ロシアの修道僧(10)
長いことお世話になりました亀山訳『カラマーゾフの兄弟』2、どうやら最後のページまでたどりつきそうでやんす。う、う、なにひとつやり通したことのない人間が、よくぞ、よくぞ・・・って、たった一巻じゃないの。それくらいのことで、ケッ・・・とにかく、亀山先生、それから、お付き合いくださった皆様に感謝いたしやす。
さぁてと、後は野となれだぁ、与太話によりをかけて・・・といきたいところではありますが・・・どうもその・・・無理な言いがかりと感じるようでしたら、この項を(9)で終わらせたくなかったんだなとお思いください。
455ページ:まことに、わたしたちはこの地上をさまようかのようであり、かけがえのないキリストの姿が目の前になかったならぱ、わたしたちも大洪水前の人類のようにすっかり道に迷って、滅び去ったことだろう。
На земле же воистину мы как бы блуждаем, и не было бы драгоценного Христова образа пред нами, то погибли бы мы и заблудились совсем, как род человеческий пред потопом.
いや、さもありなん。キリストの姿がない→道に迷う→滅び去る。じつに筋がとおった話でやんす。きっとその通りなんざんしょ。
し、しかしですよ、それってこんなふうに書かれるものざんすか:погибли бы мы(わたしたちも滅び去った) и(そして) заблудились совсем(すっかり道に迷って)。順番がなあ。ふうむ、そういうものだと言われちまったらそれまでだけど。
いや、しかしねえ、大洪水前の人類は道に迷って滅びたのかしら。むしろ、きまりを守らなかったんじゃなかったっけ。創世記6章11~13節を見るとお:
この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。(日本聖書協会新共同訳)
だとさ。そりゃまあ、道に迷うってのもかなり意味は広いから、ねえ。でも、ちょびっとちゃうんとちゃうんじゃないかってね。堕落と不法でしょ。そこでさ、погибатьは堕落する、заблудитьсяは道を踏み外すといきたいなあ。
459-460ぺージ:悪行を犯した者も、もしかするとおまえの光に照らされていれば、それを犯さずにすんだかもしれないのだ。
そして、かりにおまえが光を与えながら、それでもおまえの光のもとで人々が救われないことに気づいても、心をしっかり保ち、天の光の力を疑ってはいけない。たとえいまは救われなかったにしても、いずれは救われるのだということを信じるがいい。そしてその後も救われなくとも、彼らの息子たちは救われるだろう。なぜなら、おまえの光は、たとえおまえが死んでも消えることはないのだから、正しい人は去っても、彼の光は残るのだから。
人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。人類は預言者を受け入れようとせず、次から次へと彼らを殺してきたが、人々は自分たちの受難者を愛し、迫害された者たちをも敬う。
Спасаются же и всегда по смерти спасающего:人々が救われるのは、つねに救おうとする者の死後のことである。・・・いや、さもありなん。きっとそうなんでしょう。うぅむ、それに、名訳という声もある(こちら<ドストエフ好きーのページ)ところに異を唱えるとは無粋でげすが・・・
しかし、『つねに死後』でなくっても、ねえ。 前の段落から長々引用したのは若干、『つねに死後』は矛盾しやせんかと思って。ね、生きてるうちに救っちゃうこともあるように書かれてなあい?というかね、『つねに死後』なら最初からそう言えっての。
いやさ、『正しい人は去っても、彼の光は残る』。だから、ある救おうとする者が死んでも、光は残って、したがって、救いはいつでも・・・つまりさ、死んだら、じゃなく、死んでも・・・そんなふうなながれではないかと・・・
.あーあ・・・えーえ・・・まあね・・・
なにごとも終りは空虚な大納言
甘納豆なんざ喰ったってなあ、太助、現実はどもならんぜ
おぅよ、大門からこっち、一切の希望を棄てるなんて甘っちょろい言葉は薬にしたくってもねえからなあ
いのちみじかく わたる浮世は あめもつらいぜ ・・・・・
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