2011年6月29日 (水)

罪と罰第5部(3)

ペテルブルグに上京したとたん、この男の部屋にずっと居候しているのは、たんにけちくさい節約のためばかりではなかった。 むろんそれがいちばんの理由ではあったが、じつはほかにも理由はあったのである。
かって世話を焼いたことのあるレベジャートニコフについて、彼はまだ田舎にいる時分から、ある噂を耳にしていた。つまりこの男は、きわめて先進的な若い進歩派のひとりで、しかも、ある興味深い伝説的なサークルで重要な役割すら果たしている、というのだ。これには、さすがのルージンもびくついてしまった。なんにでも通じていて、いっさいを軽蔑し、あらゆることを暴きたてるこういった強力なサークルを、ルージンはもうずいぶん前から怖れ、何かとくべつな、それでいておよそつかみどころのない恐怖を感じていたのだった。(亀山訳14ページ)

まえせつ その一。この部分以下、ルージンがレベジャートニコフの部屋に居候する理由を説明している。「若い世代」に「探りを入れ」、「取り入る」ために、レベジャートニコフを「頼みの綱」としたのだ。レベジャートニコフが「そこ」に所属しているのだからそれを利用しようということだ。さて、そうした文の流れの中で、上の亀山訳では一か所、不協和音が響いている。「これには、さすがのルージンもびくついてしまった」である。これだとレベジャートニコフは大きなマイナス材料ということになる。

Это поразило Петра Петровича

поразитьは「ひどく驚かせる」という意味だ。ときには「びくついて」もかまわないが、ここであえてその訳語を選択する理由はない。

まえせつ その二。「なんにでも通じていて」以下の一文、原文では、Вот эти-то мощные, всезнающие・・・「こういった強力な、なんにでも通じている・・・サークルこそ怖れていたものだった」の感じ。ということはだ・・・「なんにでも通じていて、いっさいを軽蔑し云々」は、既に両者(著者と読者)が知っていることを明らかにしているにすぎないことになる。「きわめて先進的な若い進歩派」といっただけで、「興味深い伝説的なサークル」がそのようなサークルであることを(当時の)読者は承知している。

そこで、でげすよ。このサークルのね、修飾語がね、問題なんでげす。

иных любопытных и баснословных кружках

中村訳: ある珍奇な、聞いただけでもびっくりするような団体
工藤訳: ある種の興味ある途方もないサークル
江川訳: よく話題にのぼる現実ばなれした一部のサークル
亀山訳: ある興味深い伝説的なサークル

любопытных:珍奇、興味深いはいいとしましょ。баснословныхでげすよ。ま、「現実ばなれした」でも「伝説的な」でもいいようなものだが・・・正確なところを知りたい。一般論を言えば、「伝説的な」の方が好ましい。まえせつで述べたように、直後にそのサークルの説明みたいなものがある。だから、そのサークルの性質に関わる曖昧な修飾語ではないはずだ。といったところで辞書をみましょうよ。

баснословный: 1 伝説的な、2 途方もない。というわけで、おらとしては「伝説的な」を推奨する。メデタシ!!・・・ところが、あいにく、そうはいかないんだなあ。

「伝説的な」といっても、それは、「伝説によって知られる、遠い遠い昔の」という意味らしい。たとえば、ドストエフスキーは、ホメロスについてこの意味で使っている。とするとですよ、現存するサークルにある種の冠をかぶせるような「伝説的な」でありうるのか? むしろ日本語の「伝説的な」とは重なる部分が少ないのではないか? はて、困ったぞ。

では、「途方もない」か? いや、使用例をみると、途方もない贅沢、信じられない安さ、夢のような稼ぎ、どえらい収穫、とてつもない金(額)・・・火を見るより明らか。ある種の性質をもった単語群を修飾する。決してすることが現実離れしてるとか、途方もないとかの意味でサークルを修飾することはない・・らしい。さて、困った。

「伝説的な」もダメ、「途方もない」もダメ、それでいてほかの意味はない。行き詰まり・・・さいなら~・・・うーむ、もっとよく調べれば答はあるのかねえ。しかし、今ある材料で料理しなければならないとすれば・・・

実は、上には現在使用頻度の高い例をあげたが、ほかにも、蚊の大群とか、アカシアの群生とかも、баснословныйは修飾する。それなら、「サークル」も仲間に入れそう。サークルとは、人数の集まりだから。つまり、баснословных кружкахとは、途方もない多人数の集まりなのである。「大勢力を誇るサークル」とか・・・ってなところで満足することにしましょう。

つけたし。「あらゆることを暴きたてるこういった強力なサークル」。мощный=強力。いや、その通りなんだけど、「強力な」ってのは、強力な薬剤とか、強力なモーターとか、作用がはっきりしていると使いやすいんだけど、突然、「強力なサークル」と言われても、何に対してどう強力なんだか。江川さんは「こわいもの知らずのサークル」と訳してはる。ま、調子だね。が、おらはだね、このмощныйもサークルの図体の大きさを表しているんじゃないかと思う。

つけたし、その二。ゲルツェンのサークルとか、ベリンスキーのサークルとか、 кружки とは、まさしくサークルなんだろうけど、暴きたてるなんてことをするとなると、ちょっと日本語のサークルのイメージを逸脱するかな。

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2011年6月 9日 (木)

罪と罰第5部(2)

しばらくでございます。いろいろありまして。あたくしのいろいろなんざどうでもいいんだが。世の中のほうはどうなるんでございましょう。
しかしまあ、なんですなあ、カンちゃんもしゃっきりしないけど、ゲンちゃんを推進してきた党の旦那さんたちがなんで偉そうになさっているのかさっぱりわかりません。ま、いいや。ひとのことは言えません。あたくしにも責任はある。世の中のことはすべてつながっているでな。
えーと、それから、おすもうさんのはなしがありましたな。御裁きそのものが八百屋さんでやんしたなあ。あれが通用しちゃうんだなあ。お見事!
えーと、それから・・・ま、いいや。そんなこんなで今日の日だ。やっとブログを更新できそうになってきました。しかし・・・かれこれ四か月も間があいちゃって。しばらく休むといけません。ロシア語がさっぱりわからん。まるで外国語のよう・・・おほほ。ギャグのすべりも上々でおじゃる。えーえ・・・それに、こうして離れてみると、いままでなんと些細なことばかりつついてきたことか。えーい、かまうもんか。こうなったら、何の役にも立たない些細なことばかりつつきまくってやるんだ・・・と、地下室ふうをよそおってごまかす・・・さて、罪と罰の第5部に入ったところでした。ルージンさんがぶつぶつ言ってはる。

《失敗はまだある、あのふたりに一文も金を渡さなかったのもまずかった》憂鬱な気分でレベジャートニコフの部屋にもどる途中、彼はそう考えた。《ちぇ、なんだっておれは、ユダヤ人みたいにケチくさいまねをしたんだ? 節約だってできなかったじゃないか! あのふたりをできるだけみじめな状態にしておき、このおれを生き神さま扱いさせようって腹だったのに、まんまと逃げられちまった!(亀山訳11-12ページ)

まずは、「節約だってできなかったじゃないか!」のところ。ロシア語では:

Тут даже и расчета никакого не было!

