とか、虫を卑しめて言う語とか。また、くだらない、役に立たない人間を卑しめて言うとも書いてある。ま、きょうび、どうでしょ、虫を卑しめるって気分はあんまりないんじゃないかなあ。人を軽蔑して用いるほうが多いような・・・個人的錯覚かもしれないけど。

虫けらといえば・・・『カラマーゾフの兄弟』でドミートリーの熱い心の告白。

虫けらに好色を! (亀山訳1巻286ページ)

ちょっと285ページから詩の全体を引用してみましょうか。

神の子である魂を
永遠の喜びがうるおし
発酵の奇しき力で
生命の杯を燃やし
一本の草を光へいざない
混沌を太陽に育て
星占いも届かない
宇宙の中に満ちわたらせた

恵みゆたかな自然の懐で
息づくものすべてが喜びを呑む
生きとし生けるもの、すべての民を
この喜びが引き寄せる
不幸な日には友を
ぶどうの露を、美神の冠を与え、
虫けらには好色をさずけ・・・
こうして天使は神の前に立つ

僕は詩なんて全然わからないんだけど、どうですか? この『虫けら』には軽蔑の気分はないでしょ。生きとし生けるものの一員であるだけ。みみずだって、おけらだって・・・の「だって」さえついていない。ところが・・・「虫けらには好色を!」 ここだけ抜き出し、ドミートリーが自分のことを「この虫けらそのものなんだ」と言ったとたんに、何やら自虐的気分が・・・ここにトリックがある。

まあね、今、「虫けらに好色を」という訳語をどうこう言うつもりじゃないんだけど。

Насекомым — сладострастье!

насекомоеというのはですね、昆虫のこと。いつも使ってる辞書に虫けらとは書いてない。人に対する用例も載ってない。つまり、この詩では、単に虫をさしているんだな。「虫けら」と訳したのは、調子と、それから、ある種のイヤラシサを増幅させるためだろう。それがいいかどうかは置いとくとして、とりあえず「虫たちにсладострастьеを」としていれば普通。

何が言いたいかというと、насекомоеが蔑称となりうるか、ということ。もっとも、この言葉が人を形容するのに使われないかというと、そんなことはない。『カラマーゾフの兄弟』を例にとると、

また女好きにかけてはときに毒虫のように残忍なフョードルだったが、(第3編の1 亀山訳1巻247ページ)
でも、こういうおれって、南京虫じゃないか、たちの悪い、ただの虫けらじゃないか(第3編の4 289ページ)

で、「毒虫のように」がкак злое насекомое、「たちの悪い、ただの虫けら」はзлое насекомое。しかし、しかし、修飾語がついているから悪い意味になるのであって、単独では、やはり、「虫」以外の何ものでもないかもしれないぞ。

『悪霊』でも最初のほうと、最後のスタブローギンの手紙の中に出てくるので、興味のある人は調べてみて。

さて、虫にはнасекомоеのほかに、червьというのがある。こちらは、ミミズとか、ウジとかだ。であるのだが、こちらは辞書にЖалкий, ничтожный человек(みじめな、つまらない人間)という意味ものっている。これが「虫けら」に相当するのではないか?使用例。『カラマーゾフの兄弟』第8編の6。モークロエでグルーシェニカたちのいる部屋に入ったドミートリー。

・・・何よりもどんちゃん騒ぎがしたい、何もかも前と同じにしたい・・・でも、うじ虫は、無用なうじ虫は、しばらく地面をはいまわってから、消えてなくなります!(亀山訳3巻257ページ)

この「うじ虫」がчервь。うじ虫という訳語は当然なのかもしれないが、ただし、日本語でうじ虫と言うと、つまらない奴という意味に、かなり嫌悪感が加わる。慎重な判断が必要だろう。そこで、もう一例。『罪と罰』から。第六部の七。ラスコーリニコフが母親を訪ねたところ。母親が、おまえは第一級の人物になるだろうなんて言っている。

おまえが気がちがっただなんて(中略)あのひとたちはほんとにそんなことを考えていたんだよ! ああ、くだらない虫けらさね、あのひとたちに本当の才能がわかってたまるもんか!(岩波文庫 江川卓訳 下巻332ページ)

「くだらない虫けら」がнизкие червяки。ここ、「あの人たち」が誰かを考えると、「うじ虫」はまずそう。というわけで、червьには「うじ虫」ほどの嫌悪感はない。

整理すると、(本当のところはロシア人に訊かなきゃわからないかもしれないけど)червьには「虫けら」の意味があるが、насекомое単独で軽蔑の意味を持たせられるかどうかは疑問、と、このわたくし、思ったのではありました。おい、おい・・・『地下室の手記』の話じゃなかったのけ? ずうっとそのように思って首をひねっていた方、お待たせでやんす。やっと、本題へ。『地下室の手記』の虫けらと言えば・・・最初のほうに出てきますですねえ。

Я не только злым, но далее и ничем не сумел сделаться: ни злым, ни добрым, ни подлецом, ни честным, ни героем, ни насекомым

俺は意地悪な人間になれなかっただけじゃない。何者にも──意地悪にも、善良にも、手のつけられないろくでなしにも、正直者にも、英雄にも、虫けらにさえ、なりえなかった。(光文社古典新訳文庫 安岡治子訳 12ページ)

いやもう、これは「英雄」と比較するんだから「虫けら」としか訳しようがない・・・かな。終わり・・・ってわけにはいかない。話はこれから。・・・余談だけど(いや、余談かどうか、わからんど)、意地悪と善良、ろくでなしと正直、ときてさ(最初に発表されたテキストでは二句ずつ対になっていたもよう)、虫けらと英雄、じゃなくて、順が逆というのはおもしろくない? え、ない・・・では、先へ(なお、この部分、「意地悪」とか「ろくでなし」についても一言言いたいのでいずれ)。第一部の2の冒頭:

Мне теперь хочется рассказать вам, господа, желается иль не желается вам это слышать, почему я даже и насекомым не сумел сделаться

これから話したいのは、あんた方が聞きたかろうが聞きたくなかろうが、なぜ俺が虫けらにさえもなりそこなったかという話だ。(安岡訳15ページ)

と、書いてあるのだが、さてはて、なぜ虫けらになれなかったのだろう。どこがその「話」なの? このあと、意識しすぎるのは病気だと書いてあって、それから、日常には、普通の人間の意識で十分過ぎると書いてあって、それから病気を鼻にかけて、それから・・・妙な快楽の話になっちゃうんだなあ。あれ、どこが虫けらの話だったの、なんて思うまもなくそんなことは忘れちまうよ。してみると・・・なぜの答えは、ながあーーい目で見ろというのでなければ、なぜの答えは、普通の人間と違って意識しすぎるから。しかし、僕の考えでは、ふむ、もちろん、そう思うのは僕ひとりかもしれないが、それは、「虫けら」とは直接関係ない。というか、普通に思う「虫けら」とは。いわゆる「虫けら」になれない説明にはなってない。どうです、話が見えてきたでしょ。

つまり、「虫けら」は英雄の対極にある一部の人間というのではなく、人間、一握りの英雄と、多くの「虫けら」に、だいたいおさまるってことだ。非凡人と凡人ね。虫けら=普通の人。だからね、「虫けら」というか、насекомоеは、キツい蔑称ではないのではないか、と言いたいわけです。もし、これが正しいとすれば・・・まあ、「虫けら」でもいいか。

さて、皆さんはどうお思いだろうか。そんなのは自明な話だと思われるのか、それとも、とんでもない与太話と思われたか?

