前にも書いたかもしれないけど、すべての疑問点に自分なりの解決をつけてここに書くというのは無理。実力的に。かといって、こちらとしての考えもまとまらないのに、ひとの翻訳をおかしいぞというのも失礼だし。でも、ほっとくのもなんだし。結局、あて推量で書くことになるわけだな。というわけで、こんな話から。
今、法廷では・・・
Суд решил давеча продолжать заседание, но теперь пока, в ожидании, я бы мог кое-что, однако, заметить, например, по поводу характеристики покойного Смердякова
で、先刻、裁判長閣下は評議を継続する旨を宣告されましたが、私はそれを待つ間に、ここでちょっと死んだスメルジャコフに加えられた性格批判について、一言しておこうと思います。(米川正夫訳岩波文庫(四)第59刷336ページ)
当法廷は先ほど審理の継続を決定しましたが、さしあたり今、それを待つ間にわたしは、たとえば、検事があれほど鋭く、きわめて才能豊かに描きだした故スメルジャコフの性格分析について、二、三の指摘を行ってもかまいますまい。(原卓也訳新潮文庫(下)六十一刷568ページ)
法廷は先ほど、審理の継続を決定しました。しかしさしあたり、それに期待しながら、たとえば亡くなったスメルジャコフの性格分析についていくつかの指摘を行いたいと考えるのです。(亀山郁夫訳光文社古典新訳文庫4第15刷630ページ)
原訳にある「検事があれほど・・・」の部分は原文では後ろについていて、米川、亀山訳では、後ろに分けて訳してある。これは原訳の方針だし、「検事があれほど鋭く」という表現を含めてこういう日本語をしゃべる人はあまりいないだろうけれど、小説だからいいんでしょう。余談。
わからないのは、評議、もしくは審理の継続とは何か? 特に、米川、原訳では、「それを待つ間」、弁護士はくっちゃべってる・・・となると、弁護士の弁論と無関係に何か審理がなされるのか? それとも、これは弁論ではなくて、ただのおしゃべり? なにせ、裁判のことは何も知らないので・・・ふむ、亀山訳の「それに期待しながら」というのもわからない。期待は、「今後継続される」ことになのか、「継続された」ことに(つまり、まだ見込みがあるという意味で)なのか? 前者なら米川、原訳と同じ。後者なら、弁護士の弁論も聞かずに結審していた可能性もあるということか・・・思うに、・・・思うに、今、行われていることこそ、審理ではないのか?
とはいえ、「審理の継続を決定した」と書いてあるのは事実。なんでこんなことを言うんだろう。それに、в ожидании。何かを待つなり、期待しているのも事実。それに、пока:さしあたり、とも書いてある。変だなあ・・・というわけで、わからない。サヨーナラー・・・では、あまり芸がないので、仮説。
в ожидании、「それを」待つとは書いてないぞ。待つもの、あるいは、期待すべきものは、後ろにあるのではないのか? それについては、быとмог。米川。亀山訳では、「一言しておこう」、「行いたい」と前者が生かされ、原訳では「かまいますまい」と後者が生かされている。しかし、余、思うに(だからって余談とは限らないってね)、これは「できるかなあ」じゃなかろうか。つまり(в ожидании以下は)、「ちょっとさ、といってもほれ、死んだスメルジャコフの性格分析なんかについて、言っちゃえるんじゃないかなあなんてさ、思ってるわけよ」。この「思ってるわけよ」のところが「期待」ね。
では審理の継続とさしあたりはどうするんだい? こんなところで:「当法廷は先ほどの決定により審理を継続しておりますが、ここでひとつ・・・」
次は、亀山先生の工夫に立ち入ることになるので・・・どうかと思うけど・・・ その工夫が必要なのか疑問でもありますので。
伝言ゲーム?