расчетだってどんなものもなかった!(とりあえずこういう感じ)

ここではрасчетが重要そうなので、その意味を調べてみましょう。расчетは「計算」、「計算すること」。さらに、「想定」とか「つもり」。あるいは、勘定と言えば「支払い」、彼のすることは計算づく、なら「利益」、計算して暮らす、なら「倹約」を表すってな感じで使えるらしい。ですからして、過去において現在の事態に関する計算があったとか、なかったとかいう話になりそう。さてさて、そこでですが、問題の文は「いかなる計算も、どのような計算もなかった」、というように読める、かな。
待て待て、待てーい!「あのふたりをできるだけみじめな状態にしておき」云々というのは、「計算」ではないのか? いえいえ、ルージンさんの御考えは違う。ここで、計算とはことをうまく運ぶためのものでなければならない。たとえば、「金を渡したり」、プレゼントをしたりして、ハイ、サヨナラとは言いにくくさせようというのが計算(というようなことが引用箇所の後に書いてある)。そういう計算をすべきだったというのがここの趣旨。
さて、それではどのように訳しますか? 「どのような計算もなかった!」では、よくわからない・・・「計算だってひとつもしていない」。?・・・

ああ、わかってくれとは言わないが・・・

そもそも、なぜ「計算」という言葉が出てくるのか? ユダヤ人云々からの連想だろう。ケチるからには算盤づくでなければならぬ。ところが、計算ひとつしていないではないか! これが思考の流れというものでおます。というわけですので、こんなところがご推奨: 「計算の上のことならともかく!」。

さてさて、先生方はどう訳しておられるか:

中村訳: どうもあまり無成算にすぎたというものだ!
江川訳: これじゃ、まるで先を見る目がなかったも同然だ!
亀山訳: 節約だってできなかったじゃないか! 

見解の相違でござるか。しかし・・・
中村訳。成算がないというのは、成功の見込みがないということ。それなのにことを運んだということ。一方、ルージン氏は成功の見込みがないなんて思っていないどころか、むしろ自分の立場を過信していた。従いまして、中村訳は不適訳でござりまする。
江川訳。なるほど、先を見ていなかったのだから、「先を見る目がなかったも同然」ではある。同然ではあるが、別の事柄である。ルージン氏はそうは言っていないし、ユダヤ人も置いてきぼりだなあ。
亀山訳。расчетに「節約」の意味はある。が、節約の意図だ。「節約だってできなかったじゃないか」と訳すことも可能だが、それは、たとえば、ローンを組んだので、いろいろ節約の手段を講じなければならなかったのにひとつもできずに破たんしてしまったときとか、かな。ケチったのに結果として節約にならなかったのは駄目。いずれにしても、この際、いかにルージンさんにふさわしいとしても、「節約」は絡めない方が論理はスッキリですね。

本日はこんなところで。ぼちぼちと・・・

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2011年2月 7日 (月)

罪と罰第5部(1)

たとえば・・・たとえばというと・・・中学の英語の授業を思い出す。for instanceのアールとアイをくっつけて発音せよと。さあ、やってみらんせとな。おいらなんか、あったま悪いから、それを特殊な事柄ととらえるばっかり、一般化できないので、いまもそれが切り離された断片的な思い出として残ってるだけで、発音の上達にはなあんの関係もなかったでござるなあ。先生には悪いが、なんであんなもん繰り返し練習するんやろ、てなもんや・・・しかし、まあ、なんだ、あの、鵜が靴をはいて群れているような英語の授業でもやっていなかったら、落ちこぼれだったとはいえ中学、高校の六年間なかったら、後年、シャーロック・ホームズを訳してみようと思うこともなかったろうし、ついでのことに、地下室の手記をロシア語で読んでみようと思うこともなかったろうし、勢いあまって、誤訳だワッショイとか言って亀山先生をゾッとさせるようなこともなかったろうし、教育の影響というものはどんなふうに現われるか、知るや白梅たまがきにってやつだんべえ。
教育といえば、寺子屋なんかがあって、日本の識字率は世界最高水準だったとかいうけんど、そりゃあ都会のこって、いなかへ行くと、明治に入ってもかなり低いレベル、全国平均にならすと、スウェーデンやプロイセンには遠く及ばず、灰色の脳細胞の国よりちょいと落ちる程度だったってねえ・・・もとい!

たとえば、

最後にダメを詰めて数えると九郎兵衛が半目かっていた

てな文章、たとえば、小説の一節があるとするでしょ。登場人物が碁を打っていたわけよ。これを、どこか外国の人が翻訳するとする。と、(その国の言葉で)

ゲーム終了の手続きを終えるとわずかな差で九郎兵衛の勝利だった

てなふう。ここまではいい。ところが、その国にもあったまの悪いcoderatiとかいうのがいたりして、誤訳だヤッホとか騒ぎだす。曰く、ウェブで辞書を検索したら、駄目を押す: (囲碁で駄目を詰める意から)試合などでほとんど勝ちが決まってからさらに得点を重ねて勝ちを確定的なものにする、とある、してみると、「手続き」なんて書いてない、それに、「わずかな差」じゃないぞ、そうさ、既に勝ってるのにえげつないことをするから、九郎兵衛さん、「反目」を買ったんだ・・・いやはや、御冗談を、と言うなかれ。この「辞書」以外になあんの知識もなかったら、そんなふうに考えても無理はなかろう、大石殿。

ま、辞書の使い方も難しゅうござる。くれぐれも気をつけなくちゃ。自戒、自戒。それに、なんでございますな、今の例の場合、碁を知ってる読者向けと、そうでない読者向けでは正解が違うということもあろう。まあ、読者抜きの翻訳をやったっていいけどさ・・・ともかく、そういう問題を抜きにして翻訳批評はでけんこってござんす。そこで・・・唐突ですがね・・・そこでですが、そのお、「胆汁」ってのはどうなんざんしょ? 胆汁質 : 短気 とか言うらしいけど、胆汁って聞いて皆さん、どう? 英語のbileなんてのは調べると、1 胆汁 2 不機嫌、癇癪 と書いてある。だけど、日本語の胆汁をさ、癇癪と結び付ける人ってどのくらいの割合やろ。と申しますのはな、御承知でもございましょうが、ドストエフスキーにはよく胆汁が出てくるから。つまり不機嫌と結び付いた胆汁がね。というかロシア語の胆汁:желчьは英語のbile同様、両方の意味を持つので・・・まあねえ、べつにわからなくたって前後からなんとなく意味は取れるだろうから、胆汁と訳しときゃいいんだろうけども・・・たとえば、次のような例はどうざんしょ。罪と罰第4部の5から。

なにしろ、いまのご時世、こういう連中はみんな病んでるし、やせこけていて、いらついていますからね!・・・・・・やつら、そろいもそろって、どんなに胆汁を溜めこんでいるか知れたもんじゃない! あれって、なんと言ったらいいか、ことによっちゃ一種の鉱脈ですよ!(亀山訳2巻357ページ)

胆汁=イライラを知らないとちょっとわかりにくい。でも、かまわないのかな。そいうものだと思って読めばいいんだから。いや、「胆汁」と訳すよりしょうがないのかな。「胆汁」の意味を知ってる人が、知らないかもしれない人に向って話をしているだけのことだ。ふうむ、では、次のケースはいかがでしょ。第5部の1から。

Петр Петрович тотчас же посмотрелся в зеркало. Он опасался, не разлилась ли в нем за ночь желчь?