ええい、どっちでもいいや。ぼちらぼちらと『地下室の手記』を読んでいこうという気になったと受け取ってもらえれば・・・しかし、どういうスタイルでいこうかなあと・・・みんな、『検証』式にはうんざりしているだろうし・・・

補足。『地下室の手記』にもうひとつ出てくる虫けらについて。第2部の9から。安岡訳246ページ。

(前略)俺がとんでもない卑劣漢で、この世のあらゆる虫けらの中でも最も嫌らしい、最も滑稽な、最もちっぽけな、最も愚かな、最も嫉妬深い奴だからさ。

ここの虫けらはчервяк。 

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2009年6月16日 (火)

エピローグ その2

「兄は、今日あなたに来てほしいと言っているのですが」・・・

Ему вы очень нужны, именно теперь. Я не стал бы начинать об этом и вас преждевременно мучить, если б не необходимость. Он болен, он как помешанный, он всё просит вас

兄には、あなたが必要なんです。とくに今。もしそんな必要がないのなら、こんな話を持ち出し、何も最初からあなたを苦しめたりするようなことはしません。兄は病気なんです。気が変になったみたいなんです。ずっとあなたに会いたがっているんです。(亀山訳18ページ)

「最初から」について。преждевременноの訳語。この「最初から」はどういう意味かな? 「何も」がついているのは、「もとより」の意味ではないことを明示したものでしょ。ということは、「ことにあたって」のような意味でしょうか。

このпреждевременно、米川訳、原訳では「前もって」。これははっきり言ってだめ。「前もって」言わなきゃ話にならないもん。「前もって」ってのは、何かするのは前提のわけだから。「最初から」は似て非なるもの。ずっといい。ただし・・・

преждевременныйという形容詞は、早産とか早熟とか、思ったより早い、普通より早いというときに使うらしい。つまり、公判後五日で、まだ言い出すべき時機じゃないってことかなあ。それでも、「とくに今」なのは、「兄は病気、気が変になったみたい」だから、というわけ。

しかし、「こんなに早く苦しめる」じゃ変だし。「あれからまだ間もないのに」かなあ。え、「何も最初から」のがいい? そうかもねえ。

亀山流

Пусть невозможно, но сделайте

不可能でもいいんです。でも、そうなさってください。(19ページ)

これは論評するより鑑賞すべきところでしょうか。普通は「不可能ではあるでしょうが・・・」でしょうか。

トリフォーンの幸せの1500ルーブル探し

Трифон-то,— заговорил суетливо Митя,— Борисыч-то, говорят, весь свой постоялый двор разорил: половицы подымает, доски отдирает, всю «галдарею», говорят, в щепки разнес

「トリフォーンのやつ」ミーチャは、心配そうに話しだした。「旅籠屋をすっかりぶっこわしちまったって。床板はずしたり羽目板はがしたり、『回廊』までばらばらに壊したそうだ。(24ページ)

回廊:建物をぐるりと囲み、折れ曲がって長く続く廊下。フム、まず、そんなものの存在があやしい。в щепки:ばらばらに。木切れ、板切れにまでしたらしい。床板羽目板はがすだけでなく。フム、建物本体と別に壊せるってわけ。してみると、この«галдарею»、バルコニーじゃないかなあ。《》がついてるのは方言だから?

それから、「心配そうに」も亀山流かな。話と別に心配事があるのを強調してるんでしょうか。普通、суетливоは落ち着きなく、とか?

ミーチャの言いたいこと

「アリョーシャ、おれは、グルーシェニカをものすごく愛してるんだ」とつぜん彼は、涙あふれる震え声でそう言った。
「でも、向こうへは、いっしょに行かせてもらえないでしょうね」アリョーシャが、すかさず引きとった。
それからもうひとつ、おまえに言っておきたいことがあったな」ミーチャはふいに、どことなくはずむような声で話をつづけた。「もしも護送中なり、向こうについてから連中に殴られるようなことがあったら、おれは引き下がらないし、やつらを殺して銃殺にでもされる。(中略)グルーシェニカのためならなんだって我慢できる、なんだって・・・ただし殴られるのだけは・・・なのに、あいつは向こうに行かせてもらえないんだ」(26ページ、訳文中「向こう」に傍点)

グルーシェニカを愛してると言い、彼女と一緒に行かせてもらえないと言われたドミートリー、 殴られるのだけはいやだというのが、もうひとつ言いたいことなのでしょうか? いや、グルーシェニカの話をしてるんだ、大事なのは彼女のことでしょ。だから、ミーチャの長台詞の最後はアリョーシャの言ったのと同じ(彼女は向こうに行かせてもらえない)。従って、

И вот что еще хотел тебе сказать

は、「それからもうひとつ、おまえに言っておきたいことがあったな」ではなく、「いやそこだよ、おまえに言いたかったのは」じゃないかなあ。

スピード重視

でも、これって、イエズス会士の話し合いじゃないか、そうだろう? ほら、おれたちが今こうやってしゃべっているところなんかさ、え?(29ページ)

「こうやってしゃべっているところなんかさ」というと、情景のこと。なぜドミートリーがイエズス会士なんか持ち出したのかなんてことにこだわらずに読み進めさせる効果がある。どうせ考える人は考えるんだからってことかな・・・

・・・終わり

さて、ここらで『カラマーゾフの兄弟』を切り上げるとして、これから何をしましょう・・・一年半もかかりきりだったんでねえ、離れるのにもエネルギーがいりそう。まあ、何をしようと勝手なんだけど・・・とりあえず、てめえの『地下室の手記』の手直しでもしようかと思ってみてみたら・・・あんまりひどいんでびっくり・・・まあ、しょうがないやね。ロシア語もろくに読めなかったこともあるけど、まるっきり翻訳というものがわかってないやんけ。当然だけど。勉強、修行を抜きにいきなり実地から始めたんだから。あーあ・・・なんであんなばかなことを始めようって気になったんだろ。もっともあれがあるから今があるわけで・・・でもねえ。あまりひどいとやる気なくすねえ。・・・安岡さんのにけちをつけようなんて百三十億年早いや・・・ふむ、そういう問題でもないか。なんにも知らないからけちなんかつけられるんだなあ。くふふのとほほ・・・

いまさら気づくということ自体が空恐ろしい、とほほな能力で『カラマーゾフの兄弟』を調べようなんて気を起こしたのは、妙な行きがかりと変な錯覚のせいでもあるが、もしかすると役に立つことをしているのかもしれないという思いが大きかったわけで、そういったことの後では、何をしようと勝手なんてのは少しむなしいものがあるなあ。それでも、人生は続いていくわけで、やはり、とりあえず地下室に帰るべきなのかなあ。

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2009年6月11日 (木)

エピローグ

はてさて、なまじ少しばかりロシア語がわかるようになったせいで、縮こまってますかね、わたくし、書くことが。ちょいとまともなことを書いてみようかしらなんてね、色気を出すとろくなことはないとしたもんで。ふん。だいたいやねえ、わかるようになったったって、英語で言えば中学生レベルかい、なあ。いや、いや、文法とか、基礎からすっぽ抜けだからね、そんな比較すらおこがましい。まあ、こんなことも知らないんですか、怖いですねえ、怖いですねえ、サヨナラ、サヨナラ、って状態だわさ。とすれば、いまさら取り繕いようがないざんす。

・・・というわけで、どうせ短いエピローグ、好き勝手なことを書くという方針で・・・今までだってそうだろうと言われればそうだけど・・・まくらはどうでもいいようなことから

誰の声

Она сидела и говорила с ним в той самой комнате, в которой принимала когда-то Грушеньку; рядом же, в другой комнате, лежал в горячке и в беспамятстве Иван Федорович.