„В ню же меру мерите, возмерится и вам“ — это не я уже говорю, это Евангелие предписывает: мерить в ту меру, в которую и вам меряют
『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはわたしの言葉ではなく、マタイ福音書に書かれた教えです。あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです。(亀山訳648ページ)
教え(предписывает)の後にコロン。弁護士は「つまりこうとも言える」と言い直しているわけだ。その部分は普通に読むと、(亀山訳の)「あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量る」のではなく、「あなたに用いられるそのはかりで量ること」、すなわちそれで「量りなさい」ってことだ。亀山先生もそんなことは百も承知だろうが、亀山訳は前半と後半がほとんど同じで弁護士の言い換えを無視している。なぜか? この言い換えの意味が明瞭でない、わかりにくいと考えられたからだろう(こんな忖度をしてもしかたがないが、後にそれがはっきりする・・・と、思う)。
余談だが、вам меряютは、与格だから、「あなたを量る」ではないだろう。自分も量られる、ではなくて、自分の分も量られる。たぶん、亀山訳はわかりやすくするためだろう。米川さん、原さんも同様だから。なお、辞書によると、Мерить в ту же меру は福音書の表現として、「与える、払う」のような意味があるようだ(возмеритсяも辞書に見つけることができなかったのだが、それに近いらしい。嘘だったらすみませんです)。当の福音書も引用しておこう(一応、「量り与えられる」という訳に注意を)。マタイ7章2節:
ибо каким судом судите, таким будете судимы; и какою мерою мерите, такою и вам будут мерить
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。(日本聖書協会口語訳)
さて、弁護士の言い換えは重要である。検事も後でそれを取り上げている。すなわち、福音書の教え、戒めを、「量りなさい」という行動を求める言葉に換えているからである。ここは親子の対立について論じている箇所だから、したがって、親への戒めが、子への許可に変貌しているわけだ。それで、
子どもたちがわたしたちを同じはかりで量ったとしても、どうしてそれを責めたりできるでしょうか?(亀山訳648ページ)
となる。とはいえ、ここが微妙なところなのだが、弁護士として、あまり極端な、反感を買うような言葉を用いてはいけないので、上記の『言い換え』は見過ごせば見過ごせるほどの、サラリとした、しかしながらある効果を持つフレーズとして発せられたわけだ(かどうかも微妙だが)。が、これが検事の注意を引いたのである。再び登壇した検事は:
И вот воздвигают пред нами лжеподобие Христа! В ню же меру мерите, возмерится и вам, восклицает защитник и в тот же миг выводит, что Христос заповедал мерить в ту меру, в которую и вам отмеряют
そうして、わたしたちの前に偽のキリスト像を建造したのです。『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』といったその絶叫のすぐあとで、キリストは、キリスト自身が量られたのと同じそのはかりで量れと説いた、というのですから。(亀山訳662-3ページ)
検事は、弁護士の言ったことの前半部分(『』内)はちゃんと引用しているが、後半部分(キリスト自身云々)はまったくの創作になっている。亀山訳、648ページのそれ(弁護士の発言)と、663ページのそれ(検事の引用)を並べてみる。
мерить в ту меру, в которую и вам меряют
あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです
мерить в ту меру, в которую и вам отмеряют
キリスト自身が量られたのと同じそのはかりで量れ
これはきっと、「偽のキリスト像」であることを明確にするための読者サービスだろう。しかし・・・しかし、検事が弁護士の言葉をつくりかえてはまずい・・・だろう。討論にならない。それに、その後の検事の議論ともかみ合わない。検事はこんなふうに言っている。
しかし、キリストが命じられたのは、ほかでもありません、こんなことをしてはいけない、こういう行いはつつしむようにということでした。(中略)わたしたちを辱めた者が量った、同じそのはかりで量ってはならないのです。わたしたちの神が教えてくれたのはこういうことであって、子どもたちに父親を殺すことは禁止するのは偏見だ、などということではけっしてありません。(亀山訳663ページ)
つまり検事は、「自分を量ったはかりで量れ」という検事の言い換えは間違っていると言いたいわけで、この議論を生かすためにはそのように訳さなくてはならない。
父親らしいところなんざ・・・
Но отец, отец — о, все сделал лишь вид отца, его ненавистника с детства, его врага, его обидчика, а теперь — чудовищного соперника!