ベッドから起きあがると、ルージンはいの一番に鏡をのぞきこんだ。ひと晩のうちに顔がすっかりむくんでしまったのではと、心配にかられたのである。(亀山訳3巻9ページ)

желчьは胆汁、разлиласьはあふれた、とか、広がった、とか。んだもんで、江川訳は「一夜のうちに胆汁が全身にまわったのではないかと不安だったのである」。『永遠の夫』にも同じように鏡を覗き込む場面がある。どうやら、ドストエフスキーは不快と胆汁が現実に関係していると考えているらしい。そこで、ですが、亀山先生の「むくみ」は、実際には、間違いだ。しかし、むくみなら鏡を見て一目でわかる。長所。一方、なぜ「むくみ」を心配するのかちと不明(多くの読者には胆汁も同様だが)。また、読者に胆汁に関するイメージを与えるチャンスを失った。これらが短所。ふうむ、どうなのかなあ。工藤訳は、「一晩で顔が黄色くむくみはしなかったかと、恐れたのだ」。黄色をつけてもねえ。

もっとも、жёлчь разлиласьは胆汁がまわる、ではなく、黄疸になったってこと。つまり、工藤先生のおっしゃるように顔が黄色いか見たんだな。しかし、だなあ・・・黄疸ははたして適訳か?

つまり、実際に言いたいことは、不機嫌のあまり胆汁があふれ、黄疸になったかもと心配したということ。ところが、「黄疸」は正しい訳だが、ロシア語ではそこに内在している胆汁、癇癪という鎖の輪が日本語では消えてしまっている。なんでいきなり黄疸になっちゃうのか読者にわかりにくいかな。一方、「胆汁がまわる」は怪しげな表現(誤訳?)だし、原因と結果を読者の想像に任せているが、「胆汁」がほかにも出てくることを考えると受け入れやすい。「むくみ」はわかりやすさか。さてさてさて、どうなんですかねえ。まあ、どれがどうというより、百点満点の翻訳はないってことかな

偉い先生は、これらの翻訳を理論的に分類して名づけちゃったりするんだろうが、жёлчьと黄疸も一つの特殊な事例だから・・・

ふふ、第5部もどっちつかずの話ではじめちゃいましたねえ・・・

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2011年2月 2日 (水)

罪と罰第4部(17)

本日は、かるーく、ささーっとね。

48 Да послушайте же, Родион Романович, благодетель вы мой, ну вот хоть бы это-то обстоятельство

でも、いいですか、ラスコーリニコフさん、お願いですから、せめてこの話ぐらいは聞いてくださいよ。(亀山訳372ページ)

это-то обстоятельствоって、「この話」? 「この状況」でしょ。これから言うことじゃなく、既にあること。つまり、疑われていると思っているラスコーリニコフが、幻覚じゃないと言い張っているということ。そういった状況が何を意味するかを説明しようとしている。「いいですか、ラスコーリニコフさんねえあなた、少なくともこんなことになってるんですよ」とか。

49 Зачем сами-то вы так к нам напрашиваетесь, из каких причин?

どうしてそう、自分から無理難題をふっかけられるんです、どういう理由です?(亀山訳379ページ)

напрашиватьсяは「無理難題をふっかける」というより、「うるさくせがむ」という感じ。「自分から無理難題」というのはちょっと・・・

50 Ты лжешь и дразнишь меня, чтоб я себя выдал...

「きさま、嘘っぱち並べておれをからかい、口を割らせる気だな・・・・・・」(亀山訳382ページ)

「口を割る」は、白状することだが、выдать себяは、思わず隠していることを表してしまうこと。若干違います。この動詞、396ぺーじにもあって「正体をさらけだす」と訳されている。どうかなあ・・・

51  Где он был сегодня?

昨日の男は? やつはどこに消えてしまったのか? やつは今どこにいる? ポルフィーリーが何か有力な手がかりをにぎっているとしたら、むろん、昨日の男が一枚かんでいるにちがいない(亀山訳397ページ)

一枚かんでいる(これまた亀山先生独特)としたら、ということで:「やつは今日どこにいた?」 過去形。

52 Это вы сказали сегодня Порфирию

「今日、ポルフィーリーに話をしたのはあなただったんですね(亀山訳401ページ)

今日までポルフィーリーは部屋の件を知らなかったと気づいての質問。あとでもう一度「今日ですか?」と訊き直していることから見ても、質問の意図は「あなた?」だけではない。「あなたが今日、ポルフィーリーに話したんですね」とするべき。

あとは・・・わての気のせいかなあ。だとしたら、ご容赦。

★(ポルフィーリー)は多少とも強引すぎるきらいはあったにせよ、あぶなげなく手を打った(亀山訳396ページ)

攻撃一方の側の手をあぶなげないというのはどうかと思いまして・・・

★なぜか彼は、少なくとも今日一日は、ほぼ確実に自分が安全と考えてもいいのだ、という予感がしていた。

亀山先生もご自身の文章ならこうはl書かないと思うのだが。予感がしていた→感じていた。

では、勇躍、3巻へ。

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2011年1月27日 (木)

罪と罰第4部(16)

ふとしたことで、広島大学大学院の李国棟さん、宗近倫子さんの『雪国』の感覚性研究―英訳との比較を通して―という論文を目にすることとなった。内容は・・・ボンクラにはよくわからないのだが、どうやら、英文に訳すことで失われた表現のなかに『雪国』の感覚性があり、それがジャパネスクであるということらしい。しかし、まあ、英訳と比較することが、本当に『『雪国』』の感覚性をあぶりだすことになるのか、はなはだ・・・創作と翻訳では言葉を選ぶ仕組みが全く違うのだから・・・「突然」と「ふと」、「ふいと」を訳し分けろったって・・・曰く、「ふと」は「突然」よりも柔らかさがあって、緊迫感や激しさが表現できない、とか。まあ、状況としてはさようでござんしょうが、はたしてそこに本質があるだろうか・・・たとえば、

ふと目をあげると前のばっさまがまんじゅうを食おうとしていた

これを老境のご婦人の側から言うと、

おらがまんじゅう食おうとしたらばよ、前のあんちゃんが不意にこっちを見おってさ

がよさそう。「ふと」・・・ふと立ち止まる、ふと我に返る、このごろふと思う・・・「ふと」は無意識の意識の作用を表現するときに活躍すべきものではなかろうか。まあね、彼にふと出会う、という例もあるそうだから、そうとばかりも・・・

いや、あのね、『罪と罰』にはвдругという単語が頻出するんだけど、これが「突然、不意に、ふと・・・」なのね。亀山先生は「ふと」がお好きで「突然」はあまりお好きじゃないらしい。差し支えない限り、こう、と決めてらっしゃるようだが、ちょいと気になる時がある・・・