彼女は、いつだったかグルーシェニカを迎えた例の部屋に腰をおろして彼と話をした。隣の別室では、幻覚症をわずらっているイワンが、意識不明のまま横になっていた。(光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』5 8ページ)

アリョーシャがカテリーナ・イワーノヴナを訪ねた時のこと。どこの部屋だなんてことは、おそらく、隣にイワン・フョードロヴィチが寝ていることを言いたいから持ち出したんだな。さて、それでは、この一節、誰の声を文章にしたもの? そんなこたぁ、おめぇさま、語り手に決まってるずら! さよか? だとすると、когда-то :「いつだったか」はいけません。いつだったか、は、はっきりしない過去のこと。13年前のことを克明に書いてきた語り手が、はっきりわからないはずがない。語り手なら「いつか」というはずだ。

じゃ、「いつだったか」がだめかというと、そうとは限らない。たとえば、カテリーナ・イワーノヴナの思ったことを表したとか。しかし、カテリーナ・イワーノヴナならグルーシェニカをтварь(亀山訳では淫売)と呼ばなければならない。すでに通訳されちゃってます。では、アリョーシャなら? アリョーシャなら、イワン・フョードロヴィチとは言わんでしょ。

というわけで、この「いつだったか」は訳者が読者と気分を共有しようとしていると見るべきかな。・・・・・お気楽な話題でげした。

それっていつ?

И это тогда, когда я сама, уже давно перед тем, прямо сказала ему, что не люблю Дмитрия, а люблю только его одного! Я от злости только на эту тварь на него озлилась!

で、そのときなんですよ、それよりもだいぶ以前に、ドミートリーさんなんか愛していない、愛しているのはあなただけって言ったのは! わたしが憎しみのあまり癇癪を起こしたのは、ただあの淫売に対してだけって!(12ページ)

原文の勢いそのままの訳、と思えるが、しかし・・・「そのとき」って、いつ? 当然、それまで話題にしていたときのこと。つまり、カテリーナとイワンが喧嘩したとき。では、「それよりだいぶ以前」の「それ」って、いつ? 日本語だけ見てると、「それ」は「そのとき」で、『前から愛していないとそのとき言った』ととるのが普通かしら。しかし、原文を見ると、『言った』のが『それよりだいぶ以前』ではないですか。すると、妙なことになりゃせんかいなあ。なにがなんだかさっぱりわからなくなってしまいました・・・

ふうむ、「それ」を、「そのとき」より後の、どこにも言及されていないとき、とるのは無理だろうから、従って、言ったのは「そのとき」ではなく、『そのときには、既に以前、言ったことがあった』と考えるよりしょうがないんじゃないかなあ・・・ほかに思いつかないんだけど。そうなると、「わたしが憎しみのあまり云々」も、イワンではなく、アリョーシャに対して言ったことになりそう。

げんなまはどこだ?

Тут же оставил у меня деньги, почти десять тысяч,— вот те самые, про которые прокурор

その場で、わたしのところにお金を置いていきました。一万ルーブルぐらいありましたわ・・・・・・ほら、これがそうです。検事がだれかから、(12ページ)

ほら、これがって出してみせたんでしょうかねえ。そんな必要ないと思うんだけど。ほら、例の、検事が・・・じゃあないんかなあ。それと、「一万ルーブルぐらいありましたわ」って、数えたのかしら?

カーチャ、フライング

Он опять заговорил о Мите.

彼女はまたミーチャの話をはじめた。(15ページ)

確かにこのあと、カテリーナがしゃべりだすのだが・・・しかし、アリョーシャが用件を言い出しにくくてミーチャの話を蒸し返したっていう話の流れでしょう。

ああ、わたしって、わたしって・・・

О, тварь! Это я тварь, я!

そう、淫売なの! 淫売はわたしなのよ、このわたし!(16ページ、カテリーナの言葉)

なんぼなんでも、カテリーナ・イワーノヴナが自分のことを『淫売』と呼ぶことはない・・・と、わては思うんだけど・・・まあ、グルーシェニカのことを常にтварь:淫売と呼んでいるからには、ここも「淫売」としないと、「このわたしが」の味が消えちゃうからなあ。

そもそも、ここ、イワンがドミートリーの話をしたときのことについて言っている。「でも、わたしは、ああ! わたし、あのとき、傲慢にもせせら笑いながらあの人の話を、涙まじりの話を聴いていたんです! そう、淫売なの!・・・」ってわけ。どうかなあ、傲慢にせせら笑って→淫売、ねえ?

тварьというのは、ドミートリーが自分のことをそう呼んでいるところがあるぐらいで、蔑称というか、悪態というか、べつに淫売に限ったわけじゃないんだね。まあ、グルーシェニカ:淫売というのは、いかにもって感じだけど。とくに、第2編、場違いな会合でミウーソフとフョードルの言うтварьは場の雰囲気を徹底するためにも淫売がいいのかな。

しかし、カテリーナが自分のことを淫売とはねえ。自分のことをそう言わないとすれば・・・ま、いっか。

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2009年6月 3日 (水)

翻訳の風景

第4部が終わったところで何かまとめの文章でも書こうかと思ったが、やめた。今まで続けてきたことがすべてであって、それ以上のことは何もない。個々の問題はそれぞれ個別、独自の問題であって、それぞれ個別の解決を必要とする。一般化しようとすればうそになる。共通の事柄があるとすれば、それは問題そのものではなく、問題の発生の仕方、すなわち翻訳の手法にある。しかし、それを書くこともしない。いまさら米川さんや原さんについて言っても仕方ないし、亀山さんはいろいろなゴタゴタ(このブログも含めて)に巻き込まれて多くのことに気づかれただろう。今後も翻訳を続けられるとすれば、どんどんいいものになってゆくにちがいない。翻訳は、学者さんにとっては格の低いものかもしれないが、なかなか奥が深くて難しい仕事だ。長く続けるほどに、以前の自分の翻訳が甘いものに見えてくるにちがいないのだ。それを亀山さんは、数あるドストエフスキーの作品の中から、こともあろうにいきなり『カラマーゾフの兄弟』に飛び込むという、大胆不敵な所業に及んだのである。もっとも、この大胆さこそが世の中で成功する秘訣かもしれないし、また、大成功は反動を伴うのも世の常だ。成功も失敗も、とてもいいことだ。