しかしそれは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた陵辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか!(米川訳353ページ)
ところが、父親となると、そう、すべては子供のころから憎むべき相手であり、仇敵であり、侮辱者であり、そして今や恐るべきライバルとなった、父親の姿がなせるわざなのです!(原訳589ページ)
しかし、相手は父親でした。つねづね姿かたちだけの父親、子どものころから大嫌いな相手、自分の敵、自分をおとしめる者、そしていまや・・・・・・怪物のごときライバル!(亀山訳655ページ)
三人三様。正解はどれでしょ? まず、米川訳。Делать вид がпритворятьсяつまり、「・・・のふりをする」だから、сделал лишь вид отцаは「父親の仮面を被っているだけ」となる、という解釈でしょう。実にそれらしいが・・・しかし、後ろにつづくненавистникаとかврагаとか・・・はどういう扱いなんだ。отцаと同格でしょ。でしょ? 父親にして子供のころからにっくき奴、敵であり無礼者、そしていまや・・・その仮面ってのはおかしい。
ここまで間違っていないとすれば、亀山訳も変だ。同じ理屈で「姿かたちだけの」が「ライバル」まで修飾してるはずだから。それにсделалはどこに行った? そもそも「姿かたちだけの父親」の意味もよくわからない。
というわけで、原訳が正解と思うのですが・・・もうちいとすっきりした文にして欲しいとは思うけど・・・
あとは、小さなことをいくつか。
多数の一瞬
В действительности может мелькнуть тысяча вещей, ускользающих от наблюдения самого тонкого романиста
現実には、きわめて緻密な小説家の観察眼からさえこぼれおちてしまう、おびただしい事実が、一瞬にして起こるかもしれないのですよ。(亀山訳624ページ)
мелькнутьという言葉は、よく「ひらめく」とか訳されるんじゃないかな。辞書的に言うと、「ごく短い間現れる」かな。だからね、たくさんのことがチラチラチラチラしたかもしれんってわけで、一瞬の間に多くのことが生じるのとは違います。
『窓越しにスヴェトロワ嬢の不在を確かめるのは無理』という検事に対し、弁護士が被告は父親の動きか何かから察したかもしれないと言っているところ。被告が何かを耳にしたかもしれない、目にしたかもしれない、被告の注意を引くべきものはたくさんあったかもしれない、というわけだ。「おびただしい事実が起こる」のとはいささか違うのだ。ちょっとしたしるしはたくさん現れていたかもしれない、という感じ。「しるし」なんてどこにも書いてないとか、完了体がどうとか言われそうだけどね。ま、そういう人は論外。
憎むというから・・・
Считая себя сам (и на это есть факты) незаконным сыном Федора Павловича, он мог ненавидеть свое положение сравнительно с законными детьми своего господина: им, дескать, всё, а ему ничего,
当人が自分をフョードルの私生児とみなしていたため(これを裏づける事実もあります)、主人の嫡出子たちと自分を見くらべながら、おのれの出自を憎んでいたかもしれません。あの方たちにはいっさいが与えられている、しかし自分にはなにもない、(亀山訳631-2ページ)
少し前に(631ページ)「おのれの出自を憎み」(ненавидел происхождение свое)という一説があるのに、あえて「出自を憎んでいたかもしれません」と訳したのには相当の理由があるのだろうが、しかし、ここで憎んでいるのはсвое положение であり、それにすぐつづいてсравнительно(比較して)という言葉があり、さらに比較している内容が「あの方たちにはいっさい云々」とあれば、このположениеは立場とか身分とか訳したほうがいいと思うのでありまする。
臆病なふるまい
Мы даже особенно не должны бояться теперь и, так сказать, отмахиваться от иной идеи, как дети или пугливые женщины, по счастливому выражению высокоталантливого обвинителя
とりわけわたしたちは、いまはとくに恐れてはいけません。才能あふれる検事のすばらしい表現をお借りするなら、子どもや臆病な女のように、ある思想をぽいと投げ捨ててしまうべきではないのです。(亀山訳642ページ)
こんなことまで取り上げるのはどうかと思うけど、もうすぐ終りだからね。妙な批判をされないためにもよく考えなくちゃってな意味で。というのは・・・恐怖から、ぽいと投げ捨てるという表現が気に入らない。отмахиватьсяの第一の意味は、蚊とか蝿とか振り払う動き。明瞭。第二の意味は、たとえば、難しい問題にぶち当たった時に、やりたくねえって顔をしたり、なおざりにしたり、拒絶したり・・・結局、いやだってわけでしょ。顔の前で手をふっていやよいやよ。отмахиватьсяを生かすなら、手の動きであらわすんだろうけど、一言でその意味を表すなら、「ある思想から目をそむけてはいけないのです」。これも不適切訳とか言われるのかなあ・・・なお「思想」という訳語も議論の対象かもしれませんねえ・・・
この際自分は・・・
я позволю назвать предмет собственным его словом, собственным наименованием
わたしは対象を、自分なりの言葉で、自分なりの呼び名で呼ばせていただこうと思うのです。(亀山訳647ページ)
どうしてこれが、собственным его словомが、「自分なりの言葉」なのか、わからない。「対象なりの言葉」、すなわち「それにふさわしい言葉」ではないのかなあ。
another
Катя, прощаю тебе! Братья, други, пощадите другую!
カーチャ、きみを許すよ! 弟たち、友だちも、どうかあの人を許してやってください!(亀山訳673ページ)
другуюはほかの女。亀山訳の「あの人」はカーチャのように読めないかなあ・・・
・・・・・とりあえず、4巻の終りまできたようです・・・
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