いや、あのね、亀山訳『罪と罰』も2巻がそろそろ終わるので、この辺でおおざっぱな印象でもひとつと思いましてな。いくつかの頻出単語について・・・いちばん気になるのは、前にも書いたнаконец。英訳辞書には、at last, finallyなどとあるのだが、亀山先生は「やがて」がお好み。これは少数派だろう。それから、loudのгромкийの「甲高い」。それから、разомの「一気に」。「一気に」だと、途中で休まないことに重点があるが、そうでない「いっぺんに」もあるから。ま、ま、詳しく分析するほどのこともなかろうて。3巻で、気になるところがあったらメモするということにしておきましょう。
今回は、ひとつ、бредという単語について考えてみよう思うんですが。 в бреду の形が多いかな。бредитьという動詞の形も。意味は・・・病気で寝ているラスコーリニコフが指輪のことやら、なんやら口走っている状態をいうらしい。亀山訳でどう訳されているかというと、いちばん多いのが「熱に浮かされて」。それから、「幻覚、幻覚状態」。あとは、「夢、悪夢、うなされる、熱病」等。

むずかしゅうござりまする-с。なんだってねえ、世論調査によると、「熱に浮かされる」を使う人より、間違った言い方「熱にうなされる」を使う人が多いって。後者が前者の誤用というのがそもそもよくわからないが(だって意味がちゃうじゃん)、とりあえず、へえ、と、ひとつうなる-с。まあねえ、いまどきは、すぐ解熱剤を飲んじゃうから、なかなかうわごとを言うまでにはねえ。しかし、ほかに代わる言い方がないとすれば、「熱に浮かされる」という言葉にも息をしていてもらわないと困るわけで-с。「幻覚」はどうかって、それはまた違うことを言ってるわけで。いや、もちろん、бред:「幻覚」も間違いじゃないすよ。

ウシャコフさんによれば、бредは、意識のない病人のいううわごと。うわごとを言うような意識混濁の状態と書いた辞書もあるな。бредитьは、うわごとを言う。これだとまさに、「熱に浮かされる」。ところが、ダーリさんの方には、夢を見る、うつつに夢を見るとか書いてある。こっちは「幻覚」派。どっちでもいいってことだ。うわごとを言うようじゃ幻覚もね。読者の側もおんなじようなことを言ってるとわかるだろうし。

というわけで、熱に浮かされる、でも、幻覚、でも、うわごと、でもかまわないんだけど、その一方で、それらを使ってうまいこと場合場合で対応しなくちゃならないとすると、そもそも、どれもぴったりしてないってこと? бредって、ある意味、キーワードざんしょ。びしっと統一できないのはやや残念。が、まあ、しょうがない。亀山訳で、ポルフィーリーとの場面で「幻覚」が主になるのも、それなりに故あることなのでしょう。ただ、気になる個所が2ヶ。

・・・・・・あなたは熱に浮かされているんですよ!あなたのまわりで起こっているのは、何もかも幻覚にすぎないんです!(亀山訳371ページ)

「何もかも幻覚」だと、なんにもなかったことになっちゃう。少し思い切りがよすぎるかなあ、と。ま、いいですか。あと、ひとつは・・・例の、「人殺し」と言った町人が謝りに来たところ:

つまり、部屋を借りにいった話と、血のことでやりとりしたこと以外、この男は何ひとつ話せないわけだ。つまり、ポルフィーリーも、あのたわごとのほかには何ひとつ手にしていないことになる。(「たわごと」に傍点。亀山訳400-401ページ)

「たわごと」に傍点がふってあって、原文ではイタリックでбреда。意味は「たわごと」でいいし、正確を期すなら「うわごと」・・・だが、それでは、傍点を打つ意味がないざましょ。ポルフィーリーと共有する語を用いなくては。ここで、たとえば、「幻覚の産物」とか訳すことができないなら、もともとбред:「幻覚」という訳がスカタンということになっちまう。

2巻の残余の問題については、次回もう一回ということで、おねがいしま~す。

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2011年1月20日 (木)

罪と罰第4部(15)

さて・・・わたくしのように、文章の一部分を取り出してこねくり回していると、かえって意味がわからなくなってしまうのかもしれないと思います。普通に本を読むときには、スーッと読み下す。それで何らかの印象が残る。その印象が作者の言わんとしたものであればいいわけである。すると・・・必ずしもわかりやすい文ではなくても、正しい印象を伝えられるかもしれない。必要な要素が含まれていれば脳が勝手に処理してくれるかもしれない。だとすると、そういう文章の書き方もあるということになる。

どうしてこんな、自分でもよくわからないばかばかしいことを書いているかと言えば、次に示す亀山訳の文章を読んで考えているうちに、すっかり混乱させられてしまったからだ。ポルフィーリ曰く、「ある男」が自分から殺人の罪をひっかぶったのだが・・・

なんせ、次から次へと幻覚を並べたて、事実を示し、状況を話し、並みいる相手を煙にまき、混乱させてしまった(亀山訳370ページ)

読みやすい。それは今でもわかる。だが、これを初めて読んだ時どのように理解したか、もう思いだせない。もしかすると、幻覚を並べたてることと、事実を示すことは相反する事じゃないかという、消化しきれない何かを感じたかもしれない。あるいは・・・

最初の部分に相当するцелую галлюсинацию подвелという一節、まるまる幻覚を持ってきた、という意味のよう。つまり、「ある男」の持ち駒は全部幻覚ということらしい。江川訳はそれに配慮している。「幻覚を一から十まで並べたてて、事実は提示する、状況は説明するといった具合で」といった具合。誤読の余地はない。但し、原文に「といった具合」なんて書いてない。なくてすむならその方がいいかも。では、亀山訳は・・・

いいような気もするが、しかし、誤読の可能性を感じる理由の一つは・・・「並みいる相手を煙にまき」である。意図的であることを示す「煙にまき」という表現はそもそもあまりこの場にふさわしくないと思うが、この、どうだ!と言わんばかりの言い方が、事実の運び手のはずの幻覚を表舞台に引き出してしまうからだ。とはいえ・・・まあ・・・いいとしますか。わけのわからない話はきりあげて、今の部分の続きから、本題。

45 и как узнал про то, что он убийцам дал повод, затосковал, задурманился, стало ему представляться, повихнулся совсем, да и уверил сам себя, что он-то и есть убийца!

自分が犯人にきっかけを与えたってことを知ると、急に気がふさぎだし、意識ももうろうとし、幻覚にまでなやまされるようになって、すっかり腑抜け状態になってしまい、とうとう自分が犯人だと信じこんでしまったわけです!(亀山訳370ページ)

「意識ももうろう」と「腑抜け」についてちょっと。まず・・・

задурманитьсяは辞書によると(ウシャコフさんとかダーリさんに嫌われてしまって一ヶしか見つからなかったので頼りきってはいけませんが)、明晰に考える能力を失うこと。じゃ、「意識ももうろう」は間違いかというとそうじゃない。задурманитьには、「論理的な思考力を奪う」のほかに、「意識をぼんやりさせる」なる意味がある。ま、おいらは、ちゃんとものが考えられなくなるほうがいいと思うけど。

повихнутьсяも、あまり使用頻度の高い単語じゃなさそうですが、ウシャコフさんとダーリさんのおっしゃることを総合すると、(頭が)おかしくなっちゃう、あるいは、正しい道からはずれる、という具合であんして、どうも「腑抜け」とは違いそう。

46 少し戻って。ポルフィーリー、ラスコーリニコフがばったり倒れちゃったことへの当てつけ話。

もののみごとに嘘はついてみせた、でも、自然ってやつを勘定に入れるのを忘れていた。ほかでもない、こういうのを浅知恵っていうんでしょうな(亀山訳363ページ)

натуруは「自然」と訳した方がかっこいいから、皆さん、そう訳すんでしょうね。中身は、人間の性質、みたいなものかな。さて、疑問は、「ほかでもない」以下。原文がわかりにくい。

Вон оно, коварство-то где-с!