亀山さんは指摘が正しいと思えば増刷の際に修正をされる。ご多忙の中、面倒だろうし、出版社は紙面刷新を嫌って抵抗するそうだから、苦労なさっているのかもしれない。(きりの良いところで章が終わるよう工夫しているとすればなおさら)。だが、気づいたことがあれば、是非、随時、正していってもらいたいものだ。亀山訳が良くなるだけではない、将来、亀山訳を参照する訳者さんのためにもなるのだから。以前、インターネット上で見られた折原浩さんの『翻訳の社会学』という一文から一箇所引用しておこう。

翻訳とは、原著者の思念内容を忠実に読者に伝える営為。一見「正しい」翻訳でも、原著者の思念内容を読者に伝えられない誤訳ないし不適訳もある。原著者の思念内容を確認するのに、原著者の他の著作も参照する必要が生ずるばあいもある。そういうわけで、一挙に完全な翻訳を仕上げることは至難とすれば、訳文を漸進的に、どう是正していくか、が重要となろう

これは、社会科学書だけでなく、ロシア文学の翻訳にもあてはまると思うのだが。

ふむ、書くのはやめたとか言いながら、つまらないことを書いてしまった。ひとつ気分転換に、難しいなあと思う例でも挙げておきますか。「幸運の女神がミーチャに微笑みかける」より。カテリーナ・イワーノヴナがミーチャに有利な証言をしようとしている場面。

Если б он пришел тогда ко мне, я тотчас успокоила бы его тревогу из-за должных мне им этих несчастных трех тысяч

もしあのとき、彼がわたしのところに来てくれれば、わたしに借りたあの不幸な三千ルーブルのことで、不安を鎮めてあげられたのにと思います(亀山訳475ページ)

несчастныйは「不幸な」が第一の意味だし、わざわざこの単語を用いているからにはそう訳すのが普通だし、実際、不幸を招いたのも確かだから「不幸な三千ルーブル」はいかにも感じが出ているように思えるし、何にも問題ないと思われる。ところが、・・・、Ушаковの辞書のнесчастныйの項に、まさしくこの箇所が用例として挙げられていて、その際の意味は、

для выражения неприязненного, пренебрежительного или презрительного отношения к кому-чему-н

とあるのだ。要するに、何かに対し、敵対、軽蔑を表すわけだ。「みじめな野郎だぜ」なんかに使えるのかな。「不幸なやつだぜ」では、言い方を工夫してもそのニュアンスは出なさそう。まして「不幸な三千ルーブル」にその意味はない。もちろん、辞書が必ず正しいわけではないが、カテリーナ・イワーノヴナが、三千ルーブルはたいした問題ではなかった、ということを言おうとしているとすれば、なるほど、「不幸な」ではないわけだ。別の辞書には同じ意味で、Жалкий, ничтожныйとある。そうすると、この際は「つまらない、どうでもいい」という感じになりそう。

しかし、そのように訳せばнесчастныйであったことは消えてしまうわけで・・・

ところで、ちょっとエピローグも眺めてみたんですが、いきなりよくわからなくて・・・どうしようかなあ・・・

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2009年5月25日 (月)

悪魔のお仕事

積み残したよくわからないところをひとつ。11編の9『悪魔、イワンの悪夢』から。申し訳ありませんがすごく長く引用します。

でも、ですよ、ぼくの運命のほうがはるかに深刻ですよ。だって、自分にはぜったいに理解できない前世の宿命とやらのために、何ごとも《否定する》のがぼくの定めなんですから。ところがじっさいに、ぼくはものすごく善良ですし、否定することなんてぜんぜん柄じゃないわけです。いや、だめなんです。否定しなくちゃいけない、否定がなけりゃ、批評はない、『批評欄』がなかったら雑誌とはいえない。批評がなかったら、残るは『ホザナ』だけになってしまう。でも、人生は『ホザナ』だけじゃ足りない。この『ホザナ』とやらは、懐疑の試練をくぐりぬける必要がある、とまあ、こんなぐあいです。
といっても、ぼくはこうしたことに首を突っ込まないことにしているんです、僕が作ったわけじゃありませんし、責任がぼくにあるわけじゃないですからね。まあ、だれかスケープゴートを選びだしてきて、そいつに批評欄を書かせれば人生一丁あがりっていうわけです。ぼくらはこのコメディがよくわかるんです。
たとえば、ぼくなんか、ごく単純に自分がこの世から消えてなくなることを願っているんです。ところが、生きていてくれ、きみがいなくなったら何も残らなくなってしまう、と人から言われる、この地上のすべてのものが理にかなっていたら、それこそ何も起こらなくなってしまう。きみがいなくなったら、いっさいの事件がなくなる。事件はなくちゃならないんだ、とこうです。(亀山訳373-4ページ)

《否定する》のが役目の悪魔氏、実は向いていないのだが、きみがいなければ何も起こらなくなってしまうと言われ、しぶしぶ役目を果たしている──という大筋はちゃんと理解できるから何も問題はないとしたものですが、しかし、スケープゴートってだれのこと? それを選びだしてくるのはだれ? 亀山訳からの印象は・・・選ぶのは悪魔氏かな。でも、原文はそうじゃない。それに、悪魔氏、結局、首を突っ込んじゃってることになりゃしない? それに批評欄を書くというのは比喩で、ひらたく言えば否定すること、つまり、悪魔氏の役目、しぶしぶやってる役目でしょ。だから、スケープゴートは悪魔氏のはず。と・・・なんか、前後のつながりが妙でっせ。妙でしょ? 

そいで考えたんだけど、悪魔氏をきみと呼ぶ人たちが出てくるでしょ。悪魔氏の話にはその相手との対話が含まれているんだ。悪魔氏自身の考えも、イワンにではなく、その相手に対して言ったものがあると考えてみましょう。

まんず、相手はだれか? 「いや、だめなんです。否定しなくちゃいけない」のところ、原文は:

Нет, ступай отрицать──いや、行って否定したまえ

「行って」だから、もちろん、あちらの「人たち」だ。「とまあ、こんなぐあいです」は:

ну и так далее, в этом роде──なんたらかんたら、云々

ということにしてみよう。すると、全体で「いや、行って否定したまえ、・・・、なんたらかんたら、云々」。という「彼ら」に対して、悪魔氏が答える:

Я, впрочем, во всё это не ввязываюсь, не я сотворил, не я и в ответе──でも、ぼく、そんなことに首を突っ込みませんよ、ぼくが作ったわけじゃなし、ぼくに責任もありません。

とまあ、ここまではいいとしても、やっぱり次の一節とは断絶があるような・・・:

Ну и выбрали козла отпущения, заставили писать в отделении критики, и получилась жизнь──というわけで、(彼らが)スケープゴートを選びだし、批評欄を書かせたら、人生が生じた

なんか変。しかし、スケープゴートは悪魔氏、という考えを押し通せば、

そしたら、スケープゴートにされて、無理やり批評欄を書かされて、人生一丁あがりってわけです。

つなげると : いや、行って否定したまえ、・・・、なんたらかんたら、云々。でも、ぼく、そんなことに首を突っ込みませんよ、ぼくが作ったわけじゃなし、ぼくに責任もありません。そしたら、スケープゴートにされて、無理やり批評欄を書かされて、人生一丁あがりってわけです。

それから、「たとえば」以下、「自分がこの世から消えてなくなることを願っているんです」のところ、「たとえば、・・・自分の消滅を要求する」ではないのかなあ。

しかし、書いてる本人が釈然としないのですから・・・

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2009年5月13日 (水)