оноとはなんだ? гдеはどこだ? とかは、わてには解決不能。ほかの方の訳も参照しあんしょう。

中村訳: ここにもう危ない陥穽があるんですて!
工藤訳: まあこれが、奸知の限界ですね!
江川訳: まあ、これが猿知恵というものですかな!
亀山訳: ほかでもない、こういうのを浅知恵っていうんでしょうな!

ますますわからない。いやはや、どこに陥穽があるんだろう。猿も陥穽に落ちる?・・・

少し前にОно, положим, болезнь「たしかに、病気のせいもある」というところがある。ここでОноは「ばったり」をもたらしたもの、あるいは、そういう状況はさしているんだろうか。Вон оноは、そのことと、「人間の性質を勘定に入れていない」ことを受けて、「それでそういうことになる」、というような意味って考えちゃいけないのかな。

一方、коварствоは狡猾さ、あるいは、悪意ある行為、計画・・・гдеは、いずこ というわけで、甚だ勝手読みながら、総合すると、「言わんこっちゃない、悪だくみも形無しでございます」てなもんや。こんなところがおいらの浅知恵の限界。ふうむ、悪賢さの含まれている、工藤訳に一票入れときますかあ。

47 У вас-то болезнь, а у него добродетель, болезнь-то и выходит к нему прилипчивая

中村訳: あなたのは病気、あの男のは親切だが、病気って奴は、じきあの男にも感染しますからなあ
江川訳: あなたのは病気で、あの男のは善意ですが、病気という奴は伝染しやすいんですな
亀山訳: あなたのが病気なら、あの男は善意です、で、病気っていうのに、あの男は伝染しやすいたちでしてね

病気一般の話じゃないのは明白とはいえ、一般に伝染しやすい、みたいな江川訳が変だというので、ラズミーヒンがうつりやすいたち、と亀山さんはしたわけだ。ふうむ、そうなのかなあ。わかりません。прилипчиваяは病気が「伝染性の」ってことでしょう。すると、すなおーに読むと、「病気ですからあの男に伝染することにもなりますよ」だと思うんだけど・・・

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2011年1月12日 (水)

罪と罰第4部(14)

40 Я, знаете, человек холостой, этак несветский и неизвестный, и к тому же законченный человек, закоченелый человек-с, в семя пошел и

じつは、わたし、独身でしてね、社交界とのつきあいもないし、名前も知られていません、おまけにもうできあがった人間、こちこちに固まった人間、しがない種馬みたいなもんでして・・・・・・・(亀山訳347ページ)

「しがない種馬」、みなさんはどう思われる? え、感じが出てる? 自分は終わってしまって・・・が・・・が・・・これ、子だくさんのほか能のないお父さんが言うならいいかもしれないけど、独身だってんだからねえ。意味は正確にとらえてらっしゃるんでしょうが、あいにく種馬ってのが「しがない」かどうか・・去年の口蹄疫で明らかになったように、種牛の価値は、普通の牛と比べもんにならない。種馬もそうでしょ。みんながディープインパクトじゃないにしても、エリート中のエリート中のエリート。ターフで雄姿を見ることはないにしても、しがないとは言わない。もっとも、しがない、がついてるから意味が通るんだが・・・さて、семяはなるほど、種ですが。в семя пошел 、ほかの方はどう訳してるかな?

中村訳: 種になりかかっている人間です
工藤訳: もうぬけがらになりかけています
江川訳: 正札つきの小役人なんですな
亀山訳: しがない種馬みたいなもんでして

中村さんはそのまんま。工藤さんは意訳。江川さんは全くの創作。亀山さんはミスマッチ・・・辞書にはどう書いてあるかというと(пойти в семенаと書いてあるけど)、要するに、盛りを過ぎ、成長を止めることらしい。日本語で言うと、花の盛りを過ぎましたってところですか。

41 芸術かトリックか

この予審判事の仕事っていうのは、まあ言ってみれば、一種の、自由なトリックといおうか、それに類したもんでしてね・・・・・・(亀山訳351ページ)

「自由なトリック」のところ(свободное художество)、たとえば、江川さんは「自由な芸術」と訳している。どちらの意味もあるのでなんとも言えません。ただ、「トリック」のхудожествоはあまりいい意味では使わなそう。

42 Уж эти (некоторые, конечно) глубокомысленно-психологические приемы-то наши крайне смешны-с, да, пожалуй, и бесполезны-с, в случае если формой-то очень стеснены-с. Да-с... опять-таки я про форму:

われわれの用いる、この心理学的とかいう大まじめな手法なんて(むろんぜんぶじゃないですよ)、じつに滑稽きまわりないもんなんですよ、そう、この形式ってのがあんまり表に出すぎたりすると、それこそ、役立たずってことになりかねませんでね。おやおや・・・・・・また形式のことなんかを言いだしているみたいだ。(亀山訳352ページ)

глубокомысленно-психологические は前が後ろを修飾しているのだから、心理学的とかいう大まじめな手法ではなく、真面目に心理学を用いる手法かな。それから、この文章、何が役立たずになるのかわかりにくい。「手法」だって、わかる? 「・・・滑稽きわまりないものだし、その上、あまり形式に縛られたりすると役に立たないてことになりかねない」でわかるかなあ。

それより問題は「おやおや」以下。まるで、気がつけば形式の話じゃないですか、みたいですが・・・ハナから形式の話をしてるわけだし、それによくごらんくださいませませ:формуの後ろはコロンでっせ。これからまたまた形式の話をしまっせ、という印でござんしょう。おやおや、みたいだなんて、知らないふりをしちゃって、分裂気味。

43 И не силу же он свою мне бесполезно выказывает и... подсказывает: он гораздо умнее для этого!

《けっこうな講義じゃないか(中略)それに、自分の力を意味もなく誇示し・・・・・・あてこすってやろうってのでもない。やつははるかに利口な男だから、そんな手は使わない!(亀山訳359ページ)

ポルフィ-リーの長広舌についてラスコーリニコフが言ってるのですが。подсказываетは、セリフを忘れた俳優にそっと教えてやったり、あるいは、誰かに何かのアイデアを与えたり。言葉は悪いかもしれないけど、知恵をつけるって感じかな。穏当に訳すなら「ヒントを与える」とか。あてこするという意味はなさそう。従って、それは「「手」ではない。「やつは」以下、「そんなことをするようなばかとはわけが違う」とか。

少し後にもподсказыватьはあって、「なんのために、ここまでおれに手のうちを明かす」と訳されている。これも意訳だがまあいいでしょう。

44 そりゃあまあ、小説の山場ではありましょうが

ところが男は、そこでばたんきゅう! そう、ここぞという山場、いちばんスキャンダラスな場所で気絶し、ぶっ倒れちまう。たしかに、病気のせいもある、部屋のなかはときとして息苦しいこともある、でも、それにしたって!(亀山訳363ページ)

もちろん、これはラスコーリニコフが警察署で倒れたことをあてこすっている。そうすると・・・в самом-то интересном, в самом скандалезнейшем месте。後半の「 スキャンダラスな場所」はいい。が、あれが「ここぞという山場」かというと、??? だって帰ろうとしたときに事件の話が聞こえてきただけだもん。интересномは興味を引く、好奇心をそそる。この場合は、おもしろい場面という意味じゃなく、もっとも注目を浴びやすい場所という意味じゃろう・・・江川さんも「クライマックスのいちばんの見せ場」だってさ?????