カラマーゾフ12編 その12

前にも書いたかもしれないけど、すべての疑問点に自分なりの解決をつけてここに書くというのは無理。実力的に。かといって、こちらとしての考えもまとまらないのに、ひとの翻訳をおかしいぞというのも失礼だし。でも、ほっとくのもなんだし。結局、あて推量で書くことになるわけだな。というわけで、こんな話から。

今、法廷では・・・

Суд решил давеча продолжать заседание, но теперь пока, в ожидании, я бы мог кое-что, однако, заметить, например, по поводу характеристики покойного Смердякова

で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。(米川正夫訳岩波文庫(四)第59刷336ページ)
当法廷は先ほど審理の継続を決定しましたが、さしあたり今、それを待つ間にわたしは、たとえば、検事があれほど鋭く、きわめて才能豊かに描きだした故スメルジャコフの性格分析について、二、三の指摘を行ってもかまいますまい。(原卓也訳新潮文庫(下)六十一刷568ページ)
法廷は先ほど、審理の継続を決定しました。しかしさしあたり、それに期待しながら、たとえば亡くなったスメルジャコフの性格分析についていくつかの指摘を行いたいと考えるのです。(亀山郁夫訳光文社古典新訳文庫4第15刷630ページ)

原訳にある「検事があれほど・・・」の部分は原文では後ろについていて、米川、亀山訳では、後ろに分けて訳してある。これは原訳の方針だし、「検事があれほど鋭く」という表現を含めてこういう日本語をしゃべる人はあまりいないだろうけれど、小説だからいいんでしょう。余談。

わからないのは、評議、もしくは審理の継続とは何か? 特に、米川、原訳では、「それを待つ間」、弁護士はくっちゃべってる・・・となると、弁護士の弁論と無関係に何か審理がなされるのか? それとも、これは弁論ではなくて、ただのおしゃべり? なにせ、裁判のことは何も知らないので・・・ふむ、亀山訳の「それに期待しながら」というのもわからない。期待は、「今後継続される」ことになのか、「継続された」ことに(つまり、まだ見込みがあるという意味で)なのか? 前者なら米川、原訳と同じ。後者なら、弁護士の弁論も聞かずに結審していた可能性もあるということか・・・思うに、・・・思うに、今、行われていることこそ、審理ではないのか? 

とはいえ、「審理の継続を決定した」と書いてあるのは事実。なんでこんなことを言うんだろう。それに、в ожидании。何かを待つなり、期待しているのも事実。それに、пока:さしあたり、とも書いてある。変だなあ・・・というわけで、わからない。サヨーナラー・・・では、あまり芸がないので、仮説。

в ожидании、「それを」待つとは書いてないぞ。待つもの、あるいは、期待すべきものは、後ろにあるのではないのか? それについては、быとмог。米川。亀山訳では、「一言しておこう」、「行いたい」と前者が生かされ、原訳では「かまいますまい」と後者が生かされている。しかし、余、思うに(だからって余談とは限らないってね)、これは「できるかなあ」じゃなかろうか。つまり(в ожидании以下は)、「ちょっとさ、といってもほれ、死んだスメルジャコフの性格分析なんかについて、言っちゃえるんじゃないかなあなんてさ、思ってるわけよ」。この「思ってるわけよ」のところが「期待」ね。

では審理の継続とさしあたりはどうするんだい? こんなところで:「当法廷は先ほどの決定により審理を継続しておりますが、ここでひとつ・・・」

次は、亀山先生の工夫に立ち入ることになるので・・・どうかと思うけど・・・ その工夫が必要なのか疑問でもありますので。

伝言ゲーム?

„В ню же меру мерите, возмерится и вам“ — это не я уже говорю, это Евангелие предписывает: мерить в ту меру, в которую и вам меряют

『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはわたしの言葉ではなく、マタイ福音書に書かれた教えです。あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです。(亀山訳648ページ)

教え(предписывает)の後にコロン。弁護士は「つまりこうとも言える」と言い直しているわけだ。その部分は普通に読むと、(亀山訳の)「あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量る」のではなく、「あなたに用いられるそのはかりで量ること」、すなわちそれで「量りなさい」ってことだ。亀山先生もそんなことは百も承知だろうが、亀山訳は前半と後半がほとんど同じで弁護士の言い換えを無視している。なぜか? この言い換えの意味が明瞭でない、わかりにくいと考えられたからだろう(こんな忖度をしてもしかたがないが、後にそれがはっきりする・・・と、思う)。

余談だが、вам меряютは、与格だから、「あなたを量る」ではないだろう。自分も量られる、ではなくて、自分の分も量られる。たぶん、亀山訳はわかりやすくするためだろう。米川さん、原さんも同様だから。なお、辞書によると、Мерить в ту же меру は福音書の表現として、「与える、払う」のような意味があるようだ(возмеритсяも辞書に見つけることができなかったのだが、それに近いらしい。嘘だったらすみませんです)。当の福音書も引用しておこう(一応、「量り与えられる」という訳に注意を)。マタイ7章2節:

ибо каким судом судите, таким будете судимы; и какою мерою мерите, такою и вам будут мерить

あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。(日本聖書協会口語訳)

さて、弁護士の言い換えは重要である。検事も後でそれを取り上げている。すなわち、福音書の教え、戒めを、「量りなさい」という行動を求める言葉に換えているからである。ここは親子の対立について論じている箇所だから、したがって、親への戒めが、子への許可に変貌しているわけだ。それで、

子どもたちがわたしたちを同じはかりで量ったとしても、どうしてそれを責めたりできるでしょうか?(亀山訳648ページ)

となる。とはいえ、ここが微妙なところなのだが、弁護士として、あまり極端な、反感を買うような言葉を用いてはいけないので、上記の『言い換え』は見過ごせば見過ごせるほどの、サラリとした、しかしながらある効果を持つフレーズとして発せられたわけだ(かどうかも微妙だが)。が、これが検事の注意を引いたのである。再び登壇した検事は:

И вот воздвигают пред нами лжеподобие Христа! В ню же меру мерите, возмерится и вам, восклицает защитник и в тот же миг выводит, что Христос заповедал мерить в ту меру, в которую и вам отмеряют

そうして、わたしたちの前に偽のキリスト像を建造したのです。『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』といったその絶叫のすぐあとで、キリストは、キリスト自身が量られたのと同じそのはかりで量れと説いた、というのですから。(亀山訳662-3ページ)

検事は、弁護士の言ったことの前半部分(『』内)はちゃんと引用しているが、後半部分(キリスト自身云々)はまったくの創作になっている。亀山訳、648ページのそれ(弁護士の発言)と、663ページのそれ(検事の引用)を並べてみる。

мерить в ту меру, в которую и вам меряют
あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです

мерить в ту меру, в которую и вам отмеряют
キリスト自身が量られたのと同じそのはかりで量れ

これはきっと、「偽のキリスト像」であることを明確にするための読者サービスだろう。しかし・・・しかし、検事が弁護士の言葉をつくりかえてはまずい・・・だろう。討論にならない。それに、その後の検事の議論ともかみ合わない。検事はこんなふうに言っている。

しかし、キリストが命じられたのは、ほかでもありません、こんなことをしてはいけない、こういう行いはつつしむようにということでした。(中略)わたしたちを辱めた者が量った、同じそのはかりで量ってはならないのです。わたしたちの神が教えてくれたのはこういうことであって、子どもたちに父親を殺すことは禁止するのは偏見だ、などということではけっしてありません。(亀山訳663ページ)

つまり検事は、「自分を量ったはかりで量れ」という検事の言い換えは間違っていると言いたいわけで、この議論を生かすためにはそのように訳さなくてはならない。

父親らしいところなんざ・・・

Но отец, отец — о, все сделал лишь вид отца, его ненавистника с детства, его врага, его обидчика, а теперь — чудовищного соперника!

しかしそれは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた陵辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか!(米川訳353ページ)
ところが、父親となると、そう、すべては子供のころから憎むべき相手であり、仇敵であり、侮辱者であり、そして今や恐るべきライバルとなった、父親の姿がなせるわざなのです!(原訳589ページ)
しかし、相手は父親でした。つねづね姿かたちだけの父親、子どものころから大嫌いな相手、自分の敵、自分をおとしめる者、そしていまや・・・・・・怪物のごときライバル!(亀山訳655ページ)

三人三様。正解はどれでしょ? まず、米川訳。Делать вид がпритворятьсяつまり、「・・・のふりをする」だから、сделал лишь вид отцаは「父親の仮面を被っているだけ」となる、という解釈でしょう。実にそれらしいが・・・しかし、後ろにつづくненавистникаとかврагаとか・・・はどういう扱いなんだ。отцаと同格でしょ。でしょ? 父親にして子供のころからにっくき奴、敵であり無礼者、そしていまや・・・その仮面ってのはおかしい。

ここまで間違っていないとすれば、亀山訳も変だ。同じ理屈で「姿かたちだけの」が「ライバル」まで修飾してるはずだから。それにсделалはどこに行った? そもそも「姿かたちだけの父親」の意味もよくわからない。

というわけで、原訳が正解と思うのですが・・・もうちいとすっきりした文にして欲しいとは思うけど・・・

あとは、小さなことをいくつか。

多数の一瞬

В действительности может мелькнуть тысяча вещей, ускользающих от наблюдения самого тонкого романиста

現実には、きわめて緻密な小説家の観察眼からさえこぼれおちてしまう、おびただしい事実が、一瞬にして起こるかもしれないのですよ。(亀山訳624ページ)

мелькнутьという言葉は、よく「ひらめく」とか訳されるんじゃないかな。辞書的に言うと、「ごく短い間現れる」かな。だからね、たくさんのことがチラチラチラチラしたかもしれんってわけで、一瞬の間に多くのことが生じるのとは違います。

『窓越しにスヴェトロワ嬢の不在を確かめるのは無理』という検事に対し、弁護士が被告は父親の動きか何かから察したかもしれないと言っているところ。被告が何かを耳にしたかもしれない、目にしたかもしれない、被告の注意を引くべきものはたくさんあったかもしれない、というわけだ。「おびただしい事実が起こる」のとはいささか違うのだ。ちょっとしたしるしはたくさん現れていたかもしれない、という感じ。「しるし」なんてどこにも書いてないとか、完了体がどうとか言われそうだけどね。ま、そういう人は論外。

憎むというから・・・

Считая себя сам (и на это есть факты) незаконным сыном Федора Павловича, он мог ненавидеть свое положение сравнительно с законными детьми своего господина: им, дескать, всё, а ему ничего,

当人が自分をフョードルの私生児とみなしていたため(これを裏づける事実もあります)、主人の嫡出子たちと自分を見くらべながら、おのれの出自を憎んでいたかもしれません。あの方たちにはいっさいが与えられている、しかし自分にはなにもない、(亀山訳631-2ページ)

少し前に(631ページ)「おのれの出自を憎み」(ненавидел происхождение свое)という一説があるのに、あえて「出自を憎んでいたかもしれません」と訳したのには相当の理由があるのだろうが、しかし、ここで憎んでいるのはсвое положение であり、それにすぐつづいてсравнительно(比較して)という言葉があり、さらに比較している内容が「あの方たちにはいっさい云々」とあれば、このположениеは立場とか身分とか訳したほうがいいと思うのでありまする。

臆病なふるまい

Мы даже особенно не должны бояться теперь и, так сказать, отмахиваться от иной идеи, как дети или пугливые женщины, по счастливому выражению высокоталантливого обвинителя

とりわけわたしたちは、いまはとくに恐れてはいけません。才能あふれる検事のすばらしい表現をお借りするなら、子どもや臆病な女のように、ある思想をぽいと投げ捨ててしまうべきではないのです。(亀山訳642ページ)

こんなことまで取り上げるのはどうかと思うけど、もうすぐ終りだからね。妙な批判をされないためにもよく考えなくちゃってな意味で。というのは・・・恐怖から、ぽいと投げ捨てるという表現が気に入らない。отмахиватьсяの第一の意味は、蚊とか蝿とか振り払う動き。明瞭。第二の意味は、たとえば、難しい問題にぶち当たった時に、やりたくねえって顔をしたり、なおざりにしたり、拒絶したり・・・結局、いやだってわけでしょ。顔の前で手をふっていやよいやよ。отмахиватьсяを生かすなら、手の動きであらわすんだろうけど、一言でその意味を表すなら、「ある思想から目をそむけてはいけないのです」。これも不適切訳とか言われるのかなあ・・・なお「思想」という訳語も議論の対象かもしれませんねえ・・・

この際自分は・・・

я позволю назвать предмет собственным его словом, собственным наименованием

わたしは対象を、自分なりの言葉で、自分なりの呼び名で呼ばせていただこうと思うのです。(亀山訳647ページ)

どうしてこれが、собственным его словомが、「自分なりの言葉」なのか、わからない。「対象なりの言葉」、すなわち「それにふさわしい言葉」ではないのかなあ。

another

Катя, прощаю тебе! Братья, други, пощадите другую!

カーチャ、きみを許すよ! 弟たち、友だちも、どうかあの人を許してやってください!(亀山訳673ページ)

другуюはほかの女。亀山訳の「あの人」はカーチャのように読めないかなあ・・・

・・・・・とりあえず、4巻の終りまできたようです・・・

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2009年5月 8日 (金)

カラマーゾフ12編 その11

しかし、そんな同情を示せるような瞬間だったでしょうか。いいえ、彼が飛び降りたのは、ほかでもありません。自分の凶行の唯一の目撃者が、はたして生きているのかどうかを見届けるためだったのです! 注意してほしいのは、彼がグリゴーリーを介抱し、額をハンカチでぬぐってやっていることです。しかし、相手が死んでいると思いこむとすっかりうろたえ、全身血まみれのままふたたび恋人の家へ引き返しました(亀山訳566ページ)

(いいえ以下)Нет, он соскочил именно для того, чтоб убедиться: жив ли единственный свидетель его злодеяния? Всякое другое чувство, всякий другой мотив были бы неестественны! Заметьте, он над Григорием трудится, обтирает ему платком голову и, убедясь, что он мертв, как потерянный, весь в крови, прибегает опять туда, в дом своей возлюбленной