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2011年1月 8日 (土)

罪と罰第4部(13)

数とか時間とか、ものの名前とかを訳す場合は迷うことはない。しかし、あいまいな広がりを持つ言葉を訳す時は、ぴたりとそれに重なる日本語があるとは限らない(あるはずがないよ言った方がいいのかな)ので難しい。その場にもっともふさわしい訳語を、おそらく、訳者さんたちは探してあてはめてらっしゃるのだろうが、そういう時に好みというか、意見の分かれることがある。困ったさんの典型的な例が「フョードルさんはбестолковыйだ」ってやつだ(前にフョードルさんは頭が悪い?って題で書いた話をちょっとだけ蒸し返す)。бестолковыйは愚かなって意味だが、より細かく分けると、頭が悪い、理解力なしって意味と、筋が通らん、わけわからんって意味がある(これも非常におおざっぱ)。そして、最初は多義的に理解されるбестолковыйの一部の意味が続く文章で否定されるのだが・・・(途中をカットした話になるが)たとえば、某先生はフョードルさんは頭は悪いが愚かじゃないということであると主張される。これではまるで、フョードルさんはテストの成績は悪かった、みたいな感じ。いけてないご主張だ。だが、しかし、もとはと言えば、бестолковыйがわけのわからんやつなのだ。ロシア語のわかる人がロシア語で読む分には、深く考えることもないことなのだろうが、いざ訳そうとしてこねくり始めると、所詮日本語には移しきれないこったから、ま、某先生もわけがわからなくなってしまわれたんざましょう。ま、ま、こんな明確な困る例にしょっちゅう出くわすわけではないですが・・・

では、と・・・お正月ぼけから覚めるよう、肩慣らしにひとつ・・・ひとつ・・・うひ、最初っから、しゃっきりしない話になりそう。

ポルフィーリーは、自分が面とむかってからかっている相手が、その笑いを憎しみをこめて受けとめているという事情に、ほとんど無頓着らしかった。相手が無頓着であるのは、ラスコーリニコフからすると、きわめて意味深長だった。ポルフィーリーは、さっきも気まずさなどまるきり感じていなかった、いや、それどころか、ラスコーリニコフのほうが、もしかすると自分は罠にかかったのかもしれないとさとった。(亀山訳344ページ)

後半の文が少々変なので事態が複雑になっている。とりあえず、「ポルフィーリーはさっきも気まずさなどまるきり感じていなかった、いや、それどころか、自分のほうがもしかすると罠にかかったのかもしれないと、彼はさとった」と読んでおいてちょうだいませ。そこで、「無頓着」と「気まずさ」に注目してみましょう。

очень мало конфузится :「無頓着である」
совсем не конфузился:「気まずさなどまるきり感じていなかった」

というわけである。同じ動詞なのだ。同じだから話がつながってる。「気まずさなど」のところ、「まったく頓着などしていなかった」と取り替えてごらんなさいませ。明快、明快! 薄ぼけた文章はドストエフスキーのせいではなかった。まあ、もちろん、亀山さんも(江川さんも似たよう)そんなことは御承知の上のことだろう。一つには、「無頓着」に惚れ込んでしまった。しかしながら、対象のない場合に「頓着」は用いにくいので「さっき」の方には使えなかった。ということでしょう。

問題は、「無頓着」がうまい!というところにあるらしい。ぴたりと一言、文章に締りが出るなあ。が、実際のところ、конфузитсяは「うろたえる、どぎまぎする、決まりの悪い思いをする」てな感じで、「頓着する」とはまったく違う。「気まずい」は範疇。否定すると、ほぼ「無頓着」になるが、正確ではない。さあ、どうすべえ?・・・中村白葉さんの当該個所をみるずら。

客が自分の哄笑を憎悪をもって迎えているのに対して、べつにわるびれた様子はなかった
先刻もポルフィーリイ・ペトローヴィッチは少しもわるびれてなどいなかった

フム、「わるびれる」はなかなかうまい。無頓着より正しい。二つのконфузитсяの訳語をそろえるという意味では実に結構だ。だがしかし・・・今度は「いや、それどころか」による対比が問題となる。напротив:「それどころか、逆に」である。罠にかかったのはこっちだった、に対するには、気まずそうだったとか、悪びれた様子だった、では少々不足の感あり。もちっと困った感じが出ていないとね。たぶん、このконфузитсяは「困惑する」というような意味で捉えるのがよさそう。実際、この単語の中心付近に位置している意味だ。江川さんはその線。一つ目は「無頓着」としているが、二つ目は「ひとつもうろたえていたのではないらしい」。

そこで、ですがね、今度は「さっきの」、「先刻の」場面を見てみましょう。

ラスコーリニコフが、いくつかの点から相手にどことなく動揺の色が浮かんでいるのを見てとったのは、それから何分か後のことだった。不意をつかれて面食らったか、あるいは、ひとりこっそりと何かしているところを見つかりでもしたような様子だった。(亀山訳339ページ)

これ、後になって、ラスコーリニコフの現われるちょっと前に例の町人が来て話をしたこと、従ってポルフィーリーは情報をたった今、得たこと、そしてそのことを意識していることを表しているとわかる。・・・だとすると、それは「気まずい」とか「悪びれる」と言った類のものとは違いそう。どう感じようとラスコの勝手でしょと言うなかれ。明快な話を意味深に理解することはない。

動揺と訳されたзамешательство、面食らった:と訳されたсбили с толку、そしてさっきのконфузитсяの三つは意味の重なる部分がとても多い。たぶん、この場合、すべて、困惑、動揺の類義語で処理すべきではないかと思う・・・という、実につまらない結論に達し、一瞬にしてけりがつき、我ながらあきれかえったのではありました。さて、ひとまず先を急ぎましょう。

37 да! славная вещь! — чуть не вскрикнул он под конец, вдруг вскинув глаза на Раскольникова и останавливаясь в двух шагах от него

「そう! いいもんでして!」彼はやっと、ラスコーリニコフのほうにすばやく視線を走らせ、彼から二、三歩のところに立ちどまると、ほとんど叫ばんばかりの声で言った。(亀山訳342ページ)

「やっと」はどこにかかる? フム。под конецはвскрикнул(叫ぶ)にかかる。この直前にあるポルフィーリーのセリフ、「ほんとうにいいもんですよ、ほんとうにいいもんで」の繰り返しと比べて、この(最後の)「いいもんでして」が叫ぶようだったということで、「最後は(ほとんど叫ばんばかりの声で)」と訳すのががよろし、ね。

38 ведь это существует, кажется, такое юридическое правило, такой прием юридический — для всех возможных следователей

だいたい、予審判事とか名のつく連中には、あるきまった法的なしきたりっていうのか、法的な手口といったものが存在してるそうですね。(亀山訳343ページ)

無関係な話題で被疑者を油断させるのは、取り調べにおける一種の原則、方法であり、「官舎云々」はそれだ、と、ラスコーリニコフがあてこすっているところ。それはあくまで取り調べの方法であって、法律で規定するものではない。従って法的なものではない。わかるけどね、間違いは間違い。法律家的? さらに問題なのは次の個所。

Об этом, кажется, во всех правилах и наставлениях до сих пор свято упоминается?