ドミートリー・カラマーゾフが飛び降りたのは同情からではない、という出だし。ところが、飛び降りたとたん、介抱し、死んだと思いこむとすっかりうろたえ・・・ 彼の心に何か起きたのかと思えるような訳。はたしてイッポリート・キリーロヴィチは彼の心のよき変化に注意を促したかったのでありましょうか? 飛び降りてそばについたとたんに生きていてほしいという気持ちの生まれる人間の心の美しさでありましょうか? いや、いや、検事が注意を向けたのは、血。なんとなれば血まみれで平気な犯罪者の心理について、この後展開しているのであります。したがって、検事の考えによれば、ドミートリーは同情からの行動を取らないはず。見届けようとして(чтоб убедиться)、見届けた(убедясь)のである。「思いこむ」は、意味はこの上なく正しいが、目的と達成がぼやけるかなあ。それから、「見届ける」という言葉は「・・・かどうか」と相性がよくないような。

さてさて、検事によれば、ドミートリーは確かめるために飛び降りて確かめた。その線で冷静に見ると、трудитсяは、べつに「介抱する」という意味ではない。グリゴーリーのために、ではなく、グリゴーリーのことで「労をとった」のである。すなわち、「手間をかけてグリゴーリーの頭をハンカチでぬぐい」、である(くどいようだが、それで血まみれになったことに検事は注意を促した)。さらに、死んだと思い込んでうろたえたのではない。グルーシェニカの家へ駆け出すに際して、死んだと確信しており、同時にкак потерянныйであり、また、血まみれでもあったのだ。彼が動揺していたのは、グリゴーリーを殴ったからではなく、ここにもグルーシェニカはいなかったからだ。как потерянный、途方にくれたのではあるが、それは、どうしていいかわからないからで、こういう訳をすると、某集団からはバカといわれそうだが、「やみくもに」のような感じではないのか・・・と、これが検事の立場からの一貫した論理と考えますのですが、まあ、こんなことでガタガタ言うのは変人だな。ついでだけど、600ページの「殺してしまったのか確かめるため」、「介抱した」というのもなんだかいやだな。弁護士が検事の言葉遣いを皮肉ってるみたいで。そこで使われているхлопотатьもたぶんтрудитсяを言い換えただけで、「介抱する」でなくてもねえ。

カラマーゾフはピストルで自殺する、人の記憶に残るだろう! 彼もむだに詩人なわけではありません! ろうそくを両端から燃やすように、おのれの命を燃焼させたのもむりはありません!(569ページ)

Недаром же мы поэт, недаром же мы прожигали нашу жизнь, как свечку с обоих концов

二つのнедаромを訳し分けるところが独特だが、それはそれ。疑問点は「おのれの命を燃焼させた」。ろうそく云々の形容がついているので、全体で、生き急ぐ、のような意味にとれるからそれでいいのかもしれない。しかし、「おのれの命を燃焼させた」というとちょっとかっこいいようなところも感じられるが、どうもそうでなさそう、というか、この場合のпрожигатьは成句の一部でもある。ろうそく云々と合わせて二様に使うところがしゃれてるんだな(と、これは想像)。すなわち、прожигать жизнь  :вести беспорядочный образ жизниあるいは、бесцельно и бесполезно проводить время в шумных удовольствиях, губительных для здоровья и материального существованияで、乱脈な生活を送る、あるいは、無意味に時間を浪費する、のような意、かな。ですからね、一工夫ほしいかなあ、と・・・

複数の目撃者が、惨劇の一ヶ月前モークロエで、カテリーナ・ヴェルホフツェワ嬢から受けとった三千ルーブルを、まるで小銭みたいにいっぺんに使い果たしてしまったところを見ている。とすれば、そんな男に半分のお金を取っておけるはずがない。(613ページ)

半分のお金を取っておけるはずがないのは、「そんな男だから」ではなくて、全部使い果たしてしまったから。というか、не мог отделить от них половинуは、「そこから半分取り分けることはできなかった.」。ま、取っておけるはずがない、のほうが感触はいいかな。

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2009年5月 3日 (日)

カラマーゾフ12編 その10

ながながとほとんど本筋と関係ないことばかりほじくり返してきましたが、残り少なでもありますし、サクサクっといきたい。というか、パソコンの調子悪し。作業しづらし。そろそろ買い換えようかと。その前に終えたい。というか、いろいろと面倒だで、簡潔にね。というか、まず、わかりやすいところから。

Вспомните, вам дана необъятная власть, власть вязать и решить.

思い起こしてください、あなたがたにははかりしれない権限が与えられています、人間を縛り、裁くことのできる権限です。(亀山訳638-9ページ)

何も問題はない? いんや。「縛り→裁く」権限はないはずだ。さらに、решитьに裁く意味ありや? へへ、簡潔にというなら、こういうもって回った言い方はやめて、早く結論を言ったらよかろに。グラタン。ウエスタン。Ушаковの辞書によれば:

РЕШИТЬ:Развязывать; только в выражении: власть решить и вязать - полная, непререкаемая власть (евангельское выражение)

つまり、福音書の表現で、власть решить и вязать の形でのみ用いられる。意味はвязать(縛る)の反対、「解く」(問題を解くの解く、じゃなくて、解放するほう)だ。「つなぐ←→解く」の問題はたしか2巻にもあったね。たぶんそのときも引用したんじゃないかと思うけど、今回もテキストの註にあったので、マタイ福音書18の18を引用しておく。ロシア語訳のほうはрешить и вязать の形じゃないけど、こころはそうだということで。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる(日本聖書協会新共同訳)
Истинно говорю вам: что вы свяжете на земле, то будет связано на небе; и что разрешите на земле, то будет разрешено на небе

スメルジャコフの自殺に関して;

самоубийца, накладывая на себя руки, в этот момент мог вдвойне ненавидеть тех, кому всю жизнь завидовал

自分の命を絶とうと両手を胸にあてたその瞬間、自殺した彼は、一生を通じてうらやんできた人々への憎しみを、何倍にもふくらませていたかもしれないのです。(亀山訳637ページ)

またまた辞書によれば、Наложить на себя руки - покончить жизнь самоубийством。つまり、これだけで「自分を手にかける」って意味らしいね。だから、両手を胸にあてたかどうかは、神のみぞ・・・のような。

ふう、これで一応一安心。あとはどうとでも・・・まあ、上記もどうでもいいか・・・

с тем чтоб уж совершенно исчерпать весь этот вводный эпизод о подозрении Смердякова в убийстве и покончить с этою мыслию раз навсегда

スメルジャコフの殺人容疑という当初の説を徹底的に洗い、その考えに永久にけりをつけるためである。(亀山訳543ページ)

スメルジャコフの殺人容疑=当初の説? 当初の説ではないでしょう? 最初っからそんなこと言ってたのは誰かと言えば・・・そうじゃなくて、「容疑の発端となったエピソード」では? というのも、イッポリート・キリーロヴィチがスメルジャコフ論をどう切り出したか、見よ:

「まず第一に、このような容疑の可能性はどこから生じたのでしょうか?」(亀山訳544ページ)

次もおもいっきり些細だけど、考えてる余裕がないので

Человек, не смигнувший задумать такое бесстрашное и зверское дело и потом исполнить его

これほどにも恐ろしい野蛮なことを、何のためらいもなく計画し、実行にうつすような人間が、(亀山訳552ページ)

бесстрашныйは恐れを知らぬ、大胆不敵。「恐ろしい」でもいいようなもんだけど、スメルジャコフが「恐怖心から口を滑らす」ような人間じゃないと言うところだし、わざわざбесстрашныйという言葉が選ばれたのだから・・・

もう一つ

если б он промолчал хоть только об деньгах, а потом убил и присвоил эти деньги себе, то никто бы никогда в целом мире не мог обвинить его по крайней мере в убийстве для грабежа

もし彼が、たとえお金のことだけでも黙っていて、あとで殺してそれをふところに入れてしまえば、彼を疑う人など、この世界にだれ一人としておりません。すくなくとも、強盗殺人などという容疑はかけられません。(亀山訳553ページ)

「・・・しまえば、」のあと、原文は、「世界中のだれ一人、彼に、すくなくとも強盗殺人の容疑をかけることはできません」。それを、わかりやすくするために二つの文にわけたのだろうが、「彼を疑う人など一人としておりません」とやってしまってはだめ。この部分だけみて、結局同じことでしょ、まあいいじゃないの、と言ってもだめ。というのは、検事の論理を先取りしちゃってるから。強盗殺人はない→それじゃ動機は・・・ときて、「とすると、彼に嫌疑がかけられるとしても、それはむろん最後のことであり、」(553ページ後ろのほう)とくる。慎重に論理を積み上げているのに、最初から「一人としておりません」とやっちゃだめ。

いつにもましてずさんな話になっていたら・・・ごめんちゃいです。

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2009年4月28日 (火)

カラマーゾフ12編 その9

Чему же верить? Первой ли легенде — порыву ли высокого благородства, отдающего последние средства для жизни и преклоняющегося пред добродетелью, или оборотной стороне медали, столь отвратительной?

いったいどちらを信じるべきなのか。最初の伝説、つまり、なけなしの生活費をなげうち、慈善に身を投じた高潔な衝動のほうでしょうか。それとも、じつにいやらしい、メダルの裏側でしょうか。(亀山訳526ページ)

ドミートリーの二つの側面について検事が述べているところ。問題は「慈善に身を投じた」。ひとつには、一度限りの行為を見て、「慈善に身を投じた」というかどうか。さらに、慈善:добродетельを行ったのはドミートリーということになるが・・・同じ箇所:

善行の前に膝まずいて(米川訳268ページ)
善行の前に頭を垂れた(原訳476ページ)

この「善行」はカテリーナ・イワーノヴナの行為。さて、いったいどちら? преклонятьсяはお辞儀をする、とか、崇拝する、とか。おそらく第1部第3編の4、ドミートリーがカテリーナ・イワーノヴナに五千ルーブルの債権を手渡したあと、「これ以上ないというぐらいうやうやしく、思いのかぎりをこめてお辞儀した」(亀山訳1の305ページ)ことをさしているのだろう。というわけで、一件落着・・・・・

とはいかないんだなあ。そもそも、добродетельを善行と訳したのが悪いんでないかい(もちろん、この場合、の話よ)。あの、カテリーナ・イワーノヴナの行為を日本語で善行とは言わない・・・と思う。いや、絶対に言わない・・・・・と思う。米川さんまで・・・・・では何と言う? 美徳、かな。いまどき使わない言葉を避けるなら、善いというより、むしろ美しい行為と言うべき・・・と思う。

お話かわって、実につまらないことですが、亀山訳529ページ:

всегда могу пойти к оскорбленной мною невесте

自分を侮辱した婚約者のところへいつでも出かけて行き、

мною(自分に)、оскорбленной(侮辱された)、невесте(婚約者)。自分が侮辱した、の誤植かな。・・・そのすぐ後:

だまし取ったふところのお金の半分を目の前に差し出して

「ふところのお金」というのは現在の所持金である・・・と思う。だましてふところにした金、ならよかです。・・・さらに少し先:

Этот самый бешеный, но слабый человек, не могший отказаться от соблазна принять три тысячи рублей при таком позоре,— этот самый человек ощущает вдруг в себе такую стоическую твердость и носит на своей шее тысячи рублей, не смея до них дотронуться!

彼はきわめて凶暴な男です。しかし弱い人間です。あれほどの屈辱を味わいながら三千ルーブルの受け取りをこばめない弱い人間が、とつぜん自分自身にこれほどストイックな意志の強さをおぼえ、千五百ルーブルに指一本ふれることなく、首にかけて持ち歩いていたというのですから!

ドミートリーの性格分析。бешеныйは確かに「凶暴」だし、ドミートリーは確かに「凶暴」だし、まったく正しいとしか言いようがないし、読みやすくするため文章を短く切ったのは結構なことだし、・・・しかし、彼がきわめて凶暴な男であるという一文がここにある意味はあるか? ストイックな態度が彼に似合わないというのがここの趣旨である。そして、亀山訳では「弱い人間」が後半の長い文章の主語になっているが、原文では、「この、きわめて凶暴だが、弱い人間」に尾ひれがついて、もう一度「この人間」と言い直して主語になっている。(この言い直しがなければ、бешеныйを誘惑に対抗しうる力と解釈する可能性があるかもしれないが、そうではないので)、бешеныйも金に対する意志の弱さと関係がなければならない。「凶暴」でいいか? 参照:

この非常に乱暴であると同時に、あんな屈辱を忍んでさえ三千ルーブリの誘惑を斥け得なかった弱い人間が、突然こんな堅固な克己心を発揮して、千ルーブリ余の金に手もつけず、頸にかけていたというのです!(米川訳270ページ)
あのきわめて激しやすい、それでいてあれほどの恥辱を忍んでまで三千ルーブルを受けとる誘惑を拒みきれなかった弱い人間が、ほかならぬその男が、突然、これほどストイックな意志の強さを内に感じて、千ルーブル以上もの金を首にかけて持ち歩き、手をつけようともしなかったというのです!(原訳478ページ)

ноを「あると同時に」とか「それでいて」とかしたのはいいと思う。「乱暴」はどうかなあ。「激しやすい」はいいかな。「抑えのきかない」とかだともっといいような・・・「ほかならぬその男が」は実に、原文に忠実たらんとする原さんらしいけど、この位置でも必要なのかどうか・・・文章の構造が違うし、ニュアンスもまったく違っちゃうと思うけど・・・意味も「ほかならぬその男」というより、「まったくこういう人間」ってな感じ?

その続き:

Сообразно ли это хоть сколько-нибудь с разбираемым нами характером?

はたしてこれが、わたしたちが検討してきた被告の性格と、ほんのすこしでも合致するというのでしょうか。

разбиратьは分析する、とか。もち、検討するもよさそう。しかし、普通こういう場合、わたしたちは「わたしたちの理解する」と言う。理解するという意味もあるようだし・・・現在形だし・・・しかし・・・

しかしねえ、キミ、日本語ではこういう場合こう言う、式の考え方は危険じゃないの? ロシア人がそんな使い方をしているかどうか、キミにわかるはずがない。だいいち、「理解する」なら他に単語が・・・・・いや、こういう場合はこう、というすり合わせを重ねるほか、翻訳なんかしようがない。辞書の先頭から順に合いそうな訳語を探すんじゃだめだよ。それからね、「理解する」ったって、いろんな使い方があって、この場合の理解するはразбираемыйがぴったりなのさ・・・きっと・・・たぶん・・・

調子にのりすぎだな、些細なことで・・・

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