このことに関しちゃ、今でも、どんな法規や判例集をみても、金科玉条みたいに扱われてるらしいじゃないですか?(亀山訳)

法律や規則、あるいは、判決例に、取り調べの仕方は載らないでしょう。(取り調べの)原則集や指示書(手引き)みたいなものでは? ほかにも、юридические формы и правилаを「法律上の形式や規則」と訳したところがあるけど、同様。

39 закудахтал вдруг Порфирий Петрович, тотчас же изменяя и тон, и вид и мигом перестав смеяться

ポルフィーリーはぴたりと笑うのをやめ、ただちに声色から顔つきまで変えて、とつぜんにわとりが鳴くような甲高い声で叫んだ。(亀山訳346ページ)

закудахтатьは、кудахтатьし始めること。кудахтатьはめんどりが鳴くこと。どうやら、кудах-тах-тахと聞こえるらしい。「コケコッコ」なら、たしかに、甲高い声で叫んだんだろうが、しかし、この単語、人間のおしゃべりに適用する場合には、興奮気味にせかせかと話すこと(普通、女性)をさすらしい。そんなふうにしゃべり始めたということだろう。

追記:367ページにもありました。

ポルフィーリーは、例のにわとりの鳴き声に似た声で親身に話しかけたが、それでもまだ、何かしらショックを隠しきれない様子だった。

ここもзакудахтал、せかせか話し始めたのでしょう。

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2010年12月31日 (金)

罪と罰第4部(12)

ことしもあとわずか・・・毎年恒例、一年を振り返って、いろいろと反省。釧路もびっくり、失言多々か・・・結局、インターネットって怖いなあとか、他人ごとにしてごまかす。そりゃ違うぜよ、おまえ個人の資質の問題じゃ、インターネットのせいにすな!という声には、そんなことは重々承知とつぶやきつつも反論を考える。考えてもごらんなさいよ、共産主義があかんかったって、共産主義が悪いんじゃない、共産主義は立派だが、持ち切れない人間が粗笨なのよ、と言ったって仕方あんめえ・・・江戸紫

あめにしめった讃美歌の・・・

ピントさん、はずれっぱなし・・・批判の旗印、罵詈雑言になりがちなのは個人の問題としても、ウェブには悪霊が巣食っているような・・・

まあ、何がいけないって、やっぱし、以前は日の目をみなかったはずのレベルの低いものが堂々と発表されるってことか。そりゃあもう、印刷物だっておいそれと信用するわけにはいかないけど、それにしてもある程度のチェックは入るよってに。いい例が、某検証サイトの某先生による、朝日新聞で没になった文章。どう見ても採用されるシロモノじゃない。でき悪し。が、なんか別の理由で没になったと思ってらっしゃるのか・・・だいたい検証が誰の名誉を傷つけたかと言えば、誰よりも某先生ご自身だな。そうじゃないとすれば・・・ロシア文学会は学の文字を取った方がいい。ロシア文会で充分会。専門家が責任を持つことの重みがねえ・・・

勘のよかおひとはお気づきじゃろうがここで断りが入る。私は素人でございまして、エヘヘ。ずるい!・・・自分の書いていることが当たってるんだか、当たってないんだか・・・まあ、明らかに当たってる場合もあるんだけど、自信がなくても書かないわけにもいかないんでして。それから、なぜ亀山訳を中心に取り上げるかと言えば、それが「いま生きている」から。亀山訳が特にどうのという意図は全くござんせん。連中とはちゃう。H先生は、あれは徒党じゃないとおっしゃるが、そう思ってるのはH先生ひとりだあな。ツライものあり・・・

要するに、この反省のない、支離滅裂な文章がこの一年を表しているのでありまして、なんといっても、このブログの関知しないところであまりにもいろいろなことがありまして・・・まったく去年の自分と違うのに、意外に平気なんだけど・・・まあいいや。つまり、来年もこの調子だってことだあ。それでは本年最後にふさわしく、「最後の道」というお題から。

34 《Вот и исход! Вот и объяснение исхода!》

《これが最後の道ってわけだ! 道の説明ってわけだ!》(亀山訳319ページ)

この「最後の道」だが、「最後に行き着く先」と解釈していいのだろうか。「行き着く先を物語っている」という意味にとっていいのだろうか。「最後の道」という言い方が少し難しいので。「道の説明」という表現が少しわかりにくいので・・・「道」は《彼女の道は三つだ》(Ей три дороги)の「道」を生かしたのだろうが、逆に話を複雑にする意味もあって・・・いや、私の解釈で間違ってなければ、んま、結構ざんすがね。

《これが結論だ! 結論の説明なんだ!》(中村訳)
《これが出口なんだ! 出口の告白なんだ!》(工藤訳)
『これが結論さ! 結論の説明さ!)』(江川訳)

исход:「結論」、二票獲得。なぜ、亀山先生は「結論」を避けたのか。この後を読めばわかる。

《これが最後の道ってわけだ! 道の説明ってわけだ!》好奇心もあらわに、じっと相手をながめながら、彼は胸のうちでそう結論づけた。(亀山訳)

「結論づけた」。そうなのだ。「結論」とはラスコーリニコフの心のうちで処理されるものである。ところが、「これ」はソーニャのありようを表すものであり、ラスコーリニコフの思考の結果ではない。ましてや、ソーニャがくだしたわけでもない「結論」をソーニャの言動が「説明」するわけがない。微妙だが、「結論」は正しい言葉の選択ではなさそうだ。この少し前にある部分も同様だ。

彼は、この発狂という思いにしつこくこだわった。ほかのどんな結論(исход)にもまして、発狂というこの結論が気にいったほどだった(亀山訳318ページ)

ここでは工藤さんは「出口」だが、ほかの三方は「結論」だ。исходは、おおざっぱに言うと、「出口、解決、終わり」である。「結論」ではない。しかし、ラスコーリニコフの頭の中で想定された「最後の姿」ということで、「結論」を選択されたのだろう。しかし、彼はまだ結論を下していないし、想定されるべきは結論ではなく、結末だろう。「結末」と訳すべきだと思う。

「出口」は・・・出口ではないのでだめ。

お話かわって、朗読を始めようとするソーニャの様子から二題

35 その一

この感情が、じっさいに彼女のほんとうの、おそらくもうだいぶむかしからある秘密をなしていて、もしかしたらそれは、ほんの幼い少女だったころから(後略)(亀山訳324ページ)

настоящую и уже давнишнюю, может быть, тайну ее, может быть еще с самого отрочества

秘密は、настоящую(ほんとうの)であり、もしかしたら、だいぶ前からあるものであり、もしかしたら、ほんの少女だったころからのものであり、というふうに時を遡っていく手法をみると、настоящуюは「ほんとうの」ではなく、「現在の」秘密でもあるということを表しているのではないかという気がしたのですが・・・

その二

たしかにいま朗読をはじめようとして、悲しみにくれ、何かをひどく怖れてはいるが、(後略)

ここで、тосковала:「悲しみにくれ」という訳は、たぶん、亀山さん独特(江川さんは「心を悩ませ」)。なかなかおもしろい。

36 福音書の朗読

イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。マルタは言った」
(そこで苦しげに息をつぎ、ソーニャは、まるで自分が公衆の前で懺悔しているかのように、ひとつひとつの言葉を、はっきりと力をこめて朗読した)
「『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、キリストであるとわたしは信じております』」(亀山訳326ページ)

точно сама во всеуслышание исповедовала:「まるで自分が公衆の前で懺悔しているかのように」という訳がわからない(ちなみに、工藤さん、江川さんも同様)。「自分が」とは、マルタの言葉を自身の言葉であるかのようにということだろう。してみると、明らかにこれは「懺悔」ではなく、信仰の「告白」、あるいは「宣言」だろう。ね!

それでは、みなみなさま、よいお年を。

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2010年12月24日 (金)

罪と罰第4部(11)

ラスコーリニコフさん、ソフィアさんのおうちを訪ねますが・・・

29 ろうそくと燭台と床

① そこにあるつぶれかけの椅子の上には、ひしゃげた銅の燭台にろうそくがひとつ灯っていた(亀山訳295ページ)

「つぶれかけの」とはビミョーな表現。座面がへこんでいるのであれば(たぶんそういうことだと思うんですが)、「つぶれた」? 「ひしゃげた」も。「ひしがれた」とは語感が違ってきているので。しかしほかにうまい表現がないのかな・・・ところで、なぜ、ひしゃげてしまったのか。ろうそくが載るのか・・・まあ、まあ、先へ。

② 一分ほどすると、ソーニャも部屋に現われ、手にしたろうそくを床に置くと、そのまま彼の前で立ちつくしてしまった。(亀山訳296ぺージ)

え、床へ? 原文ではどこに置いたかわからないが・・・まあ、まあ、先へ。部屋は広い。テーブルは右手の壁の隣に通じるドアの前。ラスコーリニコフは反対側の壁の隅近くにある箪笥の上に聖書を見つける。

③ 彼はその本をろうそくに近づけ、ページをくりはじめた。(亀山訳321ページ)

「ろうそくに近づけ」とは、そばにほかのろうそくがあるよう。しかし、彼はソーニャに、ラザロのところを見つけて読んでくれと言って腰を下ろし、テーブルに頬杖をつく。ソーニャはテーブルに歩みより、本を手に取る。従って、本は「ろうそくのところまで持ってきた」、そして、ろうそくは「床」ではなく「テーブル」の上にありそう。

④ ねじれた燭台に載っているもえさしのろうそくは、もうだいぶ前から燃えつきようとして(亀山訳329ページ)

「ひしゃげた」と「ねじれた」はちょっと違う。ねじるのは容易じゃない。もしかしてデザイン? 燭台を修飾している形容詞は、 искривленномにしてもкривомにしても、湾曲しているという意味らしい。何か「不自由さ」を暗示するために「ひしゃげた」とかが選択されたのかな。ま、ま、たいした話じゃござんせん。すまんこってす。

30 ソフィヤさん、11時でござんすか?

「ええ、そう、そうでした!」そこに自分のすべてがかかっているとでもいうように、急にあわてて言いそえた。(亀山訳298ページ)

заторопилась она вдруг, как будто в этом был для нее весь исход

исходを「結果」とみると、亀山訳のようになる。が、「出口、解決」の意味にとれないだろうか? 「急にあわてて」という、とびつく感じからすると・・・それで何かから脱出できるかのように・・・露骨ですか・・・

31 ソフィヤさん、あの人が好きなんですね?

「カテリーナさんが? そんな、決まってるでしょう!」ソーニャはふいに苦しげに両手を組み、哀れっぽい調子で、ゆっくりと答えた。(亀山訳302ページ)

— Ее? Да ка-а-ак же! — протянула Соня жалобно и с страданием сложив вдруг руки

「ゆっくりと答えた」はпротянулаに対応している。江川訳は:

「きまってるじゃァありませんか!」(中略)引きのばすような、哀れっぽい調子で言った。

すなわち、ка-а-акの部分が「引きのばすよう」だ。как →ка-а-ак 。しかし、「きまってるじゃァ」では引き延ばした感じはあまりしないし、意図は伝わってないような。「ゆっくりと」は違うでしょ。

как жеはもちろんでございますという意味。決まってるじゃありませんかで結構だけど、それに決まってるわけじゃあない。中村さんは「それはもう!」。これでは味気ないけど、ちょぉっと変えて、「そりゃぁあ、もぉ-ぉお!」とかしたら、どぉお?

32 ほなら、出てゆけ~!

今日も家主のおかみさんが、出ていってほしいと言ってきたらしいんですが、カテリーナさんはカテリーナさんで、こっちこそ一分だっていたくないって返事したとか(亀山訳304ページ)

только хозяйка, слышно, говорила сегодня, что отказать хочет, а Катерина Ивановна говорит, что и сама ни минуты не останется

カテリーナさんのことだからそう返事したにちがいないけど、говоритだからなあ、「言っている」じゃないかなあ・・・カテリーナさんはカテリーナさんで一分だっていたくないって言うんです、では・・・その場の返事より「言っている」ほうが厄介な場合もあるし・・・

33 リザヴェータが持ってきた襟と袖あて

『ねえ、ソーニャ、わたしにこれ、プレゼントしておくれよ、お願い』って言うんです。お願いってせがむくらいですから、ほんとにほしかったのね。でも、そんなものつけて、どこに出かけるっていうんです! ただ、幸せだった昔のころを思いだしただけなんですよ! 鏡にうつして、うっとり見とれてましたけど、着るものなんて一着も持っていないんですよ、一着も。いえ、持ち物だって何もない。もう何年もです!(亀山訳308ページ)

結局、ソーニャは、あげるのが惜しくて、「こんなものもらってどうなさるの?」と言う。その気分がここにも、いや、この訳にも出ている。着けていくところもないくせに。思いだしたってしょうがない・・・とくに重要なのは、「鏡にうつして、うっとり見とれてましたけど、着るものなんて一着も持っていないんですよ」のところ。着る物もないのに襟があってもしょうがないという意味でしょ。しかし、「持ち物だって何もない」に齟齬の兆し。いや、ほかの訳者さんも同じ様な訳し方してるけど、変だと思うんだなあ。すでに、出かけるところはない!と断ち切っているのに、「着るものなんて」なんて。

こう考えたらどうでしょう。「それを着けていくところがあるでしょうか! ただそうやって幸せな昔を思いだしただけなんです」は、あげたくない気持ちの反映ではなく、ただカテリーナの気持ち説明しただけと。そして、Смотрится на себя в зеркало, любуется, は「うっとり見とれてましたけど」ではなく、(昔を思いだそうと)「鏡にうつしてうっとり見とれようにも、着物もないし、小物もないんですから、もう何年も!」

いや、どうも釈然としないけど、少なくとも、「うっとり見とれてましたけど」は変でございます。

おまけ。どうでもいいかな。ちょっと戻って、あの廊下のシーンの後の、ラスコーリニコフと別れたラズミーヒンですが、こういうところがある。

彼のことは自分がしっかりと監視し、きちんとした立派な医師を見つけだして、立ち会い診察を受けさせると請けあった(亀山訳294ページ)

いやね、「監視」という言葉はプリヘーリヤさんの求めるところと違うんじゃないかと思って・・・

ふう、年内にもう一回更新できるでしょうか・・・

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